漫画家まどの一哉ブログ
「ゴドーを待ちながら」 サミュエル・ベケット 作
あまりにも有名な戯曲ながら、舞台を見たことも無ければ読んだことも無かった。不条理演劇の代名詞という謳い文句はもちろん承知だが、なんだふつうにおもしろいではないか。今まで読んだわずかな小説作品と変わらない。ナンセンスも腰を据えてやりだすとこうなるという気がする。
笑えるか笑えないかは読者が勝手に反応すればよいのだが、コメディやコントの世界は笑えるようにリズムが仕掛けてあるので、安心して笑ってしまうし、笑いのために登場人物もおかしなやつの周りにはちゃんとまともなやつがいる。そういうコメディのお約束はベケットの作品には当然ないのだけど、実際舞台を見れば役者の演技によって笑ってしまうかもしれない。
登場人物は全員おかしなやつばかり。道化役といえばそうだが、それならまったく他人事としてへらへら笑って見ていられるかというと、そんな気はしないのが不思議なところで、どうやらコメディの範囲で描かれるわかりやすい道化ではないようだ。おかしな連中だが、根っこでは我々と同じものを抱えているのがわかるし、それがまた痛々しいほどに不遇だから他人事ではない気がする。そんな人物が筋の通らぬ意味不明な言動に終始していて、なにもかもが圧倒的に思いのままにならない。手探り状態で訳も解らないままこの世界に投げ込まれているカンジ。もうこれは実にわれわれの人生そのものですよ。ああ、なんて不条理なことでしょう。
「サードマン」 ジョン・ガイガー著
雪山や深海・極地・大洋などで死に瀕した冒険家が、ふと自分の他にもう一人の存在に気付く。それは明らかに人間なのだけれど茫漠としていて、少し離れたところから自分を静かに見守っているのだ。この不思議な存在から冒険家は大きな安心と生き残る確信を得てついに生還を果たす。世界各地で数多く体験されている「サードマン」現象。それは守護天使あるいは実在する神なのだろうか。この謎に科学的な知見を駆使して挑んだルポルタージュ。
医学的な立場から言えば、血中グルコース濃度低下や高所脳浮腫、低温ストレスなどの作用で脳が見せる幻影であるとの説がある。また人間は自然界から常に多くの情報を得るようにできているので、大雪原や大海原など極めて変化の少ない、何日進んでも情景の変わらないような単調な環境では、逆に世界をスクリーンとして脳内のイメージを投影してしまうそうだ。
だがそんな過酷な状況でなくとも、肉親の死など強いストレスを受けた場合、「サードマン」は現れる。脳科学的な研究によれば左側頭頭頂接合部に電気刺激を与えることで「サードマン」現象が起きるという。この部分は自分を身体的に認識することや、世界と自分の区分にかかわるという非常に基礎的な働きをする箇所で、いわゆる宗教体験での宇宙との一体感や、症状としてのドッペルゲンガーなども、なんらかのかたちでこの部分の誤作動のようなものであるらしい。
それで思い出したのは、臨死体験の実験で左側頭葉を刺激した時に感じた遊体離脱や、お花畑体験での幸福感だ。臨死体験は死の恐怖を和らげるための脳のシステムであるという説と、「サードマン」現象の安心感は同じものかもしれない。
もっとも「サードマン」に導かれて無事帰還できた冒険家より、導かれながらも死に至った冒険家のほうが多いかもしれないので安心はできない。古代の人間は常に右脳から「サードマン」の導きを受けていて、これが神の存在につながったという有名な説もあるそうで、人間の脳のやらかすことはまだまだ得体がしれない。
「ジュリアとバズーカ」 アンナ・カヴァン 作
短編連作ながら、どれも作者自身の境遇をモデルに描いた共通した内容。テニスプレーヤーとしての少女時代であり、ヘロイン中毒患者であり、その状態のまま車を猛スピードで走らせる車好きであり、世界から疎外されながらも唯一の理解者である恋人との恋愛を語り、その結果としての破局を嘆き、幽霊までも見てしまう。それらの要素が入れ替わり立ち代わり、叫ぶようにたたきつけられ容赦がない。
平穏無事な日常にまったく安住していないところが魅力だ。
カヴァンの作品はたしかに創作なのだけれど、ただならぬ切迫感があって、今にも破滅しそうなぎりぎりの叫びがたまらなく良い。いわゆる日本の私小説は苦悩を描いてみせる作家の作為が読みどころなので、それはそれでおもしろいが、カヴァンの場合私小説に見られるような作為的な余裕がまるで感じられなくて、作者と作品に距離が無い。まさに荒れ狂っている印象だ。
表題作のバズーカというのは常に持ち歩いているヘロインの注射器のこと。だからといってヘロイン中毒自体が直接描かれているわけではなく、あくまで主題は世界に居場所を見つけられない苦しみだ。こんな狂乱を抱えた状態でもきっちりと創作されているのが持ち味というか、持って生まれた資質というものだろう。捨てがたい。捨てないけど。
「消しゴム」 ロブ=グリエ 作
1953年発表当時、ヌーヴォー・ロマンの嚆矢として世界を震撼させた作品とのこと。
未遂に終わった殺人計画、被害者はそれをいいことに自分を死んだことにして姿をくらます。派遣された主人公の特別捜査官は、真相を究明するため被害者の住んでいた屋敷を中心に街中を西へ東へ一日中歩き回るが、手がかりらしきものは何も見つからない。とは言ってもまるで散歩しているような捜査で、切迫した様子はちっとも感じられない。謎は謎のままほったらかしだし、主人公はあちこちで消しゴムを買う。ヘマをした犯人と冷徹なボス。自殺説にこだわる凡人警察署長。一つの事件がいろいろな人間の思惑で解説されるうち、犯行現場に戻った被害者と捜査官が偶然にも未遂事件を完結させてしまう。
といった推理小説仕立てでまことに面白い。語り手も時間も重なり合うように行きつ戻りつ進むので、わかりやすい単線的な時間軸はない。またさほどではないが、人間の主観を離れて客観的事物をそのまま描写する作者おなじみの「視線派」スタイルもある。そういった諸々が発表当時はたいへん新しい試みであっただろうが、現在の我々が読むと、言われなければ気付かないくらい自然だ。人間中心の実存主義に反旗を翻したとされたスタイルも、すでに多彩な表現の一種として認知されているのか、それともその意味を失ったのか。そういう文学史的な役どころに感動しなくても楽しさは充分にあります。
読書
「赤い橋の殺人」 バルバラ 作
150年間忘れ去られていた作家シャルル・バルバラの代表作。
貧窮にあえいでいたクレマンとロザリの夫婦。クレマンは実は無神論者なのだがそれを隠したまま、教会の世話で仕事を引き受け、以来急速に裕福になる。だが二人の精神生活はまるで落ちつきがなく、つねになにかにおびえている様子。それはかつて雇われていた証券仲買人の死が原因していた。彼の犯した犯罪とは?
ミステリー小説の嚆矢とも称される作品で、犯罪の実態が明らかになってゆくところは確かに面白いが、謎解き自体を目的とした作品ではないので、ミステリーの構造はいたって単純・ストレートである。むしろ完全犯罪をなしとげた男が、余裕綽々かと思いきや良心の叫びに打ちふるえる毎日をおくっているところがおそろしい。神を否定する無宗教の男にしてそうなのである。もとより共犯者の妻は精神が疲弊し、身体自体は健康体なのに日々衰弱していく。おまけに生まれた子供が自分達が殺した相手にそっくりであるという恐怖。男の哲学的煩悶が読み応えのある小説になっている。追われるように善行を積むが心の安寧は得られないのだ。
「月と六ペンス」 サマセット・モーム 作
昔読んでたいへん面白く、新訳(金原瑞人)が出たので読んでみたがやはりたいへん面白かった。こんな小説が読みたかったのだ。
かのゴーギャンをモデルにして書かれた話だが、実際のゴーギャンはこの主人公ストリックランドのような人物ではなかろう。創作だからそれはそうだろう。ストリックランドもその妻も友人の画家ストルーヴェも愛妻ブランチもそれぞれ極端に違った個性で誇張されて描かれているので、愛憎劇がすこぶる面白くなっている。
しかしその点では疑問もある。
先ずストリックランドの我が儘で他を省みない野性的な性格だが、それは彼が画家を志す前の平凡な株式仲買人として穏やかな家庭を築いていたときもそうだったはずで、あまりに落差がありすぎて不自然な設定に思える。
また友人の画家ストルーヴェは、お人好しで裏心の無い愛すべき道化としての役どころで、絵は売れるが実に平凡で没個性的なものばかり。ところがこんな男が審美眼だけは秀でていて、いち早くストリックランドの天才性を見抜くのだが、実際そんな背反する能力があるだろうか。まあ、無くはないか…。
ストルーヴェの愛妻ブランチが最初直感的に絶対拒否していた野人ストリックランドに、結局は心奪われてしまって、凡人の夫ストルーヴェを捨ててしまうのは、心配していたとおり(笑)で、こういうことはあるもんだ。
つまりゴーギャンの生涯をなぞってはいるが、話として面白くする為に人物の役どころが誇張されているのでいささかムリな展開もあるのだろう。しかし実に興奮するようにできている。
語り手「かりにあなたにまったく才能がないとして、それでもすべてを捨てる価値があるんですか?ほかの仕事なら、多少出来が悪くてもかまわないでしょう。ほどほどにやっていれば、十分楽しく暮らしていけます。だけど芸術家という職業は違う」
ストリックランド「きみは大ばか者だな。おれは、描かなくてはいけない、といってるんだ。描かずにはいられないんだ。川に落ちれば、泳ぎのうまい下手は関係ない。岸に上がるか溺れるか、ふたつにひとつだ」
これこれ、これですよ!
ちなみに自分はゴーギャン大好きです。
「アレクサンドル・プーシキン/バトゥーム」
ミハイル・ブルガーコフ 作
ブルガーコフの戯曲2題。歴史的英雄に捧げられた作品で、しごくまっとうな内容であり幻想味やSF的な道具立ては無い。もっとも「バトゥーム」の英雄とはスターリンだが。
「アレクサンドル・プーシキン」:プーシキンは若くして国民的人気を勝ち取っていたが、夫人の愛人問題を理由とする決闘で命を落としてしまう。この作品にはプーシキン本人は登場せず、決闘に至るまでのいきさつと周りの人々の動揺が描かれている。
海外文学を読んでいると、夜会などでよく詩が朗読されるし、有名な詩作品が国民に愛誦されているが、こういう詩の大きな役割が実感としてよくわからない。この作品ではプーシキンの死に際して暴動まで起きている。
「バトゥーム」:バトゥームとは若きスターリンが革命家として活動を開始した土地。何故かブルガーコフはスターリンとは親交があったようで、革命後、芸術家として食っていく道をいろいろと頼み込んでいたそうだ。さすがに大革命の指導者だけあって、若い頃のスターリンはただものではない頼れる男である。といったオハナシ。
「春風夏雨」 岡 潔 著
戦前・戦後を生きた高名な数学者はなにを語るか?
戦争が始まって、死なせるには惜しい若者が、それも良いものからどんどん死んでいく。これではいけないと思ったが、世の中言える雰囲気ではない。戦後は進駐軍の持ち込んだ3つのS(セックス・スクリーン・スポーツ)によってこれまででは考えられない学生が増えてきた。そこで著者が数学以外のよりどころにしたのが、光明主義という仏教思想である。自我を第一に尊重する世の中だけど、それは本能のままに支配される無明の状態であり、われわれは小我を乗り越えて真我の境地に至らねばならない。云々…。
だいたい仏教思想をその特有の用語で語られても、とりあえず仮に頭で理解しておくくらいが関の山で、実際修行でもしてみなければ否定も肯定もできないものだ。岡潔の熱弁も否定はしないが、読み物としてはとくに面白いものではない。
それよりやはり天才数学者の少年期や留学先のパリでの思い出、奈良女子大の教師生活、寺田寅彦の噂話などのほうが野次馬かもしれないが読んでいて愉快だ。どこかのお寺に「無明の間」を作ってそこにピカソの絵を置き、となりを不動明王の間にして、ピカソの無明を抑え込むとか、妙なこと言う。
「異本論」 外山滋比古 著
本(読書)に関する雑多なエッセイかと思って読みはじめたら、豈図らんやしっかりした論考だった。しかもテーマはたったひとつだ。
古典として現代も読み継がれている作品にしても、書かれた当初から古典として認められていたわけではない。何年もの歳月をかけて、様々な時代時代の解釈がなされ、その時代なりの改編が行われ、異本が生まれる。その異本によって作品は読み継がれるものになっていくのである。何十年、何百年と忘れ去られていても、ある時代にふと取り上げられて、読み直される。その時代の人間がその時代なりの読み方に気付いたのである。そこで新しい異本が生まれ作品は古典となるのだ。後世の人間が新しく解釈できる幅を元々その作品は持っていたのである。文学研究など原点主義にこだわるばかりに、異本全てを誤りとして取り去ってしまうと、研究成果はたいへん貧しいものになる。異本を軽んじる事勿れ。古典は時代をかけて作り上げられるものなのだ。
というようなことを12もの小論の形をとってまとめてあるのだが、中身はほとんど同じで、一つ読めば充分である。
「ポロポロ」 田中小実昌 作
作者の実家は港町の丘の中腹にある独立系の教会で、「ポロポロ」というのは「パウロパウロ」のことだ。祈祷会の参加者は皆それぞれ勝手な、言葉にならない言葉で祈りをあげていたというから、かなり珍しい子供時代体験だ。
その子供時代の話は1編だけで、短編集のほとんどは戦争末期に出征した中国大陸での話。もっとも戦争はすぐ終わり、作者は1年あまり大陸で帰国を待つ身ではあったが、なにしろアメーバ赤痢やマラリアなど病気を抱えた栄養失調の兵隊で、半分は伝染病棟での生活だ。よく生きて帰ってきたものだ。死を覚悟するような悲壮感がまるでなかったそうで、切迫した考え方をしない楽天的な性格がよかったのかもしれない。
そのせいか作品としてはコクがないというか、虚無がないというか、ひょうひょうとしすぎていて、もの足りない感じはした。俘虜記はやはり古山高麗雄がオモシロイ。
だが作者は何を語っても物語になってしまうその嘘くささが嫌だったようで、ほんとうの行軍や病棟や戦友の死が、書いたとたんに物語となり、事実から離れてしまうことにいら立ちを覚えている。ひょうひょうとしているからと言って、この潔癖さ。なんたる真面目な人間かと思った。