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漫画家まどの一哉ブログ

   
読書
「月の石」
トンマーゾ・ランドルフィ
 作

手持ちの幻想文学事典を見ても、当然まだまだ知らない作家のほうがうんと多い。ランドルフィというイタリアの作家を初めて読んだが、充分にその幻想世界に酔うことができた。

主人公の大学生ジョヴァンカルロは村では坊ちゃんだが、ある日山からやってきた娘グルーを見て恋に落ちてしまう。ところが足元を見るとグルーは山羊の足を持っていて、なぜか誰もそのことを指摘しない。それは一瞬の幻であったのか、ふだんのグルーの足は普通の人間の足だ。
しだいに愛し合う関係となった二人。ある夜グルーに誘われて山へ山へと歩いていくと、しだいに激しくなる雨に降られ、ふと聴こえる山羊の鳴き声。近づいてくる山羊。するとグルーと山羊の体は互いに混じり合ったものに変わってしまうのだった。
その後二人はグルーのなじみの山賊達と行動を伴にし、真っ暗な深い深い渓谷で酒盛り、村人との決闘・虐殺。しかしこれらは全て今現在のことではなかったのか?山中を動物と人間の合体した異形の群れが歩いていくのだった。

というあらすじを書いてもワケはわからないが、このはっきりしないところが幻想文学の味わいで、夢の中に引っ張られていく心地よさがある。ランドルフィは奇想・滑稽・シュール・ナンセンスの作家でもあるらしいから、今後出会えたらぜひ読んでみたい。

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読書(mixi過去日記より)
「巴里の憂鬱」
ボードレール
三好達治

散文詩っていいですねえ。
ボクはむかしから、詩が苦手で、分からないことはないが、どうにも韻文というのがあかん。あの段落をぷつぷつ切っていく表現がどうも自分の脳に合わない。

小説の文体を鑑賞しながら読むほうではあるけれども、詩の形にされるとまるで違う世界だ。現代詩文庫近代詩編を集めていたこともあったが、とっくの昔に売り払ってしまった。

でも散文詩のように、散文のカタチをとってあるものはとても楽しい。一応のスジがあるものも面白いし、ただただ美的イメージを拡げて見せてくれるものも楽しい。だが散文詩自体が世の中にあまりないようで、一番好きなアポリネール以外では、ロートレアモン、このボードレール、日本人では萩原朔太郎の「猫街」その他ぐらいか。
詩人はやっぱり韻文を操ってこそ、創作のしがいもあるものだろうか?
(話はそれるが、ストーリー漫画家のボクから見ると、斎藤種魚さんのコマつなぎは詩人に思える。)

というわけでボードレール「巴里の憂鬱」
ひとつひとつの作品解説はしないが、また全体を評論する能力も自分にはないが、酔えますよ。「酔え」という作品もあります。
「今こそ酔うべきの時なれ!虐げらるる奴隷となって、時間の手中に堕ちざるために、酒によって、詩によって、はた徳によって、そは汝の好むがままに、酔え、絶えず汝を酔わしめてあれ!」
てなぐあいです。「けしからぬ硝子屋」が有名かな。「貧民を撲殺しよう」という作もおもしろい。

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昨日は妻に誘われて江東区夢の島で開催された野外音楽フェス「World Happiness 2011」に行ってきた。陽射しを避けて途中から参戦したが、会場に着いたころから曇り空となり小雨がパラパラ。おかげで熱中症になることもなく最後まで観れたが、後半は立って観ていたので疲れてしまった。

自分はとくに固執している音楽があるわけではなく、楽曲がよければ喜んで聴くほうである。たとえばLittle Creatuersなどヴォーカル以外はよい。耳なじみのあるヒット曲連発のサカナクションなど、キャッチィでよい。The Beatniks(高橋幸宏&鈴木慶一)は伝統的でよい。それよりSalyu×salyu(サリュー・バイ・サリュー)は知らなかったがロック魂のない自分にはいちばんよかった。古くはジュディマリでよく聴いていたYUKIをナマで見れたが、いちばんの人気者だった。若い頃聴いていた音楽を今まったく聴かないが、YMOはあいかわらずで楽しい。メロディラインにブラスを使っていて少しモッチャリしておかしかった。自分は軽く踊るふりをして、じつは腰をいたわってユル体操していたのだった。アンコール時にサーチライトが低くたれこめた雲を照らしていた。

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読書
「肉体の悪魔」
レイモン・ラディゲ
 作

三島由紀夫が憧れたこの夭折の天才作家の名作を、なんで今まで読んでいなかったかと言えば、一つには恋愛というテーマが苦手。もう一つには青春という設定についていけない。もう一つはもし耽美文学だったら好き嫌いがある。というものだった。
しかしまったく違っていた。たしかに主人公達は恋愛しているのだが、縷々語られるのは男である「僕」のエゴイスティックな内面であり、それが冷徹に突き放した目線で描写されていて、悩んでいてもけっして懊悩や混乱を描くわけではなく、あくまで実験動物のように分析されいく。恋のかけひきは、まるで戦地に置ける作戦遂行の如くである。こういう推理小説のような味わいが優れた心理小説のおもしろさで、泣いたり叫んだりされるとこの味わいは出ない。

心理小説としての面白さもそうだが、物語の設定が不倫なので、主人公の二人が他人目を盗んで逢瀬を実行するストーリー上のスリル感も味わえる。そもそも相手の彼女は若くして結婚したのち、すぐさま主人公の「僕」と本当の恋に落ち妊娠までしてしまうが、結婚前に「僕」が態度をはっきりさせていればこんなややこしいことにはならなかった。という設定はまったく三島由紀夫の「豊饒の海(第一話:春の雪)」で主人公が彼女に犯した行為と同じである。三島は基本にラディゲを置いて組み立てていったものと思ったが、そのへんは語り尽くされているに違いない。

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映画(mixi過去日記より)
「狂った果実」
1956年

監督 中平康
原作 石原慎太郎
出演 石原裕次郎・北原三枝・津川雅彦・岡田真澄

石原裕次郎初主演のため、石原慎太郎が書き下ろした脚本。
トリュフォー絶賛、ヌーヴェル・ヴァーグに先んじる鬼才、中平康監督の名作との情報を得てから観た。

裕次郎は突出した美男というわけではないが、格好の付け方にキレがあって、独特のスカした早口で、何言ってるか聞き取りにくいまでも、昔風に言えば確かにイカしている。しかも感情表現はちゃんと伝わってくるという不思議な俳優だ。

力を持て余しながら、その力を何処へ向けていいかわからず、ひたすら日々遊び続ける不良少年の鬱屈と焦燥を描くのは、洋の東西を問わずいつの時代にもある。ただ石原兄弟の作品世界は、主人公達に金もヒマも存分にあるというのが、われわれ一般庶民が素直に感情移入できないところだろう。「そうそう、俺も学校サボって、よく家のヨットで葉山の海にでたなあ」という人がどれくらいいただろうか。車を自由に乗り回せる学生が。

もちろん階級差を問題にしてもしようがないのであって、話は兄弟で一人の女を取り合うという、単純なものだが、中平康の腕のさえなのか、緊張感のある展開で退屈しなかった。オープニングで津川雅彦の絶望的な表情がだんだんとアップになって驚いた(これはエンディングに繋がっていた)。ラストシーンで、追いつめられた裕次郎と北原三枝の乗るヨットの周りを、津川のボートがぐるぐるぐるぐる廻るのだが、このシーンが不気味に長いのも効果的。必要な長さだと思った。

ところで石原慎太郎の代表作「太陽の季節」をかなり以前に読んだとき、精薄の少女が金持ちの不良青年たちに輪姦される内容に、読後きわめて嫌悪感を持ったが、この映画にはそういうところはなかった。ちなみに津川雅彦の乗り回すボートは「sun seazon」号。

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読書
「ちびのツァッヒェス」
E・T・A・ホフマン
 作

ある貧しい農家に生まれたツァッヒェス。小さな体で、こぶのように丸まった背中、盛り上がった両肩の間に埋まった頭、枝のように貧弱な足、もじゃもじゃの髪にとがった鼻。言葉もろくに話せなかったが、あわれに思った心優しい修道女にもらわれていく。この修道女が実は妖女であり、後年ツァッヒェスは魔法の力によってみるみる出世していくのだ。
ところがこのツァッヒェスは主人公ではなく悪役である。その魔法とは他人の成功はみな自分のものとし、自分の失敗はすべて他人のやったことにしてしまうというもの。周りいるもの皆魔法にかかってツァッヒェスを持ち上げ、あげくは大臣にまで昇りつめ、学園のアイドル的美女と婚礼を迎えんとする。

ヒーローは詩才豊かな大学生バルタザール。友人と協力してツァッヒェスの秘密を探り、愛する学園のアイドルを取り戻そうと格闘。そしてついに秘密が暴かれ、魔法は効力を失い、ちびのツァッヒェスはあわれな最期を迎えるといったお話であります。

作者ホフマンは、このあわれな人物に特別な情けをかけるわけではなく、物語は読者の好きな華やかな婚礼シーンで終わり、ツァッヒェスは置き去りだ。彼が死んで「ああ、かわいそうな身の上だったなあ」といったラストではないのだ。ツァッヒェスはあくまで不気味な奇形児というキャラクターで、その性格も実に俗物でイヤなやつに描かれており、読者が彼に感情移入することは防がれている。

この物語が書かれたのが1819年。まだメルヘンの世界では畸形は非常にアクの強いキャラクターで、魔法使いとして登場するのがふつうだったのではないか?そのへんはよくわからなくて、「生まれつき体の不自由な人を笑い者にしてはいけない」というセリフもあるが、内面が粗野な人間はどのみち幸福にはなれないというオチになっているのは、作者ホフマンの作戦だったのではないかとも思った。

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読書
「ラバウル戦記」
水木しげる


水木さんの戦争体験については、漫画や文章などで多く紹介されているので、自分もよく知っているのだが、この本はページの上半分が戦争当時のラフスケッチ画で占められていて、下半分に水木さんの解説があるといった体裁でたのしい。なかでもカラーの絵が美しく、特にグリーンが鮮やか。夜のシーンはさすがに雰囲気がある。
それにしても軍隊とは理不尽な場所だよ。水木さんは連日ビンタをくらってばかり。日本社会に伝統的ないわゆる抑圧移譲なのだが、かわいそうに水木さん達は最後の新兵で後から入ってくるものがいなかった。毎日が訓練や労働でムダに体力を消耗しているみたいだ。実際の戦闘自体は一瞬のことで、それも戦闘というより一方的に攻撃されるばかり。その後の水木さんの必死の逃走から爆弾で片腕を失うまでは有名なハナシだが、強運を支える体力が人一倍あった。

一年中、魚や果物が豊富にとれ農作物もぐんぐん実る。南方では毎日のんびり暮らせばよい。「南の島は楽園。はたして文明は人間を幸福にしているのだろうか?」水木さんがよくいうところだが、文明人が文明を発達させざるを得なかったのは、食べ物のない冬を越さなければならなかったから。と思うけど、あとはエンゲルスにきいてみよう。

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読書
「猛スピードで母は」
長嶋有


子どもが出てくる話に初めから偏見がある。また小学生を中心に家族が描かれていると、これまた偏見を持つ。なにか現代家族や子ども達の問題にあらかじめ回答が用意されていて、さては予定調和ではないかしらんと勘ぐってしまう。
ところがほんとうはそんな正解はないということが、この小説および「サイドカーに犬」を読むと分かる。大人である母親にとって、必ずしも子どもは人生の中心ではない。各自自分の人生を生きるべきである。あらためてそう思わせるのは、作者の描く女性たちが強気でさっぱりしていてサクサクと行動するからだろうか。悩みや悲しみの感情を抱いたまま立ち止まっていない。この立ち止まらなさが日常の仕事や生活のリズムに支配されてのことなので、読む方もサクサクと立ち止まることなく昼間のリズムで読んでしまう感じだ。そんな気持ちよさがあった。
子どもと母親の関係、または愛人と子どもの関係に、一般的にこうだといったような設定はないので、描きすぎるとどこかで拾ってきたようなハナシになってしまうかもしれないが、そんな心配はいらなかった。2作品とも登場する男のほうはなんとも凡人で、やはり女の方が魅力的なのは主人公だからかな?
しかし作者の描く女性がいつもこうではあるまい。作品が違えばもめそめそした意気地のない女や、家事や仕事ができなくてグータラな女も出てくるのだろうか。それも人間だし読んでみたい気がする。

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読書
「死海のほとり」
遠藤周作


キリスト教はわからない。例えば仏教的無常観や空や無の思想なら、自分の場合ある程度素直に近づくことができる。しかし隣人愛の問題となると自分の中でことさら捉え直すことができない。加えて神の存在を大前提、あるいは第一の課題とされるとどうしていいか分からない。

この小説の中で、イエスは圧倒的な愛の心を持って不幸な人々に寄り添おうとするが、それが常人が持っているエゴイズムを遥かに越えているので人々は驚いてしまう。めったにいない人間を見たのだ。こんな人がいるのか。だからといってすぐ弟子となってイエスを支持するわけではなく、どうしていいか分からないまま一歩引いて見てしまう。
わずかな人々の支持を得るイエス。もちろん奇跡を見せることはおろか、一人として病人を救うこともできない。かえって迫害を受けたあげく刑死するのだが、不思議なのは、この小説の中でも触れられているとおり、なぜイエスが亡くなった後で、弟子達はそんなにも熱心に彼のことを語り、また人々は教えに目覚めていったのか?なぜイエスが生きている時でなく死後なのか?やはり先走って死んでしまうくらいの人物であってこそ、じわりじわりと後から影響が広がっていくものなのか。(そんな簡単なことか?)

最も不幸な者・弱い者、また悪者・卑怯な者。彼らを絶対見捨てず、彼らにこそ寄り添おうとする思想。イエスの愛の精神は選ぶところなく、ケース・バイ・ケースでそのレベルを変えることがない。ここまで徹底された教えとなれば当然世界人類に普遍的な価値を持つ。あまりに強い愛の思想なので、人間は神様を信じなければとても実践できない。(ような気がする)

物語はかつてキリスト教系の学校で学んだ作者が、当時の学友を訪ねてイスラエルに渡り、イエスの足跡をたどる現在と、イエスと弟子達が迫害を受けながらパレスチナを巡り、とうとう十字架に掛けられるまでの過去の話が交互に進行する。そして最後にいつの時代も弱き者のそばに遍在するイエスの姿が垣間見られる。(のかもしれない)

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読書
「ブルガーコフ作品集」
ミハイル・ブルガーコフ
 作

かつて季刊「iichiko」に掲載されたブルガーコフの短編作品を集めた珍しい書。最近モーレツにファンになったものだから、高価ながらも購入して読んだ。ブルガーコフは生前多くの作品をソビエト政府に発禁にされ、劇団の演出家として生計を立てていたのだが、それでも年譜を見るとかなりたくさんの作品を書いている。名作「女王とマルガリータ」は発表の可能性もないまま書かれた遺作であるが、芸術家の性(さが)というか根性というか、書き続けるのが自然だったのだろう。これが宿命だ。

その「女王とマルガリータ」の初期稿も一部掲載されているが、最終稿とはずいぶん違うものだった。私の解釈では、ブルガーコフはかなりユーモラスな作風なのだが、この作品集で印象に残ったものは以下の悲しい話だった。

「赤い冠」:出征した弟を一目母親に会わせるため探しに行く兄の私。ようやく出会えたと思った弟だが、あえなく戦禍に倒れてしまう。その死んだ弟が毎晩壁から立ち現れて私を苦しめる。
「モルヒネ」:チェーホフとおなじくブルガーコフも人生の最初は医者だった。地方医として赴任してモルヒネ中毒に陥った自身の体験をもとに書かれた作品。幻想性は薄いが死に向かって滅び行く主人公があわれ。

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