漫画家まどの一哉ブログ
幻燈展初日のイベント、山田勇男氏と原マスミ氏による対談「つげ義春とシュールレアリズム」を聞いてきた。つげ義春のシュール作品に対する山田氏の思いといったものを、原氏が聞き役として受け止めていくといった進行だった。
両氏の体験でもあるが、ダリであったりデルボーであったり、若い頃始めてヨーロッパのシュールレアリズムに出会いショックを受ける。だがなぜその作品に自分が感銘を受けるかは、いつまでたっても謎のままで、この解らないというところにその作品が自分にとって大切なものになっている理由がありそうである。
ところがヨーロッパのシュールレアリズムは、やはり我々日本人にとってはその成り立ち自体がリアルではない。我々は普段の彼らの生活を知らない。もちろんシュールレリストたちもけっして裕福であったとは思われないが、生活レベルでの表現となると、われわれ日本人にとってはどうしてもリアリズムではなく、虚構の上での遊戯に感じられてしまう。
翻ってつげ義春作品であるが、あきらかに貧乏な、拭けば飛ぶような紙と木で出来た家を舞台とした、生活のリアルそのものがある上でのシュールレアリズムである。これこそが伝統的なシュールレアリズムの歴史を勉強していても得られない、つげ独自の世界であり、われわれは始めて日本人の生活感に密着したかたちでの無意識を見たのではないだろうか。
無意識というものは無意識故にわからないというのは当然だが、だからこそ作品はわからないままに意味があって、わかってしまえばそれは意識となり作品の魅力は失われてしまう。無意識のわからなさをそのままに漫画として意図的に表現し得たつげ義春の作品世界が、いかにすぐれているかわかるというものである。
というような結論が導きだされた濃密な時間だった。ように私は思った。
両氏の体験でもあるが、ダリであったりデルボーであったり、若い頃始めてヨーロッパのシュールレアリズムに出会いショックを受ける。だがなぜその作品に自分が感銘を受けるかは、いつまでたっても謎のままで、この解らないというところにその作品が自分にとって大切なものになっている理由がありそうである。
ところがヨーロッパのシュールレアリズムは、やはり我々日本人にとってはその成り立ち自体がリアルではない。我々は普段の彼らの生活を知らない。もちろんシュールレリストたちもけっして裕福であったとは思われないが、生活レベルでの表現となると、われわれ日本人にとってはどうしてもリアリズムではなく、虚構の上での遊戯に感じられてしまう。
翻ってつげ義春作品であるが、あきらかに貧乏な、拭けば飛ぶような紙と木で出来た家を舞台とした、生活のリアルそのものがある上でのシュールレアリズムである。これこそが伝統的なシュールレアリズムの歴史を勉強していても得られない、つげ独自の世界であり、われわれは始めて日本人の生活感に密着したかたちでの無意識を見たのではないだろうか。
無意識というものは無意識故にわからないというのは当然だが、だからこそ作品はわからないままに意味があって、わかってしまえばそれは意識となり作品の魅力は失われてしまう。無意識のわからなさをそのままに漫画として意図的に表現し得たつげ義春の作品世界が、いかにすぐれているかわかるというものである。
というような結論が導きだされた濃密な時間だった。ように私は思った。
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映画(mixi過去日記)
「崖」
1955年
監督 フェデリコ・フェリーニ
出演 ブローデリック・クロウフォード他
詐欺師として生きる中年男の話。
「この仕事に家族があっちゃいけない。いつどこへでも動ける身軽さがないと」
やっぱりアウトローは孤独が信条か。画家志望の仲間は、女房に隠して詐欺で稼いだ金を、すべて女房に渡していたが、やがて夫婦仲は破綻する。主人公の中年男も、離れて暮らす娘に偶然出会い、進学のための費用を工面することを約束してしまう。
この進学費用30万リラという金額は、物語の最後に貧しい農家から、聖職者のふりをして贋の宝物とひきかえにせしめる金額35万リラと、繋がってくる。その農家には自分の娘と同年代の足の不自由な健気な娘がいて、その娘に祝福を請われたとき、さすがの詐欺師の良心も動揺を来すのだった。
主人公は、仲間を偽って金を独り占めしようとするが結局失敗。フクロにされて崖下に放り出された翌朝、崖上を通る土地の子供達にかけた声は届かなかった。
というぐあいで、悪人の心も揺れるが、けっして善人にもなりきれないところがイイですねえ。ほんとうの詐欺師は平気でウソをつく人だから、もうちょっとイヤな人間だと思うが、映画ではフツーの人として描かれていた。いやいや人間はなかなかに二重三重の人格を持ってるから、天使でもあり悪魔でもあり。でもこの映画では、ふつうの人間の情けない面が見れてよかった。
ところで群衆のシーンがすごくおもしろいが、これってフェリーニ流なのか?
「崖」
1955年
監督 フェデリコ・フェリーニ
出演 ブローデリック・クロウフォード他
詐欺師として生きる中年男の話。
「この仕事に家族があっちゃいけない。いつどこへでも動ける身軽さがないと」
やっぱりアウトローは孤独が信条か。画家志望の仲間は、女房に隠して詐欺で稼いだ金を、すべて女房に渡していたが、やがて夫婦仲は破綻する。主人公の中年男も、離れて暮らす娘に偶然出会い、進学のための費用を工面することを約束してしまう。
この進学費用30万リラという金額は、物語の最後に貧しい農家から、聖職者のふりをして贋の宝物とひきかえにせしめる金額35万リラと、繋がってくる。その農家には自分の娘と同年代の足の不自由な健気な娘がいて、その娘に祝福を請われたとき、さすがの詐欺師の良心も動揺を来すのだった。
主人公は、仲間を偽って金を独り占めしようとするが結局失敗。フクロにされて崖下に放り出された翌朝、崖上を通る土地の子供達にかけた声は届かなかった。
というぐあいで、悪人の心も揺れるが、けっして善人にもなりきれないところがイイですねえ。ほんとうの詐欺師は平気でウソをつく人だから、もうちょっとイヤな人間だと思うが、映画ではフツーの人として描かれていた。いやいや人間はなかなかに二重三重の人格を持ってるから、天使でもあり悪魔でもあり。でもこの映画では、ふつうの人間の情けない面が見れてよかった。
ところで群衆のシーンがすごくおもしろいが、これってフェリーニ流なのか?
読書
「従妹ベット」
バルザック 作
文豪バルザックの長編小説。主人公のリスベットは、従妹のアドリーヌと同じアルザス地方の村の生まれ。アドリーヌが絶世の美女であるのに比べ、リスベット(ベット)は不器量で、ゴツゴツした感じの女だ。子供の頃からなにかにつけ美しいアドリーヌばかりがちやほやされておもしろくない。ユロ男爵にみそめられ、パリで裕福に暮らす従妹アドリーヌ。かたわらリスベット(ベット)はパリで生計を立てながら、男爵夫人アドリーヌとその一族たちをなんとか不幸にするべく画策する。という珍しく不器量な女を主人公にした復讐劇である。
とはいっても物語の大半はもう一人の主人公というべきアドリーヌの夫、ユロ男爵のあくなき女道楽の行く末が描かれている。ベットと手を取って計画を練り、男たちを翻弄し大金を手中に収めようとする悪女マルネフ婦人。そしてマルネフ婦人に群がるユロ男爵はじめ、成金の実業家クルヴェル、大富豪の貴族モンテス、芸術家のヴェンセスラスなど、懲りない男たち。そんな中でユロ男爵は女のために公金まで横領し、しだいに落ちぶれてゆくのだった。
この小説は新聞連載だったそうで、話がどんどん進んで読みやすいが、そのぶん進展が解りにくい面もあって、というのは物語の後半になってけっこう重要な人物が登場するし、終わりごろに謎の必殺仕事人婆さんが出てくるなど、娯楽本意だが全体の構成としては妙な気がした。
また金の話が頻繁に出て、どの男がどれだけの年金を女に与えられるかが、やりとりの枢要をなしている。さすがにややわかりにくいが、大金だなと思って読めばさしつかえない。
ベットの復讐劇も中途半端で、復讐が挫折することよりも、女たらしのユロ男爵がよぼよぼの爺さんになっても、若い娘に手を出そうとするところを描きたかったようだ。和訳副題「好色一代記」。
「従妹ベット」
バルザック 作
文豪バルザックの長編小説。主人公のリスベットは、従妹のアドリーヌと同じアルザス地方の村の生まれ。アドリーヌが絶世の美女であるのに比べ、リスベット(ベット)は不器量で、ゴツゴツした感じの女だ。子供の頃からなにかにつけ美しいアドリーヌばかりがちやほやされておもしろくない。ユロ男爵にみそめられ、パリで裕福に暮らす従妹アドリーヌ。かたわらリスベット(ベット)はパリで生計を立てながら、男爵夫人アドリーヌとその一族たちをなんとか不幸にするべく画策する。という珍しく不器量な女を主人公にした復讐劇である。
とはいっても物語の大半はもう一人の主人公というべきアドリーヌの夫、ユロ男爵のあくなき女道楽の行く末が描かれている。ベットと手を取って計画を練り、男たちを翻弄し大金を手中に収めようとする悪女マルネフ婦人。そしてマルネフ婦人に群がるユロ男爵はじめ、成金の実業家クルヴェル、大富豪の貴族モンテス、芸術家のヴェンセスラスなど、懲りない男たち。そんな中でユロ男爵は女のために公金まで横領し、しだいに落ちぶれてゆくのだった。
この小説は新聞連載だったそうで、話がどんどん進んで読みやすいが、そのぶん進展が解りにくい面もあって、というのは物語の後半になってけっこう重要な人物が登場するし、終わりごろに謎の必殺仕事人婆さんが出てくるなど、娯楽本意だが全体の構成としては妙な気がした。
また金の話が頻繁に出て、どの男がどれだけの年金を女に与えられるかが、やりとりの枢要をなしている。さすがにややわかりにくいが、大金だなと思って読めばさしつかえない。
ベットの復讐劇も中途半端で、復讐が挫折することよりも、女たらしのユロ男爵がよぼよぼの爺さんになっても、若い娘に手を出そうとするところを描きたかったようだ。和訳副題「好色一代記」。
読書(mixi過去日記より)
「祭りの場」「ギヤマンビードロ」
林京子 作
林京子という小説家は、以前短編をちらっと読んでイイカンジだったので、あらためて文庫本一冊読んでみた。これがメチャメチャおもしろい!
上海での子供時代と、長崎での被爆体験をベースに書かれた短編集。
作者は父親の仕事の関係で、中国上海の雑然とした町中で、中国人の子供達と遊んで育つ。やがて日中戦争が緊迫化したため帰国。長崎県の長崎高等女学校に編入となり、三菱兵器工場に学徒動員中被爆。爆心地から1.4キロの場所で被爆しながら、奇跡的に外傷もなく生き残った。
作品は被爆の瞬間から、がれきからの脱出、焼け野原を彷徨、実家にたどり着くまでや、その後の放射能障害の不安、死んでいった街の多くの人々、そして何年も生き延びた後やはり放射能障害で死んでいく知人達。後年長崎の地を訪れ、あらためて想いをはせることなどが、モザイク的に混じり合いながら語られていく。
とにかく描かれる事実がしっかりしているのがいいんでしょうか。いくら考えを巡らしても追いつかないだけのれっきとした現実。現実>観念という不等式が快適だ。生と死がすぐ目の前に迫る内容で、読みだすとひきこまれる。ワクワクする。こんなの大好き。
「祭りの場」「ギヤマンビードロ」
林京子 作
林京子という小説家は、以前短編をちらっと読んでイイカンジだったので、あらためて文庫本一冊読んでみた。これがメチャメチャおもしろい!
上海での子供時代と、長崎での被爆体験をベースに書かれた短編集。
作者は父親の仕事の関係で、中国上海の雑然とした町中で、中国人の子供達と遊んで育つ。やがて日中戦争が緊迫化したため帰国。長崎県の長崎高等女学校に編入となり、三菱兵器工場に学徒動員中被爆。爆心地から1.4キロの場所で被爆しながら、奇跡的に外傷もなく生き残った。
作品は被爆の瞬間から、がれきからの脱出、焼け野原を彷徨、実家にたどり着くまでや、その後の放射能障害の不安、死んでいった街の多くの人々、そして何年も生き延びた後やはり放射能障害で死んでいく知人達。後年長崎の地を訪れ、あらためて想いをはせることなどが、モザイク的に混じり合いながら語られていく。
とにかく描かれる事実がしっかりしているのがいいんでしょうか。いくら考えを巡らしても追いつかないだけのれっきとした現実。現実>観念という不等式が快適だ。生と死がすぐ目の前に迫る内容で、読みだすとひきこまれる。ワクワクする。こんなの大好き。
読書(mixi過去日記より)
「職業欄はエスパー」
森達也 著
日本を代表する(世間を騒がせた?)3人の超能力者たち。その日常を追ってテレビドキュメンタリーを仕上げるまでの、数年間を描いたルポルタージュ。
筆者森達也は、超能力を信じる信じないについては、あくまでニュートラルな立場で、超常現象そのものを持ち上げる姿勢はとらない。社会派ルポであり、筆者の視点は孤立する超能力者達の悲哀と、かれらをめぐる世間とマスコミの硬直した姿勢への疑問にある。それは、オカルトと称する詐欺まがいの社会悪を糾弾せねばならないという、あまりにも単純な正義の側に立った二分法であり、オウム事件以降のメディアが牽引する、過剰な正義感への嫌悪である。
はじめから超能力自体をまったくの詐欺行為とするなら別だが、ボク自身はそういう社会正義とは切り離して、事実ならば現時点で科学的説明がつかなくても、事実として肯定する。人間の意志(イメージ)だけで、スプーンが折れ曲がってちぎれたとしても、そこにトリックの余地がないならばそれが現実だ。
否定派の教授などは、超能力が科学を全否定しているようにいうが、これは否定のためのレトリックだと思う。森達也も書いているように、スプーンが曲がることがどうしてニュートン力学や相対性理論を排除することにつながるのだろう?あらたな科学的課題ととらえればよいではないか。科学で解明できていないことだってゴマンとあるのだから。
ボクの偏見だが、一般に学者という者は専門領域のみに詳しい人種であって、自分の専門でもって全ての現象にコメントしているように思う。精神医学や脳科学で幻覚を説明できれば、全ての心霊現象はそれだということになり、物理学で否定できれば全ての超能力はトリックだということにされる。
これは乱暴なハナシで、個々の事例にあたってみて、この場合はこういう脳内現象、こういうトリックと完璧に証明していかなければ解明したことにならない。超常現象の95%は錯覚・あるいは意図的なインチキだったとしても、5%なんとも言えない現象が残れば、素直に今後の研究を待てばよいと思う。これはオカルト商法を糾弾することとは別のことだから。
残念ながら超能力者は、社会の正義感により存在をゆるされていないようで、読んでいて途中、殺伐とした気持ちになった。森達也の描きたかったことも、そのナマの姿にあるのだから仕方がない。それでも読了すると社会の一端に触れた満足感は得られた。
「職業欄はエスパー」
森達也 著
日本を代表する(世間を騒がせた?)3人の超能力者たち。その日常を追ってテレビドキュメンタリーを仕上げるまでの、数年間を描いたルポルタージュ。
筆者森達也は、超能力を信じる信じないについては、あくまでニュートラルな立場で、超常現象そのものを持ち上げる姿勢はとらない。社会派ルポであり、筆者の視点は孤立する超能力者達の悲哀と、かれらをめぐる世間とマスコミの硬直した姿勢への疑問にある。それは、オカルトと称する詐欺まがいの社会悪を糾弾せねばならないという、あまりにも単純な正義の側に立った二分法であり、オウム事件以降のメディアが牽引する、過剰な正義感への嫌悪である。
はじめから超能力自体をまったくの詐欺行為とするなら別だが、ボク自身はそういう社会正義とは切り離して、事実ならば現時点で科学的説明がつかなくても、事実として肯定する。人間の意志(イメージ)だけで、スプーンが折れ曲がってちぎれたとしても、そこにトリックの余地がないならばそれが現実だ。
否定派の教授などは、超能力が科学を全否定しているようにいうが、これは否定のためのレトリックだと思う。森達也も書いているように、スプーンが曲がることがどうしてニュートン力学や相対性理論を排除することにつながるのだろう?あらたな科学的課題ととらえればよいではないか。科学で解明できていないことだってゴマンとあるのだから。
ボクの偏見だが、一般に学者という者は専門領域のみに詳しい人種であって、自分の専門でもって全ての現象にコメントしているように思う。精神医学や脳科学で幻覚を説明できれば、全ての心霊現象はそれだということになり、物理学で否定できれば全ての超能力はトリックだということにされる。
これは乱暴なハナシで、個々の事例にあたってみて、この場合はこういう脳内現象、こういうトリックと完璧に証明していかなければ解明したことにならない。超常現象の95%は錯覚・あるいは意図的なインチキだったとしても、5%なんとも言えない現象が残れば、素直に今後の研究を待てばよいと思う。これはオカルト商法を糾弾することとは別のことだから。
残念ながら超能力者は、社会の正義感により存在をゆるされていないようで、読んでいて途中、殺伐とした気持ちになった。森達也の描きたかったことも、そのナマの姿にあるのだから仕方がない。それでも読了すると社会の一端に触れた満足感は得られた。
読書(mixi過去日記より)
「ペール・ゴリオ」パリ物語
バルザック作
「ゴリオ爺さん」という邦訳タイトルでおなじみの、バルザック人間喜劇シリーズ。
19世紀前半のパリの安下宿(宿付き食堂)に暮らす老若男女。貧乏書生の若きラスティニャックは、唯一の手っ取り早い出世の方法として、貴婦人とねんごろになって社交界デビューを志す。これも婚期の迫った妹達に、持参金を持たせてやるためだ。当時のパリ社交界にとって、結婚とはまったく政略的なもので、金と金とを繋ぎ合わせて、よりふくらませるだけのためにあったようだ。結婚はいわゆる事業だから、結婚後の自由恋愛はいくらでもアリという世界。
ゴリオ爺さん(挿し絵参照)も、かつて製麺業で儲けた資産を、すべて二人の娘を社交界に送り出すために使ってしまい、自分はラスティニャックと同じ安下宿で年金生活をおくる身分。そしてラスティニャックが愛人となるのに成功したのが、ゴリオ爺さんの娘デルフィーヌ・ニュシンゲン公爵夫人という設定。
物語の前半は公爵夫人と貧乏青年の自由恋愛のなりゆきが、上がったり下がったりしている話でやや退屈だったが、後半は捕り物もあって、破綻をきたす二人の娘の結婚生活と、娘を助けようとするゴリオ爺さんの苦闘がおもしろい。バルザックはいつも金(手形)の話。
とにかくゴリオ爺さんの二人の娘に対する溺愛ぶりがすさまじく、ぜんぜん子離れできていないです。死の間際まで娘たちへの執心ぶりを見せてくれるわけだが、娘の旦那(レストー伯爵)に「あの父親の性格のせいで、私の妻はあんなふうになり、我々の生活は全て破綻した」といわれる始末です。
ゴリオ爺さんの零落した最期を看取ったラスティニャックは、あらためて社交界への挑戦を誓うのであった。というわけで、ラスティニャックの活躍はまた別の機会に。バルザックの人間喜劇シリーズは、登場人物や背景がみな繋がっているというしかけです。
「ペール・ゴリオ」パリ物語
バルザック作
「ゴリオ爺さん」という邦訳タイトルでおなじみの、バルザック人間喜劇シリーズ。
19世紀前半のパリの安下宿(宿付き食堂)に暮らす老若男女。貧乏書生の若きラスティニャックは、唯一の手っ取り早い出世の方法として、貴婦人とねんごろになって社交界デビューを志す。これも婚期の迫った妹達に、持参金を持たせてやるためだ。当時のパリ社交界にとって、結婚とはまったく政略的なもので、金と金とを繋ぎ合わせて、よりふくらませるだけのためにあったようだ。結婚はいわゆる事業だから、結婚後の自由恋愛はいくらでもアリという世界。
ゴリオ爺さん(挿し絵参照)も、かつて製麺業で儲けた資産を、すべて二人の娘を社交界に送り出すために使ってしまい、自分はラスティニャックと同じ安下宿で年金生活をおくる身分。そしてラスティニャックが愛人となるのに成功したのが、ゴリオ爺さんの娘デルフィーヌ・ニュシンゲン公爵夫人という設定。
物語の前半は公爵夫人と貧乏青年の自由恋愛のなりゆきが、上がったり下がったりしている話でやや退屈だったが、後半は捕り物もあって、破綻をきたす二人の娘の結婚生活と、娘を助けようとするゴリオ爺さんの苦闘がおもしろい。バルザックはいつも金(手形)の話。
とにかくゴリオ爺さんの二人の娘に対する溺愛ぶりがすさまじく、ぜんぜん子離れできていないです。死の間際まで娘たちへの執心ぶりを見せてくれるわけだが、娘の旦那(レストー伯爵)に「あの父親の性格のせいで、私の妻はあんなふうになり、我々の生活は全て破綻した」といわれる始末です。
ゴリオ爺さんの零落した最期を看取ったラスティニャックは、あらためて社交界への挑戦を誓うのであった。というわけで、ラスティニャックの活躍はまた別の機会に。バルザックの人間喜劇シリーズは、登場人物や背景がみな繋がっているというしかけです。
読書(mixi過去日記より)
「第2の江原を探せ!」
(扶桑社)
根付いた感のあるスピリチュアルブーム。江原啓之を信じる人も、頭から全否定する人も、そろそろちゃんと検証する時期に来ているのではないか?
というわけで、気鋭のジャーナリスト5名が、身分を秘してスピリチュアルカウンセリングを体験。16人のスピリチュアリストはホンモノだったのか?
果たして守護霊はいるのか?
このジャーナリストの中に自分の知人がいることもあり、興味津々で買ってみた。
カウンセリングの予約を入れた時点で、住所や職業などを聞かれる場合、あきらかに事前リサーチに活用しているので、先ずインチキ。カウンセリング当日、こちらから与えた情報から、さも霊界からのメッセージのようにこしらえて話す例も多数。また、誰にでも当てはまる「あなたは迷っている」「転換期である」などの常套句で、その気にさせる人もいる。霊視しているようにいいながら、自説・自慢・説教の押しつけで、客をケムに巻くタイプの霊能者もやはりいるようだ。これらはみな格付けが最低点。
ところが相談者(各ジャーナリスト)個人しか知らない事を、こちらから何も言わないのに、当ててしまう人がいてビックリ!名前を聞いただけで、友人の性格までズバリと当てる。明らかに常人ではうかがい知れない特殊な能力を持った人間がいる!
ただしそれが、守護霊がいて霊界からのメッセージかどうかは検証できない。同一であるはずの直近の前世や、守護霊がまるで一致しない。遠い過去の人物の様子ばかり詳細に語られても、思いつきで言ってる風にしかみえない。
自分が思うに、世の中には意識では気付かないほどの小さな相手の様子。呼吸・発汗・体臭・体内電位・脳波状態などを、無意識に感じ取って相手が何者かわかってしまう能力の持ち主がいるのではないか?その延長で過去の出来事まで認識できるかどうかは、なんとも言えないが、即座に霊界を見ているからとは考えられない。
この愉快な企画は今後も継続されるようだから楽しみだ。
書店で社会派ルポのコーナーを探していたが、なんと占いコーナーにあった。やっぱそうか。
「第2の江原を探せ!」
(扶桑社)
根付いた感のあるスピリチュアルブーム。江原啓之を信じる人も、頭から全否定する人も、そろそろちゃんと検証する時期に来ているのではないか?
というわけで、気鋭のジャーナリスト5名が、身分を秘してスピリチュアルカウンセリングを体験。16人のスピリチュアリストはホンモノだったのか?
果たして守護霊はいるのか?
このジャーナリストの中に自分の知人がいることもあり、興味津々で買ってみた。
カウンセリングの予約を入れた時点で、住所や職業などを聞かれる場合、あきらかに事前リサーチに活用しているので、先ずインチキ。カウンセリング当日、こちらから与えた情報から、さも霊界からのメッセージのようにこしらえて話す例も多数。また、誰にでも当てはまる「あなたは迷っている」「転換期である」などの常套句で、その気にさせる人もいる。霊視しているようにいいながら、自説・自慢・説教の押しつけで、客をケムに巻くタイプの霊能者もやはりいるようだ。これらはみな格付けが最低点。
ところが相談者(各ジャーナリスト)個人しか知らない事を、こちらから何も言わないのに、当ててしまう人がいてビックリ!名前を聞いただけで、友人の性格までズバリと当てる。明らかに常人ではうかがい知れない特殊な能力を持った人間がいる!
ただしそれが、守護霊がいて霊界からのメッセージかどうかは検証できない。同一であるはずの直近の前世や、守護霊がまるで一致しない。遠い過去の人物の様子ばかり詳細に語られても、思いつきで言ってる風にしかみえない。
自分が思うに、世の中には意識では気付かないほどの小さな相手の様子。呼吸・発汗・体臭・体内電位・脳波状態などを、無意識に感じ取って相手が何者かわかってしまう能力の持ち主がいるのではないか?その延長で過去の出来事まで認識できるかどうかは、なんとも言えないが、即座に霊界を見ているからとは考えられない。
この愉快な企画は今後も継続されるようだから楽しみだ。
書店で社会派ルポのコーナーを探していたが、なんと占いコーナーにあった。やっぱそうか。
77年春、神経症で人格障害の孤独な毎日だったが、ある日ふと思い立ってひさしぶりに調布の鈴木翁二さんを訪ねてみた。あいにく留守のようでその時はそれで帰り、自分の四畳半アパートでだらだらとしていたその日の夜、とつぜん翁二さんから電話が入った。なんとせっかく描き上げた漫画原稿を飲んでるうちに紛失し、明日の朝までに8ページもう一度描きあげなければならないとのこと。自分は眠かったのでコーヒーを一杯飲んで目を覚ましてから、大崎駅で翁二さんと合流したら「遅かったね」と言われた。
一度新宿かどこかの駅で茶封筒の紛失物がとどけられてないか確認したがムダだった。
京王線で西調布へ。さっそく翁二さん家で作業開始となった。自分はベタやホワイトを手伝い、ところどころ畳の目などを描いたりすると「芸術的じゃないか」などといわれた。お寺の名前をいくつか書かねばならないが、寺の名前知らないか?などきかれた。午前中になると青林堂の渡辺和博氏から進行状況に付いて確認の電話が、おなじみのぶっきらぼうな口調で来る。
やがて原稿完成。疲れた体ながら翁二さんを自転車の後ろにのせて駅へ。電車を乗り継いで青林堂へ付き、近所の喫茶店で原稿受け渡しとなったが、翁二さんはこの期に及んでもこの部分をどうしたかったこうしたかったと仕上がりにこだわっている。実は自分がベタを塗り忘れた箇所があり、それは本を読む少年のズボンなのだが、その意味でトレペ上に追加の指示を入れてもらうと、掲載された誌面では少年のズボンは2色刷りのアカベタになってしまった。それが「むべ咲く哉」という短編である。
青林堂を出て、牧神社にいくという翁二さんと別れた。
(無頼派の思い出1は2010/7/14)
一度新宿かどこかの駅で茶封筒の紛失物がとどけられてないか確認したがムダだった。
京王線で西調布へ。さっそく翁二さん家で作業開始となった。自分はベタやホワイトを手伝い、ところどころ畳の目などを描いたりすると「芸術的じゃないか」などといわれた。お寺の名前をいくつか書かねばならないが、寺の名前知らないか?などきかれた。午前中になると青林堂の渡辺和博氏から進行状況に付いて確認の電話が、おなじみのぶっきらぼうな口調で来る。
やがて原稿完成。疲れた体ながら翁二さんを自転車の後ろにのせて駅へ。電車を乗り継いで青林堂へ付き、近所の喫茶店で原稿受け渡しとなったが、翁二さんはこの期に及んでもこの部分をどうしたかったこうしたかったと仕上がりにこだわっている。実は自分がベタを塗り忘れた箇所があり、それは本を読む少年のズボンなのだが、その意味でトレペ上に追加の指示を入れてもらうと、掲載された誌面では少年のズボンは2色刷りのアカベタになってしまった。それが「むべ咲く哉」という短編である。
青林堂を出て、牧神社にいくという翁二さんと別れた。
(無頼派の思い出1は2010/7/14)
映画
「めまい」 1958年 アメリカ
監督 アルフレッド・ヒッチコック
出演 ジェームズ・スチュアート、キム・ノヴァク
これが有名な「めまい」か。昔の映画は観やすい。
高所恐怖症が話のポイントになっているのだが、そのわりにはさほどふれられていなくて、じっさいめまいのシーンなどほとんど登場しない。それでも主人公がなぜ高所恐怖症になったか、そもそもの事件から始まっている丁寧さ。
前半はキム・ノヴァク演じる妖艶な美人妻の、心霊に憑かれているかのような不思議な行動。いやいやこれはミステリーだから何かわけがあるよ。と思っていると、謎の美人妻はおはなしの途中であわれ塔から落ちて死んでしまう。
これはおかしい、なにか裏がある。という気持ちを抱きながら後半へ。
やはり娯楽作品で、美しいヒロインを登場させるからには、ラブロマンスは不可欠の要素なのだろう。死んだ美人妻そっくりの女が登場し、事件の謎について気がかりなまま、表面上ラブロマンスを追いかけているといった具合。先ず観ているわれわれにヒロインの正体が分かり、その後主人公の男にもバレるという順番で、クライマックスへ。もちろん危険がいっぱいの高い高い鐘楼の上、なんせ高所恐怖症だからな。とはいっても高所恐怖症の克服に悩む場面は無く、主人公は病をやすやすと克服したと思ったらラストは重大事が簡単に起きて、あっというまに終わってしまうのが、昔の映画のあっさりしているところか。おもしろかった。
「めまい」 1958年 アメリカ
監督 アルフレッド・ヒッチコック
出演 ジェームズ・スチュアート、キム・ノヴァク
これが有名な「めまい」か。昔の映画は観やすい。
高所恐怖症が話のポイントになっているのだが、そのわりにはさほどふれられていなくて、じっさいめまいのシーンなどほとんど登場しない。それでも主人公がなぜ高所恐怖症になったか、そもそもの事件から始まっている丁寧さ。
前半はキム・ノヴァク演じる妖艶な美人妻の、心霊に憑かれているかのような不思議な行動。いやいやこれはミステリーだから何かわけがあるよ。と思っていると、謎の美人妻はおはなしの途中であわれ塔から落ちて死んでしまう。
これはおかしい、なにか裏がある。という気持ちを抱きながら後半へ。
やはり娯楽作品で、美しいヒロインを登場させるからには、ラブロマンスは不可欠の要素なのだろう。死んだ美人妻そっくりの女が登場し、事件の謎について気がかりなまま、表面上ラブロマンスを追いかけているといった具合。先ず観ているわれわれにヒロインの正体が分かり、その後主人公の男にもバレるという順番で、クライマックスへ。もちろん危険がいっぱいの高い高い鐘楼の上、なんせ高所恐怖症だからな。とはいっても高所恐怖症の克服に悩む場面は無く、主人公は病をやすやすと克服したと思ったらラストは重大事が簡単に起きて、あっというまに終わってしまうのが、昔の映画のあっさりしているところか。おもしろかった。