漫画家まどの一哉ブログ
「自我の起原」愛とエゴイズムの動物社会学
真木悠介 著
(岩波現代文庫)
利己的な遺伝子に支配される動物の中で、この桎梏を乗り越えた人間の自由な自我(自己意識)はどこからきたのか。「かけがいのない私」を探る。
比較社会学の権威である著者真木悠介(見田宗介)が、遺伝子(生成子)の話から語り始めるとは思っていなかった。原核細胞から真核細胞システムへの創発。そして多細胞「個体」システムへの創発。ここから始まって人間の精神の誕生までをたどっていくダイナミックな哲学的論考。寡聞にして私だけが知らず。
真核細胞は原始の微生物たちの共生連合であり、複雑化していく遺伝情報の集積体である。「私」と言う現象はこの複合体だ。ここが基本。
脊椎動物の性は雌雄2つの源から遺伝子が組み変わるので同じ遺伝子の個体を残さない。つまり個体は完全に死すべき存在であり、我々の生は真に一回限りの生であるのだ。
さて本論。遺伝子の戦略に逆らってでも、「かけがいのない私」を優先する自己意識(自我)はどこからくるのだろうか?
意識というのはインプットした世界の脳へのアウトプット(シミュレーション)であり、生き残るための対他関係を起源とするらしい。ポパーとエクルスの考察は結局大脳へたどりついたところで止まってしまったが、その過程は面白かった。
つまり社会関係に敏感な動物ほど脳は明晰化する。
なんとサルとヒヒの脳には左右で非対称性はなく、人間のみが左脳と右脳の違いを持っているらしい。左脳の言語野が過去の全ての記憶を司っている。チンパンジーやゴリラはある程度の自己意識を持っているようだが、はるかに進化した人間だけが「かけがいのない私」という強い意志を持った個体識別的な動物となった。
高度化した「個体」というシステムは自らを超えたものに向かって開かれた存在である。と同時に非決定な存在である。人間はさまよい出た存在であり、どんな目的ももつことができる(まるでサルトルのようだ)。子孫を残すことを放擲しても芸術や宗教に生きることができるのだ。
私の生半可以下の理解ではとても追いつかない内容ながら面白かった。こんなレベルの読書日記でご寛恕を乞う。

