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漫画家まどの一哉ブログ

   
鳩山さんはパンを描くのがうまいな。旨そうなパンに見える。
逆柱氏の「茶番なカッパ」増ページだけど面白かった。水木キャラが活かされていてイイカンジ。
具井さんの「オオスガさんのこと」日常といったものはドラマのような事件性はないが、ちょっとした出来事はある。それをそのままに描ける人は少ない。この作品はじつに淡々とそんなリアルが描かれていて上手いと思う。
松井雪子「マヨネーズ姫」この少女は可愛らしくて気に入ってしまった。ドルも売っている。
南さんの「ロボとピュー太」で死後の世界に対する新たな見識を得た。

私は「月の輪」を掲載。サラリーマンの金太郎の話です。楽しいよ。
作者近況で「西遊」1月発売と言ってるけど、もう売ってます。

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読書
「耽溺」
岩野泡鳴
 作

明治時代の小説でよくわからないのは、金を出して芸者を受け出して妾にするという行為だ。もちろん本妻あってのはなしで、それがどれくらい普通のことだったのか、道義的にも金銭的にも程度がわからない。
これもそんな話で、作者がある田舎芸者に惚れ込んでしまって、芸者を止めさせて女優にする算段をたてるが、あれやこれや他の男どもも入り組んだことになってままならない。そんな顛末を描いた自然主義文学の代表作で、作者はただ耽溺することを目指している。

泡鳴と言えば文学史的には半獣主義者として有名で、なんでも欲望の赴くままに行動して、主観のままに描写するという勢いのあるスタンスである。そのせいか飾らない文体が気持ち良くて、会話もリアルだし、楽しく読めた。赤裸裸と言えば赤裸裸だが、案外作者は冷静なもので、愛欲と苦悩が描かれているといった印象はなかった。
つまり作者の耽溺は意識的なものであって、なかなか耽溺しきらない自分に納得いかないという私小説なんじゃなかろうか?

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読書
ゴーゴリを読む

ゴーゴリの描く人間たちはほんとに情があって、読んでて気持ちが乗ってくる。

「昔気質の地主たち」:ロシアの田舎で質朴な生活を営む小さな地主。主人公の爺さん婆さんは、善人で欲も少ない人間で、使用人たちは勝手に土地の作物などを横領しているのだが、まったく気付かない。
いなくなったネコが突然現れてまた野生に戻っていったその日、婆さんはこれはお迎えが来たんだと思った。死を観念した婆さんは食事もとらなくなり、数日経って本当に死んでしまう。爺さんは婆さんを葬った後、誰もいなくなった居間でしばらくぼんやりしていたが、突然声を上げて泣き出した。このあたりの描写が実にいい。5年後、筆者がひさびさに爺さんの家を訪ねた時、耄碌した爺さんは出された料理を見て「このごちそうは死んだ婆さんが…」と言って泣き崩れてしまう。5年も経っているのに…。

「ヴィー」:以前べつの訳で読んだ。ヴィーとは地妖という妖怪である。魔法使いに乗り移られて死んでしまった少女。その少女の霊魂を鎮めるべく教会で祈禱書を連夜読み上げる哲学生が、最後にこのヴィーによって結界を破られ、悪霊や妖怪たちの手に落ちる有名な幻想文学。ヴィーの瞼は重すぎて自力では眼が開けられないのだ。水木さんも漫画にしとります。

「外套」:しがない小役人の男。すり切れた外套をついに新調し、心も躍る思いで夜会に出かけたが、その帰り道せっかくの外套を追いはぎに奪われてしまう。しかもその外套を取り戻すべく上級役人に訴え出ては怒鳴りつけられ、そのショックがもとで死んでしまうという情けなさ。しかしこの男は幽霊となって街ゆく人の外套を取ろうとするのだから面白い。

「鼻」:ある日焼けたパンの中から知り合いの鼻が出てきた。そいつは朝起きると鼻がなかった。また、鼻は一人前の役人の格好をしてしらーッと街を歩いているのだ。こんな愉快でシュールな不条理劇が、1835年に書かれていた。

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ついに出ました。
時空を超えた、生と死と愛の長編漫画「西遊」全1巻。
現代日本から、遥かいにしえの中国大陸を駆け巡る悟空一行の運命やいかに!?
解説・あとがき・オマケ漫画もついてるよ。

14日には都内、15日には地方書店にも並ぶと思われます。
タコシェや高岡書店ではサイン入りのものが、少し早い目に並ぶかもしれません。
アマゾンなどネットでは既に買えるようです(アマゾンの画像は赤いオビが正解)。

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●写真そのままのリアルさをかっこいい表現としていると、資料写真全部自前で用意しないと、パクリやパクリや言われるらしい。元の写真からオリジナルな絵にできてないから。
●自分の漫画は検索画像をモニタから肉眼で紙に写すこと多し。その時点で大いに歪んでしまうのは、精神が歪んでいるからであろう。ヒヒヒ。
●手塚治虫「火の鳥」、永島慎二「フーテン」、それに石ノ森に岡田史子。昔日のCOMの青年コミックは資料写真なんか使っていない。私もぜひそうありたい。
●永島慎二は人物から背景まで調和のとれたオリジナルなデフォルメされた画質で出来ていて、実写から遠く離れて完成されている。
●アシスタントが先生そっくりの絵を身につけることによって、他ではツブシがきかなくなるくらいの方が、漫画自体は魅力的だ。
●漫画の中で、あまり「正確な図」というものがない方が面白いよ。パースなんか狂ってるくらいが調度イイかもしれないよ。誰しも脳内は偏ってるもんじゃないのか?と、極端なことを言ってみたりする。
●さすがに「アックス」ですね。とか言われそうだな…。

以上、本日の一連のツイート。
まもなく店頭に並ぶ長編漫画「西遊」だが、ストーリー進行のスピードに合わせておおいに描き飛ばしている。こんな立派な本になるのなら、もちっと丁寧に描けばよかったか?
でもどうせデッサンは歪んでるし、描きたくない細かい箇所はテキトーだし、これが自分の画風なのだ。どうしても自然にこうなるのだ。これでいいのだ。

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読書
「緑の瞳・月影」
ベッケル
 作

スペインの国民的詩人ベッケルの幻想的短編集。詩人に疎い自分はこの作家を知らなかった。詩作は非常にわかりやすい平易で簡潔なもののようだが、この小説作品も同じく平易な読みやすい文体で、するすると流れるように読めて楽しい。幻想文学の王道を行くような内容で夢幻を楽しむことは出来るが、この作者ならではの特異な発想となると、いまひとつ感じられなかった。わかりやすいのだが…。

「白鹿」:狩猟を好む名将ドン・ディオニス一行はある山村で土地の男の不思議な体験を聞く。それは鹿の群れの足跡はあるのに鹿は見えず、精霊たちの話し声が聞こえ、不思議な女たちの話し声・笑い声とともに、一頭の白鹿が現れ他の鹿たちを連れながら走り去ったというものだ。一行のなかのガルセスという男が話を真に受けて川辺で夜を明かし、目の前に現れた白鹿を射ると、鹿が姿を変えた精霊は名将ドン・ディオニスの娘コンスタンサであった。

「怨霊の山」:そのむかし貴族と教団の間で戦いがあり、多くの人が死んだ怨霊の山。毎年万霊祭の夜が来ると亡霊が歩き出し狼どもが吠え回る。ある昼間、伯爵の息女ベアトリースは同じく子息アロンソと山を通った際、水色の肩衣(かたぎぬ)を落としてきたことに気付く。しかし既に万霊祭の夜。勇気を試される如く意を決して怨霊の山へ落とされた肩衣を探しに向かったアロンソ。明くる朝ベアトリースの寝室に置かれた血まみれの肩衣。そして山中で狼に食い殺されたアロンソの死体が発見された。

「はたご屋『ねこ』」:セビーリャ、サン・ヘロニモの修道院近くにあるはたご屋「ねこ」。古いながらもアンダルシア生粋のたたずまいを持つこのはたご屋に、人々は集い飲み、歌い、楽しく一日を過ごす。ひときわ美しい若い娘アンパーロ、彼女に思いを寄せるギター弾きの青年がいた。
しかし十年後、再びその地を訪れた時、はたご屋の近くには墓地が出来、人々は遠ざかり、店は寂れ、若い娘アンパーロは金持ちに引き取られてしまい、深い心の傷を負った青年はあわれ座敷牢の人となっていたのだった。


幻想文学の王道はほとんど悲劇である。

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読書
「新世帯」
あらじょたい
徳田秋声 作

小僧時代からの苦労が実ってようやく酒や醤油や乾物などを売る自分の店を持った新吉。朝から晩まで働きに働いて商売以外に余念がない。やがて周りの人々の世話で嫁をもらうこととなり、薦められるままに農家出身の娘お作と所帯を持つこととなった。
ところが奉公先(バイト先)で評判が良かったというお作だが、何の役にも立たない。商売の手伝いもできないし機転を利かすことも無い。家のことも望んで大きな買い物をする事は無いが、工夫して倹約するということもない。言われたことは失敗しながらもやるが、進んでこうしようという気配り・気働きがいっこうにない女だった。
もとよりせっかちな新吉にしてみれば、とんだ愚物をつかまされたわけで、しじゅういらいらしっぱなしだが、子供も生まれる予定もあり、時々はやさしくしてもやる。
そんなお作が出産を控えて実家に帰っている間に、警察沙汰をおこして入牢する事になってしまった友人の妻お國が行く宛もなく転がり込んでくる。これがお作とは正反対のさばさばしていてなんにでも気の付く女だった。

という事件性をはらんだ展開だが、新吉とお國の間になにかが起きるわけではなく、それぞれの個性豊かな感情の推移が丁寧に描かれて、市井の人々の暮らしというものがしみじみと感じられて楽しい。こんな明治期の小説を今読む人も少ないかもしれないが、読んでみると現代文学となんら変わらない。タクシーが俥に変わっているだけだ。みんなが着物を着ているだけだ。これが初期の自然主義文学の楽しさである。翻って漫画という分野もこの自然主義をしっかり通ってこないとロクな者にならないだろうが、漫画の自然主義とは何かというところがなかなかムツカシイ。

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読書
樋口一葉を読む


男が主人公ではこう奇麗な文章は出てこまい。と思われるほど流麗で情緒のある文章が心地よかった。長文でもさらさらと読まされてしまう。さすがに恵まれない境遇で苦労する女のはなしが多いが、どの女主人公にも作者一葉のルサンチマンが影を落としている。女が生きていくためにどうやって収入をえるか、いつの世にも通じる永遠のテーマが描かれる。


「大つごもり」:お峯を育ててくれた優しい叔父夫婦だが、叔父は病を得て収入の道途絶え、年内に2円の借金を返すことができない。八歳の弟も学校がひけると天秤棒をかついで行商の手伝いをしているありさま。お峯はきっと奉公先の大店から2円借りてくると約束するが、これは現実には不可能に近い計画であった。ついに主家の引き出しより2円を盗み出してしまうが、折よく主家の放蕩息子がその後財布ごと頂戴していったので、犯行はばれなかった。主人公は清廉な女子といえども常に潔白でもいられない。そこを書くのは珍しい気がした。

「十三夜」:身分の違う上流階級の資本家に見初められて嫁いだお関だが、夫からのいじめに耐えきれず、ついに戻らない決心をして夜遅くに実家を訪れる。家ではお月見のお団子が飾られ、いかにも気の張らない庶民の暮らしぶりである。お関は意をけっして両親に離縁の決意を訴えるが、父親に諭されその夜は嫁ぎ先に帰ることに。その帰り道に乗った俥の車夫は、かつて自分に心を寄せていた幼なじみの零落した姿だった。人の運命さまざまである。現代ドラマを見るような趣だった。

「うつせみ」:街中でも緑に囲まれた静かな貸家で、病身を横たえているのは雪子である。気分が良い時には幼子のように両親に甘えてすごすが、いざ狂気となると自死するために飛び出してゆこうとするのを周りの者が必死で取り押さえなければならない。過去に愛した男性が死を遂げたのは、みんな自分のせいと思い込み、苦しげに胸を抱いて身悶える。両親はじめ介護するものみなすっかり疲れきっているのだが、雪子の狂状は日に日に増していくのだった。リアルでしみじみと悲しい小説。

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読書
「どん底」
ゴーリキー
 作

社会主義リアリズム劇の古典を文庫本で読んだ。社会主義リアリズムであるからといって、直接的にプロレタリア解放が訴えられるわけではなく、社会の底辺で蠢く貧しい人々が直接的な描写で描かれているというものだ。そりゃそうでなければ面白くないだろうと予断を持って臨んだ。

このリアリズムは単に社会派のそれというだけでなく、会話に細やかなリアルがあった。例えば「なに?だれがいるって?おい……お前なんとか言ったね?」「なんだって?お前_おれに言ってるのか?」「お前、今なんとか言ったじゃねえか?」「あれか、ありゃなんでもねえ……ひとり言よ……」と、このようなやり
取りは説明的な作品なら使わないものだ。それが省かれていないところが良い。

登場人物はみんな心のすさんだ者ばかりで、誰が誰だかちゃんと追わなくても気にならないが、ひとりルカという名前の流れ者の爺さんが個性的で、この爺さんだけが温厚な人の路をとく。これが基本民衆レベルでのキリスト教を根っこにしているのがまたリアル。それはそうで、ここで爺さんが労働者解放を説いてもおかしいだろう。

大きなストーリーは無く、泣いたり喧嘩したり病気したりして、酒を飲んではぶつぶついうというものだが、もしこれがコメディであっても大衆が主人公の集団劇となるとそうなるかもしれない。また階層がどん底でなくてもインテリが出てこなければ、この方法はある種基本形なのかも。

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読書
「自由の彼方で」
椎名麟三
 作

現在でも格差社会で底辺の生活は厳しいものがあろうが、この自伝的小説に書かれた戦時中の作者の境遇たるや、あまりに悲惨で驚いた。いや金銭的には食えている時期もあるのだが、なにせ人格が浮世離れしているからなあ。

主人公が未成年の頃、コックの見習いとして厨房に入っているところから話は始まる。ここに登場するのが人品卑しい若者たちばかりで、水商売の世界で生き抜いていくあれこれが面白く、主人公にも哲学的・観念的な思索は一切無い。ときどき夜空の星を見上げては、自然と涙をながすばかりだ。
そのリアルな世界にひきこまれて読み進んでいくと、主人公はいつのまにやら神戸ー姫路間の鉄道で車掌をやっているのだ。これがなかなかに過重労働で、やがて自らの意志で共産党員になってしまう。戦前だからもちろん非合法。秘密裏に連絡を取りながら、職場でビラを配ったりして労働運動を画策する。

しかしコックをやっても車掌をやっても共産党員をやっても、どこかなぜやっているのかわからない、自分がまるで幽霊としてこの世に生きているような感覚。死に操られて生きている男。主人公は精神性が過剰なあまり、現実に対して本気になれないのではないだろうか?精神デッカチの畸形ではないのか?
このあたり自分の共感するところで、自分もひととおり学校も出て会社勤めもしたが、未だにどこか密着した感じになれず、社会人としてはどこか宙に浮いたような気持ちで過ごしているのだ。

ついに警察にとらえらえた主人公。彼は留置場でシラミと格闘する無為な毎日を送り、ついに非人間的な一個の抽象物へ成り果ててしまった。することといえば、ダイヤモンドの製造法を考案して金持ちになるなど、非現実的な妄想をふくらませるばかりである。
このあたりの現実離れ感もまったく若いころの自分と共通するものがある。

やがて出獄した主人公は、土間に畳を二枚敷いただけの物置のような部屋を借り、マッチ工場で三人分の雑役を一人でやらされて、疲労困憊しながらも自身の境遇に付いて考え直す気力も無く、ぼろぞうきんのように働く。それでも蚊を叩き潰したときなど、ふと最低限の意志に気がつくこともあり、そんな時久しぶりに彼は人間へと帰ってくるのである。そしてそんな彼でも物語の最後には、まるで輝かしい未来があるかのごとく夢中になって東京へ向かうのであった。

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