漫画家まどの一哉ブログ
読書
「草薙の剣」橋本治 作
(新潮文庫)
10歳ずつ年齢の違う6人の男。その生き様を追って、戦後から現在まで続く時代全体を描いた長編。
主人公の男たちは1953年生まれから始まって10歳ずつ若くなり、最も遅く生まれた男が2003年生まれ。話は彼らの妻や両親の人生にまで及ぶので登場人物は多く、誰の話題かついて行くのがたいへんである。
高度成長からオイルショック、バブル崩壊、オウム、震災まで。大事件や話題となった不気味な殺人事件まで立ち現れるなか、読者である自分もちょうど同時進行で体験してきたことも多く、読んでいて興奮する面もある。
しかし彼らはいかにもその世代の典型として登場し、どちらかといえば下層のいかにも凡人で、どこにでもある人生を送る。彼らが地元を離れて工場やガソリンスタンドで働いたり、夫婦がくっついたり別れたりするが、これもあまりにもありきたりの冴えない話で、読んでいて不愉快になるくらいつまらない。たぶん時代全体を表現するのにこの方法は正解であろうが、だからどうしたという妙な心地ではある。
とはいえ文章はきわめて自然で、するすると頭の中に入ってくる。しかも単純で幼稚なものではなく、これも名人芸なのかもしれない。
読書
「献灯使」多和田葉子 作
(講談社文庫)
鎖国状態となった近未来日本を描くディストピア小説。腺病質な曾孫を懸命に守り育てる頑健な曾祖父。二人に訪れる運命の「献灯使」とは?
なにかしら政府や国家といったものが見えない、ネットも自動車もなく生ぬるく薄められた文明社会で生きてゆく人々。体が弱く感受性が豊かで他に馴染まない主人公の少年にが案外たくましく、他の子供達も普通や一般性といったものと違った、それなりの個性を持っていて魅力的だ。
ディストピア社会を描く事は、多かれ少なかれ寓意や風刺を含むものだが、あからさまなそれがなく、勝手気ままに生きている人々ばかりで、自由や力強さを感じる。
老人ばかりが100歳を超えて元気で、次代を担う子供達はまるでひ弱で未発達なので、確かに衰退へ向かう国家の有り様なのだが、現在われわれを縛っている様々な社会制度が消滅していて、楽になった未来でもある。みんなで同調して頑張ってなければならないことから解放された、これこそ理想社会かもしれない。
併載の短編もやはり寓意的な近未来小説だが、「韋駄天どこまでも」が避難所で知り合った二人の女性の不思議な愛情を描いて愉快。
読書
「プールサイド小景・静物」庄野潤三 作
(新潮文庫)
平凡な日常風景を静かに描いて、不安と崩壊の兆しを感じるリアリズム小説。
若い頃にこの文庫本を読んだ記憶では、ごく身近な日常を丁寧に描いて美しく心に迫る作風というものだったが、今読むとかなり違った印象だ。
この記憶は巻末の「静物」から来ているのだと思うが、たしかにこの日常風景は名作の筆致というものだろう。しかしただ静かな平和的な印象かといえば、逆になにか差し迫った緊迫したものを感じてしまう。それが何かは分からないが…。
「舞踏」や「プールサイド小景」などは明らかに家庭の危機を描いていて、夫の身勝手やだらしなさによって、妻の人生は暗澹たるものになっていくのだが、若い時の読書ではこの現実味はよくわかっていなかった。今読むと露骨に破滅へ向かう有様がリアルだ。著者が男性であるためか男が情けなく、夫のために狂わされる妻の悲しい心情に思い至る。
読書
「協力と裏切りの生命進化史」市橋伯一 著
(光文社新書)
単細胞生物から始まって、生物が協力関係によって次々と進化してゆく過程をふりかえりながら、私たちヒトの存在を考える。
細菌が真核生物となり多細胞生物が生まれ、無脊椎動物から脊椎動物となってやがて社会性を獲得してゆく過程は、いってみれば生物学の復習であるが、協力という観点からおさらいしていて面白い。
協力あるところに裏切りもあって、社会性を破るエゴイストの存在をできるだけなくしてゆくシステムも面白かった。
地球上に存在する生命の個体数と複雑さの相関を示すグラフでは、細菌からヒトまでが右肩下がりの直線のまわりに集まっていて、明らかに反比例の関係がある。複雑になる=個体あたりの総塩基数が10倍になると個体数が10分の1になる。これもそれはそうだろうがと思ってしまうが、実はよくわからないらしい。
いずれにせよ協力して進化してきた生物はごく少数であるらしい。
読書
「ロレンザッチョ」ミュッセ 作
(光文社古典新訳文庫)
史実「メディチ家暗殺事件」を題材に、腹心の部下を装うロレンゾが暴君アレクサンドルを暗殺するまでを描いた傑作戯曲。
文庫本自体は3分の1ほどが解説であり、戯曲としての歴史的経緯と実際に上演された様子。またこれまで研究された人物解釈、演劇史上の位置づけなど、これはこれで非常に興味深いが、素人読者としてはそこまで深入りして読み込もうとはしなかった。
そういった趣きの脚注を飛ばして読めば、劇自体はたいへん面白く、新訳による人物のあらわな性格など典型的でわかりやすさがある。暴君アレクサンドルはいかにも下品で暴力的な男であり、対する共和派勢力の首領フィリップも父親的な役割でありながら貴族階級の代表者。野心家の枢機卿なども、やはり陰謀家そのものの男。
そしていちばん謎めいているのが主人公ロレンゾであり、暗殺を企む彼がすでにアレクサンドルの腹心として肉体関係も疑われるほどに寄り添っているので、なぜ彼がそこまでするに至ったかが不思議である。
しかしロレンゾをも、わざと軟弱者のフリをしている正義漢として単純化してしまうとこの話はつまらない。劇中の長台詞も屈折する彼の内心をなぞっていて、この人格設定であってこそ読むに耐える作品となっている。
その意味ではロレンゾが暗殺の決意に至る過程を描かないでいるのも演出上の秘訣かもしれない。
読書
「コンビニ人間」村田沙耶香 作
(文春文庫)
生まれつき自然な人間の感情を欠いている彼女は、コンビニ店員となることによってのみ、人間社会の仲間入りができるのだった。人格障害者の日常を描いた恐ろしい小説。
素人なので軽々しくは言えないが、ある種の人格障害・情性欠如型の人間が、ふつうの人間と思われるためにコンビニに身も心も捧げてしまう恐ろしい人生。彼女の情動・情緒はすべて周りの人間の口調やクセの模倣であり、本心は乾いた合理的なものでしかない。
彼女は自分の性格に悩むでもなく、これが自然だとばかりに部屋に男を飼ったりする。通俗小説の部類であればサイコパスの主人公が粛々と犯罪を犯す過程を描くところだが、全く違うこんなかたちで感情が欠落した人間の生きて行く様子を書けるとは、身も凍るような文学世界だ。
ほんとうの人格障害ではないにしても、子供の頃から「みんながなんで笑っているかよくわからない」「放っておけば一人でずっと絵を描いている」「人の言葉の背後には気持ちというものがあることを大人になってから知る」などという傾向のある自分のような者には他人事でない。冷や汗が出る思いで読んだ。
読書
「小川洋子の陶酔短篇箱」小川洋子 編著
(河出書房新社)
新旧日本文学の中から珠玉の短編を選び、小川洋子が独自のエッセイをプラス。魅力マシマシのアンソロジー。
選ばれた短編のおもしろさはもとより、添えられたエッセイが単なる解説ではなく、作品の気になる部分を継いでさらに押し広げた小品となっていて、夢心地が覚めない感覚である。
「愛撫」梶井基次郎:猫を眺めて浮かんだ妄想を、実に綺麗につないで仕上げた硬質の短編。この仕上がりの格好よさはやはり著者ならではのもの。
「牧神の春」中井英夫:微生物の名前を呪文のように唱えているうちに半身が山羊となってしまった話。動物園でニンフと出会う。この作家がこんなに詩的で夢幻的だったとは。
「逢びき」木山捷平:戦後の物資不足の中、畑を作って懸命にやりくりする奥さん。くらべて復員したダンナの方はなんとものんきで、このダンナの逆らわない性格がほのぼのして良い。のんびりする。
「雨の中で最初に濡れる」魚住陽子:母娘共に、不思議なセールスレディの勧めるものを言われるがままに買ってしまうが、よかったよかったと言って喜んでいる。なにか浮遊感のある奇妙な現実が進行する。
「流山寺」小池真理子:死んだはずの夫が幽霊となって帰ってきた。嬉しい。妻はなんとかそしらぬふりをして、そのまま二人の生活を続けようとするが…。儚き熱愛が痛々しく迫る。
読書
「黄色い部屋の謎」ガストン・ルルー 作
(創元推理文庫)
完全なる密室に響き渡る悲鳴と銃声。ようやくドアをこじ開けた室内には襲われた女性以外には誰もいなかった!犯人はどこへ?密室トリックの古典的名作。
ふだん推理小説を読む習慣はないが、「オペラ座の怪人」の作者ガストン・ルルーの傑作という案内にひかれて読んでみた。訳者は現代読者にとっての読みやすさと古典の味わいの両立を心がけたそうだが、たしかに古風で魅力的な書きっぷりだった。
この作品が発表された1908年時点で、作中で言及されるポー「モルグ街の殺人」から約70年、コナン・ドイル「まだらの紐」から約20年経っている。世に推理小説の下地は十分行き渡って、こなれていたであろうところに出現した密室ミステリーというところか。
ルルーの筆致がそのミステリーの枠内に収まるものか、そうでないのかわからない。自分などは全くトリックや真犯人を考えてみようともしないで読んだが、探偵小説を読んで犯人を追っているだけではない面白さがあった。
古城で起きた事件とはいえあまり暗さがなく、むしろ軽快なリズムで話が進んで行く心地よさを感じた。
読書
「その話は今日はやめておきましょう」
井上荒野 作
(毎日文庫)
老夫婦は夫の怪我をきっかけに、自転車屋で知り合った青年を家政夫のかわりとして雇う。誠実に働いていた青年だったが、やがて家庭は少しずつ思わぬ危険へと滑り出してゆく。
ここに登場する青年は勤め先の自転車屋の店主を殴って職を失ったまま、確固とした未来を思い描くわけでもなく、半フリーターとして生きているが、とくべつ悪人でもない平凡な青年である。
老夫婦はゆとりある老後を送っているわけだが、この作品では隣家住人やその他登場する若者から、70歳以上の老人は生きている意味のない存在として、ことさら馬鹿にされている設定だ。
青年の意図したわけでもない軽犯罪をきっかけに、平穏な家庭が事件へと傾いていく様子はスリリングで、井上光晴を読んでいるような感触がある。
とは言っても言いようのない齟齬や不安、得体の知れない不穏な雰囲気というものではなく、青年とその悪友による悪意がはっきりとあるのだから、その意味では安心して読める作品だ。まあ、こんな若い奴はいるだろうし、順当に生きてきた老夫婦も世間に対して甘いなという感想を持ってしまった。
読書
「東京の三十年」田山花袋 作
(岩波文庫)
11歳で初めて東京へ出てきた明治14年から数えて30年。大きく変わった街の様子。小説家として立つ野心を抱いて苦闘した青春。紅葉、鴎外、独歩、藤村ら文人たちとの交流を描く明治文壇史。
田山花袋は小説もさることながらエッセイが面白く、飾らない素直な人柄が表れて読んで心地がよい。当然作家としての瑞々しい感受性の持ち主だが、社会人としてはすこぶる常識的で温厚な人物で、芸術家風の奇矯で扱いにくいところなどはないようだ。
30年の間の都心の激変は高度成長期以上のものがあったのかもしれない。いわゆる江戸情緒というものが一切顧みられることなく壊されていく。昔の面影を見つけることが難しく、やがて電車が走るようになると近代都市東京の姿が完成される。
紅葉率いる硯友社から始まって、鴎外その他新たな動きや、対立する冊子とグループ。自然主義が花袋らによって完成されていくと思ったら、それもまた次の時代に乗り越えられていく。政宗白鳥の登場によって明治以前の風合いをまとった文学は完全に終わったという視点がおもしろかった。
「KとT」は親友国木田独歩と小説作品を完成させるべく、日光の寺へ泊まり込んだ数ヶ月のエピソードで、若い二人の友情が偲ばれて心温まる。その独歩も早くに亡くなり、後年40歳を超えた花袋が単身廃寺となった同じ寺へ泊まり込んで自炊生活をするところはやはり寂しい。