漫画家まどの一哉ブログ
「悲しみの歌」遠藤周作 作
(新潮文庫)
過去に米兵捕虜の生体解剖に参加した医師。正義派ジャーナリスト。隣人愛にあふれた外人。裏表ある大学教授。新宿を舞台にさまざまな人間が絡み合う現代劇。代表作「海と毒薬」の後日編。
表舞台ではもっとも先進的で自由主義的な言動で知られるも、家庭では真逆の家父長的で旧弊依存の大学教授。落第目前の堕落した学生。戦犯が反省もなくのうのうと社会に復活していることを追求する正義感に燃えた新聞記者。まるでイエス・キリストの如く人の不幸に寄り添い愛を与え続けるフーテン外人。
面白みを増すためとはいえ、あまりにも典型的で類型的な人物ばかりが登場し、対立軸はわかりやすいもののリアリティーに欠けるのではないか。人物の内心に必然性が感じられない。物語のための安易な人格設定で失敗ではないのか?
ところが唯一具体的な人間性を感じられる人物、人体実験で戦犯となった過去を持つ勝呂医師がこの作品を成功させている。彼のみが善と悪の間で揺れ動かざるをえない人間のあり方を見せてくれる。他のすべての典型的な人物は勝呂医師の人格を際立たせるための背景のようなものだ。勝呂医師を断罪する正義漢の新聞記者や、溢れるばかりの善意で人々を助けようとする外人ガストンの存在は単純な人格ゆえに効果的である。
「はたして自分は過去の人体実験への参加を断ることができたのだろうか」勝呂医師のように答えのない問いかけを延々続けているのが人生というものだ。これが若い新聞記者には見えなかった。
人々に無償の愛を捧げて回るイエスの生まれ変わりのようなガストンは、キリスト者遠藤周作にとって一度は書いてみたい存在で、案外現実にいるかもしれない。イエスは可能なのだ。だがいずれ彼も勝呂医師と同じように善悪の間で身動きのとれない事態に直面するであろう。
「JR上野駅公園口」
柳美里 作
(河出文庫)
高度成長期を出稼ぎ労働者として懸命に駆け抜けた男。やがて故郷相馬を捨て上野公園口でホームレスとして人生の最期を迎えようとする。
巻末にも挙げられているとおり、多くの資料と丹念な取材によって、かつての福島県相馬郡の生活や上野公園にたむろするホームレス達の人生と行く末が丹念に描かれ、ルポルタージュ小説のようにリアルだ。もちろんそのリアルな背景の上に主人公の戸惑いや悲しみが重ねられてゆく。
主人公の男性の人生は傍目から見ればよくある平凡なものだが、若き長男や苦労を共にしてきた妻の突然の死は、やはりやりきれない。理由のない理不尽な運命に弄ばれ、人生の最終期に孫娘の世話を絶って上野に舞い戻るのも、知らず知らずのうちに人生に虚無的なものを感じていたのかもしれない。
文庫解説にある天皇制の桎梏ももちろんそのとおりで、日本社会に根付いた国家と市井の人間の情緒的な関係があらわだ。
しかしそれはおくとして、この男性の人生は主体的にはこうなるしかなかった、あまり選択の余地のないもので、それもやはり万人にありきたりなものなのだろう。
「西の魔女が死んだ」
梨木香歩 作
(新潮文庫)
学校をやめて大好きなおばあちゃんの家で暮らし始めた少女。豊かな自然とともに生きる暮らし方とともに魔女の手ほどきを受ける。
はるか5年前に「冬虫夏草」を読んで面白かったので、いつか読もうと思っていた代表作。思ったとおり余計なもののない優しい自然な文体で心地よかった。現代の家族や少女を描いても、さも典型的な単身赴任や登校拒否のようすを描写するでもなく、さりげなく背景に置くくらいで馴染みやすい。
西欧人であるおばあちゃんの洋風オーガニックな暮らし方が、なんとも気持ちよさそうで、やっぱりハーブティーはいいなとも思うが押し付けがましくなく、読者に強要するふうでもないのは、里山の自然描写が魅力的なせいでもあると思う。
少女の心理がていねいに描かれ、感情を揺さぶるラストシーンに至る仕掛けはさすがに展開がうまいなと思った。
「運命」国木田独歩 作
(岩波文庫)
早逝した独歩が最後に出した第3短編集。自然主義にとどまることなく、豊かなストーリー性をもって人生の本質に迫る。
「武蔵野」その他の印象から、なんとなく私小説的な作品を予想していたが、表題作ほか遠慮なくドラマ性の濃い作品もあって意外な気がした。なんでも書ける作家だ。
「酒中日記」:短い作品中にこれでもかというほど次々と主人公に事件が降りかかる。母親に大金を盗られたその日に大金が入った鞄を拾うなど、やや作りすぎな印象はある。気立ての優しい主人公の運命は悲惨だが、この日記が平穏な現在から過去のことを思い出して書いているので、それがひとつのクッションとなっていた。だが結末はやはり悲しい。
「悪魔」:少年時から腕白者で宗教(耶蘇教)など信じなかった主人公だが、思いを寄せる彼女や牧師の俗物性に比べるとやはり資質が違う。群れることなく一人遊びをしているタイプであることからも彼の人生は求道的なものにならざるをえない。
「非凡なる凡人」:山気があって大志を抱く人物は多いだろうが、たいてい特別な才能もなく現実はなにも変わらない。ところがこの人物は根気と計画性だけはあって、こつこつと努力を積み上げ、ほんの少しは前進する。大成しないかもしれないが、こんな人物もおもしろいものだ。
「世界の果てまで連れてって!…」
ブレーズ・サンドラール 作
(ちくま文庫)
第二次大戦後のパリで自由気ままで破天荒な生活を続ける老女優。そのあきれた乱脈ぶりを本人が喋って喋ってしゃべり尽くす物語。
物語の最終近くで、まぶたに刺青をされた外人部隊からの脱走兵の語るエピソードが面白かった。また前半、酒に溺れたろくでなしでありながら従軍後レジオン・ドヌール勲章をもらって帰ってくると酒場を開き、カウンター内で殺されてしまう男の話もおもしろかった。
それ以外の各章のほとんどは主人公の女優テレーズ婆ちゃんの一人語りだが、確かに常軌を逸した生活(性生活)ぶりだが、内容に興味が持てなかった。小説全体を通して絢爛豪華な饒舌体だが、この作品では邪魔な感じがした。
「どこに転がっていくの、林檎ちゃん」
レオ・ペルッツ 作
(ちくま文庫)
捕虜時代に受けた侮辱とその屈辱をはらすため、革命さなかのロシアへ潜入したオーストリア陸軍将校青年。宿敵の収容所司令官を探して戦火をくぐり抜け、流浪する果てに得たものは?
主人公ヴィトーリンは、せっかく解放されてロシアから故郷オーストリアへ戻れたというのに、心に誓った復讐のためだけにすぐさまロシアへ舞い戻ろうとする実に酔狂な人間だ。いっしょにオーストリアへ帰国した捕虜仲間が次々と復讐の誓いから離脱し、ヴィトーリン自身も家族との語らいや恋人との逢瀬に日々を費やす中で、密かにロシア行きの手配を実行。そして恋人に計画を打ち明ける間もないままにある夜突然の出発。と、ここまでは周囲の人間との緊張関係があって面白かった。
ところが主人公ヴィトーリンが内戦中のロシアへ渡り、復讐のための冒険が始まると、エンターテイメントの設定が際立ってしまい、話への関心が薄れてしまった。という点は私の極めて個人的な感想だが、ほとんどのエンターテイメントは主人公がどうなろうと私にとって切迫性がなく、読み続ける気が起こらないのだ。
しかし最後にようやく仇敵の元収容所司令官を前にし主人公がとった行動は、人間的な、やや虚しくともこころ安らぐ思いがした。これでよかった。
「精神と自然」
グレゴリー・ベイトソン 著
(岩波文庫)
サブタイトル「生きた世界の認識論」。我々の世界と認識そのものを多角的、網羅的に分析してシステムの本質に迫る。
私たちが世界を捉える仕組みをここまで厳密に整理・分類することができるのか。そのことに先ず驚き、著述全体を振り返ってトータルな感想を述べるだけの理解はとてもないものの、各章ごとの精密なケース解説はおもしろく読んだ。以下項目の中からピックアップ。
誰もが学校で習うこと:科学は何も証明しない・数と量とは別物である・因果関係は逆向きには働かない。
重なりとしての世界:両者の違いが違いを生むことで情報となるような”最低二つ”のものとは一体何者か。__両眼視覚・同義の異言語・うなりとモアレ等など…。
精神世界を見分ける基準:精神とは相互作用する部分(構成要素)の集まりである・精神過程は、再帰的な決定の連鎖を必要とする・変換プロセスの記述と分類は、その現象に内在する論理階型のヒエラルキーをあらわす。
大いなるストカスティックプロセス:ストカスティック(散乱選択的)とは、出来事をある程度ランダムにばらまいて、その中のいくつかが期待される結果を生むことを狙う、の意。ジェネティックな(遺伝子レベルでの)変化も、学習と呼ばれる習得プロセスも、ともにストカスティックな進行過程であるという大前提に本書は立つ。
などなど項目を羅列したが、わかる範囲で感心して読んでいるのが精一杯で、こちらからの新たな疑問などまるで覚束ない。本書全体を通してベイトソンが到達した極めてユニークな視点がなんであるのか、私の手には負えないが魅力は大いにあるのだ。
「科学と仮説」
アンリ・ポアンカレ 著
(ちくま学芸文庫)
「わたしたちのユークリッド幾何学は、それ自体では言語の規約のようなものにすぎない」幾何学の公理・公準、物理学の仮説とは何か。科学の要諦に迫る哲学的エッセイ。
数学が苦手で数式などさっぱりわからない自分だが、内容的には非常に興味深く、文章の心地よさに惹かれてついつい読んでしまった。とは言っても後半割愛した部分もあるが…。明晰さの鏡のような著述で、正確には理解していなくても読めるというシロモノ…(こんな読み方でいいのか?)。
数学における公理というものはなぜそう言えるのか。公理はどこから来たか?
これは常々素人考えでも疑問だったが、実験を積み重ねてもその事実が公理へと決定されることとは質的な飛躍があり、帰納的に考えることはできない。より先験的なものへ先験的なものへと繰り返し遡ってそのそもそもを見つけようとするが、どうやら公理は人間が創った規約であるらしい。
というような大雑把な読み方をしながら「空間と幾何学」「実験と幾何学」「古典力学」「エネルギーと熱力学」などという項目を追っていった。
この著作の面白さは前半ここまでにある。
巻末訳者解説で、公理は分析判断でも後見的総合判断でもなく、先験的総合判断であることを結論付け、幾何学の公理が規約である結論に導かれるが、この解説は途中で一回読みたかったくらいわかりやすかった。
読書
「戦う操縦士」サン=テグジュペリ 作
(光文社古典新訳文庫)
ドイツ軍に占領されつつある北フランス。軍の偵察機を操り決死の低空飛行を敢行する著者。意味のない作戦を完遂した彼は、身を捧げて人々とともに生きる喜びを発見する。
フランス軍は既に機能不全でこの危険な偵察飛行になんの意味があるのか。不毛な作戦と戦争遂行のために自ら破壊される村や自然。糧もなく村を追われて逃げまどう人々が描かれ、主人公が嘆息するように戦争の馬鹿馬鹿しさ虚しさが伝わってくる。これはまぎれもない真実だろう。
しかし後半過酷な作戦をなんとか成功させて帰路に着くと語り手(著者)の思いは明らかに変わり、自分がこの部隊・この仲間・国民・国家とともにあること。その一員として身を捧げつくすことに人間存在の意味を見いだす。これも確かに真実であって、人は社会的存在であり他者とともに生きてこそ実存を得られると思う。
この前半と後半の変わりようはけして背反することではなく、共同体のために努力することも確かに生き甲斐だ。著者は戦争の最前線でからくも生き延びからこそ、この境地を得られたのだろう。
しかし侵略者から国を守ることは正義であるにせよ、大きな目で見れば戦争自体は圧倒的に虚しく不毛な行為で、我々は国家権力の判断しだいで翻弄される存在であり、支配と被支配の関係が無化されることもありえない。
著者の実体験の大きな感動がこの冷たい事実を覆い隠しているのだと思う。
実体験に離れず描かれた方法で、文章自体は平易でわかりやすいが、表現の技巧を楽しむところは少なく自分としては物足りなかった。とくに後半の人間のあり方に関する熱を帯びた著述は、もはや小説とは別のものになっている。
読書
「死者の百科事典」ダニロ・キシュ 作
(創元ライブラリ)
旧ユーゴスラビアの作家。不思議な出来事の中に人間の愚かさをテイストして、格調高く仕上がった短編の数々。
手を変え品を変え、変幻自在な語り口で描かれた幻想譚だが、どの作品も登場人物の視点に入り込むことからは一歩退いた、基本的に冷静な客観的な叙述という感触がある。過去文献を紐解くような、なにかしら研究書のような味わいは、違うかもしれないがボルヘスのような印象がある。
表題作「死者の百科事典」は、無名の人生を生きた市井の人々の詳細な伝記集であるし、「師匠と弟子の話」も詩人で哲学者もある師匠の聖書解釈の業績を惨憺たる手縞をもって追いかける自称弟子の話。中編「王と愚者の書」は密かに進められる反キリストの運動を追った書が、そもそも誰の著作を始まりとし、いかにして長い年月を経て人々に受け入れられたかを明らかにする。
この作品など、その文献や人物をしっかり把握しながら読んでいくと、かなり面白い出来だと思うが、残念ながらいささか根が享楽的な自分には上滑りな読み方しかできなかった。
そんなわけで書をめぐる冒険集のような味わいがあり、他の短編もみんな面白いのだが、反面図書館で歌って踊ったらいけないような気の抜けなさがある。