漫画家まどの一哉ブログ
「恋の罪」
サド 作
(岩波文庫・植田祐次 訳)
サドの適法小説4編を収録。性的なシーンはないものの、美徳や善に対する快楽と悪徳の勝利を描いて読者の興奮をそそる。
サド曰く劇的表現技法の主たるものは恐怖と哀れみであり、それは美徳の不幸でなくてなんだ。というわけでひたすら善意溢れる若者男女が悲惨な目に遭う事態が連続するのだが、これはやりきれない。善意というものは素直なもので、方や悪巧みはさんざん練り上げられているのでまるでかなわない。
キリスト教が美徳とする禁欲的な生き方に対して、肉体的快楽を肯定し放埒に生きる悪徳的生き方。そのどちらが最終的に心の平安を得られるのか。サドの宗教に対する疑義が描かれていて、たしかにその点は読み応えがある。
しかし物語の最後で悪人が破滅するにせよ、そこに至るまでに善人が散々な目にあって死んでしまったりするのであり、その悲劇ばかりが延々と書かれているので読んでいて暗澹とした気分だ。これではなんのために読んでいるのか?
個人的にはついていけなかった。読書に挫折したのだ。
「平等とは何か」
田中将人 著
(中公新書)
不平等の何が問題かから始まり、経済的・政治的不平等が明らかにする現代社会の状況を分析。多数の思想家の見解を紹介しながら目指す、誰もが自尊感情を持って生きていける社会とは。
前半は剥奪・スティグマ化・不公平なゲーム・支配の4つの不平等を解決すべき問題として、ロールズの正義論を背景に展開。詳述しないが違和感なく納得できる内容。その後能力主義が公正か、アファーマティブ・アクションの意義についてサンデルを取り入れながら解説。ここまでは静かな読後感だ。(眠かった…)
後半「財産所有のデモクラシー」という聞きなれない言葉をキーワードに、ピケティを紹介しながら経済上の平等について展開されると俄然面白くなった。資本収益率が経済成長率を上回ることによって格段に進む格差社会。超富裕層とアンダークラス(氷河期世代)の出現など、まさに強いものがちの現代社会の有様がピケティの言ったとおりだ。
これをいかに社会的に公平な世界にして行けるか。課税前所得の平等、事前分配の考え方が紹介される。従来型の福祉政策を越えて、ベーシックインカムやタックスジャスティスの意義を数値的に解説。グローバルな累進課税など難題ではあるが、目指すべきは人間の尊厳の維持である。この点が本書の結論につながる視点だった。
政治上の平等については、世襲議員の多さや女性議員の少なさなど現代日本の状況も含めて、経済的影響力が政治的影響力へそのまま転換している問題。インターネット普及後の扇動的な言説の拡散など、メディア利用の不公平もある。世も末だ。選挙に際してはクォーター制(例えば女性議員の割り当て)やロトクラシー(くじ引き選挙)は自分も賛成である。やってみれ!
ハーデン曰く「遺伝による能力の違い」が「人間としての優劣の違い」であってはならない。能力主義のレースを強いられるまま、結果的に絶望死にいたる人生を選ばないため、我々には複数の価値観が与えられるべきで、すべての人が自尊心を持って生きていける社会が目標とすべき平等な社会である。ここが基本。
「意識の脳科学」
渡辺正峰 著
(講談社現代新書)
脳内データをコンピューターに移すことによって意識を移動。はたしてデジタル不老不死は可能なのか?
たとえば脳内データをそっくり機械にコピーして、その機械にわたしと同じ意識が宿ったとしても、わたしの意識が連続していなければ、それはわたしではない。機械が残っても一度分断されてしまった時点で、このわたしは死と共に消滅する。意識はわたし本人が感じることでしか証明できない。
さて、本書では意識の機能主義を原則とするので、同じ機能があれば必ず意識が宿るものとされる。脳手術などで左右の脳を分離した場合、右脳の視覚情報と左脳の視覚情報は分断されてしまって意識は2つに別れている。ところが健常な脳でも視覚に関しては左右それぞれに意識が宿っていてこれを共有しているのだ。ここを利用して思考実験が進む。
まず片側の生体脳半球を片側だけの機械脳半球と接合(方法の詳述は省略)。またもう片方の脳半球も同じようにして、それぞれつながった脳内で意識が統合される。この状態で機械脳に記憶情報をコピー。わたしの意識は途絶えることなく連続している。機械脳半球で見えている視覚情報が生体脳半球でも確認できるのであればその逆もあり、機械脳半球にもわたしの意識は宿っているのだ。
このあと左右の機械脳と機械脳を接合して、ついに生体を離れた機械のわたしが完成したわけである。やがて生体消滅後もわたしは生き残るわけだが、肉体は無く機械の中にいて歩くことも食べることもない人生のなんと虚しいことだろうか。
(言うまでもなくこの読書日記は神経科学やプログラミングの知識のない私が判る範囲でざっくり書かれています。)
「現代霊性論」
内田樹・釈徹宗
(講談社文庫)
宗教のそもそもの母体となるスピリチュアルな存在、霊性の意義について行われた対談形式の講義録。
内田樹氏がインスピレーションのままにどんどん話を繰り広げて行くが、女性参画社会や靖国神社の問題についてはややズレている気がした。方や釈徹宗氏は現役の僧侶でありながら教授でもあるので、専門的な蘊蓄と落ち着いた語り口で、講義全体が内容あるものになっていた。
霊性というものがやはり共同体の成員全体に関わるもので、現代社会では人間があまりに個別な存在になり、その結果スピリチュアルなものを求めているというのは思い当たる。また、共同体が育んでいた儀礼的な宗教行事の大切さは、自分も(見てるだけなら)好きなので納得がいった。
教義の意味よりは儀礼などのカタチを繋いでいくことで、人間は共同体の成因として安心が得られると思う。これはユングいうところの集合無意識と繋がる話かもしれない。自分は宗教はおおいに世俗化するべきだと考えているので、誰も儲からないうっすらしたものであってほしい。
「老女マノン・脂粉の顔」
宇野千代 作
(岩波文庫・尾形明子 編)
自身の不遇な生い立ちから書き起こした社会派的作品集。6編の初期作品を集録。
よく知らないが後年の宇野千代を思うと意外なほどストレートなプロレタリア文学で、弱者女性の立場から社会の矛盾を断固追求する。編者によるとこれらの作品を、後年作者は無かったことにしているそうだが、これも人気作家の世渡りというものか。
「巷の雑音」:ローンでミシンを買って、これで弟の学費も出せるし故郷で伏せっている父親の助けにもなると、いかにも世間知らずの若者が見る儚い夢。そしてあまりの労賃の安さと、接客業への転身が描かれるが、主人公は社会に負けるつもりは全くないのだ。
「三千代の嫁入」「ランプ明るく」:作者の悲惨な少女時代がモデルだが、この父親のあまりのDV様に唖然とする。家族に快適な思いは絶対させない。家をきれいにすることの禁止から始まって暴力はもちろん、自分が病死する前に家の財産を全て処分して、家族に一銭も残さない。狂気の沙汰だ。
「老女マノン」:巻末のこの作品のみ一転して表現が美しい。「その日から、一日経ち一日経ち一日経ち、それが積もり積もったのにお前もそれからあのお婆さんも、同じように毎朝の化粧鏡に映る自分の顔が昨日と今日とそれからその次に次に無数に続く昨日と今日との間に少しの変わりもないものだと信じながら、つい長い月日を暮らして来てしまったのだ。」
「その闇の中に尻端折った役者たちの細い白い幾本かの脛と入り乱れ、小母さんの、同じように痩せた細い踝(くるぶし)が、大股に忙しく追いぬけて行くのであった。」
「具体⇄抽象トレーニング」
細谷功 著
(PHPビジネス新書)
具体と抽象を行き来する思考の基礎構造を解説。
日常的に具体的な視点ばかりで世界を見ている言わば横の視点に対し、それらを統一する上位の概念、縦方向の視点が抽象的なものの見方である。個別なさまざまな事象に追われているより、一段メタな立場に立って見ることの有用性は言うまでもない。
ところが人間の多数はもっぱら具体的な思考しかしないので、抽象的な見方を理解できない。例えば昨今の短絡的な政治家は目先の効果・利害と比べて、学術の世界の理念的な取り組みを無駄と断じてしまう。また大衆は政策の根幹となっている理念に目が届かず、一度決まった政策には文句を言わずに粛々と従う。
この種の弊害は最近目につくようになってきたので、この本もタイムリーなものだと思う。具体と抽象を行き来する同じことでも、数種類の切り口と図説を使って解説。抽象化とは一つの括りで一旦切り取ることなので、その後具体化に降りてきた場合のトラブルもある。ビジネス書として書かれているが、自分のようにビジネスに無関心な者でも役に立つ。(と、思われる)
「プロレタリア文学セレクション」
荒木優太 編
(平凡社ライブラリー)
小説のみならず実話や読者投稿まで混じえて、労働者大衆へ懸命の訴えを試みたプロレタリア文学の名品数々。
芸術性を二の次にしても資本主義社会の矛盾・真実を伝えるべく闘った作家たち。それでも時代を超えて残るものは、単なるリアリズムに留まらないさすがの芸術性を感じる。第一部・第二部とも印刷製本の現場に関わる作品が多い。この中には編者の企画で、プロレタリア文学の近くで並行していた作家も含まれている。
宮本百合子「雲母片」:巻頭のこの短いエッセイがいちばんみずみずしく、母と少女の穏やかな幸福感にあふれていてよかった。こころ温まる読後感。
片岡鉄兵「アスファルトを往く」:各地に伸びるアスファルト舗装。そこは自動車の極楽、失業者の針の道。ということで何か歌うように散文詩の如く区切り区切り書かれてるが、リズムが悪くて読みにくいことこの上ない。向いていないのではないか?
横光利一「高架線」:工事現場に一時的にできる大きな穴のなかに入り込んで暮らす浮浪人たち。さすが新感覚派というべきか、リアリズムを離れてイメージが広がる絵画的な印象があり、この方法で過酷な現場を描くのは無理ではなかろうか?
大田洋子「検束のある小説」:労働運動家の夫を持つ家政婦の女と、病身でお屋敷に暮らしながらも密かに労働運動を支援する若き淑女。そして浮気を繰り返すブルジョワジー夫の視野狭き妻。この3人が出くわして面白いが、こんな淑女実際にいるかな?
坪井栄「種」:活動家の息子が死んだ後も、名産品を持って地方からやってくる母親。活動家のみんなに心ささしい老婆が可愛らしく切ない。さすがに庶民を描いて温かい坪井栄。
葉山嘉樹「寄生虫」:4歳の娘に巣食って栄養を奪取するにっくき寄生虫。何匹でも引っこ抜いて懲らしめずにおくものか!かなり戯画的に書かれているがこれも一種の韜晦なのか?
「近代の呪い」(増補)
渡辺京二 著
(平凡社ライブラリー)
まぎれもなく西欧化であった近代化。その恵みと失ったものを検証する講演記録。
名著「逝きし世の面影」で近世(江戸期)の日本の幸福な社会を世に知らしめた著者ならではの視点で語られていてさすがだ。昨今オリエンタリズムあれど、どう見たって近代化イコール西欧化であったことは事実。特に人権思想と科学技術への目覚め。
その人権思想が世界人類に普遍的なものと我々は思っていたが、現在進行しているガザ爆撃などを見ると、西欧人の視野はアジア・中東人にまで及んでいなかったようだ。著者も批判するとおり中国現政権は西欧の人権思想を否定しているのだからもっての外である。
悲惨なフランス革命から始まった国民国家。その国民国家と対峙するために大急ぎで幕藩体制から中央集権体制へ変わる必要があったことがよくわかる。これも江戸期ののんびりした幸福な社会を考察した著者ならではの解説だと思った。
「認知バイアス」
鈴木宏昭 著
(講談社BLUE BACKS)
日常生活に潜む思い込みや勘違い。認知のズレを招くさまざまな要因にはどんなものがあるのか?
人間が同時に注意できるものが限られていることや、マスコミ等で多く耳にすることを実際多いと思ってしまうなど、言われればなるほどそうだろうなと思うことばかりで、大きな意外性はないが納得できる。第一印象や自己決定感覚についてもそうだ。
しかし人間はじっくり熟慮するいとまなく、急いでとりあえずの判断をして生きていかねばならない。このヒューリスティックという概念は初めて知ったが、われわれの暮らし方と認知を考える上で基本となる概念だ。つまりどうこう言っても認知のズレは起こらざるを得ないわけだ。
最終章で、今まで実験してきた認知の間違いも、実際には実験時に考慮しなかった原因が現実にはあることなど、省みていて肯ける。長い人類史のなかでつい最近膨大に増えた情報量とその解釈のためのことばと抽象化など、そもそも人間の暮らしには必要でなかった。人は大自然の中で野生的に生きていたのだ。ここが基本。
「冬物語」
シェイクスピア 作
(岩波文庫・桒山智成 訳)
嫉妬に狂った王により命果てた妻。密かに生き延びた幼子。
運命の変転を描く悲喜劇。
嫉妬という主題はかなり多くの文芸作品で目にする気がするが、このシチリア王の嫉妬はかなり極端な設定だ。だんだん疑いの目が育っていくという経緯を経ず、物語が始まるやいなや妻の浮気を決めつける急な展開。妻が亡くなり赤ん坊が捨てられた後に、アポロの神託により妻の無実が証明される。すると王は手のひらを返したように涙ながらに反省するのである。
このわかりやすい前半の設定があって後半、ボヘミア国で生き延びた娘が王子の愛を受けて祖国へ帰るまでの紆余曲折の物語が展開される。面白いのは途中で時のコーラスというものが入り、月日が流れたことを観客に説明するのである。実は王の血を引く娘でありながらそれが証明されず、魔女あつかいされる悲劇だ。
この作品は「パンドスト」という種本があり、これをシェイクスピアが改変してハッピーエンドにしたもの。大衆娯楽として楽しめるかなり単純なものだが、捨てられた赤ん坊の王女を羊飼いと道化師が拾って育てたり、王女の証明にゴロツキ男が一役買っているところが、ちょっとした味付け。ボヘミアに海があっても誰も疑問としない。