漫画家まどの一哉ブログ
読書
「戦いの後の光景」フアン・ゴイティソーロ 作
(みすず書房 1996年)
移民で溢れかえるパリを愛し、少女との裸の交流を妄想する主人公。細かいエピソードがモザイク状に折り重なる奇作。
1982年、パリ郊外の町ではしだいに移民が溢れて、知らない文字や言葉が飛び交うようになり、従来からの住人はもはや少数の側になるかの勢い。そんな町で暮らす男は、引きこもる妻とは別居同然の毎日で、ハツカネズミをポケットに忍ばせながら公園に出かける。神父を名乗り幼い少女達と交流を重ね、いやらしい裸の写真を撮るためである。そして家ではひたすら少女に裸身を責められる妄想を綴っているのだ。
全体像はごく短いエピソードを切れ切れに章立てした構成の間から立ち上がってきてわかるのだが、直接関係のない話題も挟まれており入り組んでいる。
それがわかりづらくて苦痛かというとそうではなくて、この自由な書きっぷりを追うのがだんだん楽しくなってくるから不思議だ。少数民族解放運動の地下組織とのあらぬつながりを疑われたりもして、面白く仕上げてある。
読書
「軋む心」ドナル・ライアン 作
(白水社EXLIBRIS)
アイルランドの田舎町で起きた殺人と幼児誘拐。街に暮らす21人のモノローグで事件のありさまがしだいに浮かび上がる。
会社経営を引き継いだ御曹司は資金をドバイの不動産に投資して会社を倒産させてしまうが、社会保険料を払っておらず社員などいないことになっていた。多くの失業者が苦闘する中で皆の信頼を集める青年は仕事を立ち上げようとするが、家には財産を散在して使い果たした父親がいて全てを冷笑するのである。
やがて父親は殺され、それとは別に保育園から幼児が誘拐される。
一人ずつ順不同のモノローグにより事件が次第に明らかになる仕掛けで、不景気にあえぐ田舎町の人々の鬱屈した心境が浮かび上がる。犯罪が明らかになってゆく過程はミステリーを読むような面白さがあり、すべて口語体なので読みやすいが、名前だけを記憶して21人もの語り手の人間関係を把握するには努力がいるので、そこがやや難点である。
読書
「オネーギン」プーシキン 作
(岩波文庫)
オネーギンは才ある青年でありながら、タチヤーナの求愛に真剣になれず無碍に断ってしまう。その後友人との決闘沙汰を起こし、行くへ定まらぬ人生の果てに、今度こそタチヤーナを愛そうとするが…。
19世紀文学の舞台となる恵まれた貴族社会にあって、多方面に才能があり社交界でも人気の青年が、やがてなにもかもに興味を失い虚無的な態度に傾いて行くのは、小説の上でも実際にもよくある現象だと思う。
このような主人公がやがてどのような大人になって行くかまで書かれることはあまりなく、青年のうちに破滅する役割が文学史上の通例だ。
プーシキンは自身が活動的で派手な人生を送るタイプであるからか、この作品の語り口は非常に面白く飽きさせない。一語一語が魅力的で、数行追うだけで興奮してしまう。まさに登場人物が時代を飛び越えて我々に迫る出来栄え。ひょっとしたら原文の韻文を現代語訳して散文に置き換えた効果というものがあるのかもしれない。
読書
「日本蒙昧前史」磯崎憲一郎 作
(文藝春秋)
高度経済成長後の70年代日本。グリコ・森永事件や大阪万博、五つ子ちゃん誕生から横井庄一さんまで。混乱を極める実際の様子を追って、行方知らずの日本の蒙昧に至る。
当時私がマスコミから伝わってくる範囲でよく聞いた事件ばかりだが、その内幕を知ると一筋縄ではいかない迷走ぶりで、なるほど現実とはこんなものかと納得がいく。五つ子ちゃんの山下さん一家もたいへんだが、大阪万博の立ち上がりのいいかげんさは、今も昔も変わらず、いかにも日本人らしくて驚いた。そしてジャングルに一人残された横井庄一さんの孤独はあまりにも辛い。
ところでこの作品はこれでもフィクションであり小説なのだ。たしかにノンフィクションやルポルタージュ小説とは明確に味わいが違う。書かれていることは事実であって、問題を定義するわけでもなく、おおげさに秘密を掻き立てるわけでもない。しかしこれが小説となると非常に珍しいなんとも不思議な感触がある。
「神保町「ガロ編集室」界隈」
高野慎三 著
(ちくま文庫)
激動の60年代につげ義春・林静一・滝田ゆう等革新的漫画を次々と生み出した「月刊漫画ガロ」。編集部の5年間をふりかえった一冊。
この時代の情況の持つ大きさがいかに現代と違うかがわかろうというもの。70年安保反対・反ベトナム戦争・学園闘争など高度成長の歪みや矛盾を体感せざるをえない中で、若き「ガロ」の作家も当然この情況を共有していた。切迫した情況が革新的作品を生んだ。ということが、やはりあるのだろうか。
情況的には現代の若者の抱える社会的困難も、当時に比べてけっして小さなものではないはずだが、社会的共有感が違う。今の若者は社会的存在の意味を知らず、第一に自分個人の生き方の問題としてとらえる傾向を感じてしまう。
漫画のみならず映画や音楽において著者の興味や交友関係の広さ・多彩さに驚くが、逆に見ればごく趣味的な狭い範囲のつながりであったかもしれない。それは著者が「ガロ」を離れて北冬書房「夜行」を刊行して以降さらに色濃く、やはり「ガロ」時代とは違った才能が集まってきたように思う。
ここからは私事であるが、私が読者として「ガロ」と出会ったのは「カムイ伝」が終了する頃でありまだ著者が編集していた時代だ。そして私が投稿、及びデビューする頃には担当は南伸坊氏であった。その後なぜかほんの数回北冬書房の催しに参加したことがあり手元に写真が残っている。つげさんやシバさんをはじめ、清順監督や一衛先生が写っているものである。
「架空」創刊後はよく出向くようになった次第であります。
「魔法の樽」マラマッド 作
(岩波文庫)
ニューヨークやイタリアを舞台に底辺で商売に生きる人々を描いた珠玉の短編集。その多くが不遇なるユダヤ人。
ドラマ性の濃い短編ばかりで、面白くすることに躊躇がない。文章自体はごくわかりやすいもので、登場人物の言動がそのまま伝わればいい書き方。映画やテレビドラマを見ている感覚で読める。作者の両親がユダヤ移民で雑貨店を営んでいたので、同じような設定が多く出てくる。破滅に至らないまでもうまくいかない人生の悲哀を描いて悲しい。
「天使レヴィン」:人生の危機に際して、信仰心厚い男は神に祈るが、現れたのは黒人の天使だった。なぜ黒人かというとたまたま順番がそうだったから。この天使と自称する男の言い分を信じていいのだろうか。
「ほら、鍵だ」:若きイタリア史研究者一家がローマに移り住んで住まい探し。予算もなく、なかなか条件に合う物件にめぐり合わないでいるところ、フリーの不動産仲介業の男にふりまわされる。喜劇であり悲劇であるがなかなかにリアル。みな大変だ。
「請求書」:マンション管理人の男は、向かいにある老ユダヤ人夫婦が営む雑貨店でツケで買い物ができることに気付き、おおいに買い物するがいっこうに支払う様子がない。全く無計画な男。いったい何がしたいのだろう。
「エドウィン・ドルードの謎」
チャールズ・ディケンズ 作
(白水Uブックス)
絶筆となった未完の長編。ある日忽然と姿を消した青年の行方を追って、虚実入り混じる著者渾身のミステリー。
殺人事件の犯人と思しき男の異常な性格が次第にあらわになり、いよいよ得体の知れない探偵登場というところで終わっているのだが、それでも細かい活字の新書本で400ページ近くある本格長編小説。
未完とはいえここまでがあまりに面白く、さすがにただのミステリーではない。その登場人物のなまなましさたるや、悪人および卑小・下劣な人間を書かせたら文豪の中でもディケンズは抜きん出ているかもしれない。
甥っ子に異常な愛を注ぎ、若い娘には一方的な恋情を寄せるアヘン中毒者の聖歌隊長。子供に石を投げつけられても平気の、頑健な風来坊の石工の男。薄っぺらな名誉と支配欲に余念がない町長。正義漢だが血気盛んで直情的なため、犯人と間違えられてしまう青年。冷静なその妹。カタブツだが着実に少女を救うべく手を打つ老法律家。その他石投げ不良少年やアヘン密売女など、善悪入り乱れてこれでもかとばかりに色濃いキャラクター揃いの、不滅のエンターテイメント。これぞディケンズ。
「ポオ評論集」
(岩波文庫)
怪異幻想小説の書き手であるが、いたって理論的で明晰な方法論を持つポオが、同時代の文芸作品を論評。ただしかなり気を使っている印象。
いろいろな雑誌を渡り歩いて生活の糧としていたポオの文芸評論。雑誌連載なので、構えることなくその時のノリを大切に書かれたようで、楽しんで読むことができる。ディケンズやホーソーンの仕事に対しても、タイトルの付け方がどうだとか、あの人物は殺してしまわない方がよかったとか、直截なコメントが楽しい。
一方ワーズワーズの仕事を批評しながら、詩の詩たるいちばんの由縁を解説。事実でも道徳でもなく、審美眼に足るものでなければならないことを縷々説くがもっともな内容で、散文とは違う詩のあり方が納得できるというもの。そしてポオがまったく冷静でロジカルに詩作品を作り上げていく実例が「大鴉」を題材に解説されている。
「ブラス・クーバスの死後の回想」
マシャード・ジ・アシス 作
(光文社古典新訳文庫)
名家の生まれながら何事もなしえなっかた人生を、死んでから作家となって振り返る。19世紀ブラジル文学。
カバにさらわれる幻想。自分が死んだところから始まるなど、いささか奇妙な味わいはあるが、自伝文学の体裁をとって少年の頃より追って行きだすと、どうしてもよくある読書感覚になってしまう。
ところが作者も心得たもので、ごく短い章立てが160章まであり、しばしばエッセイのように気軽に書き手である現在の主人公が顔を出すので、読むほうも気がまぎれる。そうやって読んでしまうが、この登場人物に財力があるおかげか、あまり切迫した事件はなく、おもしろいのは密かに進む不倫のスリルぐらいだ。
この作品はそれまでのブラジル文学の画期となる記念碑的作品で、作者がブラジル文学史を代表する所以でもあるらしいが、今われわれがそれを知らずに読む限りでは、そこまでのいきさつはわからない。肩の凝らない純文学といった印象だった。
「巫女」ラーゲルクヴィスト 作
(岩波文庫)
ギリシャのデルフォイ。アポロン神殿が見える丘に一人住む老女が語る、巫女として神に仕えた運命と格闘の物語。
ラーゲルクヴィストは1951年ノーベル文学賞受賞のスウェーデン作家。
話の前半はふとしたことで神の悪意を買った男が歩んだ惨憺たる人生を、丘に住む元巫女の老女に訴える内容。そして大部分を占める後半が、応えとして語られる巫女の苦闘の半生である。
ここに登場する神は手に負えない荒ぶる神で、人間に対して容赦なく破壊的で横暴であり、暴君に魅入られるようなものである。正義や善意を旨としないものに、人間は支配されて生きていかねばならない。あんまりな解釈であるがそのじつ宗教の果たしている現実はそうなのかもしれない。
全く現代社会とかけ離れた設定ながら、宗教団体の経済がなりたっているシステムは現代社会そのままである。古代ギリシャを舞台としたいかにも作為的な設定で、老女の一人語りだけながら、単なる寓意小説でもなく多彩な出来事と喜怒哀楽で読み応え充分の傑作。