漫画家まどの一哉ブログ
「偶然性と運命」
木田 元 著
(岩波新書)
近代思想の本流から問題とされていなかった「偶然」や「運命」について、生の哲学以降しだいに深まっていくその経緯を紹介。九鬼周造・ハイデガー・ジンメルなどの仕事を追ってゆく。
これは自分にとって常々脳内に去来する切実なテーマ。近代理性主義の系譜から「偶然」や「運命」がはずされていたのも、ひとえにそれらが非常に主観的な作用であるからで、客観的に見れば可能性としての未来と必然であった過去との邂逅が「偶然」であり「運命」である。しかしこんな時間論としての決着はなんの意味もない。
またハイデガーやヤスパースの運命愛はやたら実存として力が入った真剣味溢れる状態を鼓舞するだけで役に立たない。ペシミストのショーペンハウアーが宿命論を信じていて愉快。「運命」すら宿命だ。やはりジンメルに至って初めて「運命」を、出来事の中の個人的に意味あるものとして素直に見ることが始まる。そしてシュルツのあげる不思議な「偶然」の具体例が登場。
不思議な「偶然」の一致。ここまでくるとどうしてもユングの共時性がこの課題を引き継がざるを得ない。ケストラーやカマラーが非物理学的な思考を拒否したのに対して、ユングの集合無意識と元型がある種の答えかもしれない。半分はそうだと思う。しかし集合無意識にしても「運命」も「偶然」もあまりに個人的な出来事だから不思議だ。答えは謎のままだ。
本書では最後にドストエフスキーの文学作品から偶然の出会いと運命の変転が語られるが、情の薄い自分はついていけなかった。
いずれにしても著者木田 元はわからないところは正直にわからないとしながら、平易な語り口で我々素人読者を導いてくれる。その人柄が気持ち良く、安心して読める。
「妖精・幽霊短編小説集」
J.ジョイス、W.B.イェイツ ほか
(平凡社ライブラリー・下楠昌哉 訳)
アイルランドの怪奇短編を妖精、心霊など8つの項目でくくり、各章の末尾に「ダブリナーズ」からの幽霊譚を配置する魅惑のアンソロジー。
ジョイス以外の怪奇短編はあまり知らない作家も多く、それでも楽しく読めた。とは言っても表現としては単純なものも多い。そのなかではJ.S.レファニュという人が面白かった。またディケンズの有名な「第一支線 信号手」もあるが、久しぶりに読むと何故か混乱した。
「ダブリナーズ」は幽霊譚ぽいものを選んであるが、さすがにそもそもの現実の世の人間たちの面白さ。会話の妙味。汲めども尽きぬ表現の多様さがあって幽霊は不要だ。
「自分の魂が、ゆっくりと消え去ってゆく。儚く雪は降る。宇宙を通じて、最後の死が降りたつように、全ての生者たちと死者たちの上に。」「死者たち(抄訳)」より
「英語と日本語、どうちがう?」
鴻巣友季子 著
(NHK出版・学びのきほん)
翻訳大国日本だがまだまだ理解されない翻訳の役割と本質。英訳家の立場から英語と日本語のそもそもの構造的違いを明らかにする。
英語はさっぱりわからない自分が海外文学を楽しめるのも翻訳家のおかげ。常日頃から翻訳家の方々の仕事には敬服するばかりだ。著者は文芸作品翻訳の上の苦労や留意点を紹介しながら、英語と日本語のそもそもの違いを繙いてゆく。
日本語では英語で必ず登場するyouなどの機能語としての人称代名詞を使わなくても、文脈自体に意味や意図が満載されている。「今日、車?」だけで通じる。
また主語優勢な英語に対して主題優勢な日本語。「わたしはアイスクリーム」「あなたは、ショパンよね」などなど。「~は」 といっても違う。英語は律儀だ。
日本文学にはもともとなかった三人称全知視点。人物の行動から心理まで語り手はお見通しだ。「私ーあなた」の関係性をベースにした日本語ではこの神の視点が苦手だったようで、心理描写を含まない客観視点が精一杯だ。それでも「~らしく」「~のような」などの主観が混じってくる。
自分がもっとも奇妙に感じる時制の問題。話者が過去のことを語るが、そこで語られる人物は未来に思いをはせていると…、「彼女は6時には支度ができていただろう」「なんて素敵な彼だっただろう」などの不思議な訳文ができてしまう。
「とんこつQ&A」
今村夏子 作
(講談社文庫)
父親と小学生の息子が営む中華屋に勤める私。最初「いらっしゃいませ」も言えなかったが、何種類ものカードを読み上げることで対応。やっと馴れた頃、輪をかけて鈍い女が雇われた。他短編。
異色作「むらさきのスカートの女」を読んで、なんと奇妙な小説かと驚いたが、これは同じ傾向の問題作。ポケットから溢れるほどの客対応カードを用意している主人公と、命令されなければ何もしないで壁にもたれている新人。コントのようだが表現は文芸だ。
非日常というほどではないが、なにかしら不穏でナンセンスな出来事が膨らんでゆき日常感が揺らいでいる。しかしほのぼのとしていてユーモラスなのである。この特殊な作風で貫き通して欲しいが、他の短編は暗いリアリズムで「良夫婦」などはなんと卑怯な人たちかと読んで気持ちもどんより。
「街と犬たち」
バルガス・ジョサ 作
(光文社古典新訳文庫・寺尾隆吉 訳)
1950年代ペルー。全寮制の軍人学校に暮らす10代の少年たち。厳格な規律の裏側で繰り広げられるいじめや放蕩。そして軍事訓練中に起きる悲劇。ジョサ渾身のデビュー長編。
全寮制の軍人学校と聞いただけで、およそ自由のない窮屈な日々が想像できよう。主に語り手である文才ある白人少年というのが作者の分身であろうと思って読んだ。〈奴隷〉と呼ばれるおとなしいいじめられ役の少年やプロボクサー級の能力を持つ悪魔的少年。その他およそ10名の地下グループでの飲酒・喫煙・淫蕩・暴力などなど。入学前からの女子との交際。そして軍人である教官たちの人生も。
2部構成のうち第1部の終わりで事件(生徒の死)が起き、物語はいよいよミステーリーの如くにスリリングな展開となるが、それでも再三に渡って過去のエピソードなどが顔を出す。ここが一気にストーリー本意な流れを作らないジョサの真骨頂かもしれないが、許されるぎりぎりの長さだと感じた。平易な娯楽性があるとはいえ文庫本で630ページほどあり、我儘を言えばこの3分の2くらいの長さにしてほしかった。
「少女病」
田山花袋
語り手は小説作品が文壇で話題にもなり、ふだんは編集者として雑誌社に務める妻も子もある37歳の男である。彼は毎日の労働や家庭生活にこれといった喜びも見出せず、それどころかまさに苦役と感じており、唯一の楽しみが通勤時に歳若き可憐な女性を鑑賞することである。
毎朝通勤時に同じ道をゆく美少女や、電車の中で必ず出会う少女。あまりジロジロ見てはまずいので、気取られぬような距離の斜め前の座席を取ることや、満員時に少女の近くで髪の匂いを嗅ぐことの喜びなどなど、そのロリコンぶりが詳述される。
この男が書くものも少女小説ばかりだ。これが物笑いの種となっており、周囲からあいつは一種の病気だ。生理的にどこか陥落(ロスト)している。との診断を下されている。花袋自身がそうだというわけではないかもしれないが、「蒲団」と同年の作品であり、これも私小説なのかもしれない。一応タイトルどおり病理ということになっております。
「ノア・ノア」タヒチ紀行
ポール・ゴーガン 著
(岩波文庫・前川堅市 訳)
文明に毒されていない理想の自然な社会を求めて、初めてたどりついたタヒチでの生活。果たしてゴーガンは救われたのか?
解説を見てもゴーガンという人は、もともと株式仲買人におさまるような人間ではなく、かなりアクティヴな熱意溢れる冒険家で、もとよりゴッホとはうまくいくわけがないアクの強い人間だ。
タヒチもフランスが入植している時点でほんとうの非文明社会であるはずもなく、ゴーガンはかろうじてその残り火に触れたようなものだったのかもしれない。
読んでみると彼はかなりの文章家で、記述に格調があり楽しさもある。作家半分研究者半分といった具合で、民俗学的な視点で現地の宗教や慣習をレポート。自然豊かな島と言っても収穫量には限界があり、それゆえの供物としての人減らしなど、宗教行為の由縁を聞くと南海の楽園と言っても実は厳しいものだ。この最初の滞在は2年余り。野蛮になり賢くなったと自認するゴーガンだが果たして…。
「アルテミオ・クルスの死」
フェンテス 作
(岩波文庫・木村榮一 訳)
革命期メキシコ。貧困から身を起こして財を成した男の人生を、破格で自由な表現で綴る。ラテンアメリカ幻想文学を牽引する名作。
老いた主人公アルテミオ・クルスが死を目前とした病床にあり、脳内を駆け巡る混乱した意識のモノローグが繰り返し登場。冒頭からこの文章の魅力に捕まってしまった。
クルスが生きてきた時代を区切って一人称・二人称、客観的な語り手による記述があえて年代順ではなく配置されていて、いっそう作品のマジックが増す。
メキシコ革命を生き抜いていくので、戦闘・戦火の描写はあたりまえにあり、正当な叙述で読んでいても戸惑いはない。
彼の人生の中で妻と娘以外にも数人の女性が関係するが、そちらの話のほうが主人公が経済界で成り上がっていくことより大きな位置を占めている。けっして家庭的ではないクルスのような男性にとって、女性の存在が幸福でもあり苦しみでもあり、自己本位なものだ。
そうこうしているとまたまた病床で体の自由を失ってゆくクルスの、眩暈のするようなモノローグが始まる。死へ向かう人間の混濁した意識はこれがリアルなのだ。
「ミゲル・ストリート」
V.S.ナイポール 作
(岩波文庫・小沢自然・小野正嗣 訳)
1940年代カリブ海の国トリニダード・トバゴ。貧しいながらも仲間が集う小さな通りの人々を、大人になる前の少年の目を通して描いた短編集。
作者はノーベル賞作家とは言え、トリニダード・トバゴが舞台の小説などめったに読まない。それでもなんとなくカリブの暖かくのんびりした風を感じることが出来る。大人の男たちはたいして働くでもなく通りに集って噂話に花を咲かせ、子供たちも大人の仲間入り。世界中どこにでもある世界だ。
あまり役に立つことをしない男ばかり出てくる。売れない花火師、詩人、教養博士、資源ゴミ転売、年中車の下に潜り込んで機械をいじってはダメにしてしまう男がいちばん面白かった。市井の人々といってもややワイルドな連中だが、戦前の植民地時代はまだ世の中アバウトだったのかな?個人的には苦手な分野だが慣れると読める。
「賢者ナータン」
レッシング 作
(岩波文庫・笠原賢介 訳)
イスラムの名君・ユダヤの商人・十字軍の騎士。多彩な人間が集まる12世紀末のエルサレム。それぞれの宗教の理念を超えて平和をもたらす賢明な方法とはなにか。
ドイツを代表する啓蒙思想家であるレッシングが、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教をテーマに描いたとなると、なにか説教くさいパターンに落ちいっているのでは?と案じたが、さすがにもとより劇作家志望のレッシング。人間くさい連中の活躍で充分に楽しめる。
さすがに賢者と言われるだけあってユダヤ教徒ナータンは、ユダヤ教ばかりでなくキリスト教・イスラム教も、宗教の構造というものは同じであるという寛容な態度である。ここには作者レッシングの周辺他宗教も踏まえて全ての宗教を対象化してとらえる優れた視点があり、現在の我々読者から見ても清々しい思いだ。
統治者であるイスラム教徒サルタンも理解ある柔軟な人間。一人興奮しているのがテンプル騎士団の青年騎士で、彼の揺れ動く心がドラマを面白くしているようなものだ。その他、托鉢層や修道士など各派フリーな立場の人間がいい味出している。エルサレムはやはり多様性を尊ぶ寛容な街であってほしい。

