漫画家まどの一哉ブログ
颱風(タイフーン)
レンジェル・メニヘールト 作
(幻戯書房)
20世紀初頭、パリに集う日本人たちとある事件をめぐるいかにも日本人的な対応。黄禍論高まる中で書かれたハンガリー作家による大ヒット戯曲。
国民が利己主義を捨て、国家のために犠牲となることを厭わない美しき民族。とてもじゃないが野蛮な西欧文明国家ではありえない特別な国。異国の中にあっても世界に目をふさぎ、日本スゴイの自己陶酔に酔いしれる。集団主義で精神主義。そんな日本人がまとまって登場。
いかにも誇張されているとはいえ、相も変わらぬ日本人の有様はまったく的確で、ヨーロッパの辺境、アジアに近いハンガリー人にもこんなにも的確に把握されているとは。その意味では日本人は当時から奇妙だがわかりやすい存在だったのではないか。
芝居自体はたいへん面白く退屈しないようにできております。
「会いに行って」靜流藤娘紀行
笙野頼子 作
(講談社)
笙野頼子が心中、師と仰ぐ藤枝静男を語る熱き思い。私小説の極北である「田紳有楽」を中心に、これがなぜ私小説なのかしだいに明らかになっていく。この論考自体が私小説。
藤枝静男は私にとっては「田紳有楽」と「空気頭」の作家で、その他私小説作品群にはついていけていない。この2作だけで自分的には得体の知れない天才作家である。その藤枝について奇才笙野頼子が語るのだからこれはもう期待せざるをえない。
ところが前半はもっぱら藤枝が師と仰ぐ志賀直哉と、論戦を張った中野重治の話に終始し、藤枝が志賀をかばう様子や「暗夜行路」についての分析にページが費やされる。違うんだ、志賀直哉はべつに興味がないんだ。ましてや中野重治についてもどうでもいいんだ。
後半ようやく「田紳有楽」と笙野本人の作家生活が絡んできて、台風直撃の最中うんうんいいながら筆が進み出すとまことに面白く、これこれこれだよ、この自由自在に炸裂する文章。これが読みたかったんだ。
しかし本当は私にとっては「空気頭」が最重要作品なので、もっと取り上げてほしかったな…。
「カフェ・シェヘラザード」
アーノルド・ゼイブル 作
(共和国)
ポーランドからナチの手を逃れ、ソビエトからも脱出したユダヤ人たち。メルボルンのユダヤ人街でカフェに集う古老達の凄絶な体験記。
ホロコーストを逃れたユダヤ人達がまさかオーストラリアで集い暮らしているとは知らなかった。この時代のポーランドやリトアニア、ソビエト政権の間で右往左往させられるユダヤ人達の物語は、今までもいろんな小説で読んできたが、この作品でもなかなかに複雑でわかりにくい。なかでもソビエトの動きにより奴隷だったり同士だったりするところなど変化も激しい。
近年有名な杉浦千畝の働きでポーランドを脱出。延々シベリア鉄道に揺られ、ウラジオストクから敦賀を経て神戸に至った人々の話は新鮮だった。シベリア鉄道では案外上客として丁寧に扱われ、神戸でもオペラを見に行くなど、ゆとりある暮らしぶりである。これは意外だった。
「水晶の夜」という言葉は知っていても、恥ずかしながらナチスの暴政が本格化する以前のポグロムについてはよく知らなかった。これもひどい惨劇だ。
大きな歴史の中の細かい揺れ動きをよく理解していなくても、個々の人物の抵抗と戦い、偶然の助けもあって生き延びていく激動の連続はあまりに面白く目が離せない。引き込まれるように読んでしまう。古老達の思い出を聞き取る若き語り手が、ときどきクッションとなって我々を現代に引き戻してくれる。
「砂漠が街に入りこんだ日」グカ・ハン 作
(リトルモア)
韓国出身の若き才能が母語を離れフランス語で書いた様々な人生の営み。日常と非日常の間を行き来する短編集。
オビ文にあるような「鮮烈、絶賛、大事件」とまでは思わないが、文章の瑞々しさのせいか読んでいて快感がある。なぜおもしろいのか不思議だったが確かにおもしろい。どの短編も日常あるあるや人生の共感を求めるものではないところが、個人的にはいい印象だ。
幼い頃から数台のテレビ・ラジオつけっぱなしの環境で育ち、イヤホンで唯一の聴覚を得る女性。いつのまにかホームレスとなり、使われなくなった高い塔の上から街の様子を見下ろして暮らしている男。
その他よく読むとどの作品もアイディアルで着眼点がおもしろく、ただ市井の人々をそのまま書くというところがない。平凡な人生もなかなかに非凡なのだ。
「工場」小山田浩子 作
(新潮文庫)
ひとつの街に匹敵する巨大工場。与えれた仕事はシュレッダー、文字校正、コケ観察など…どこか納得できないまま繰り返される不思議な日常。
大きなくくりでカフカ的と言ってしまえばそれでもいいんだけど、この微妙な違和感をおもしろく描くにはやはり技が必要で、この作者の場合すごく読み易い日常感たっぷりの素直な文体がいいのだろうと思う。
大きな河をまたいでバスが走る、住宅もショップもあちこちに点在する巨大工場。併催の作品でも職場のリアルがあれこれと繰り出されるが、こういう日常はこのありえないほどの大工場という設定に放り込むと、たちどころに逆転して謎めいてくる。
やってる仕事は大きな流れの中のごく末端の不毛感漂うもので、それでも繰り返される毎日はありがちな我々の労働現場に他ならず、おなじみの倦怠感はあるのだが、河をまたぐ大きな橋まで歩いてそこにしか生息しない真っ黒な鳥の群れを見たりすると、異世界に投げ込まれていることに気づくという按配だ。
「鷗外先生」永井荷風 著
(中公文庫)
師と仰ぐ森鴎外の歴史小説と死語の顕彰について。愛した向島・玉の井ほか浅草などの街の変遷。若いころの文壇デビューや上田敏との交流を描く「書かでもの記」など荷風随筆集。
娘の森茉莉が初めからしっかり計画したままに書かれていて面白さに欠けると評する鷗外。後期の歴史ものについて「渋江抽斎」など確かに大衆ウケはしないだろうがその魅力を解説。いかに歴史そのままに書いたにせよ、朝露に濡れる蜘蛛の糸などのちょっとした描写をはさむなど、鷗外の文章が魅力溢れるものになるのは当たり前な気がする。
「玉の井見物の記」「寺じまの記」など路地をウロウロ歩いて、二階家の女たちからチョイトチョイトと声をかけられお茶だけ飲んで帰るが、路地の別れ角に「ぬけられます」の灯りが見えるなど、寺じまとは我々にはおなじみ滝田ゆう「寺島町奇譚」の舞台である。「寺島町奇譚」と「濹東綺譚」についてはたぶん誰か書いていると思う(知らんけど)。
「書かでもの記」:歌舞伎座座付き作者目指して下働きにはげむ様子など意外な感がある。広津柳浪へ弟子入り志願の顛末。上田敏は若手である荷風への友情など、けして偉ぶらない実にいい人だ。
別に文庫巻末では谷崎潤一郎・正宗白鳥の自作への評価について、多大なる感謝を掲載。老いて孤独に暮らす荷風の晩年を迎える心情がありありとわかる。しかし正宗白鳥と同い年である。
「旅に出る時ほほえみを」
ナターリヤ・ソコローワ 作
(白水Uブックス)
体内に人工血液が流れる金属怪獣その名も「17P」。開発者を乗せて地底深く突き進み地下世界の組成・構造を明らかにする。しかし国家は文化・芸術を支配する俗悪なる独裁体制へと向かっていた。1965年発表のソビエトSF。
登場人物で固有名詞で語られるのは若き女性ルサールカのみであり、あとは「見習工」「総裁」「作家」などと呼ばれ、主人公に至っては「人間」である。
怪獣は言葉を話すように設計されている心やさしきいい奴である。この金属怪獣の仕組みについてはあまり細かいメカニズムには触れずに、ナンセンスな風合いを楽しみながら読める。独裁政権の成立により文化人や研究者が迫害されるディストピア小説ながら、とぼけた味わいがちょうど良くて楽しい。とは言ってもいたって悲しい話。
ソビエトでの作品なので労働運動を弾圧しようとする資本主義独裁国家の恐ろしさが風刺されているのだが、実際は当時のソビエト政権自体が悪しきそれだったわけで、この辺の文化政策的事情はよくわからない。俗流独裁政権がインテリゲンチャを嫌うのは昨今の本邦と同じ。
「トートロジー考」内島すみれ漫画評論集
内島すみれ 著
(北冬書房)
つげ義春・つげ忠男・菅野修・うらたじゅん等、「ガロ」「夜行」の作家を論じた本格的な漫画評論集。おそらく漫画評論史に残る記念碑的一冊。
ここで取り上げられた作家・作品のほとんどを知っており、また記憶しているので楽しく読むことができた。
巻頭「つげ義春論」の中の「夜が掴む」で主人公の男性を掴みに来る夜が、じつはこの男性自身ではないかとの指摘に気づかされるものがあった。なるほど幻想や妄想は明らかに脳の作用であるならば、それは必ず自身由来のものであって、これこそが螺旋でありトートロジーではあるまいか。人生は常に螺旋的なものではないだろうか。
北川由紀子は4作しか発表しなかったが自分の好きな作家で、こうやって解読されてみると、語られていること自体はわかりやすくある種典型的な言葉で語られているが、その生と死のテーマを読むよりも作品からにじみ出る風合い・固有の時間が魅力的で、漫画の楽しさはそこにある。評論されてみると案外多くの作品がありがちなセリフやテーマを使っている印象があるが、作品解読の第一歩はそうなるものかもしれない。
男性性・女性性とそのシンボルに注目した読み解きは著者の一貫した姿勢で、多くの作家にその印を発見することができる。ここにも案外典型的で類型的な縛りがあるが、漫画家といえどもこれは逃れられない自動的な作用である。
安部慎一は完成された私漫画の周辺に、まさに安部慎一的なものを描き散らした作家であるから、作品を越えて自分がある。平面的な作画によるリアリティのなさはそんなところから来ているのかもしれない。しかしそれが効果的で、もし劇画的な立体感があれば筑豊漫画などつまらないものになっただろう。
菅野修は作品数が多いので追っていくのもたいへんだが、ストーリーを組むこととは別に無意識にあることが自然に出てくる稀有な作家なので、著者の手によって補足されるとそこが明らかになって面白い。特に「筋子」はあの混沌が順に解かれていって、あらてめてゾッとする内容である。
「フラッシュ」或る伝記
ヴァージニア・ウルフ 作
(白水Uブックス)
詩人エリザベス・バレットの波乱の人生を共に生きた愛犬、コッカー・スパニエルの「フラッシュ」。彼の眼を通して語られる犬と彼女の心通う物語。
詩に疎い私はエリザベス・バレット・ブラウニングも夫のロバート・ブラウニングも知らなかった。犬を飼ったこともないが、動物と人間の心がひとつになっていく様子が、もちろん作家がそう書いているのだが心温まる。本来なら野山を駆け巡りたい若きフラッシュが、ロンドンの薄暗きバレット嬢の寝室で暮らすことになるや、戸外への関心を失って主人の心に寄り添っていくのが、なんと健気なやつかと哀れみを誘う。
やはりフラッシュが裏心なくかわいいので、直接詩人の伝記を読まされるよりは楽しく読める。作者はほんとうは詩人の伝記を書きたかったようだが、この動物小説ならではの楽しさが貴重だ。
「アカシアは花咲く」デボラ・フォーゲル 作
(松籟社)
モンタージュの手法で書かれた独自のイディッシュ文学。ポストシュルレアリスムの実践。きらめくモダニズムの世界。日本翻訳大賞作品。
小説といえばそうだが、詩魂なき私としてもとりあえず散文詩として把握する。散文芸術。
誰か主人公が街を歩くわけではなく、ひたすら作者の視点で世界が描写される。ショーウインドウ・マネキン・トルソー・コンクリート・アスファルト。この道具立てと立体的な構成はまるで未来派のようだが、モザイク的な方法で組み合わされた一連の散文を追って、意味をつかんでいくことは正確には難しく、イメージに浸って絵画的な世界を味わうことも、そう簡単にはいかない容赦のなさがある。
唐突なコラージュは一見シュルレアリスムのようだが、確かに全く違うもので、作家の人間性を離れたもっと叙事的な感覚だ。
少し慣れてくるとけして難しいものではなく、我々の人生を構成する有機物や無機物の物質性を丁寧に噛み砕いて、ひとつひとつ人生を確認していく。この感触、この肌感覚に慣れれば楽しめるかもしれないが、かなり好悪が分かれるかもしれない。
「鉄の魂。平行に走る幸せなレールの魂。ネジとバネが痛々しく作動する上にある、集中して澄んだ、素晴らしい機械の魂。鉄の魂を持つ人間は、生の柔らかくてあやふやな風景を突っ切って進み、運命の暑苦しい諸事に巻き込まれることはない。」
「この金属製のざわめきは、物質のメランコリックなブロンズのうえに襞を作って横たわっていた。ビロードの観照的な黒の上に、そしてテラコッタ製の商標のついた物思いにふける物質のうえに。」