漫画家まどの一哉ブログ
読書
「門」夏目漱石 作
(新潮文庫)
許されない愛に走った2人のその後の人生は?「三四郎」「それから」に続く三部作最後の作品。
何気なくふと読みだすと、平凡な日常会話のやり取りが面白く、ついつい引き込まれて読んでしまった。もっとも話は半ばくらいまで大きな出来事もなく進行し、やや飽きてきた。
「それから」で親類や世間すべてを敵に回して縁を切った2人だから、生活は世間との交流も少ない。お互いをかけがいのないものとして慈愛を深め合ってゆく生き方が静かに胸を打つ。我が家も子供のいない夫婦生活だから他人事とは思えない。
それでも弟を引き取ったり、妻が病気になったりと、ちょっとした起伏はあって面白く読めた。終盤ついに自分が裏切ったかつての友人が近くに現れるいきさつとなり、主人公は大いに動揺するが、彼にアドバイスするならば、これは覚悟を決めるしか仕方がないのではないか。略奪愛が旧道徳に反するといっても、愛に従ったこと自体は悪いことではないし、すでにやってしまった事を今更思い悩んでも救われない。その必要もないと思う。
その流れで彼は禅寺へ短期間の体験修養に出るが、やはりいきなり事態を解決するほどの得心は得られない。それでもこのエピソードはおもしろかった。
「それから」の激震的な内容から比べると静かな内容だが、人生には静かな波風が立つものである。
読書
「妻を帽子とまちがえた男」オリヴァー・サックス 著
(ハヤカワノンフィクション文庫)
脳神経科学者が出会った驚きの患者たち。その症状を喪失・過剰・移行・純真のキーワードで読み解いていく。脳の障害から見える人間を形成しているものは何なのか?温かみ溢れる科学エッセイの傑作。
ここには直近の記憶を失ってしまう人が出てくるが、書かれている通りもし記憶というものがなかったら、人は自分の人生の移り行きを意識できるだろうか。また半身の体の感覚を無くした人を見ても思うが、もし体からのフィードバックが全く無ければ自分が存在している確信をどうやって得るのだろうか。
表題「妻を帽子とまちがえた男」は右脳に障害を受けて、物の姿形は正確に把握できるが、それが何でどういう役割を持つものか分からなくなった人の話だが、我々と我々を含む世界は脳の絶妙な働きで、さもあたりまえのように成立しているらしい。
側頭葉発作によって脳内に起こる非常にリアルな追想や音楽は、わずらわしいものもあるが、人生に喜びをもたらすものもある。刺激される側頭葉の箇所によって、発現する幻想の種類が特定できるのも、なんだかさみしいような気がする。
知的障害とされる人々の天才的な画力や記憶力はしばしば耳にするが、こればかりは脳神経のどういう作用によるのかわからない。最近もそういう女性が話題になったが、素数が螺旋系のピラミッドのごとく繋がって見える人がいるのは、数というもに対する我々の認識からはるか彼方の世界だ。
読書
「理不尽ゲーム」サーシャ・フィリペンコ 作
(集英社)
事故により植物人間となり回復不可能と診断された青年ツィスク。10年に及ぶ祖母の献身的な看病の末、奇跡的に目をさますが、そこで彼が見たものは独裁国家ベラルーシの恐ろしい現実だった。
音楽学校に通いながらチェロ演奏家を目指す彼はほぼ落第生。そうこうしてるうち地下鉄での群衆将棋倒し事故に巻き込まれて昏睡状態となる。ここまでの社会の描写ですでにベラルーシが民主化とは逆方向に少しづつ動いている様子がわかる。
その後物語の半分あたりまで彼は植物状態で、いつになったら覚醒するのかもどかしい思いだが、たった一人病室へ通うおばあちゃんの献身的な働きが感動的だ。
そしてついに奇跡の覚醒。しかしベラルーシは現在も進行するルカシェンコ大統領の独裁国家が完成されており、3%の支持率でも軍と警察を掌握している限り、恐怖政治は揺るぎないのだった。
セリフが生き生きとして、人物が皆等身大で生きている実感が伝わって来る。社会派小説といった風情はまるでなくて、青春小説のような味わい。
起きている現実は絶望的で、社会は止まったままだが、それでも個々の人生は進まざるをえない。果たして未来があるのかどうかもわからない悲しい人生がつらい。
読書
「沈黙」ドン・デリーロ 作
(水声社)
突然の大停電に襲われた街で、とあるマンションの一部屋に集まった5人。会話ならぬばらばらの沈黙がひとりひとり訪ずれる。
飛行機の不時着事故から始まって、街は停電になり、それでもフットボールの試合をみんなでテレビ観戦しようと予定していた5人は部屋に集まった。
パニック小説かと思いきやそうではなく、突然の停電に右往左往する街の人々の様子は、後半一瞬触れられる程度で事体自体の進展はまったくない。
ほとんど部屋の中のシーンで、夫婦や友人が5人も集まっているのに、今回の状況についてあたふたと語り合ったりしない。沈黙であり、モノローグである。ただ一人物理学の若手教師である青年が憑かれたようにとうとうと、アインシュタインの言行をもとに文明世界を概観して喋っている。彼がやや異常な役割だが、あとの4人はきわめて日常的なぼんやりした思いが頭の中を行き来していて、ときどきふと人生や世の中をふりかえるばかりだ。
この静かな静かな展開を楽しめるかどうかがこの作品を受け入れる鍵だ。私にはその力はなかった。
読書
「十蘭錬金術」久生十蘭 作
(河出文庫)
フランス、南極、樺太。海に空にさまざまな冒険実話から創作まで、ただならない事件ばかりを集めた短編集。
例えば「南極記」。「見るかぎり白一色に結晶し、白金よりも堅く厳しい大氷原のただなかで、眼をくすぐるような都雅な色彩に接しようなどとは思っていなかった。」この格調高い凛とした筆致。あくまで主知的で、抒情に流されることを笑うかのような語り口。この怜悧な眼差しでままならない社会や人生を描写されては、もう参りましたと降参して読むしかない。今さらに思う。これもまた時代を超えるエンターテイメントの完成形。
「勝負」:あの山田風太郎を唸らせた逸品とのこと。ひとりの女性をめぐる二人の男性(夫とその友人)。体躯も大きく性格も男性的な友人が最後には勝つのは、やはりなんとなく寂しい。
「プランス事件」:行方不明となったプランス判事は、地方鉄道の線路上で轢死していた。政権の闇をめぐる、あたかも下山事件を彷彿とさせるドキュメント。しだいにプランス判事が不品行な人物に仕立て上げられるところなど、まさに闇。
「海と人間の戦い」:4つの有名な海難事件のルポ。タイタニックも登場。大洋に筏やボートで投げ出されると人間は恐怖に耐え切れず正気を失うらしい。恐ろしい。
「公用方秘録二件」:安政年間。フランス使節団をもてなす側の下級武士団。主人公は動物好きのおとなしい侍の印象だが、いざフランス人公爵との西洋式決闘となったとき、意外にも熟慮と腕がある。これは興奮。
読書
「ヴォィツェク/ダントンの死/レンツ」
ビューヒナー 作
(岩波文庫)
19世紀前半、23歳で夭折したドイツ人作家ビューヒナー。時代に先んじて時代を超えた代表的戯曲と小説。
訳者解説によると戯曲史からみれば画期的・先駆的で彗星的存在ということだが、演劇に疎い自分としてはそれはわからない。しかし3編とも話自体が起伏に富み、めまぐるしい場面転換の連続でたいへんおもしろく、セリフもいきいきとして魅力的だった。
「レンツ」:劇作家レンツ(1751-1792年)。その悲劇的な生涯の一端を描いた小説作品。山道を行く情景描写に心迫るものがあり、それが作風の特徴かと思ったが、主人公レンツが統合失調症をしだいに悪化させていく様子は医者が見ていたかのような迫真の恐ろしさ。
「ヴォィツェク」:働き者の鬘師ヴォィツェクが嫉妬のあまり愛する妻を刺し殺して池に沈めてしまうという実在の事件をモデルにした劇作。このヴォィツェクという小心な好人物が犯罪に至るまでが情けない。妻マリーが彼を愛しているだけに痛々しい。
「ダントンの死」:フランス革命に詳しくなくともワクワクと読める戯曲。基本的にはダントン一党とロベスピエール公安委員会らとの抗争だが、ダントンは虚無的で多面性のある文芸的な人格として描かれる。かといってロベスピエールが荒々しい人物というわけでもない。どちらに心情をよせてもいいが、皆かなり若々しく感じる。しかも線の細い二枚目風の印象だが実際のダントンの風貌はまるで正反対だ。
読書
「こぼれ話、物語、笑い話」サド全集【第七巻】
(水声社)
獄中で執筆され、短編集として構想されていた艶笑小説を収録。他に構想メモや断片、蔵書目録なども。
ごく短いユーモラスなエロティック小説ばかりで、話自体は特別なものはなく、浮気に励む夫がまんまと妻に復讐されるようなネタが多いが、面白く読める。
さすがサドなのか、訳文を読んでいるだけだが脳に心地よい緊張感があり、なんといっても文章の格が違う気がする。これはたわいのない艶笑譚だからこそかえって気づくのかもしれない。
「慰み者にされた法院長」:もはや老齢の身でありながら若く魅力的な女性を妻として迎え入れることに成功した悪徳法院長。彼女や周りの人々がこの結婚を阻止しようとあの手この手で法院長を酷い目に合わせる爆笑小説。法院長がどんな目にあってもすぐ次の罠にひっかっかるのがおかしい。収録中最も長い短編。
「オクスティエルナ伯爵あるいは放蕩の危険」:併録された戯曲作品。公演を重ねるうちにしだいに好評を得たらしい。この伯爵は極悪非道な人物で最後には殺されるのだが、そのシーン自体はなく語られるだけで、カタルシスをえられないままさっさと終わってしまう。
読書
「脳を司る脳」毛内 拡 著
(講談社ブルーバックス)
ニューロンによる情報の伝達のみが脳の働きではない。脳の隙間を埋める髄液やグリア細胞の知られざる働きを探る最新脳科学。
近頃はセロトニンやドーパミンなど、我々でもその働きをよく聞く脳内物質が、なんと間質液で満たされた脳の細胞外スペースを伝わって広がっていくとは。そこまで考えたことなかった。
この細胞外物質が金属よりも電気を蓄える能力を持っていることが縷々解説され、シナプスを介さない信号のワイヤレス伝送に役立っているのかもしれないとのこと。これもまだ謎。
IQの高い人の方が神経細胞の密度が低くシンプルで、脳の活動の度合いが低いと言われれば意外な気もするが、自分の脳が少し考えただけで悲鳴をあげてショートしそうになることを顧みれば肯ける。
グリア細胞アストロサイトがストレスから立ち直る心や、アイデアのひらめきに関係しているなど、おもしろかった。人間意識の謎に迫るかとも期待したが、そうでなくとも「こころのはたらき」には充分関与しているらしい。
読書
「外道忍法帖」山田風太郎 作
(河出文庫)
天正遣欧施設の秘宝をめぐって繰り広げられる、由井正雪一党・天草残党・隠れキリシタン童貞女。計45人の忍者たちの凄絶なる戦いの行方やいかに!?
ひさしぶりに読んでみた山田風太郎の忍法帖シリーズ。これはそんなに長編でもないわりに、なんと各々15人ずつの忍者が3党入り乱れての秘術合戦でありいかにも多い。もう物語も後半になるとてきぱきとシステマティックに進行して、忍者も登場して術を披露するやいなや死んでいく。もう少し人数を減らして一人一人丁寧に描いてくれてもよかったかと思うが、これもひとつの実験なのか。
忍法は相変わらずの人体の一部を異様に拡張・変形させて使う、エロチックでグロテスクなものだが、着想に限界はないように思われる。もちろん作品は娯楽に徹した荒唐無稽なものだが、この忍術の奇妙奇天烈な発想は、芸術とは別のなんだか捨てがたい幻想味があって、これはこれで貴重なものだと思う。
読書
「フランケンシュタイン」シェリー 作
(光文社古典新訳文庫)
若き科学者フランケンシュタインが生み出した人造人間。人間離れした頑健な肉体を持つ彼は、知能・感情も豊かで繊細な怪物であった。
誰もが知る怪奇幻想小説の古典。作者メアリー・シェリーがこの作品を書いたのは1817年と思いのほか古く、映画のイメージもあってもっと現代に近い時代の作品だと思っていただけに驚いた。
怪物は人間味あふれる繊細な心の持ち主であるばかりでなく、優れた知性と教養の持ち主で、これはこの悲劇の悲劇性をさらに際立たせる効果をもっている。しかも彼は肉体的にも超人である。
これだけ特異なキャラクター設定があれば、この物語の主人公はフランケンシュタイン博士であるとともに怪物でもあって、どちらも苦悩と破滅の人生を歩む筋立てだ。
怪物は神出鬼没で舞台はヨーロッパを軽く踏破するスケール。自在な物語展開に作者の発想の自由さを感じる。もとより荒唐無稽とはいえキワモノ的な驚かしではなく、怪物の人間的な悲しみに沿って読める怪奇・SFの先駆的名作だと思う。