漫画家まどの一哉ブログ
「親衛隊士の日」
ウラジーミル・ソローキン 作
(河出文庫)
2028年、皇帝の支配する帝国ロシアで自由気ままに活動する陛下直属親衛隊の精鋭たち。その強奪と暴力と薬物に明け暮れた日々を活写。空想的幻惑小説。
ソローキンは以前「青い脂」を途中まで読んで挫折した経験があり、今回はさほどの大長編ではないので挑戦してみた。
犬の首をぶら下げた車や銃を使わないナイフによる殺人などグロテスクなイメージ。しかし通信手段などは空中に画像が現れるなど今日的。
親衛隊の連中は皇帝陛下を守るという名目はあるものの、インテリも含めてゴロツキのような連中で残忍であり、女性には興味がないらしく性的なシーンは薬物を使用したあげくの男性同士のものである。
エンターテイメントとしてこれらの設定はあるだろうし凡庸さも感じないので、面白いかと言われれば退屈だった。社会構造や人間存在の本質に迫るような部分は無く平板なものだが、かと言って美的なものでもなく、男性性ばかりが前面に出て個人的にはつまらない。なんども投げ出そうと思ったところで、中国人の老占い師天眼女や豊満な肉体を持つ皇后などが登場してなんとか完読できた。
「いい絵だな」
伊野孝行×南伸坊
(集英社)
現役イラストレーター2人による自由でとらわれない絵の見方。力の抜けたスタンスで面白さを再発見。
やっぱり絵を描く人の分析はおもしろいな。絵画評論というと小難しいものが多く、最近は楽しい絵の見方的な著作も増えているようだけど、ここまでフランクに解剖したものはなかったように思う。明け透けで遠慮がなく、描き手の都合や内心や好き嫌いまで及んで創作の謎を解き明かす。楽しい興奮がある。
どうしても自分との比較で語ることになるが、さすがにイラストレーターだけあって絵がめちゃくちゃ好きなんだなと思う。見ている絵の数と思い入れが違う。もしこれが伝統的な絵画界・美術界の人だったらここまで全ジャンル自由に語れないんんじゃないか。
1964年に始まった和田誠や宇野亜喜良らによるイラストレーションの革新や湯村輝彦などヘタウマ台頭などへの想いの強さを見ると、やはり成るべくしてイラストレーターに成った人だと感じた。自分も同時代を生きてきたが、さほどの関心はなかった。
マルケのゆるさの良さもわかるが、自分ではゆるい絵もしっかりした絵もどちらもOK。田中一村もOK。
「女誡扇綺譚(じょかいせんきたん)」
佐藤春夫 作
(中公文庫)
新鋭作家佐藤春夫が日本の同化政策下の台湾を周遊。植民地政策の欺瞞を見てとるルポルタージュと幻想譚を収録。
巻頭表題作「女誡扇奇譚」これだけが純粋な空想小説で、他は巻末に「魔鳥」がある他はほぼ旅行記である。廃屋で聞いた謎の声にまつわるミステリー仕立ての佳作で、読み始めるやいなや佐藤春夫の飾り気のある文章に魅了された。やはりこの夢見心地が佐藤を味わう醍醐味であろう。
当時佐藤春夫は新鋭作家として大いに名声を得ていたようだが、この台湾旅行中もまるで国賓扱いのもてなしぶりで、支配国の詩人などというものがそんなに偉いのか不思議な気がする。
旅行記の一つに「植民地の旅」というタイトルがあるとおり、佐藤自身は友人である台湾人と対等に付き合っても、その実台湾社会は内地人(日本人)・本島人(漢民族)・蕃人(先住民)の順にれっきとした差別構造がつらぬかれていることはいやでもわかるというもの。旅行記自体はのんきなものだが、そこはリアルだった。
「数学独習法」
冨島佑允 著
(講談社現代新書)
文系ビジネスマンのために代数学・幾何学・微積分学・統計学の4つの基礎を経済活動に寄り添って解説。
自分はビジネスマンではないが、数学が苦手な文化系人間なので手に取ってみた。良い意味で夢の無い本だ。数学の持つ神秘性やこの世界の構造に迫る不思議さといった面白さはなく、もっぱらビジネスなど社会経済活動の具体例に寄り添って解説。それだけに夢は無いものの確かにわかりやすく、まったく知らなかったことはないが、ぼんやりとした理解が薄ぼんやりまで進化したかもしれない。
代数学・幾何学・微積分学・統計学の4分野が順に解説されるが、代数学は変数や関数というものの基本的な意味がわかってよかった。2次関数や指数関数に馴染みはあっても、関数そのものが分かってなかった。
幾何学は面白そうで期待したが、なんと三角関数の話だった。なるほど三角形は基本中の基本だ。本書を通じてやはりいちばん理解できなかったのが三角関数で、「角度」と「辺の長さの比」の関係というものがイメージできなくて困る。とらえどころがない。
それに引き換え微積分学は以前からイメージしやすくてそんなに難解な印象は持っていない。なにをやっているのか謎めいたところがない印象だ。
最後の統計学は偶然性に関する本などよく読むので自分の好きな分野であり、大数と正規分布を世の中の基本と思っているので納得できる。平均値・最頻値・中央値の解説もよかった。
しかし全編通して私の勘違いかもしれない。
「貸本屋とマンガの棚」
高野慎三 著
(ちくま文庫)
戦後1950年代から高度成長期が始まるまで、約15年の間に生まれて消えた貸本漫画。忘れられたその世界を当時の社会状況から解き明かす。
マンガの歴史やマンガ界全般に興味が無く、マンガを研究することもないので極私的な感想を持つばかりだ。
著者高野さんが常に説いているのが、作品が描かれた状況を理解することだが、やはり貸本マンガ全般よりもつげ義春や水木しげるなどの作品の背景を読み解く方が面白い。
私自身は貸本マンガの終焉期に触れているが、幼すぎるため劇画などは目に入らず、もっぱら山根赤鬼・青鬼などの愉快なものばかり読んでいた。この著書のなかでユーモアマンガとされるジャンル。その代表として語られる前谷惟光は今考えてもかなりユニークな作家ではなかろうか。子供でも笑ってしまう嫌味なギャグ。
つげ義春やつげ忠男が、時代に合わせて少女ものや忍者ものを描いていて驚くが、ほんの1ページ見るだけでもやはり魅力を感じてしまう。つげ義春のハードボイルド作品「見知らぬ人々」のコマ展開と画質が理想に近い!そして白土三平や水木しげる。自分が貸本マンガに言及するとしてもこの辺りまで。個人的な趣味としては平田弘史やさいとうたかをは男性性が勝ちすぎていて苦手な部類。かといって本書で女性的とされる小島剛夕が好きかというとまったくそんなことはない。
「独房・党生活者」
小林多喜二 作
(岩波文庫)
工場労働者の立場から身分を隠して生きる潜伏活動家へ。非合法共産党員の困難な日常を体験を持って描いたリアリズム小説。
「党生活者」:日本労働運動史をまったく知らないわけでは無いが、やはり小説の形で読むと、ありありと身に迫って格別である。いかにして官憲の目をくぐり非合法の活動を持続するか。そのなみなみならぬ注意と工夫が、ヒリヒリと緊張感があってスリリング。しかしなにぶん実話ベースなので読んでいて楽しいといったものではない。
主人公佐々木以外にも登場する仲間の須山や伊藤らは実にタフで誠実で敬服に値する人物だ。特に伊藤ヨシは女性ながらも拷問にも怯まず、つねに積極的に活動を拡大させようとする労働運動の鏡のような人間だ。
それに反して主人公が選んだ同居人笠原は、まったくの小市民的で理念の無い女性。佐々木は住まい(隠れ家)と生活費の解決のためこの女性を利用している。せっかくの結婚生活でありながら佐々木は非合法活動にあけくれ、彼女(笠原)が疲れて仕事から帰ってきても夜はいないし、休日も散歩も語らいもないという、なんの私的な楽しみも無いあまりな生活。
文庫解説によるとこの作品が発表された当時も、この女性をもの扱いして利用する態度(マルクス主義者でありながら前近代的)に批判が及んだようだが、これは小説に対する批判としては真面目すぎるのではないか。
この作品はあくまで前編であり、佐々木と笠原の生活にこれだけ問題点が蒔かれていれば、書かれなかった後編で2人の関係が大いにテーマの一つとして事件化されるかもしれないではないか。
文庫併催作品の「独房」でも隣家の女性の下着を覗く話題などあるが、この小市民性を描いてこそ小説であり、プロレタリア芸術運動だからといって理念に傾注するほど名作としてしまっては、面白いものは残らない。
「文と本と旅と」上林暁精選随筆集
上林暁 著
(中公文庫・山本善行編)
上林暁の多年にわたるエッセイの中から「文・本・旅・酒・人」をテーマに厳選して収録した味わい深い一冊。
「聖ヨハネ病院にて」周辺の数作しか読んだことは無いが、しみじみと心に残る私小説を残した上林暁。こうして随筆の数々を読んでみると、きわめて良識のある普通の人だとの印象がある。私小説家というと破滅型や自己憐憫の強い人間をふと思い浮かべるが、そんなタイプばかりでもないのは当然のこと。
したがって古書蒐集や旅の思い出など読んでいても、あまりにも普通に納得できる話ばかりで意外な面白さは無いが、それでもするすると読んでしまって心が満たされた感覚があるのは、ひとえに文章がうまいからなのかな。
ただやはり「人」をテーマに井伏鱒二や川端康成・宇野浩二など作家連との交流を描いたものは、普通には体験できないエピソードばかりなのでミーハー的な興味もあっておもしろい。作家がホテル住まいで創作に励んだり、随分リッチなものだなと思ったが、正宗白鳥会見記によると文壇が隆盛したのは菊池寛以降で、それまではみんな貧乏だったとのこと。
「むらさきのスカートの女」
今村夏子 作
(朝日文庫)
職場でもプライベートでも「むらさきのスカートの女」の動向をひたすら追いかける語り手「黄色いカーディガンの女」。主客が混乱する不思議な味わいの異色作。
こんなケッタイな小説読んだことなかった。しかも芥川賞。
語り手はなぜか近所に住む「むらさきのスカートの女」を異常なまでにつけまわし、求人情報まで密かに与えてまんまと同じ職場に誘い込む。そうやって「むらさきのスカートの女」の仕事ぶりや同僚との会話を見ていると、彼女はあんがいまともな普通の人間であることがわかる。それよりも逆にこの女をつけまわしている語り手(黄色いカーディガンの女)のほうがずっと常識はずれの人間であることがしだいにわかってくる。
「むらさきのスカートの女」の秘密を期待して読んでいた読者の興味は変わって語り手の女の異常性に向かい、どれだけ執拗なストーカー行為をするかに注目してしまう。
しかもこの作品は、まるで作家の語り手目線であるように書かれているが、同じ職場にいる人間(黄色いカーディガンの女)が語っている設定なのだ。常に「むらさきのスカートの女」と同行していてこそわかる描写ばかりなので実際にはありえない。これが小説としてかなり奇妙な効果を生んでいて、主客があるような無いような得体の知れない作品が成立した。
「日本の近代化と民衆思想」
安丸良夫 著
(平凡社ライブラリー)
梅岩、尊徳など近世通俗道徳から始まり、丸山教・大本教など明治期新興宗教に引き継がれた日本民衆思想。近世から近代へと民衆蜂起の思想的変遷までをたどった日本民衆史の記念碑的名著。
30代半ばに読んでおおいに感心した名著を30年ぶりに再読。さすがに面白かった。
石田梅岩や二宮尊徳の提唱するのは勤勉・倹約・正直などの通俗道徳なのに、それがなぜかくも日本社会思想史の上で重要な役割を果たしているのか。かねがね疑問だった。博打や放蕩に人間は抗えないもので、村を破滅から守るためにはこのような強力な道徳的戒めしかない。
しかし当然ながらそれらは社会構成そのものの批判には及ぶものではなく、本書後半第二編「民衆闘争の思想」で打ちこわしなど一揆の変遷でも取り上げられるが、幕藩体制以外の視点にはとうてい届かないものだった。これが限界だ。
それでも民衆は近代化へ至る過程で、けっしてなんの哲学も持たなかったわけではなく、しだいに社会を支える主体へと目覚めていったことがわかる。
ところが悲しいかな通俗道徳を旨とする近代の新興宗教は、丸山橋をはじめ天理教・大本教など、みな神道系の宗教だったため容易にの天皇制支配にからめとられてしまう。これが限界だ。
といった近代化の過程の一方の主人公であった民衆意識の変転が手に取るように分かっておもしろい。再読だがあらためて蒙を開かれる思いだった。
明治初期、生肝や生き血を取る恐ろしい耶蘇教に魂を売った新政府への反対一揆。村へ赴任した異形の警官を見るや恐怖に駆られて殺害してしまう逸話は、この著作でもっとも印象に残っていて、巻頭にあったと記憶していたが巻末だった。
「古今奇談莠句冊(ひつじぐさ)」
都賀庭鐘 作
(江戸怪異綺想文芸大系 第二巻・国書刊行会 2001年刊)
この巻「都賀庭鐘・伊丹椿園 集」のうち、伊丹椿園は読みやすいのだが、都賀庭鐘の「莠句冊」が晦渋で手に負えず、一度諦めていたが再挑戦した。とりあえず時間をかけることにして一作のみ記す。
「莠句冊第三巻・絶間池の演義強頸の勇 衣子の智ありし話」
自分は大阪の京阪沿線出身なので、舞台の茨田郡千林や太間村などの地名に親しみを覚える。この辺りは低湿地で作中にも「水淫の地、西北の巨川を防ぎたる茨田堤が霖雨洪水に必ず壊れ、幾た築きても土を保たず」とある。
さて怪異は、とある婦人が夜中に憑かれたように大騒ぎしたり、若き姉妹が化け物にかどわかされたり、大洪水が起こったりするが、これみな狸の仕業。
大力の強頸(つよくび)と知力溢れる衣子(ころもこ)の二人はこれらの難事件を次々と解決してゆく。このコンビはキャラクターが立って面白く、シリーズ化してほしかった。