漫画家まどの一哉ブログ
「白光」
富岡多恵子 作
(新潮社・1988年)
血の繋がらないもの同士でつくる家族。壮年女性と若き男性たちで山間にひっそりと暮らす。女や男の役割から自由に生きる試みの行方は…。
語り手である島子と主催者のタマキは40代女性。そして同居する山比古とヒロシは二十歳そこそこの青年。タマキと山比古は他人だが親子というより恋人のような関係だ。
タマキはなにより説明が嫌いで、理屈立てるより直感で理解することをよしとする。このなにも説明しないという設定により、タマキがどういう信条でこの家を続けようとしているのかが曖昧になる。もしタマキの思想が言葉ではっきりと書かれていれば、その後の展開はこの思想を中心に、わかりやすい矛盾や反対が巻き起こるところだが、それではつまらないかもしれない。
この4人の共同生活は性的な営みも含むもので、その辺りはもっぱら女性側(島子)の視点で書かれているが、若き男性たちがどう思っているのかはわからない。なにより二十歳そこそこの青年男子が街へも出ずに、中年女性と付き合っている理由が判然としない。
タマキや島子のあらゆる役割的な人間の生き方、とくに女性としての役割を拒否する自由な生き方。これはさっぱりしていて気持ちのよいものだ。同年代の男性は理解がないが、若者なら付き合ってくれるというのは作品上の都合という気がする。
この暮らしも当然矛盾を含んで揺れ動くわけだが、理屈っぽくなく説明的でもなく書かれていて、この具体性がおもしろさの醍醐味だ。
「墓の話」
高橋たか子 作
(講談社)
フランス各地で鄙びた墓所を訪ね歩いた、墓にまつわるドキュメントと創作5編。
作者はたびたびフランスを訪れ、パリを拠点にかなり遠くまで古い教会や修道院を回っているので、本書もルポルタージュ作品かと思うと、5編中3編ははれっきとした創作である。
日本人の手によるフランスを舞台としたフランス人しか出てこない小説というのはなかなか珍しいのではないか。
その感触のせいかこれらがいかにも高橋たか子作品かといわれればよくわからない。ただ本来自身の経験に寄らなくても架空の物語がいくらでも書ける人なので、こういったものもあって当然だろう。
第三話「ある小説」地方の小さな墓地を守る男が読ませてくれたある死者の自伝。第四話「自殺者のメモ帖」ある古書店で見つけた小さな冊子。2作ともここに登場する人物は、実はそれぞれ墓守の男や古書店主本人なのではないか?という終わり方。だからどうだというわけでもないが…。
第三話「ある小説」:故意ではないにせよ新婚の妻が事故死するきっかけをつくった男への、元夫の好意を装った粘着的な復讐劇。恐ろしい。
第四話「自殺者のメモ帖」:ごくたまに文通するだけの彼女は精神を病んでいて入院してしまうのだが、終始明るく溌剌としているので好感を持ってしまう。しかし現実からは遊離している。
「湖の南」
富岡多恵子 作
(新潮社)
明治24年(1891)巡査津田三蔵がロシア皇太子に切りつけた大津事件。津田三蔵とはどんな人間だったのか。時代に翻弄された一庶民のはかない生涯を追う。
話は京阪電鉄浜大津駅となりの三井寺から始まる。琵琶湖疏水沿いのなだらかな坂道を登って三井寺へたどりつき、その境内から大津市街と琵琶湖を眺める絶景は実は、私も経験したことがあり大変良かった思い出がある。津田三蔵はここで警備にあたっていた。
その津田三蔵。出身は三重県伊賀上野で父親は藩医の身分。何を隠そう(隠すこともないが)私の父方の一族は代々伊賀上野市で暮らし、津田家と同じ藤堂家の家臣身分。(その動機で長編漫画「カゲマル伝」を描いた)津田家が味わった幕藩体制終了後の変転は、おそらく我が父方も同じようなものだったのではないかと想像して読んだ。
どうやら津田三蔵は思想犯でもなんでもなく、無口で細かいことを気にする堅物だったようで、笑って過ごせる心の余裕などはあまりなく、気持ちの行き場がないと突然狂人のようなふるまいに及ぶ。これが大津事件の正体だったようだ。
面白いのは作品の本筋である事件の話は3分の2ほどでほとんど終了し、残りは大津に暮らす作者の元へなんども届く昔近所の電気屋だった男からの妙な手紙の話題。この人生をあけすけに語る不気味な手紙をなぜ送ってくるのかわからない。
また津田三蔵に切りつけられたロシア皇太子ニコライのその後の人生にも筆は及んで、自由自在・融通無碍な書きっぷりがたいへん気持ち良く、後半は読み出したらやめられなかった。
「わがままなやつら」
エイミー・ベンダー 作
(角川書店・管啓次郎 訳 2008年)
奇想であり荒唐無稽な出来事といかにも人間臭い女や男たち。稀有の作風で描かれる15の短編。
異形の者が多い。たとえば頭がアイロンである子供や、9つの指が鍵になっている少年。ペットショップで売られる小さな人間たち。などありえない設定ながらSFショートストーリーでもなく、静かに人間の内実が語られていくような落ちついた感触。いかにも不思議。話が不思議というのではなく、なぜこんな作品が成立するのかが不思議でならない。
シュールな感覚を面白がるより、描かれる人間たちが魅力的で目が離せない。現実的な話もある。例えば次々に狙った子持ち女性をモノにするマザーファッカーなど、嘘でありながらこんな奴がいても不思議ではない。またダサくてうざくて虐められる同級生の女子も登場。なるほど確かに男も女も人間存在の本質に迫るというほどの深刻さはないが、市井の人間風俗がよく描けていて面白い。そしてこの筆力をベースにジャガイモが人間の子供に育っていく奇妙な話を語られるのだからたまらない。
果実の名前を固体・液体・気体で造形して法外な値段をつけているフルーツショップの話が面白かった。
「ここから世界が始まる」
カポーティ 作
(新潮文庫)
若きカポーティが残した14篇の小品を収録。まだ10代の頃の習作から始まり、やがて秀作へ結実していく様子が手に取れる。
カポーティ体験なしで読んでみたが、なんとなく大味なざっくりした感触で、話の途中で終わってみたような仕上がりは荒削りなものを感じた。若書きであることを知らずに読んでいた。
自分より社会の人間を書こうとするタイプらしく、様々な世間にうごめく人々をが登場して飽きない。100歳に届こうかという頑固者の貧しく意固地で偏屈の老婆をはじめ、孤独な女性が多く登場する。学生である女子たちも教室の中で常に孤独だ。そして黒人であったり黒人の血が混ざっていることで差別されたり、とうとう死神に出会ったりする。作者がまだ若いのに人生半ば過ぎた女たちがよく書けるなと感心する。
若くして自身やその周辺のことではなく、人間一般がこれだけ見れる、書けるということはさすがに才能であって、文庫解説にもあったが次から次へと書かずにはいられないのも仕方がない。社会を見れば材料はいくらでもあるのだ。
「正岡子規ベースボール文集」
(岩波文庫)
まだまだ野球が珍しかった頃、その魅力にとりつかれ大いに運動した、まだ病を得る前の子規。その若く溌剌とした文章を編纂。
「今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸のうちさわぐかな」
野球自体を題に撮った句や歌はわずかだが、これがいちばんおもしろい。この時代スポーツといってもその種類はわずかで、短距離や幅跳びなど陸上競技があるばかり。子規からするとそれは単純なもので面白みに欠けるとしている。それに比べて唯一の球技であるベースボールの面白さたるや!と言う具合で元来室内的な生活を送る子規が戸外で運動しているのもやはり若いせいもあるだろう。バットはあるもののグローブはなく素手。投球は基本ワンバウンドのようだ。
野球のルールを文語にて縷々解説しているが、なかなか知らない人には伝わるまい。
「地獄に行ってもベースボール」という章にある「啼血始末」という小説(といってもセリフばかりで戯曲のようなもの)が愉快愉快。閻魔大王の前で生前の行いを確認されるわけだが、子規の弁明は脱線に次ぐ脱線でなんども鬼に注意されるありさま。やはりこの人は病苦の印象があるが、本来的には快活な明るい人だったのではなかろうか。
「赤死病」
ジャック・ロンドン 作
(白水Uブックス・辻井栄滋 訳)
2013年恐ろしき感染症によって壊滅した人類とその文明。そしてその60年後、わずかに残された人々は新たに人類の歴史を歩み始める。
ジャック・ロンドンは静謐や内面といった要素の真逆の、世界を股にかけた動きの大きい物語を描く作家。と言う印象だが、社会的視座をもって近未来を予測したSF的なものまで書いていたとは。
語り手は病魔をくぐり抜けて残された主人公が老人となった今(2073年)、新たに育つ子供達にいかにして過去の文明と繁栄が崩壊していったかを語る。この老人が少年たちにまったく信用されてなくて、嘘つき老人として馬鹿にされている設定が悲しい。
パンデミック後の社会では崩壊した身分関係の中から少しずつ新しい部族が成長し村を作っていくが、それはまたかつてと同じように暴力や戦争を含んだ人類史を繰り返すものである。といったペシミズムと諦念。
「無限の玄/風下の朱」
古谷田奈月 作
(ちくま文庫)
男ばかりの家族・親族で構成されたブルーグラスバンド。或る日突然死んだ父親はその後も毎日現れては何度も死んでいく。とまどう息子たちの屈折がしだいに明かされていく。
「無限の玄」:毎日蘇る死者という突飛な出来事が起きているが、表現は真面目で引き締まった風格のある文学という印象だ。幼い頃から一丸となって旅から旅へのバンド活動。しかも男ばかりという特異な設定は、まるで小説のための実験室のようであり、集中して人間を解き明かしていくことができる。なんのために父親は甦るのか。実験は始まった。
もちろんなぜ彼がこうしたか、対してなぜ相手はどう言ったかなど、その想いのひとつひとつが私に分かるわけではないが、少しずつ崩壊していく彼らの繋がりを追いかけて目が離せない。
「風下の朱」:大学の女子野球部の話でこちらは女しか出てこない。健康ということに異常に執着して、野球でありながらチームより個人の資質を優先するキャプテンのためなかなか部員が集まらない。
グラウンドや用具含めて野球をしていることの描写に臨場感があり美しい。読んでる方も汗をかく思い。キャプテンの親和性のない性格が際立っていて、対立するソフトボール部のリーダーは正反対の丸い性格。そのせいもあって、短い話だがしっかりとドラマがありクライマックスがあって興奮する。
「親衛隊士の日」
ウラジーミル・ソローキン 作
(河出文庫)
2028年、皇帝の支配する帝国ロシアで自由気ままに活動する陛下直属親衛隊の精鋭たち。その強奪と暴力と薬物に明け暮れた日々を活写。空想的幻惑小説。
ソローキンは以前「青い脂」を途中まで読んで挫折した経験があり、今回はさほどの大長編ではないので挑戦してみた。
犬の首をぶら下げた車や銃を使わないナイフによる殺人などグロテスクなイメージ。しかし通信手段などは空中に画像が現れるなど今日的。
親衛隊の連中は皇帝陛下を守るという名目はあるものの、インテリも含めてゴロツキのような連中で残忍であり、女性には興味がないらしく性的なシーンは薬物を使用したあげくの男性同士のものである。
エンターテイメントとしてこれらの設定はあるだろうし凡庸さも感じないので、面白いかと言われれば退屈だった。社会構造や人間存在の本質に迫るような部分は無く平板なものだが、かと言って美的なものでもなく、男性性ばかりが前面に出て個人的にはつまらない。なんども投げ出そうと思ったところで、中国人の老占い師天眼女や豊満な肉体を持つ皇后などが登場してなんとか完読できた。
「いい絵だな」
伊野孝行×南伸坊
(集英社)
現役イラストレーター2人による自由でとらわれない絵の見方。力の抜けたスタンスで面白さを再発見。
やっぱり絵を描く人の分析はおもしろいな。絵画評論というと小難しいものが多く、最近は楽しい絵の見方的な著作も増えているようだけど、ここまでフランクに解剖したものはなかったように思う。明け透けで遠慮がなく、描き手の都合や内心や好き嫌いまで及んで創作の謎を解き明かす。楽しい興奮がある。
どうしても自分との比較で語ることになるが、さすがにイラストレーターだけあって絵がめちゃくちゃ好きなんだなと思う。見ている絵の数と思い入れが違う。もしこれが伝統的な絵画界・美術界の人だったらここまで全ジャンル自由に語れないんんじゃないか。
1964年に始まった和田誠や宇野亜喜良らによるイラストレーションの革新や湯村輝彦などヘタウマ台頭などへの想いの強さを見ると、やはり成るべくしてイラストレーターに成った人だと感じた。自分も同時代を生きてきたが、さほどの関心はなかった。
マルケのゆるさの良さもわかるが、自分ではゆるい絵もしっかりした絵もどちらもOK。田中一村もOK。