漫画家まどの一哉ブログ
「理不尽な進化」
吉川浩満 著
進化という言葉は学術の世界とは違って一般世間では向上・発展的変化という肯定的な意味で使われている。これが著者の言う進化のおまじない的用法である。環境にもっとも適応したものがサバイバルゲームの勝者となるのだ。ところが実際にはこの地球上では99.9%もの生物が絶滅していて、たとえば我が世の春を謳歌していた恐竜など、環境に適応していたのにその環境そのものが隕石の激突によって激変したため理不尽にも絶滅してしまう。
世間一般的な感覚では「えっ、適応していたのにそんな理不尽な!」という進化への戸惑いを覚えざるをえない。という書き出しはちょっと違和感があって、いくらビジネス界を中心に進化メッセージが発信されていたとしても、人生自体に理不尽なものを感じているのが、けっこうふつうなのではないだろうか。
学問の世界ではグールドが適応主義に異議を唱えたが、けっきょくドーキンスらネオ・ダーヴィニズムの勝利に終わる。この適応主義の勝利は自分のような素人読者にとってもそれほど新しい話ではない。ところが著者は敗北したグールドに光を当てる。進化の歴史で絶滅していった生物のその絶滅理由が理不尽なものだったとすれば、適者生存と行っても偶然そうなっただけで他の道もあり得た。それを全て適応主義で乗り切ることにグールドが感じた違和感を手がかりに歴史科学としての進化論のあり方を探っていく。
自分は科学哲学はじめ知の枠組み等についてあまり興味がないので、そのあたりの考察はああそうなのという感想だが、たとえば「説明」=科学的方法、「理解」=歴史的思考というような言葉の限定された使い方にいつも馴染めない。
能力のあったものが勝ち抜いたのではなく、たまたま生き残ったという結果が適応なのだ。進化論というのは経験を科学する学問であり、その何億年という長いスパンで行われる淘汰は人間の感覚では追いつけない。進化論はどうしても目的論的に考えてしまう人間の都合を遠く離れた結果論的な学問で、量子力学や相対性理論などと同じ理論装置であるという解説にはグッときた。この世界は人間の存在とは無関係だ。
「遠く、苦痛の谷を歩いている時」 高橋たか子 作
表題作の他「甦りの家」「病身」
人間の意識の底に共有する意識だまりのようなものがあって、ときどきそこへ下りていっては、他人の意識をすくい上げてくる。それは夜見る夢の中で行われる場合が多い。といった共通のモチーフで描かれている三作。
「甦りの家」の中で元型という言い方で扱われるその共有概念を、作者は心理学用語とはなんの関係もないというが、ユングのそれを思い浮かべたとしてもそうはずれではあるまい。
主人公が少女時代に、哲学書を読まなくても同じことを知ることができるのではないかと考えるところから、この元型をめぐる彷徨が始まっている。自分と意識の底を共有していると見える年下の青年を思うままに操って、性的な妄想をも膨らましてゆく奇妙な日常。そんな非日常世界がまったく怜悧で平静な感触で綴られていく。
ユング心理学の知識は無くてもこのモチーフは面白い。自分にとって作品の良し悪しはテーマではなく感触なので、そういった意味では高橋たか子は好きな作家だ。過剰で逸脱した精神性を希求する作者の資質が好ましい。文章の肌触りがよくて読みやすかった。
「遠く、苦痛の谷を歩いている時」では一人称で語られる登場人物がいつのまにか入れ替わっていて、今喋っているわたしはさっきまでのわたしと違う人物だったりする。それも意識の奥底では繋がっていて、全体を見れば大きな共通の意識がそれぞれの形をとって立ち現れているのかもしれない。複雑な構成だが、流れるように読める。
「蟹の横歩き」 ギュンター・グラス 作
日本版サブタイトルに「ヴィルヘルム・グストロフ号事件」とあるとおり、1945年に起きた豪華客船沈没事件を題材としている。作品の構成は複雑で、そもそもこの客船が「グストロフ号」と名付けられるに至った経緯。これはユダヤ人ダヴィト・フランクフルターによってナチス党員ヴィルヘルム・グストロフが暗殺された事件がそもそもで、この殺されたナチス党員の名前が豪華客船に命名されたわけである。
次に当時東プロシアから海路脱出を図った大勢のドイツ人を乗せたグストロフ号が、ソビエト潜水艇からの水雷によって沈没。主人公をお腹に孕んだ若き母親が幸運にも救出され、護衛艦の上で出産するまでの物語。
そして現在主人公の息子がインターネットの世界でネオナチの論客となり、果てはユダヤ人を名乗る論敵の青年を射殺してしまうという悲劇が描かれる。
これだけ盛りだくさんの社会的現実を用意されれば、文学的評価はわからないが退屈することはない。フィクションとノンフィクションの両方を行き来するから、ちょっとした戸惑いはある。語り手の主人公のジャーナリストは凡庸などっちつかずのスタンスをとっていて、むしろ母親のとんがった性格がこの作品をいきいきとさせている。と言っても彼女に政治的スタンスはないのだ。
主人公の息子の都合の良い歴史の美化と他民族蔑視やネオナチの野蛮な連中を見れば、現在我が国で起きている事態と瓜二つで、残念ながら人間のやることは変わらない。戦争から時代が遠く離れてしまうとこんなことになるのか。という現在進行形のまま作品は終わる。
「ブエノスアイレス食堂」
カルロス・バルマセーダ 作
アルゼンチンはマル・デル・プラタの街で1世紀近くに渡って人気を誇ったブエノスアイレス食堂。その歴史を作った数々の天才料理人の物語でありながら、実は猟奇殺人事件が本題という奇妙な小説。いやそれはないやろと思われるカニバリズムに始まりカニバリズムに終わるのだ。
いかにしてブエノスアイレス食堂が始まり、どうやって引き継がれて来たか。創業時に天才料理人カリオストロ兄弟が書き残したレシピブック「南海の料理指南書」が、かろうじて受け継がれ、時代時代の名コック達によって解読・実践されていく。今もアルゼンチンに残る人気料理の出来るまで。その素材・調味料など細かく紹介され、どんな料理か想像もつかないが、たしかにおいしそうだ。
そうやってブエノスアイレス食堂周辺に蠢く人々の来歴が行きつ戻りつ語られ、これはいったい何が書きたいの?とそろそろ飽きかかる頃、赤ん坊の時に母親の死体を貪った主人公によって、おぞましい連続殺人事件がくりひろげられる。もちろん天才料理人としての腕をぞんぶんにふるった食人事件なのだからたまらない。
このカニバリズムにリアリティを求めても仕方がないが、食堂の歴史著述と同じ筆致で淡々と描かれるとそんなことは気にならず、直接的な恐怖をあおるふうではないので一種幻想文学のような感触があります。ムシャムシャ。
「みいら採り猟奇譚」 河野多恵子 作
戦前から戦中にかけて、開業医の家庭に育った歳の離れた新婚夫婦のおはなし。相良外科病院のひとり娘比奈子は女学校を卒業するとすぐ前から家族間で決まっていたように、内科医の尾高正隆に嫁ぐが、こういう親の決めた早い結婚は当時ふつうの感覚だったのだろうか。
結婚後初夜から閨房のようすが描かれるところが珍しいが、実はこの夫がマゾヒストで二人の被虐加虐のバリエーションがしだいに発展していく。やがて夫は銭湯に行けないほど体中傷だらけとなってしまうのだが、SM描写はちっともいやらしくなく冷静な筆致で書かれているので、この二人がなんでこんなことをしているのか奇妙な感じがする。
ところがこの小説でそういったシーンはごくわずかで、大半はこの時代のちょっと生活にゆとりのある階層の細やかな日常生活である。身近な衣食住の工夫や買い物、親戚付き合い、近所付き合いなどがていねいに描かれていてたのしい。開業医の暮らしぶりが分かるし、だんだんと戦争に突入してゆく世の中の様子がリアルだ。
それだけでも楽しく読める話なのだが、なぜか夜になるとアブノーマルなことになって、この昼と夜がすんなりと繋がっているのがなんとも不思議な、そういう人間だからという理由でしか説明できない、人間ありのままでいいのだという世界だ。
「夜の寓話」 ロジェ・グルニエ 作
著者は作家になる以前に著名なジャーナリストであり、この短編集はライターとしての経験を素材に編集・広告業界でうごめく人間達を描いたもの。といってもべつにその業界ならではの人物像を追いかけたわけではなく、人間一般のやるせなさを綴る。
●ジゼルの靴:リセ(国立高等中学)時代に、いじめられていたところを義憤にかられて味方したことから友人となった男ラリユー。彼は卒業後も半ばアウトローの道を歩むが、語り手(私)との奇妙な友情は続く。こういうインテリではない人物との話は想像できない展開となっておもしろい。
●脱走兵たち:軍隊時代に知り合ったジャーナリスト、ペレンの後日談。スペイン戦争のさなか、彼が最後に選んだのは、体内にペスト菌を抱えたまま忍び込みフランコ派を絶滅させるという突拍子もない仕事だった、果たして…。
●厄払い:報道部女性記者カルリと若手カメラマンラフレ。彼らがペアを組んで取材した先では必ず人が死ぬ。迷信深いカルリは呪いを消すために、一線を越えて二人の関係を変えようとする。
「隊長ブーリバ」 ニコライ・ゴーゴリ 作
ウクライナはザポロジエの街に住む連戦の勇者タラス・ブーリバ。彼はコサックの中のコサックだ。ロシア正教の宗教学校から帰ってきた二人の息子オスタップとアンドリーにもほんとうの戦争を体験させねばならぬ。安穏と平和を貪っているわけにはいかない。講和条約もものかは、いよいよ戦争を開始するのだ。東にダッタン人、西にポーランド人、南の海にトルコ人を相手にコサック魂を見せつけてやろうぞ。
白兵戦の時代までなら男子たるもの戦闘の覇者がヒーローだ。敵の首をはね街を蹂躙し殲滅する。これぞ男の進む路。男が戦場へ出なくてどうする。けっきょく男は戦争がしたい動物かもしれないね。
小隊の展開から銃を使った団体戦、1対1のせめぎ合いなど、やったりやられたりの戦闘シーンが実に巧みに描かれていてワクワクしながら読んでしまった。
敵国の姫に心奪われコサックを裏切ってしまう弟アンドリーの運命やいかに。囚われの身となり、斬首される寸前父ブーリバの声を聞く兄オスタップ。徹底して小ずるいユダヤ商人も再三登場。そして敗戦の隊長ブーリバの壮烈な最後とは。
というわけで、ゴーゴリと言ってもやっぱリアリズムだけじゃない、ロマンチシズム小説の快楽でした。
「流刑」 パヴェーゼ 作
1935年北イタリアトリノ。反ファシズム運動の罪で逮捕された作者は、イタリア半島南端、長靴の先っぽの街プランカレオーネに流刑囚として送られる。
流刑地というと自分などは遥か沖島を想像してしまうが、地続きの村へ列車で到着するのである。なにもない田舎町。もちろん自然は豊かで、主人公(作者モデル)は毎日海へ出て泳ぎ、またぼんやりと水平線を眺めて過ごすのであった。
酒場に集まる男達や街で働く女達との交流。不安な境遇で悩みを抱える彼らとの友情や、熱を帯びた情交がひとしきりあって、やがて主人公は村を去ってゆくのだった。
大きな事件は起らないが、孤独な主人公のさまざまな思いと、移りゆく自然の情景描写が実に美しく心をうつ作品。つまり詩文であって深く意味を解読する能力も自分にはないが、文章を追ってゆくことに沁み入るような快感がある。
解説にもあったが、たしかに叙情詩と叙事詩を混ぜ合わせたような作風で、南国の太陽の下にいながら心地よい寂しさを味わうことができる。
「みずうみ」川端康成 作
川端康成は、いわく言いがたい気味悪さがあってあまり読んでいないが、これは輪をかけた不気味な小説。というのも主人公はストーカーで、彼の心理をそのままなぞってゆく形で話が進行するからだ。それこそストーカーならではの身勝手な思考で、何の関係もない行きずりの美少女を見とがめると、まさに自分のために現れたかのような天恵を受けて後をつける。彼にとっては見知らぬ美少女と自分とは既に無縁の仲ではないのだ。そして少女の方でもわざと自分に後をつけさせていると妄想するところまで発展している。これはいかにも気持ちが悪い。
小説は主人公が少年時から抱いてきた女性に対する執着を、彼の心のままに行きつ戻りつしながら進んでいく。彼が教職を追われることとなった女子生徒との交際は現実である。しかし自分にはそんな美少女よりも、話の最後におでん屋で酒を飲むことになった行きずりのうらぶれた不美人な女性との交流がいちばん現実味があってよかった。
川端康成の美しさというのは、伝統的な日本美というより、もっとなにかぬらぬらした感触があって気味が悪い。その気味悪さの正体がなにかよくわからない。実は性的なものがあけすけになっているのかもしれない。この作品もひょっとしたら異端の名作・奇書の部類に入るかもしれない。
「風立ちぬ」堀 辰雄 作
ピュアな恋愛物語のように思って手を出していなかったのだが違った。死を前にした恋人とのサナトリウムでの静謐な毎日を描いた、幸福についてのノートのようなもの。二人の心のやり取りはひじょうにスタティックで、思いが伝わる伝わらないといったような日常的な心理のレベルは描かれていない。男女の愛の物語ではないのだ。
重篤な病に冒されたからこそ得られた、すべてが終わるところから始まっている二人の生活。こういう状況で必要以上になされるべきことはなく、大自然に囲まれて移りゆく季節を感じながら、それこそ風に揺らぐ蘆のように生きていくことしか、そもそも人間にはないのではないか。じつはそれが人間の幸福のありかたではなかったか。
主人公(作者)はかつて未来の恋人との今のような暮らしを理想としていたのであり、それが現実となった今、そんな過去の理想をふりかえる自分と、それを小説に書くことで満たされる自分がある。過去の理想・現在の幸福・そのことを書かれた小説の中の自分。そうやって時間を多重に追いかけることにで今感じている幸福が微妙にずれていく。幸福の感じ方も揺らいでいるのだ。
小説の構成は、サナトリウムでの静かな毎日が描かれた後、最終章では彼女が亡くなった後の作者の孤独な日々が描かれて終わる。直接死を描いた部分はなく、簡単に涙腺を刺激するような仕掛けは排除されているのが心に残る。
それにしても自然の情景描写だけでよくこれだけ美しい飽きさせない文章を繋いでゆけるものだ。これも世界文学だ。