漫画家まどの一哉ブログ
読書(mixi過去日記より)
椎名麟三を読む
自分の読んだのは、講談社文芸文庫の短編集。
作者は戦前ごく一時期、共産党(もちろん非合法)の細胞であったが、その地下活動家としての苦悩を描いた作品が、なんだか青臭くてつまらなかった。
というわけで敬遠していたのだが、後期の短編からあらためて読んでみると、同じ共産党の細胞のはなしでも、うんとくだけていてユーモラス。
例えば「カラチの女」:遠くカラチの資産家の末娘が、婿探しに内地の日本人を希望していて、莫大な持参金つきである。という近所の食堂のうわさを真に受けて、主人公の私はぜひその娘と結婚して、大金を党の活動資金にあてようと画策する…。
また作者の少年時代の経験をもとに描かれた表題作「神の道化師」が傑作。
破綻・困窮した家庭から家出した中学生の主人公。無料宿泊所に出入りすると、そこはモルヒネ中毒者や乞食など、社会の最底辺に屯する人々の巣窟だった。ここにいてはいけないと、仕事を見つけて脱出をはかるも、同宿の中年乞食の男に溺愛され、なにかと世話になってしまう。
この小説のラスト近くを紹介。
そして準次は、あるレストランへつとめることになったのだ。もうその彼は、家出したときの彼ではなかった。立派な王城の住人になっていたからである。ただ住んでみると、その社会という王城は、彼の期待に反して実にくだらない、あわれむべきものであったが、しかし彼の捨てることの出来ないものであった。
このフレーズがいいです!
椎名麟三を読む
自分の読んだのは、講談社文芸文庫の短編集。
作者は戦前ごく一時期、共産党(もちろん非合法)の細胞であったが、その地下活動家としての苦悩を描いた作品が、なんだか青臭くてつまらなかった。
というわけで敬遠していたのだが、後期の短編からあらためて読んでみると、同じ共産党の細胞のはなしでも、うんとくだけていてユーモラス。
例えば「カラチの女」:遠くカラチの資産家の末娘が、婿探しに内地の日本人を希望していて、莫大な持参金つきである。という近所の食堂のうわさを真に受けて、主人公の私はぜひその娘と結婚して、大金を党の活動資金にあてようと画策する…。
また作者の少年時代の経験をもとに描かれた表題作「神の道化師」が傑作。
破綻・困窮した家庭から家出した中学生の主人公。無料宿泊所に出入りすると、そこはモルヒネ中毒者や乞食など、社会の最底辺に屯する人々の巣窟だった。ここにいてはいけないと、仕事を見つけて脱出をはかるも、同宿の中年乞食の男に溺愛され、なにかと世話になってしまう。
この小説のラスト近くを紹介。
そして準次は、あるレストランへつとめることになったのだ。もうその彼は、家出したときの彼ではなかった。立派な王城の住人になっていたからである。ただ住んでみると、その社会という王城は、彼の期待に反して実にくだらない、あわれむべきものであったが、しかし彼の捨てることの出来ないものであった。
このフレーズがいいです!
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読書(mixi過去日記より)
室生犀星を読む
室生犀星の小説を怪奇幻想譚に限って読むと、なんと言っても「蜜のあはれ」という、金魚の化身が、金魚になったり、少女になったりしておっさんとふらふら過ごすハナシが一番だ。
今回それ以外のものを、ちくま文庫のアンソロジーで読んだ。
「蛾」時代劇。四十九日の法用も済ませたその日に、死んだと思った亭主がひょっこり帰ってくる。しかし毎日ぼんやりと過ごすだけで、行方不明になっていた間の様子は語らない。女房は亭主が持ち帰った川魚取りの仕事道具の中から、あるはずもない女物の櫛を発見する。するとその夜から、どこかの町家の内儀が落とし物を捜して訪ねてくるようになった。やがて内儀と亭主は親しげに話し始めるが、ある日ふいに二人とも姿を消す。例の櫛もない。川に行ってみると、何やら水中に二人の影が見えるような、見えないような感じである。
このように、何の説明も解決もせずに、謎のまま放ったらかすタイプのハナシが、個人的には大好きです。
「三階の家」一階は商店だが、二・三階は貸間という住宅。といっても気味の悪い噂が立って、借りているのは三階片隅の男のみ。ある日そこへ、来るなと言っておいた別れた女房が訪ねてくる。男は迷惑がって、きつく言って追い返した。すると夜になって、いるはずもない二階の部屋から物音が…。気味悪がって、商家のおかみと二人で調べても誰もいない。ただ玄関先には訪ねてきた女の履物があり、女は帰っていないのだった。そしてふと階段の裏を覗くと…。
「香炉を盗む」亭主が他所の女の元へ出かけようとすると、必ず玄関で亭主の帽子を用意して待っている女房。亭主に一言も文句を言うではないが、だんだんと気鬱になって痩せ細るうちに、座したまま亭主の行動をすべて感知するようになる。亭主は恐ろしいのだが、病人を放っておくわけにもいかない。女房は死を目前に、ますますその霊感を発揮する。
その他、室生犀星は幻想ものでも、死別した子供の幽霊の話しなど、哀感漂うものが人気なようだが、自分の趣味とはちょっと違った。でもおもしろいです。
室生犀星を読む
室生犀星の小説を怪奇幻想譚に限って読むと、なんと言っても「蜜のあはれ」という、金魚の化身が、金魚になったり、少女になったりしておっさんとふらふら過ごすハナシが一番だ。
今回それ以外のものを、ちくま文庫のアンソロジーで読んだ。
「蛾」時代劇。四十九日の法用も済ませたその日に、死んだと思った亭主がひょっこり帰ってくる。しかし毎日ぼんやりと過ごすだけで、行方不明になっていた間の様子は語らない。女房は亭主が持ち帰った川魚取りの仕事道具の中から、あるはずもない女物の櫛を発見する。するとその夜から、どこかの町家の内儀が落とし物を捜して訪ねてくるようになった。やがて内儀と亭主は親しげに話し始めるが、ある日ふいに二人とも姿を消す。例の櫛もない。川に行ってみると、何やら水中に二人の影が見えるような、見えないような感じである。
このように、何の説明も解決もせずに、謎のまま放ったらかすタイプのハナシが、個人的には大好きです。
「三階の家」一階は商店だが、二・三階は貸間という住宅。といっても気味の悪い噂が立って、借りているのは三階片隅の男のみ。ある日そこへ、来るなと言っておいた別れた女房が訪ねてくる。男は迷惑がって、きつく言って追い返した。すると夜になって、いるはずもない二階の部屋から物音が…。気味悪がって、商家のおかみと二人で調べても誰もいない。ただ玄関先には訪ねてきた女の履物があり、女は帰っていないのだった。そしてふと階段の裏を覗くと…。
「香炉を盗む」亭主が他所の女の元へ出かけようとすると、必ず玄関で亭主の帽子を用意して待っている女房。亭主に一言も文句を言うではないが、だんだんと気鬱になって痩せ細るうちに、座したまま亭主の行動をすべて感知するようになる。亭主は恐ろしいのだが、病人を放っておくわけにもいかない。女房は死を目前に、ますますその霊感を発揮する。
その他、室生犀星は幻想ものでも、死別した子供の幽霊の話しなど、哀感漂うものが人気なようだが、自分の趣味とはちょっと違った。でもおもしろいです。
読書
「偶然のチカラ」
植島啓司 著
過去に読んだA・ケストラー「偶然の本質」、I・エクランド「偶然とは何か」に続いて偶然シリーズ3冊目である。また、この著者のエッセイは過去に2冊ほど面白く読んだ記憶がある。水木さんが「偶然の神秘」とかいった漫画を描いていたと思うが、自分も偶然に対する関心は途切れることがない。
とは言っても冷静に考えると、やはり確率と統計のはなしになるので、それはしかたがない。
主観的には何故自分にこんなことが起きるのか?と不思議に思うことでも、確率から見ればそれくらいのことならたまにはあるだろということだ。そして何故それが自分に起きるのかという理由は別にないのだ。
著者は学者でありながらギャンブラーでもあるので、いきおい話はルーレットなど賭博の運不運におよぶが、ここが確率と統計だけでは補い得ないところである。誰しも自分の選択が正しかったかどうかは解らない。あのとき別の手をうっていれば、現在いい結果が出たかどうかは検証しようがない。ただ人間自分で決めたことには執着心が出るので、ただしいギャンブラーはできるだけ自分で決めずに様子を眺め、他人に決めさせよ。とのことである。これも偶然のチカラ?
さてここで唐突に、かの有名なカオス理論のバタフライ効果を持ち出してみれば、宇宙には無関係なことなど存在していない。全ての因果系列は繋がりがある。それならものは考えようで、自分の身に起きること全ては必然であると考えても間違いではあるまい。因果だねえ…。
かの南方熊楠も因果については考えていて、原因と結果を結ぶ直線が何本もあるとすると、当然この線はそれぞれ独立した必然性を持っている。そしてこの線は互いに理由もなく交差するが、まさにこの交点こそが偶然である。熊楠は縁という言葉で表現している。縁は異なものである。
著者曰く、もし無人島で一人暮らししているとすれば偶然を感じるだろうか?おそらく感じないのではないか。するとやはり偶然とは他者の営みとの交わり・縁というところに成り立つのではないか。
というわけで今回も解ったような解らなかったようなところまで進んだ。
「偶然のチカラ」
植島啓司 著
過去に読んだA・ケストラー「偶然の本質」、I・エクランド「偶然とは何か」に続いて偶然シリーズ3冊目である。また、この著者のエッセイは過去に2冊ほど面白く読んだ記憶がある。水木さんが「偶然の神秘」とかいった漫画を描いていたと思うが、自分も偶然に対する関心は途切れることがない。
とは言っても冷静に考えると、やはり確率と統計のはなしになるので、それはしかたがない。
主観的には何故自分にこんなことが起きるのか?と不思議に思うことでも、確率から見ればそれくらいのことならたまにはあるだろということだ。そして何故それが自分に起きるのかという理由は別にないのだ。
著者は学者でありながらギャンブラーでもあるので、いきおい話はルーレットなど賭博の運不運におよぶが、ここが確率と統計だけでは補い得ないところである。誰しも自分の選択が正しかったかどうかは解らない。あのとき別の手をうっていれば、現在いい結果が出たかどうかは検証しようがない。ただ人間自分で決めたことには執着心が出るので、ただしいギャンブラーはできるだけ自分で決めずに様子を眺め、他人に決めさせよ。とのことである。これも偶然のチカラ?
さてここで唐突に、かの有名なカオス理論のバタフライ効果を持ち出してみれば、宇宙には無関係なことなど存在していない。全ての因果系列は繋がりがある。それならものは考えようで、自分の身に起きること全ては必然であると考えても間違いではあるまい。因果だねえ…。
かの南方熊楠も因果については考えていて、原因と結果を結ぶ直線が何本もあるとすると、当然この線はそれぞれ独立した必然性を持っている。そしてこの線は互いに理由もなく交差するが、まさにこの交点こそが偶然である。熊楠は縁という言葉で表現している。縁は異なものである。
著者曰く、もし無人島で一人暮らししているとすれば偶然を感じるだろうか?おそらく感じないのではないか。するとやはり偶然とは他者の営みとの交わり・縁というところに成り立つのではないか。
というわけで今回も解ったような解らなかったようなところまで進んだ。
読書
「ぼくのともだち」
エマニュエル・ボーヴ 作
アパートの屋根裏部屋に一人暮らす孤独な青年ヴィクトール・バトン。彼はともに人生を歩んでいけるようなほんとうのともだちを求めて、今日も町を彷徨うのだがなかなかにその願いは達成されない。彼はけっして悪いヤツじゃない。マナーは守るし礼儀正しい、むしろかなりいいヤツ。ただちょっと世間知らずで空想的なだけだ。
ある日、街中の野次馬のなかで知り合った一人の男。バトンはこの男を大切な立った一人の友人候補と思い定めてしまうが、彼が恋人と同棲していると聞いて絶望しかける。なんとか親しくなったあげく家に招待され、50フランの金を貸すことになる。しかも翌日彼のいない時間に彼女一人に会いにいったことが原因で、関係は終わってしまった。この勝手な思い込みと軽はずみさはどうだ?
また、港であたかも自殺するかのようなそぶりで道行く人に思わせぶりな態度をとっていると、本当の自殺希望者の男に身投げに誘われてしまう。なんとか押しとどめて金を与え、自分も経験のない売春宿へ連れていくと、その男はさっさと自分を捨てて女と消えてしまった。
またある日偶然にも金持ちの実業家に出合う。駅でポーターと間違われたのだ。これがきっかけで実業家の家に呼ばれ、気に入られた彼は新しい職場を紹介してもらった。この幸運にも増して彼は、その実業家の娘と町で偶然出会って仲良くなるという空想を押しとどめることができず、娘の後を付けて実業家の怒りをかい就職はご破算に。
ともだちということに過度に意識的に構えて、人間社会の経験値が足りず、聞いただけの浅知恵を駆使し、自分に都合のいい妄想から離れられない青年ヴィクトール・バトン君。こんな人けっこういると思うよ。
「ぼくのともだち」
エマニュエル・ボーヴ 作
アパートの屋根裏部屋に一人暮らす孤独な青年ヴィクトール・バトン。彼はともに人生を歩んでいけるようなほんとうのともだちを求めて、今日も町を彷徨うのだがなかなかにその願いは達成されない。彼はけっして悪いヤツじゃない。マナーは守るし礼儀正しい、むしろかなりいいヤツ。ただちょっと世間知らずで空想的なだけだ。
ある日、街中の野次馬のなかで知り合った一人の男。バトンはこの男を大切な立った一人の友人候補と思い定めてしまうが、彼が恋人と同棲していると聞いて絶望しかける。なんとか親しくなったあげく家に招待され、50フランの金を貸すことになる。しかも翌日彼のいない時間に彼女一人に会いにいったことが原因で、関係は終わってしまった。この勝手な思い込みと軽はずみさはどうだ?
また、港であたかも自殺するかのようなそぶりで道行く人に思わせぶりな態度をとっていると、本当の自殺希望者の男に身投げに誘われてしまう。なんとか押しとどめて金を与え、自分も経験のない売春宿へ連れていくと、その男はさっさと自分を捨てて女と消えてしまった。
またある日偶然にも金持ちの実業家に出合う。駅でポーターと間違われたのだ。これがきっかけで実業家の家に呼ばれ、気に入られた彼は新しい職場を紹介してもらった。この幸運にも増して彼は、その実業家の娘と町で偶然出会って仲良くなるという空想を押しとどめることができず、娘の後を付けて実業家の怒りをかい就職はご破算に。
ともだちということに過度に意識的に構えて、人間社会の経験値が足りず、聞いただけの浅知恵を駆使し、自分に都合のいい妄想から離れられない青年ヴィクトール・バトン君。こんな人けっこういると思うよ。
映画
「第三の男」 1949年 イギリス
監督 キャロル・リード
出演 ジョセフ・コットン、オーソン・ウェルズ
子どもの時、淀川長治の日曜洋画劇場で観覧車のシーンを垣間見た記憶があって、今回観たのはそれ以来だが、やはり記憶とは違うもんだ。なにか地面に落ちた眼鏡のレンズ越しに人物をとらえていた記憶があったが、別の映画だったようだ。それでも殺人事件が起きるかも知れないくらいの緊迫した場面で、ワザと使われる軽快な音楽。この裏腹な効果は予想通りだった。巷間、その観覧車のシーンが有名でラストシーンのように思っていたが、ラストは長々とした下水道での逃走シーンだった。これはやや冗長な気がした。
「第三の男」とはつまり事件の現場にもう一人目撃者がいたらしいが、だれもそんなヤツはいなくて二人だけだったと証言するという謎からきたタイトルである。はたして「第三の男」の男は誰だったのか?という謎解き的な面白さは、グレアム・グリーンの原作を読むと感じられるのかもしれない。映画でのストーリーのバランスは、謎が解けてからに置かれていて、それは女を裏切るか、女はそれでも男を信じ続けるのかという部分を描きたかったからだろう。
ジョセフ・コットンもオーソン・ウェルズも顔立ちが個性的で説得力がある。警官は正義漢だが細い口ひげをはやしているのでイヤなヤツにみえた。
「第三の男」 1949年 イギリス
監督 キャロル・リード
出演 ジョセフ・コットン、オーソン・ウェルズ
子どもの時、淀川長治の日曜洋画劇場で観覧車のシーンを垣間見た記憶があって、今回観たのはそれ以来だが、やはり記憶とは違うもんだ。なにか地面に落ちた眼鏡のレンズ越しに人物をとらえていた記憶があったが、別の映画だったようだ。それでも殺人事件が起きるかも知れないくらいの緊迫した場面で、ワザと使われる軽快な音楽。この裏腹な効果は予想通りだった。巷間、その観覧車のシーンが有名でラストシーンのように思っていたが、ラストは長々とした下水道での逃走シーンだった。これはやや冗長な気がした。
「第三の男」とはつまり事件の現場にもう一人目撃者がいたらしいが、だれもそんなヤツはいなくて二人だけだったと証言するという謎からきたタイトルである。はたして「第三の男」の男は誰だったのか?という謎解き的な面白さは、グレアム・グリーンの原作を読むと感じられるのかもしれない。映画でのストーリーのバランスは、謎が解けてからに置かれていて、それは女を裏切るか、女はそれでも男を信じ続けるのかという部分を描きたかったからだろう。
ジョセフ・コットンもオーソン・ウェルズも顔立ちが個性的で説得力がある。警官は正義漢だが細い口ひげをはやしているのでイヤなヤツにみえた。
読書
「三界の家」
林京子
林京子は長崎での被爆体験を中心に、自身の人生をすべてなぞって作品にしている私の好きな作家である。
この短編集では作者の父親を描いた話が心に残った。
彼女の父親は戦前M物産の上海支店に勤めるエリートであり、家族からは「とうさま」と呼ばれ、尊敬を集めていた。敗色濃厚な中国大陸、一家は父親を残したまま先に引き上げ、作者は長崎の三菱兵器工場にて被爆。やがて父親も帰国するが財閥解体の指令を受けてM物産社員という肩書きを失ってしまう。
そうなるとエリートは弱い者で、就職難の中やっと見つけたクチも雑用までやるのが苦痛ですぐ止めてしまい、昼間から家でぶらぶらである。ようやく続いているらしい職場をある日母親と作者が訪ねてみると、海岸近くの小屋の中で、ひとり伝票仕事をしていた。寂しくて呆然とするシーンだ。
母親は家政婦の職を見つけて働きに出るようになるが、そのころ閑な父親はぶらり散歩がてら母の勤め先である家庭に立ち寄り、おみやげに果物などをもらって帰る。なんとも情けない有様である。
時代が流れて老いた父親はやがて膵臓がんを患い、病院では家族総出の世話になるが、ひっきりなしにベッドのそばで付き添って寝ている母親の名を呼ぶ。しかし母は返事をしない。返事をすると甘えるからだそうである。「とうさま」と呼ばれて尊敬されていた父親は、母の中でとうのむかしに終わっているのである。
小説では父の死後、葬儀があって一族の墓を掘り起こすシーンが描かれる。父の親族に連なる何代かの人達の骨壺が出てくる。残された母親は父の骨壺を最終的に近代的なロッカー式の墓に移してしまう。自分も死後はそこに入るつもりだ。娘(作者)たちも来てよいという。父方の縁はそこで切られてしまった。作者も自分の子どもが結婚した時点で縁は断ち切り、無性としての存在に帰りたいと思うのだった。
雑感:親子というものは逃れられないものであるが、人生によっては積極的に親子の縁を切ってそれがプラスである人もいよう。ましてや親以前自分以降につながる縁は人それぞれだ。関係はないのが事実だろう。大きな意味で先祖や共同体が自分にもつながっていることは、安心して死んでいく心の支えではあるが、それは今自分の周りにいる人々がそうだと考えてもいいと思う。
「三界の家」
林京子
林京子は長崎での被爆体験を中心に、自身の人生をすべてなぞって作品にしている私の好きな作家である。
この短編集では作者の父親を描いた話が心に残った。
彼女の父親は戦前M物産の上海支店に勤めるエリートであり、家族からは「とうさま」と呼ばれ、尊敬を集めていた。敗色濃厚な中国大陸、一家は父親を残したまま先に引き上げ、作者は長崎の三菱兵器工場にて被爆。やがて父親も帰国するが財閥解体の指令を受けてM物産社員という肩書きを失ってしまう。
そうなるとエリートは弱い者で、就職難の中やっと見つけたクチも雑用までやるのが苦痛ですぐ止めてしまい、昼間から家でぶらぶらである。ようやく続いているらしい職場をある日母親と作者が訪ねてみると、海岸近くの小屋の中で、ひとり伝票仕事をしていた。寂しくて呆然とするシーンだ。
母親は家政婦の職を見つけて働きに出るようになるが、そのころ閑な父親はぶらり散歩がてら母の勤め先である家庭に立ち寄り、おみやげに果物などをもらって帰る。なんとも情けない有様である。
時代が流れて老いた父親はやがて膵臓がんを患い、病院では家族総出の世話になるが、ひっきりなしにベッドのそばで付き添って寝ている母親の名を呼ぶ。しかし母は返事をしない。返事をすると甘えるからだそうである。「とうさま」と呼ばれて尊敬されていた父親は、母の中でとうのむかしに終わっているのである。
小説では父の死後、葬儀があって一族の墓を掘り起こすシーンが描かれる。父の親族に連なる何代かの人達の骨壺が出てくる。残された母親は父の骨壺を最終的に近代的なロッカー式の墓に移してしまう。自分も死後はそこに入るつもりだ。娘(作者)たちも来てよいという。父方の縁はそこで切られてしまった。作者も自分の子どもが結婚した時点で縁は断ち切り、無性としての存在に帰りたいと思うのだった。
雑感:親子というものは逃れられないものであるが、人生によっては積極的に親子の縁を切ってそれがプラスである人もいよう。ましてや親以前自分以降につながる縁は人それぞれだ。関係はないのが事実だろう。大きな意味で先祖や共同体が自分にもつながっていることは、安心して死んでいく心の支えではあるが、それは今自分の周りにいる人々がそうだと考えてもいいと思う。
読書
「通話」
ロベルト・ポラーニョ 作
チリ・メキシコ・スペインなどで暮らし、スペイン語で多くの小説を書いて2003年に50歳で死んだ著者の短編集。
「文学の冒険」:作家Bは自作の中で知り合いの売れっ子作家Aをモデルにとりあげ、その偽善性と御用作家ぶりを揶揄する。その後Bもはじめて大手出版社から本を出すが、これをAが手放しで絶賛した。これにはなにか裏があるのだろうか?Aの態度が気が気でならなず延々と悩むBが描かれるが、とうとうAと会うことになった直前、目を通したAの新作はすばらしいものだった。
「刑事たち」:車を走らせながらあれこれと雑談にふける二人の警官。ある日自分たちの警察署に中学時代の同級生が連れられてきた。そいつは接見禁止でカミソリもタオルも持たせてもらえなかった。しかも今の自分の様子を鏡で見ようともしない。なぜなら鏡に映るのは別人だからだという。そんなばかなことはあるまいと主人公の警官が鏡を見てみると、そこには肩越しにうしろから覗く知らない男と無数の人間の顔が…。しかしそれはほんの一瞬のことだった。
「ジョアンナ・シルヴェストリ」:37歳ポルノ女優として成功したジョアンナは、かつてポルノ界の大スターだったジャック・ホームズに会いにいく。借りたポルシェをとばしてようやくたどり着いたボロボロのバンガロー。今や業界から離れて無気力な生活を続けるジャック。もう来るなよと言われたようなものだけど、この人にはアタシが必要だと決意するジョアンナ。かれの大きなぶよぶよになったペニスを太ももの間に挟んで泣きながら眠った。そして二人がただ生きているということが意味あることだと感じるのだった。
いろいろな人々の人生の変転がめくるめく繰り広げられ、男と女たちがくっついたり離れたり、みんなフツーの人間で、それだけにおおきな振幅はないが読んでいるとふるふると心に沁みてくる。これこそ小説の醍醐味だ。理屈抜きがいい。
「通話」
ロベルト・ポラーニョ 作
チリ・メキシコ・スペインなどで暮らし、スペイン語で多くの小説を書いて2003年に50歳で死んだ著者の短編集。
「文学の冒険」:作家Bは自作の中で知り合いの売れっ子作家Aをモデルにとりあげ、その偽善性と御用作家ぶりを揶揄する。その後Bもはじめて大手出版社から本を出すが、これをAが手放しで絶賛した。これにはなにか裏があるのだろうか?Aの態度が気が気でならなず延々と悩むBが描かれるが、とうとうAと会うことになった直前、目を通したAの新作はすばらしいものだった。
「刑事たち」:車を走らせながらあれこれと雑談にふける二人の警官。ある日自分たちの警察署に中学時代の同級生が連れられてきた。そいつは接見禁止でカミソリもタオルも持たせてもらえなかった。しかも今の自分の様子を鏡で見ようともしない。なぜなら鏡に映るのは別人だからだという。そんなばかなことはあるまいと主人公の警官が鏡を見てみると、そこには肩越しにうしろから覗く知らない男と無数の人間の顔が…。しかしそれはほんの一瞬のことだった。
「ジョアンナ・シルヴェストリ」:37歳ポルノ女優として成功したジョアンナは、かつてポルノ界の大スターだったジャック・ホームズに会いにいく。借りたポルシェをとばしてようやくたどり着いたボロボロのバンガロー。今や業界から離れて無気力な生活を続けるジャック。もう来るなよと言われたようなものだけど、この人にはアタシが必要だと決意するジョアンナ。かれの大きなぶよぶよになったペニスを太ももの間に挟んで泣きながら眠った。そして二人がただ生きているということが意味あることだと感じるのだった。
いろいろな人々の人生の変転がめくるめく繰り広げられ、男と女たちがくっついたり離れたり、みんなフツーの人間で、それだけにおおきな振幅はないが読んでいるとふるふると心に沁みてくる。これこそ小説の醍醐味だ。理屈抜きがいい。
まえから気付いていたことだが、はっきりと自分に該当する病名をみつけた。「依存性人格障害」である。私のように子どもの頃、母親から過保護・過干渉で育てられた人間は、成長の過程で独立した人格を形成できない。どうしても母親に依存した状態で性格が形成される。母親はいつまでも子どもを手放さないので、子どもは心地よい保護された状態に安住し、大人へのステップを登ることができない。これは私が高校入学時にその精神的未熟さ・幼児性のため高校生活についていけず、パニックから神経症への転落というカタチで身をもって経験している。
その後長年の努力で仕事も配偶者も手に入れたわけだが、これで生来の人格障害が快癒されていると思いきやそうではなく、今度は対象が妻というカタチで温存されていくのであった。相手に依存していないと自分の存在理由を確立できないという点では同じで、妻の人生を支えるように寄り添って、頑張ってきたつもりだが、これは言い方を変えればつきまとっている・干渉していることと同じだ。つねに相手の気に入るように自分の欲求をも合わせて、相手から見放されることを異常に恐れているのである。
そんな私であるが、現在妻は双極性障害のため別宅にて静養中であり、鬱状態の時にはろくにコミュニケーションがとれない。そうなると私は「見捨てられ恐怖」に陥ってしまい、孤独と不安感でおろおろとするのであった。
その後長年の努力で仕事も配偶者も手に入れたわけだが、これで生来の人格障害が快癒されていると思いきやそうではなく、今度は対象が妻というカタチで温存されていくのであった。相手に依存していないと自分の存在理由を確立できないという点では同じで、妻の人生を支えるように寄り添って、頑張ってきたつもりだが、これは言い方を変えればつきまとっている・干渉していることと同じだ。つねに相手の気に入るように自分の欲求をも合わせて、相手から見放されることを異常に恐れているのである。
そんな私であるが、現在妻は双極性障害のため別宅にて静養中であり、鬱状態の時にはろくにコミュニケーションがとれない。そうなると私は「見捨てられ恐怖」に陥ってしまい、孤独と不安感でおろおろとするのであった。
読書
「月の石」
トンマーゾ・ランドルフィ 作
手持ちの幻想文学事典を見ても、当然まだまだ知らない作家のほうがうんと多い。ランドルフィというイタリアの作家を初めて読んだが、充分にその幻想世界に酔うことができた。
主人公の大学生ジョヴァンカルロは村では坊ちゃんだが、ある日山からやってきた娘グルーを見て恋に落ちてしまう。ところが足元を見るとグルーは山羊の足を持っていて、なぜか誰もそのことを指摘しない。それは一瞬の幻であったのか、ふだんのグルーの足は普通の人間の足だ。
しだいに愛し合う関係となった二人。ある夜グルーに誘われて山へ山へと歩いていくと、しだいに激しくなる雨に降られ、ふと聴こえる山羊の鳴き声。近づいてくる山羊。するとグルーと山羊の体は互いに混じり合ったものに変わってしまうのだった。
その後二人はグルーのなじみの山賊達と行動を伴にし、真っ暗な深い深い渓谷で酒盛り、村人との決闘・虐殺。しかしこれらは全て今現在のことではなかったのか?山中を動物と人間の合体した異形の群れが歩いていくのだった。
というあらすじを書いてもワケはわからないが、このはっきりしないところが幻想文学の味わいで、夢の中に引っ張られていく心地よさがある。ランドルフィは奇想・滑稽・シュール・ナンセンスの作家でもあるらしいから、今後出会えたらぜひ読んでみたい。
「月の石」
トンマーゾ・ランドルフィ 作
手持ちの幻想文学事典を見ても、当然まだまだ知らない作家のほうがうんと多い。ランドルフィというイタリアの作家を初めて読んだが、充分にその幻想世界に酔うことができた。
主人公の大学生ジョヴァンカルロは村では坊ちゃんだが、ある日山からやってきた娘グルーを見て恋に落ちてしまう。ところが足元を見るとグルーは山羊の足を持っていて、なぜか誰もそのことを指摘しない。それは一瞬の幻であったのか、ふだんのグルーの足は普通の人間の足だ。
しだいに愛し合う関係となった二人。ある夜グルーに誘われて山へ山へと歩いていくと、しだいに激しくなる雨に降られ、ふと聴こえる山羊の鳴き声。近づいてくる山羊。するとグルーと山羊の体は互いに混じり合ったものに変わってしまうのだった。
その後二人はグルーのなじみの山賊達と行動を伴にし、真っ暗な深い深い渓谷で酒盛り、村人との決闘・虐殺。しかしこれらは全て今現在のことではなかったのか?山中を動物と人間の合体した異形の群れが歩いていくのだった。
というあらすじを書いてもワケはわからないが、このはっきりしないところが幻想文学の味わいで、夢の中に引っ張られていく心地よさがある。ランドルフィは奇想・滑稽・シュール・ナンセンスの作家でもあるらしいから、今後出会えたらぜひ読んでみたい。
読書(mixi過去日記より)
「巴里の憂鬱」
ボードレール作
三好達治訳
散文詩っていいですねえ。
ボクはむかしから、詩が苦手で、分からないことはないが、どうにも韻文というのがあかん。あの段落をぷつぷつ切っていく表現がどうも自分の脳に合わない。
小説の文体を鑑賞しながら読むほうではあるけれども、詩の形にされるとまるで違う世界だ。現代詩文庫近代詩編を集めていたこともあったが、とっくの昔に売り払ってしまった。
でも散文詩のように、散文のカタチをとってあるものはとても楽しい。一応のスジがあるものも面白いし、ただただ美的イメージを拡げて見せてくれるものも楽しい。だが散文詩自体が世の中にあまりないようで、一番好きなアポリネール以外では、ロートレアモン、このボードレール、日本人では萩原朔太郎の「猫街」その他ぐらいか。
詩人はやっぱり韻文を操ってこそ、創作のしがいもあるものだろうか?
(話はそれるが、ストーリー漫画家のボクから見ると、斎藤種魚さんのコマつなぎは詩人に思える。)
というわけでボードレール「巴里の憂鬱」
ひとつひとつの作品解説はしないが、また全体を評論する能力も自分にはないが、酔えますよ。「酔え」という作品もあります。
「今こそ酔うべきの時なれ!虐げらるる奴隷となって、時間の手中に堕ちざるために、酒によって、詩によって、はた徳によって、そは汝の好むがままに、酔え、絶えず汝を酔わしめてあれ!」
てなぐあいです。「けしからぬ硝子屋」が有名かな。「貧民を撲殺しよう」という作もおもしろい。
「巴里の憂鬱」
ボードレール作
三好達治訳
散文詩っていいですねえ。
ボクはむかしから、詩が苦手で、分からないことはないが、どうにも韻文というのがあかん。あの段落をぷつぷつ切っていく表現がどうも自分の脳に合わない。
小説の文体を鑑賞しながら読むほうではあるけれども、詩の形にされるとまるで違う世界だ。現代詩文庫近代詩編を集めていたこともあったが、とっくの昔に売り払ってしまった。
でも散文詩のように、散文のカタチをとってあるものはとても楽しい。一応のスジがあるものも面白いし、ただただ美的イメージを拡げて見せてくれるものも楽しい。だが散文詩自体が世の中にあまりないようで、一番好きなアポリネール以外では、ロートレアモン、このボードレール、日本人では萩原朔太郎の「猫街」その他ぐらいか。
詩人はやっぱり韻文を操ってこそ、創作のしがいもあるものだろうか?
(話はそれるが、ストーリー漫画家のボクから見ると、斎藤種魚さんのコマつなぎは詩人に思える。)
というわけでボードレール「巴里の憂鬱」
ひとつひとつの作品解説はしないが、また全体を評論する能力も自分にはないが、酔えますよ。「酔え」という作品もあります。
「今こそ酔うべきの時なれ!虐げらるる奴隷となって、時間の手中に堕ちざるために、酒によって、詩によって、はた徳によって、そは汝の好むがままに、酔え、絶えず汝を酔わしめてあれ!」
てなぐあいです。「けしからぬ硝子屋」が有名かな。「貧民を撲殺しよう」という作もおもしろい。