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漫画家まどの一哉ブログ

   

「待望の短編は忘却の彼方に」
中原昌也 作
(河出文庫)

混沌とイレギュラー、はみ出しと番外を感じさせる破格の短編集。

この作家は自分の知らないうちにどうも奇妙な短編を書いているのでは?と思って読んでみると果たしてそうだった。ふざけているのかとも思われるが全く気にならない。いい加減なのか、よくできているのかわからない。駄菓子のようなチープな感触もあるが、ひょっとすると名作かもしれない。イラストで出来た作品もある。

巻頭「待望の短編は忘却の彼方に」の書き出しが、巻末「音楽は目に見えない」でやや視点を変えてもう一度出てくるという趣向になっている。

短編でありながら話が逸脱してどこへ行くのやらわからないまま終わる。いわゆる伝統的な文学の枠組みが見えないので、自分のように不慣れな読者はなにか騙されたような気がする…。

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「臨海楼綺譚」
スティーヴンスン 作
(光文社古典新訳文庫)

稀代のストーリーテラー、スティーヴンスンの面白短編4編。

「臨海楼綺譚」:王道をいく冒険譚。海岸近くの望楼で炭焼党員を迎え撃つ。タッグを組む旧友の性格が勇敢だが正義漢でもなく、いい味出してる。

「その夜の宿」:教養人でありながら荒くれた下層生活を続ける詩人ヴィヨン。財布をすられた深夜、とある代官の家に一夜の宿を求めるが…。
珍しくストーリー本位な書き方ではなく、主人公ヴィヨンの屈折した思想・心情に焦点を当てた佳編。代官の重んずる礼節と名誉が裕福である故のものであることをヴィヨンは明らかにするが、通じる相手ではない。

「マレトロワの殿の扉」:仕掛けられた扉から、さる名門の屋敷に捕らわれてしまい、令嬢とむりやり結婚させられそうになるという大変な設定。ものすごい無理筋。分からず屋の老叔父が相手。短編なのでそれだけで十分面白い。(個人的にオチはよくわからない)

「天意とギター」:歌と演奏で皆様のごきげんをうかがう旅芸人の夫婦。この旦那は自身の職業を芸術と吹聴しているが、芸能も含めて芸術全般を広く解釈している様子。楽天的な性格が愉快。妻とともに大声で歌い続けるが、はたしてうまいのか下手なのかわからない。後半登場する貧乏画家の画力もそう。それにしても町の連中が何故か芸人にあまりに冷たい。

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「不思議な少年」
マーク・トウェイン 作
(岩波文庫)

平凡な3少年の友人として突然現れた天使サタン。天界の住人として万能の力を持つ彼は、人間の救い難い愚かさ・残酷さを容赦なく明らかにしてみせる。

なんとなく遠ざけていた著者代表作だが、まさかこんな内容だとは思わなかった。不思議な少年であるサタンは天使であり、人間より遙かに優れた存在なのでなんでもできる。簡単に時空を飛び越え一瞬で過去へも未来へも行くし、誰の意志をも自在に操る。運命も操作できる。ここまで万能のかけ離れた存在を設定すると、話はなんでもありで面白くないんじゃないかと疑念を持ったが、これが面白い。

彼サタンは人間など目に見えない小虫くらいにしか思っていないので、問題解決のため簡単に殺したり発狂させたりしてなんの痛痒も覚えない。我々が共有するヒューマニズムの視点を超えて、人間の愚かさ・残酷さ・卑小さを徹底的に明らかにする。しかもそれを人間のみが持つ良心という名で呼ぶとは、なんとアイロニカルな視点だろう。

しかしこれはアイロニーではなく事実だから仕方がない。長い歴史の中で飽きることなく権力闘争・殺戮・戦争を繰り返す、残忍で卑屈で愚かなる人類。晩年のマーク・トウェインがたどり着いた絶望は残念ながら正しい。しかしご安心あれ、サタンの言うように人生は全て幻。存在とは虚しい永遠の中をただひとり永劫にさまよい歩く一片の思惟にすぎないのだから…。

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「蛇口」
シルビナ・オカンポ 作
(東宣出版)

現代アルゼンチン短編小説。短いことを存分に活かした幻想文学集。

ごく短い小品ばかりで手軽に読めるが、充分な幻想性があって楽しい。前半、とらえどころのない、ややわかりにくい作品もあるが、本も半ばにさしかかると読みやすく次々と読める。

短いから不思議なことがすぐ出てくる。そしてそのまま捨ておかれて解決しない。これが小気味よいというか心地よくて、これも小品の効能というものだろう。もちろん構成が単純というわけではない。

たとえば残雪やルーセルの作品にある夢幻的世界にはまり込んで抜け出せない息苦しさがない。充分息がつける書き方が嬉しい。これはシュールな出来事に対して語り手がどれくらいの距離をとって書いているかによる違いと思うが、これが息がつけすぎると人畜無害のショートショートのようになってしまう。そこはちゃんと読む者の存在を揺らしてくれるのでありがたい。短編であることが最も活かされた作家

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「ウィステリアと三人の女たち」
川上未映子 作
(新潮文庫)

平凡な日常の中にもちょっとした異変が潜んでいて、ある日ふと顔を出す。短編4作。

文章が美しいだけでなく心躍るリズムがあって、読むことが楽しい。選ばれる言葉は上品だけど大胆。つねに動きを孕んでいて止まろうとしないため、呑まれるように読み進んでしまった。

「ウィステリアと三人の女たち」:夫の留守中に解体途中の旧家に深夜忍び込んだ主婦の話が、いつのまにやらウィステリアと最愛のイギリス人女性の悲しい思い出に。ここまで違う内容を半分づつ繋げた短編も珍しい。妄想はうつろな日常から飛躍して現実を解体する。

「彼女と彼女の記憶について」:女優となって謂わば出世した彼女が、ふと気まぐれに故郷の中学校の同窓会に出席してみると…。彼女がクラスメイトのことを全く覚えていないのも極端だが、自分が裸にして弄んだ友人のことさえ忘れている。そして繊細な人間も無神経な人間もどこでも同じだけいる。彼女を含めて。

「シャンデリア」:終日デパートで過ごすなんて物好きな人間だと思ったが、彼女は急な成金。またほんとうの金持ちの老婦人も登場。金はあるところにはある。彼女は突然大金を持ったことを受け入れ難く蕩尽しているが、これは貧しい育ちの庶民にはありがちかもしれない。

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「樹影譚」
丸谷才一 作
(文春文庫)

手を替え品を替え書かれた短編3作。風味馥郁たる名品を味わう楽しさ。

「樹影譚」:樹自体ではなく壁に映った樹の影の美しさにひかれるのは何故か?その感覚の由来をめぐる。作者はそれを短編小説に仕立て上げようと目論むが、ナボコフの同様の作品に思い当たり、調べてみるが判然としない。その過程を面白く読んだところで、さて仕立て上げた短編小説が始まる。
主人公はやはり小説家であり、その短編小説の中でも壁に映った樹の影に魅せられる由来をあれこれ思い巡らすという二重構造で、箱の中に箱があるようなカラクリだ。
最後には愛読者である老婆が登場し、幼き作者が樹の影にとりつかれた所以を明かすが、これも狂人のたわごとという実に手の込んだ傑作。

「夢を買います」:夜の店で働いているらしい女性が友人へ語りかける態で書かれた、最初から最後まで彼女の口調で終始する短編。客である宗教学者のしつこさがおかしい。砕けた口調でこの面白さはやはり手練れならでは。

「鈍感な青年」:図書館で知り合った初心な二人が佃島を散歩したのち、初めての体験に至る様子。会話がどれも最小限の短さで、軽快なリズムで読める仕上がり。

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「遮光」
中村文則 作
(新潮文庫)

恋人の死を周囲に隠しながら生きる、言動のすべてが他者の目を意識した虚言で占められる青年。病的な日常を描いた恐ろしい小説。

幼き頃に両親を亡くし、以後周囲の人間に嫌われないよう他人の顔色ばかり見て生きてきた男。自分の言動がすべてそれらしい演技であることを、常に自分でも意識している。しかし確固とした主体的意識が内奥にあるわけではなく、心の中心は空洞でほんとうの自分というものは終ぞ無い。

読みだすとわかるがこの青年の人格は明らかに病的で、それが一人称で書かれているため、他人事で無い空恐ろしさがひしひしと伝わる。虚言癖とはそんなものかもしれないが、罪の無い虚言を超えた暴力や奇行が連続して、読んでいて心苦しい。選んだのを後悔したがそれも遅く、短いものなので読んでしまったが、これも文学の力だ。

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「海」
小川洋子 作
(新潮文庫)

どこか幻想的で奇妙な風味溢れる短編集。

日常からの離れ方がさりげなくて、意図的にこしらえた設定であってもわざとらしくなく、独特の香りを楽しみながら読める。

「バタフライ和文タイプ事務所」:医学部の院生が書いた論文を5人のタイピストがひたすら打ち込んでいる不思議な事務所。タイトルである事務所名が既に秀逸である。印字に欠けが発生する漢字が糜爛(びらん)の糜や、睾丸(こうがん)の睾など、官能文学に寄り添って書かれたおかしさと幻想味がないまぜとなった傑作。もし私が現代幻想文学短編集の編者なら間違いなく入れる!

「ひよこトラック」:ケバい獄彩色に塗られた縁日で売られるひよこを満載したトラックが、定期的に通り過ぎていく。という情景そのものが夢の中にいるようだが、それを見ているのがホテルのドアマンと、彼の下宿先の絶対しゃべらない少女。彼女が蒐集しているのが昆虫や動物の抜け殻という、白日夢の中にいるような小品。

「海」:結婚の挨拶に訪れた彼女の実家で、義理の弟の部屋で寝ることになる。この弟が自作したメイキンリンという楽器は果たしてどんな音色を奏でるのか。落ち着かなさと、はっきりしない妙な具合が味わえる。

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「ホモ・エコノミクス」ー利己的人間の思想史
重田園枝 著
(ちくま新書)

科学たるべく経済学が中心に据えた概念ホモ・エコノミクス。新自由主義に侵された昨今、ホモ・エコノミクスが経済学を超えて我々の日常を侵食するまでを広範な社会思想史から分析する。

世の中知らないうちにあらゆる局面で資本の(商業の)言葉が大手を振って歩き、なにもかもが金(カネ)の話になっていくことを、なんとなく憂いていてこの書を手に取った。
著者は政治思想史の専門家(著者のちくま新書過去2作は読了済)であるから、経済学がホモ・エコノミクスを採用・発展させていくまでを多くの経済学の先人の歩みをたどって紹介してくれるが、素人としてはその辺は飛ばし読みした。

三部に分かれる本書のうち、やはり馴染めるのは第三部「ホモ・エコノミクスの席捲」であって、たとえば大学教育をすぐさま利益に結びつく成果を目標とし、費用対効果で査定していくことの不毛さや、農業を短いスパンで利益を求めた結果、地球環境の大きなサイクルを破壊してしまう愚かさなど、ふだん見聞きする現代社会に浸透してしまったホモ・エコノミクスの災いをあらためて確認することができる。また世界的に広がる「政治嫌い」の所以についても、ホモ・エコノミクスの結果であるらしく、興味深い所見を得た。

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「世界は『関係』でできている」ー美しくも過激な量子論
カルロ・ロヴェッリ 著
(NHK出版)

量子の奇妙なふるまいの正体を新たな解釈「関係」をもって突破する。話題書「時間は存在しない」につづく目から鱗の問題作。



前作「時間は存在しない」を興奮して読んだ自分だが、同じく物理に疎い自分のような者でも安心して読める。もちろん正しく読めているとは思わないが、数式もなく、華麗なる文芸的なイメージも漂わせておもしろい。

相互作用なくして属性なし。不思議不思議な量子の世界。
量子重ね合わせが存在するとき、シュレーディンガーの猫は起きているか眠っているか(死んでいるか)の両方で、観測したとき初めてその属性が発現する。対象物は相互作用したとき、相手との関係によって初めてその属性が決まる。つまり事物は関係することによって初めて事物たるのだ。

世界は何も決まっていない量子重ね合わせの網の目の中にあって、観測者との相関が生まれた瞬間に初めて現実となる。
これは衝撃的な発見だが、この量子という極めて小さなしかし物質の本質で起きていることを、われわれを含む存在全てに敷衍してしまっていいのだろうか。世界が量子で出来ている以上いいのかもしれない。

形而上の深層を窺う必要がないし、他世界解釈も必要としない。世界は秘せられた仕組みのないフラットなものとなって現れた気がする。それでもなお世界と存在の意味を問うとしても、問いようがなく答えもないところへ来てしまった。
物理に疎い自分の書ける感想はこれくらいです。

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