漫画家まどの一哉ブログ
「知性の罠」なぜインテリが愚行を犯すのか
デビット・ロブソン 著
(日経ビジネス文庫・土方奈美 訳)
ノーベル賞クラスの知性を持つ人物が占星術や非科学的な陰謀論を信じ込む。高IQの人間のたどる平凡な人生。卓越した技能者ばかり集めたチームが結果を出さない。など知性の陥る罠を明かす。
知能の高さと合理的思考力との相関はないみたいで、かのコナン・ドイルが合理性障害で、心霊現象や妖精まで信じ込んで熱心に触れまわっていたのが面白い。ダークマターやグルーオンの研究で先端をいく物理学者がロマンス詐欺に引っかかって麻薬を運ばされてしまうが、これはよくある超エリート学者の世間知らずではないかな。
サンクコストバイアス(埋没費用効果)で、間違ってていても絶対軌道修正しない。アインシュタインの統一理論やエジソンの直流送電網などもそんなところがあったと言えるようだ。強靭な意志と情熱が自説を曲げないだけのために使われる。この対局としてベンジャミン・フランクリンなどの知的謙虚さや心の広さが優れたリーダーとして挙げられる。
天才ばかりのチームはかえって生産性が下がることを、天才のいないアイスランドのサッカーチームの例をあげておもしろかった。ヨーロッパ選手権でイングランドを撃破。人の意見を聞かないエリートチームに比べて、誰もが平等にに発言できるチームが結果を出す。また誰も逆らえない有名なトップリーダーの指示にしたがって、引き返せないゆえの災難や事故を招く。
さすがに日経ビジネス文庫だけあって、具体的に社会でチームが結果を出すことを基本に書かれている。
自分などは失敗を恐れる硬直マインドセットをおおいに持っているが、知的好奇心はあるのでなんとか成長できるかもしれない。
「キリスト教入門の系譜」
岡本亮輔 著
(中公新書)
近代日本においてキリスト教はどう解釈され広められてきたか。内村鑑三から現代まで、先頭となって切り開いてきた人々の生涯を追う。
私の大好きな内容で、期待どおりの面白さ。
明治期、なんといっても内村鑑三の無教会主義の影響が大きく、そこに連なる人もみな一高~東大の秀才ばかり。彼らの能力をもってすれば個人が直接聖なるものに繋がるありかたがいちばん納得のいくものであろう。聖書を読んで考えて研究し文章にするインテリゲンチャの集まりである。
キリスト者の中でも、イエスの奇跡など現代の科学ではとうてい信じられない内容に疑義を挟む見解もある。そんななかで科学など無視してまるごと全部信じ込む矢内原忠雄が自分の中では正解だ。超越者はすべてを超越した存在であり、己を捨ててまるごと信じるところにしか宗教の意義はない。しかしこれは社会に原理主義的害悪をもたらすかもしれない。
そうやって内村と無教会派などプロテスタントの観念的な活動とくらべて、少数だったカトリックの指導者たちのなんと具体的なことよ。聖書は自己解釈するものではなく、教会の伝統と秩序を信頼するもの。岩下壮一や戸塚文卿は医師としての活動もあり、良きサマリア人たるべく地に足のついた活動には大いに納得がいく。
私の好きなキリスト教文学者のうち、遠藤周作の「沈黙」は圧倒的な名作だが、カトリック会からは全否定されていたのか。
遠藤はイエスを何一つ奇跡を起こせず、民衆も自分をも救えず、それでもただただ病者や貧者や弱き人々にに寄り添おうとした人間と見いだす。これこそ伝説を省いたほんとうのイエスの姿だと思う。
「ナショナリズムとは何か」帰属、愛国、排外主義の正体
中井 遼 著
(中公新書)
ナショナリズムはいつどのようにして現れるのか。ネーション(国民/民族)を維持・強化するシステム、右派ポピュリズムの由来を考察する。
帰属意識、愛国心とプライド、排外主義と優越感情など、その成り立つ原因については一見簡単に納得してしまいそうだが、実はエビデンスの問題がある。著者はさすがに学者だけあって(あたりまえだが…)必ず統計学的手法を駆使してその成り立つ理由を裏付ける。それだけに読み物のとしてのノリは失われるがこれが良書というもの。
たとえば自国を身近に感じるか、自国を他国より優れていると思うか、外国人が近所に住んでいても良いか、などの感情は必ずしも相関せず、けっこう国によって正反対(自国を誇りに思うが外国人が住んでいても気にしないなど)である。また愛国心に対する肯定と否定も多くの国に案外同じだけある。
近代化の過程でどうやって旧来の地域社会のネーションが、大きな国家意識へとまとまっていくか。教育、出版、鉄道の普及や国際的スポーツ大会、国家・国旗、軍隊などが部族間の壁を越える政策がとられたか。また内戦も他民族国家であることより経済的貧困が原因であることが明らかにされる。
経済的に苦しい労働者が排外主義になっていると思われがちだが、失業者や生活の不満がある者がむしろ外国人に寛容。ホワイトカラーもブルーカラーも低学歴・低スキル移民を嫌う福祉排外主義になっている。などなど具体的にデータをとってみれば、単純な思い込みでは気づかないナショナリズムの正体が現れてくる。
「本当の話」
モンテスキュー 作
(岩波文庫・田口卓臣 訳)
数千年の時代をさまざまな人間に転生しながら生きてきた、不思議な人々の回顧談。あいも変わらぬ人間社会をアイロニカルに描いた奇想文学。
「法の精神」(未読)のモンテスキューが、まさかこんな空想的で愉快な小説を書いているとは意外だった。百科全書派おそるべし。5人の語り手は輪廻転生を繰り返し、いろんな男や女は言うに及ばず、虫や動物の姿で暮らした時代もある。本来の自意識は男でありながら女として生まれ変わることの多かったタイプや、家畜の目から見た人間どもの有様など面白かった。
しかしモンテスキューが知識人であるせいか、語り手の生活範囲はどうしても上流階級であり、描かれる人間には限界がある。もっと庶民や農民を見たかった。しかも語り手が4人目5人目と進むに従って風刺もユーモアが消えてしまってしだいに真面目なものとなり、説教くさい仕上がりとなってしまったのは残念だ。
「自我の起原」愛とエゴイズムの動物社会学
真木悠介 著
(岩波現代文庫)
利己的な遺伝子に支配される動物の中で、この桎梏を乗り越えた人間の自由な自我(自己意識)はどこからきたのか。「かけがいのない私」を探る。
比較社会学の権威である著者真木悠介(見田宗介)が、遺伝子(生成子)の話から語り始めるとは思っていなかった。原核細胞から真核細胞システムへの創発。そして多細胞「個体」システムへの創発。ここから始まって人間の精神の誕生までをたどっていくダイナミックな哲学的論考。寡聞にして私だけが知らず。
真核細胞は原始の微生物たちの共生連合であり、複雑化していく遺伝情報の集積体である。「私」と言う現象はこの複合体だ。ここが基本。
脊椎動物の性は雌雄2つの源から遺伝子が組み変わるので同じ遺伝子の個体を残さない。つまり個体は完全に死すべき存在であり、我々の生は真に一回限りの生であるのだ。
さて本論。遺伝子の戦略に逆らってでも、「かけがいのない私」を優先する自己意識(自我)はどこからくるのだろうか?
意識というのはインプットした世界の脳へのアウトプット(シミュレーション)であり、生き残るための対他関係を起源とするらしい。ポパーとエクルスの考察は結局大脳へたどりついたところで止まってしまったが、その過程は面白かった。
つまり社会関係に敏感な動物ほど脳は明晰化する。
なんとサルとヒヒの脳には左右で非対称性はなく、人間のみが左脳と右脳の違いを持っているらしい。左脳の言語野が過去の全ての記憶を司っている。チンパンジーやゴリラはある程度の自己意識を持っているようだが、はるかに進化した人間だけが「かけがいのない私」という強い意志を持った個体識別的な動物となった。
高度化した「個体」というシステムは自らを超えたものに向かって開かれた存在である。と同時に非決定な存在である。人間はさまよい出た存在であり、どんな目的ももつことができる(まるでサルトルのようだ)。子孫を残すことを放擲しても芸術や宗教に生きることができるのだ。
私の生半可以下の理解ではとても追いつかない内容ながら面白かった。こんなレベルの読書日記でご寛恕を乞う。
「20世紀ラテンアメリカ短篇選」
(岩波文庫・野谷文昭 編訳)
マジックレアリスムと豊かな物語性で、20世紀世界文学に躍り出たラテンアメリカ文学。16作品を性格別に4つに分類して編纂。
「決闘」(マリオ・バルガス=リョサ):対立する若者グループの間でついに代表者による決闘が行われる。片手にナイフ1本のみを持って切り掛かり、体をかわし、傷つきながらの消耗戦が続く。つい最近「街と犬たち」を読んだところなので、リョサの描く男たちの世界にまた出会った感覚。リョサにはこういう世界があるのか。
「リナーレス夫妻に会うまで」(アルフレード・ブライス=エチェニケ):診察室を断り喫茶店で精神科医のカウンセリングを受ける男。明るい内容の夢や旅先での出来事を語るが、あまりに偏執狂的で考えすぎ。この男の語り口が面白く、彼にとっては困難事であるが我々読者にとっては愉快という仕掛け。
「水の底で」(アドルフォ・ビオイ=カサーレス):半魚人を描いた怪奇小説のような話だが怪奇感はまるでなく、かといって幻想的な味わいもない。なにしろサルモン(鮭)医師による鮭の内分泌腺を利用する若返り術という、医者の名前からしてふざけた設定。かといってSFでもないキテレツな作品。
「カスパー・ハウザー」あるいは怠惰な心
ヴァッサーマン 作
(岩波文庫・酒寄進一 訳)
ニュルンベルグに現れた謎の少年。長年幽閉されていたせいで言葉も喋れず、パンと水のみを食す。無垢の天使かペテン師か?1830年代の実話をもとに書かれたドイツ文学。
まったく人間社会を経験していない少年が少しずつ成長していく様は、ピュアであったり嘘つきであったり、こんなものかなとは思う。しかし同情や魅力は感じない。彼には煮え切らないイライラする面があって、彼を養育する保護者たちも、読者のわたしたちもなんともスッキリしない印象だ。
また彼を取り巻く大人たちは善意の保護者・教育者よりも、彼を詐欺師・悪ガキ扱いする人間の方が多く、なんとか化けの皮を剥いでやろうと躍起となる。したがって登場人物はパッとしない主人公と嫌な奴ばかりで不愉快な読書感。地位の高い立派な大人も出てくるがそう簡単に少年を救い出すすべはないようだ。
彼を襲った謎の殺人未遂事件や、彼を皇族の世継ぎであると明かして利用しようとする伯爵の登場などによって、サスペンス的な面白さが出てくるとぐっと楽しくなる。表現もなかなか凝っていて、作者ヴァッサーマンは有名な作家ではないが実話小説・伝記文学などに才があったようだ。しかしいささか長すぎる。
「無意識の構造」
河合隼雄 著
(中公新書)
中公新書の名著改版シリーズ。ユング心理学をわかりやすく解説して、日本人ならではの自己のあり方に迫る。
自分も当然ユング心理学には素人なのだが、ここでいうペルソナと影、夢判断、アニマとアニムス。などなど例に挙げられているほど極端な意識と無意識の差は感じていなかった。一応一般社会人なのでペルソナともあるが、必要最小限の付き合いにとどめて、どこへ出ても他人ごとのような態度でいるからかもしれない。
また昔から男社会がきらいで、女性の友達もできるし、あらためてアニマやアニムスについて発見する感覚もなかった。人間は男女が渾然としたものだという感覚だ。あらゆる動物と同じように子孫を残すにあたって役割を分担するものだ。それより不思議なのは元型であり、これは意識で知ることができない。どうしようもない。
内面を分析し自我を意識することとはまったくちがう。自我に加えて無意識の部分を含んだ全体が自己ということらしい。しかしマンダラ図の話は私の趣味に合わず全く理解できない。東洋人のほうが西洋人より自然なかたちで自己を確立しているとのことだが、それなら自分も自然にしていればいいのかもしれない。これでいいのだ。
「偶然性と運命」
木田 元 著
(岩波新書)
近代思想の本流から問題とされていなかった「偶然」や「運命」について、生の哲学以降しだいに深まっていくその経緯を紹介。九鬼周造・ハイデガー・ジンメルなどの仕事を追ってゆく。
これは自分にとって常々脳内に去来する切実なテーマ。近代理性主義の系譜から「偶然」や「運命」がはずされていたのも、ひとえにそれらが非常に主観的な作用であるからで、客観的に見れば可能性としての未来と必然であった過去との邂逅が「偶然」であり「運命」である。しかしこんな時間論としての決着はなんの意味もない。
またハイデガーやヤスパースの運命愛はやたら実存として力が入った真剣味溢れる状態を鼓舞するだけで役に立たない。ペシミストのショーペンハウアーが宿命論を信じていて愉快。「運命」すら宿命だ。やはりジンメルに至って初めて「運命」を、出来事の中の個人的に意味あるものとして素直に見ることが始まる。そしてシュルツのあげる不思議な「偶然」の具体例が登場。
不思議な「偶然」の一致。ここまでくるとどうしてもユングの共時性がこの課題を引き継がざるを得ない。ケストラーやカマラーが非物理学的な思考を拒否したのに対して、ユングの集合無意識と元型がある種の答えかもしれない。半分はそうだと思う。しかし集合無意識にしても「運命」も「偶然」もあまりに個人的な出来事だから不思議だ。答えは謎のままだ。
本書では最後にドストエフスキーの文学作品から偶然の出会いと運命の変転が語られるが、情の薄い自分はついていけなかった。
いずれにしても著者木田 元はわからないところは正直にわからないとしながら、平易な語り口で我々素人読者を導いてくれる。その人柄が気持ち良く、安心して読める。
「妖精・幽霊短編小説集」
J.ジョイス、W.B.イェイツ ほか
(平凡社ライブラリー・下楠昌哉 訳)
アイルランドの怪奇短編を妖精、心霊など8つの項目でくくり、各章の末尾に「ダブリナーズ」からの幽霊譚を配置する魅惑のアンソロジー。
ジョイス以外の怪奇短編はあまり知らない作家も多く、それでも楽しく読めた。とは言っても表現としては単純なものも多い。そのなかではJ.S.レファニュという人が面白かった。またディケンズの有名な「第一支線 信号手」もあるが、久しぶりに読むと何故か混乱した。
「ダブリナーズ」は幽霊譚ぽいものを選んであるが、さすがにそもそもの現実の世の人間たちの面白さ。会話の妙味。汲めども尽きぬ表現の多様さがあって幽霊は不要だ。
「自分の魂が、ゆっくりと消え去ってゆく。儚く雪は降る。宇宙を通じて、最後の死が降りたつように、全ての生者たちと死者たちの上に。」「死者たち(抄訳)」より

