漫画家まどの一哉ブログ
「人種は存在しない」人種問題と遺伝学
ベルトラン・ジョルダン 著
(中央公論新社・山本敏充 監修・林昌宏 訳)
遺伝学の成果により人種概念の無効性を明らかにし、遺伝子を理由とした人種差別に異議を唱える。
ここで「人種」というのはかなり大きな枠組みで、アジア系・アフリカ系・ヨーロッパ系などのこと。日本人・韓国人・中国人などはもちろん人種ではない。その人種のDNAは99.9%が同型である。残る0.1%の違いが体格や肌や髪の色などを決定するらしいが、これは自然選択であって遺伝的形質が親から子へ伝わるようなことらしい。人種差より個体差の方が大きいのだ。
自分の属する人種の優位性を、遺伝子によって科学的に裏付けようとするのは完全に間違っている。しかし孤立した環境で長年生きてきた民族に、特徴的な遺伝的特質が生まれるのは否定できないので、「人種」という概念を狭くとらえられると、遺伝子を理由にされる危険はある。生物学的な厳密さを一般人に期待しなければならないところが難しい。
一般読者にも読めるように書かれているとはいえ、私にとってはさすがにハードな部分はあった。肝心のアレル(対立遺伝子)というものがよく理解できず(対立という言葉に引っかかる)、またマーカーとして利用されるスニップス(一塩基多型)も単純なことはわかるのだが、それ以上の展開はついていけなかった。この辺りはまたの機会に…。
「刑の重さは何で決まるのか」
高橋則夫 著
(ちくまプリマー新書)
刑法学とはなにか?刑罰に対する考え方の基本を丁寧に解説。
署名通りの内容を即期待するが、その前にまず刑法の世界を順に繙かなければならない。これは用語的には当然専門的で素人読者が正確に覚えられるものではないが、読んでみると意外なことはなく、それはそうだろうなという感想。言わば教科書的な読後感がある。
やはり第4章の量刑論だ。重いか軽いかどれくらいの刑罰にするのか?我々読者にとって意外な根拠が、具体例と共に示されるだろうと期待する。しかしあたりまえだが、これまでの刑とのバランスが大事でそうそう突飛な判断がされるわけではない。意外性はなく内容は量刑が決まるまでの仕組みの解説が中心である。
終章でこれからの新しい刑法学の方向が示されるが、個人的には被害者感情が疎かにされていると常々感じるので、修復的司法というものによって応報感情が損害回復されるならばそれは良いと思う。しかし加害者・被害者(コミュニティ)による対話および会議などは、なかなか辛いものがあるのではないかと…。
「明治深刻悲惨小説集」
斎藤秀明 選
(講談社文芸文庫)
1890年代流動する社会の中で、虐げられ捨てられてゆく人々の末路を描いた一連の「深刻小説」。自然主義以前の豊かな娯楽性と共に作家のゆるぎない批判精神を見ることができる。
10編の短編のうち多くは、素直で美しく若き女性がその不幸な境遇のため悲惨な最期を遂げるというもので、必ずアンハッピーエンドだとわかっているだけ読むのも辛いものがある。例えば田山花袋「断流」では生きるために奴隷的労働のあげく身を売らざるを得ない主人公に対して、善意溢れる寺の和尚も「世の中の罪だ」と繰り返すのみ。
また徳田秋声「薮こうじ」、小栗風葉「寝白粉」などは新平民である主人公たちへの言われなき差別をとりあげ、作者の世間への憤りをあらわにする。そんな中で自分が最も面白いと思ったのは広津柳浪「亀さん」で、知的障害者である青年と、彼を利用しようとする蟒蛇(うわばみ)と呼ばれる娼婦あがりの悪女という珍しい設定。どちらもあわれなものである。
ところで8編は文語体だが、読み物としてのリズムがあって読む楽しさに溢れている。中でも小栗風葉は音楽のように心地よく、やはり音読を聞きたい代物だ。また川上眉山、泉鏡花などにある江戸言葉(べらんめい)の口調がなんとも歯切れ良くて気持ちが良い。
江見水蔭「女房殺し」は口語体だが派手さのある特異な文章。樋口一葉「にごりえ」は人情味溢れるさすがのドラマ作り。
「スターバト・マーテル」
桐山 襲 作
(河出文庫・1991年)
経済的繁栄の裏側で取り残されてゆく人々を、現実から解き放ってよりリアルに描いた魔法のような作品群。
「スターバト・マーテル」:高度成長期からバブル以前までの、復古的保守政権vs抵抗運動の構図は、雰囲気だけは体感しているので戸惑うことはなく読めた。単純な政治的作品などではなく、14人の活動家の亡霊がいくども甦る夢幻的作品。折り重なるように立ち上がる幻想。社会派文学として読むかどうかは読み手次第。
「旅芸人」:1960年韓国。今や解散寸前の旅芸人一座。曲芸師や占い師、火吹き男や双子姉妹の美声デュエットなど個性的な団員たちだが、団長を筆頭にみな悲しい人生を背負っていて哀感迫る。時代は変わろうとしていて、韓国もイルボンのように人工的な血の通わない国となっていくのだ。
「地下鉄の昭和」:昭和最後の日。変われない人生を抱えて戦後を生きる人々。若くして戦死した夫に話しかける妻。士官としての軍人精神のまま昭和を生きる男。偶然二人は同じ日に年に一度靖国神社へ向かう。わかりやすい構図と言えばそうだが、小説は構図を読むことがゴールではない。
「心は存在しない」
毛内 拡 著
(SB新書)
ふだん我々が心と感じているものはなにか、脳の働きから解説する。
読み終わっての感想はやはり心は存在しているんだなというものだった。例えばストレス応答が強い情動喚起となり感情を生成、生き残るための記憶が強く脳に刻印される。この強い感情が心を感じる時である。さまざまな外部刺激に対して自己を一貫して一定のものに保とうとするホメオスタシス。これが心が働いている状態である。
これらは全て心や意識というものが脳の働きによって感じられることの解説であって、なんとなく普段から感じていた感覚と合致し納得がいく。心というものをほぼ感情と考えているからといって脳の働きでないわけないのであるから、ようやくその証明を得た感覚だ。心はしっかりと脳が働いていることであり、生きていること同意だと思う。
「論理的思考とは何か」
渡邉雅子 著
(岩波新書)
論理的思考と呼ばれているものを論理学・レトリック・科学・哲学に分類。その上で国によって違う思考法の4つの型を明らかにする。
じつは論理学というものが苦手で演繹と帰納はどうしても混乱してしまう。ここにアブダクションも加わってくるのだが、科学的発見における「仮説」という解説で理解できたように思う。またレトリック(説得)も日常的な蓋然性の範囲になるのでわかりやすい。純粋な論理学がいちばんつまずく。
国によって異なる論理的思考。アメリカ型の直線的で効率重視の経済的思考は、なるほど今回のトランプ政権の露骨な取引を見ていると頷けるかもしれない。対してフランスの慎重にけして急がず万人を救おうとする政治的思考のほうが誠実だ。
また日本人の経験の共有や道徳性を涵養することを目的としている感想文的思考については、どうりで人権を思いやりのことと勘違いしてしまう理由がわかった気がする。
「老化負債」臓器の寿命はこうして決まる
伊藤 裕 著
(朝日新書)
老化とは実年齢を越えて傷んでしまう遺伝子の負債であり、この負債を返済するための方法を紹介する。
どうしても損傷してしまう遺伝子を、その配列を超えてコントロールするエピゲノム変化。実年齢より進んでしまうエピゲノム年齢。人それぞれの経験の違いによって遺伝子の損傷の具合も違うが、この経験とは労働環境や食事など体に直接的なものの話か、それとも精神的なものも含むのだろうか?
もちろん老化負債返済はストレス解消が鍵だから心の持ちようもあるだろう。また100種に達する体内ホルモンのホメオスタシス(生体恒常性)の働きが大切なようだが、結局われわれが取るべき行動は、巷間耳にする食事・運動・睡眠など各種健康法だった。そして生活のルーティンと少しばかりのワクワクを!
「熊楠と幽霊」
志村真幸 著
(インターナショナル新書)
民俗学の巨人熊楠の体験した心霊体験は果たして真実か?合理的な立場を離れなかった熊楠の人間的な生き方が見えてくる。
留学時代は超常現象を全て否定していた熊楠が、郷里和歌山に帰り那智熊野で暮らし始めてから幽体離脱や予知夢などさまざまな霊的体験を語り始める。その動機を頭痛など自身の身体と精神状態への不安や、父親の期待を裏切った悔恨から解き明かしてゆく極めて興味深い論考。人間くさい熊楠が見えてくる。
結婚して子供も産まれ生活が落ち着いてくると、心霊現象への興味も薄れてくるが、それでよかったと思う。なんと言っても私の熊楠に対する印象は歩く百科事典というか、思想的な深みよりも広く浅く(浅くと言っては失礼だが)膨大な資料を蒐集・網羅する超人的な人間で、心霊研究もひたすら世界中の著述や事例を披露することに邁進する。
体験した夢のお告げやテレパシーにしても、誰にでもある自己愛や承認欲求のままにいかにも不思議な体験があったように披瀝されるが、それが驚異の博覧強記を伴う他の事例とともに語られるので説得力を持つのかもしれない。
水木しげる「猫楠」も登場。熊楠本人の猫イラストも愉快。
「エティオピア物語」下
ヘリオドロス 作
(岩波文庫・下田立行 訳)
舞台は紀元前6世紀末、ペルシャ支配下のエジプト対エティオピアの戦いの中で捕虜となった二人の運命は? 古代ギリシャで書かれた本格物語小説。
筆が慣れてきたのか、前半の盗賊どもからの逃避行などに比べると俄然面白くなってきた。特にエジプト太守の妻でありながらテアゲネスに色目を使う姦婦アルサケの魔手が良い。色事を企むあの手この手など悪者らしくて楽しい。主人公があまりに美男美女なのでこの種の揉め事がすぐ起きる仕掛けだ。
一転してナイル川を背にしてのエジプト対エティオピアの戦争も、装備や戦略の解説もていねいで軍記物としての面白さに溢れている。両軍特色があり、特にゾウやキリンも登場するエティオピア軍の奇想ともいえる戦いぶりは愉快だ。
捕虜となった二人だが、エティオピアの評定衆たちが捕虜を犠牲として神に捧げることに反対する人権派。これで解決。
「エティオピア物語」上
ヘリオドロス 作
(岩波文庫・下田立行 訳)
紀元後3世紀、古代ギリシャで書かれた本格物語小説。
誰もが目を見張る絶世の美女カリクレイア。勇猛果敢な美男の青年テアゲネス。ひと目見た時から愛し合うこの二人を主人公に、舞台はギリシャからエジプトまで。地中海を移動し、折り重なるように現れる盗賊・海賊の類。まさに波瀾万丈以外のなにものでもない。
主人公の二人は何度も離れ離れになり、彼らを支える囚われの青年や大神官の老人なども交えて物語は複雑化する。作者ヘリオドロスが神職を投げ打ってでも書きたっかたこの小説。根っからのストーリーテラーであったのだろう。今から見ると特段の特長も感じないが…、さてつづきは下巻で。