漫画家まどの一哉ブログ
読書
「アンチクリストの誕生」レオ・ペルッツ 作
(ちくま文庫)
自分の息子がアンチクリストだと信じ込んだらどうするのか。幻想味溢れる豊かな着想とストーリー展開。手練れのエンターテナー、ペルッツの短編集。
「アンチクリストの誕生」:ここに登場する悪党3人組の設定の面白さ!細身の剣を持ち貴族のような出で立ちだが、頰に膏薬を貼った赤ひげの粗野な男。相方の司祭のような格好で始終うすら笑いでちょこまか動く落ち着かない小男。そして二人のボスは黒一色をまとった長身蒼白の口をきかないサーベルの達人。まるで劇画から抜け出たようなエンタメの王道をいくキャラクターではないか。
主人公の靴直し屋とその女房の過去や、アンチクリストとして生まれた赤ん坊の運命など、気が気でない展開に目が離せない。ページをめくるのが怖かった。
この表題作以外の短編も、月に呪われていると妄想する男爵「月は笑う」、降霊術で生きている人間を呼び出したらどうなるか「ボタンを押すだけで」、捕虜として療養所で暮らす何年もの間、たった1日の新聞のみを与えられたら…「一九一六年十月十二日火曜日」など、奇想ばかりでみな面白く、しかも文章は格調高く読んでいてこころ豊か。おお、これぞ不朽のエンターテイメント。
読書
「デミアン」ヘルマン・ヘッセ 作
(新潮文庫)
ストリーウス少年を後悔と苦悩から救い人生の導き手となる友人デミアン。
やがて青春のところどころに現れるデミアンが体現する理想の生き方とはなにか。
物語の大半は精神的な考察で埋められていて、主人公ストリーウスのクリスチャンとして堕落したり立ち直ったりが描かれる。空想上の理想の女性ベアトリーチェを思うことによる落ち着きや、神的なものと悪魔的なものを結合する「アプラクサス」なる神を見つけたりする。
結局最終的に得る結論が、「自分以外のものに振り回されずに、自分自身に忠実に自分が行くべき道を行き、自分がなすべきことをやれ。」ということだが、それではあまりにあたりまえな気がする。それだけ自分以外のものを理由に生きていることが多いということだろうか。
私自身は自己流で生きるしか方法はなく、他を省みる余裕もないので、この辺りは今ひとつ胸にストンと落ちるものではない。茫漠とした印象だ。
この結論を導くデミアンの母エヴァ夫人の家に集まっている連中も、修行者や占星術師や菜食主義者や道を探求する人々ばかりで、言い方は悪いがカルトのような、道に迷った未熟な人間の巣窟ではないか(偏見)。これではシンクレールに「話していることが古本くさい」と言い放たれた宗教家志望の友人ピストーリウスとどう違うのか。多角的に文献を渉猟しているピストーリウスのほうがまだ好感が持てる。カインのしるしを持つものという条件はイメージ以外になにをさしているのか、読み込めなかった。
このエヴァ夫人とデミアン、シンクレールのラストあたりのやりとりは既に神秘的な領域に入っていて、彼らの生き方のバックボーンが信用できない。また戦争は自然現象ではなく人間の愚行だということに至っていない。
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「ロボットと人間」人とは何か
石黒 浩 著
(岩波新書)
人間そっくりのアンドロイド開発の最先端をいく著者が、ロボットと人間の様々な交流・実験を通じて、人とは何かの輪郭に迫る。
会話中の細やかな表情の変化や手の動きまで表現できるアンドロイド。しかも自立して判断して会話に応えており、人間と相対しているのとほとんど違和感がない。面白いのは会話の成立・継続というものをかなり幅広く余裕を持って捉えていて、必ずしも一つのテーマをお互いの応答で掘り下げていることに限定しない。軽く相槌を打って形式的にでも会話が進行すればよく、実際質問の意味をわかっていなくても良しと見なす。いわれてみれば普段の人間の会話もそんなものかもしれない。
個人的には人間そっくりのアンドロイドでなくても、玩具的なかわいらしいマスコットロボットでも別にいいと思うのだが、アンドロイドであることによって、まさに人の成り立つ条件がわかってくる。
人は遠隔操作でロボットを操っていても、あたかも自分の体を動かしている感覚になってしまうようで、技術の延長・拡大により見えない場所、行けないところも自在に体験できる。しかも直接脳波でそれを実行できるとなると人間の体験に革命が起きる。
あらかじめ決められた動作を行っているだけでも、人はロボットに心を感じる。また、ロボットと話しているときのほうが心置きなく話しやすいなど、納得できる話である。
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「詩とは何か」吉増剛造 著
(講談社現代新書)
過去の鍵となる詩人の作品から詩の姿を見つけるとともに、著者自身の詩作をふりかえって、詩の生れ出る瞬間に肉薄する、迫真の口述筆記。
詩魂もなく著者の作品にも不案内な私だが、めずらしい読書体験を得た。
前半では詩の「様々な姿について」、ディラン・トマスやエミリー・ディキンソン、パウル・ツェラン、吉本隆明、石牟礼道子、啄木、透谷など。知らなかった作家も含めて魅力的に紹介され楽しい。
ところが後半「詩の持つ力とは何か」になると、著者独自の詩作過程、いかにして詩が立ち上がってくるかが語られ、それが音でもあり画像でもあり、はっきりとした形をとる以前のイメージそのものが明らかにされ驚いてしまう。
詩人はみんなそうではないだろうが、墨筆や鏨で紙に物理的痕跡を作って原稿用紙とするところから始まり、極めて微妙ななにもないところから芽生える原初の感覚を見つける。その類まれな創作術が理解できるかといえばそうではないが、なんとなくわかる。いや、やっぱりわからない。
これは多分に口述筆記だからこそ語り得た世界で、整理しすぎない文章だからこその著述だ。自分には歯が立たない。
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「離れがたき二人」
シモーヌ・ド・ボーヴォワール 作
(早川書房)
女性に対してのしかかる伝統的カトリックブルジョア階級の桎梏。唯一無二の友人と生き抜いた若き日の実体験をもとに書かれた未発表作。
友人アンドレ(女性)に対する母親の縛りがあまりに強く、全く自由がない生活に呆然とする。女の人生というものが初めから設計されていて、母から娘へと頑なに生活の些事から結婚に至るまで踏襲されなければならない。
これは違うかもしれないが、母親は自分が儘ならない人生を歩んできた以上、娘にもそれを強要し、娘が自由に生きることを許さない。自分より上の人生を歩むのを引きずり降ろそうとする。これは嫉妬がその理由でしばしばあることと思う。
さてアンドレが恋い焦がれる男性パスカルも、自分のほうから老いた父親の願いを忖度して、婚約を希望するアンドレの思いを伝えようともしない。どちらも自分の人生は親の意思最優先である。これが伝統的な上流カトリック家庭の慣わしなのか。
それにしても何もかもが人格神との対立として把握される考え方に、どうしても不自然なものを感じてしまう。超越的なものに意思がありすぎる。これがキリスト教だと言われればそうなのだが、事態がいたずらに過激なっているような気がしてならない。
伝統的カトリックブルジョア階級の女性に他する抑圧。没落した家庭からスタートし、無神論者でもあるボーヴォワールであればこそ、この問題に気づくことができた。
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「ヴィルヘルム・テル」
フリードリヒ・シラー 作
(幻戯書房ルリユール叢書)
スイス建国の契機となった14世紀の動乱。弓矢の腕をもって悪代官を打ち倒し、民衆を勝利に導く英雄ウィリアム・テルの物語。
テルは確かに勇気と体力に秀でた英雄だが、あまり考えて動くタイプではなく、民衆の会議に参加してリーダーとなるような男ではない。目の前の困っている人のためには命も惜しまないし悪代官には屈しないが、神聖ローマ帝国皇帝には忠信をささげる案外保守的なところがある。
そのせいか3州が悪代官の圧政に反旗を翻し結束にいたるまでの経緯には全く関わらない。したがって物語が進行していく前半には意外にもほとんど登場しない。
この悪代官があまりにも絵に描いたような悪者で、虐げられた民衆には悪人はおらず、屈折した人物といえば男爵の甥が恋に焦がれて祖国スイスを裏切ろうとするが、逆に恋人に諌められるというくらいで、この恋人の女性も登場するや否や正論を説くが今ひとつどういう性格なのかはっきりしない。
かくのごとくこの作品は劇を見るものにあまりにも分かりやすく記号的に設定されており、人物の葛藤や迷い・懊悩などをリアルに描くことは省かれている。そのぶんストーリー本意で進むので楽しく読めるが、肝心のテルは物語の主軸からちょっとはずれたところで弾けている花火のような微妙な存在である。
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「アダムとイヴの日記」
マーク・トウェイン 作
(河出文庫)
アダムとイヴが出会い、お互いの理解が深まってゆく様子をそれぞれの日記を通して描く。ユーモラスで愛に溢れた小品。
「アダムの日記」最初の人類であるから、自分たちや動物たちや周りの世界がなんのためにあるのか二人とも何も知らない。アダムに至っては自分たちの赤ん坊が何なのかわからないし、イヴが泣いているのもわからない。超鈍感でおおざっぱな人間で、馬鹿なのかと思うほどだが男というものはそんなものかもしれない。もっともこれはユーモア小説。
変わって「イヴの日記」の方はうんと細やかな感情や、世界に対する好奇心、実験的な進取の気性に富んでいて生き生きとしている。自然を愛し動物を友とし、地球に生まれてよかった。最初は観察的に見ていたアダムのことがだんだんと好きになり、やがてお互いなくてはならない存在になっていく。その理由はもっぱら相手が異性だからというものだが、それ以上の深い愛が育っていく。
最終ページ。イヴに先立たれた後のアダムの一言が涙を誘う。
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「詐欺師の楽園」
ヴォルフガング・ヒルデスハイマー 作
(白水Uブックス)
小国の財政を救ったのは、不世出の贋作作家による架空の画家の業績でっちあげだった。やがて有名画家となった青年はこの悪事に巻き込まれ波乱の人生をおくることとなる。
実在しない過去の画家をでっちあげて国家ぐるみで高額を稼ぐという着想がそもそも面白いのだが、汽車を止められて車掌に現金を要求されたり、国境沿いの河原でスパイ容疑で拘束されたりと、仕掛けも展開も凝っていて興をそがない。
この天才贋作作家が絵に対して生来なんの愛も想像欲も抱いていないという根っからの詐欺師で、この人物の会話シーンが最も生き生きとしている。画家となった青年は手記を書いている時点で、既に死んだことにされて画業から離れているので、いたって虚無的な語り口だ。
ストーリーはたっぷりとあり、意外な展開が続出するくせに文章自体は落ち着いていて、ややノリが悪い気がするが、これも作者が詩人の資質を持ちながら詩人の高みから降りようとする文学運動の担い手であったからか(解説粗ら読み)、違うか…。
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「象の旅」ジョゼ・サラマーゴ 作
(書肆侃々房)
オーストリア大公への贈り物として、ポルトガルはリスボンから遥かウィーンまで旅することとなった象と象遣い。史実に基づいて描かれたサラマーゴ83歳のユーモア小説。
サラマーゴは以前読んだ「白の闇」の通俗性に比べると、こちらのほうがずっと良い。地の文とセリフが分け隔てなくひと続きで書かれているのも、気持ち良くスラスラと読める。
象と象遣いだけでなく、飼葉や水樽を乗せた牛が引く荷車と人足、護衛は馬で行く胸甲騎兵隊、途中からはオーストリア大公の馬車も加わって重量級の大所帯が、アルプスを越えてゆくのだから史実とはいえ面白くないわけがなかろう。
時代はルターが免罪符批判の張り紙を張り出してから30年。象を奇跡の演出に利用しようとするカトリック教会とルター派のオーストリア大公。その間で微妙な立場のインド人象遣い。これは気苦労だ。
雪中の行軍も死者続出の悲惨なものではなく、全員無事の平和な成り行き。計画されたミッションが功を奏した。ポルトガル領内では隊長、それ以降はオーストリア大公がリーダーとしてよくやっている。ひとつのプロジェクトに挑む一時的な小集団の物語として楽しく読める。
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「十六の夢の物語」ミロラド・パヴィッチ 作
(松籟社)
セルビアの過去から現代を自在に行き来して、まさに夢の中を彷徨う真正幻想文学。珠玉のアンソロジー。
著者がセルビア古典文学の研究家で大部の文学史を上梓しているだけあって、古代や中世の設定などで物語が始まる。舞台はベオグラードや、ボスニア・ヘルツェゴビナ、サラエヴォ。多く登場するギリシャ正教や東方協会などの修道士。それだけでかなりエキゾチックな印象があり非日常の感覚を味わうことができる。ストーリーも直線的でなく簡単に時空を飛び越えたりするので、なにか掴みきれないうちに夢の中に置き去りにされたような読後感がある。以下、少し紹介。
「アクセアノシラス」:修道院の7つの扉。それぞれ鍵番がいて歴代の王の秘密を守っている。扉の中に迷い込んで永遠に彷徨い続ける王たち。王の残した詩作は書いても読んでもいけない。ある修道士はこの作品の現代語訳を命令されるが…。
「ドゥブロヴニクの晩餐」:17世紀初頭、ある修道僧は密かに蜜蝋を使って全世帯の合鍵を作り、他人の家を覗き見することによって魔女の使いを発見する。縛られた魔女の報復は333年後、退却したドイツ軍が岩山に残していった動力車の巨大な車輪によってなされる。
「ワルシャワの街角」:絵画に描かれた楽譜を読み解くことに情熱を傾けた父。多くの譜面を残したが、ただひとつ解読できない絵があった。後年、娘は不思議にも過去に育った実家とそっくりの家を発見するが、その家は左右が逆転していた。そして例の解読できなかった絵画が…。