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「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」
読書
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」
内山 節
 著

昔から日本人の生活の中でごく自然にあった「キツネにだまされる話」。
これがしだいに廃れて語られなくなったのが、どうやら1965年頃らしいという興味深い発見から始まる哲学的エッセイ。それがほんとうだとすると、そのころから日本人の生活の仕方が大きく変わったのではないか。ちょうど高度経済成長のただなかで、キツネが暮らす農山村でも経済発展のみを追いかける生き方が主流となった。また科学技術を信奉して迷信を排し、テレビや電話の普及によってコミュニケーションのあり方が変化した。進学率が高まって伝統的な村の教育より全国一律の受験教育優先となり、村の自然と共同体のなかで生きることを離れて死生観が変わった。と、なるほどこれらの変化を1965年を境にして考えるならば、キツネとの交流を失っていくのは当然で、素直に納得できる話だ。

ところがこの著作は実は「歴史哲学序説」であって、ここからがおもしろいのだ。

人類は進歩・発展するものとして直線的に過去を振り返るのが現在の歴史の見方であり、後れた社会から技術・経済・人権などが発達した現代社会へと進んでいくものとして書かれる。
そういった発達していく歴史ではない、過去をのりこえようとしないあるがままの自然と一体となった村の暮らし。生者と死者がともに生きていく暮らし。そこにも歴史というものはあるのではないか。それが人々がキツネにだまされて生きてきた歴史ではないか。

いきなりだが、主観は世界から先がけて存在しているのではなく、世界に向き合うことによって立ち上がってくるものだ。したがって世界から独立した主観というものは存在しないし、主観を排することもできない。歴史学が客観的事実としているものは、あくまで主観によって選びとられた客観的事実である。
そしてそれは合理的な知性の働きであるけれども、その知性は現在の問題意識によって記憶を選びとっていくから、それだけが歴史であったように見えてしまう。

ところが記憶にはふだん意識されないものもずいぶんあって、何かの拍子に思い出すこともある。また手や身体が覚えている記憶もわざわざ言葉では意識されない。われわれが主体的な意識と思っているものは、実は記憶の中のごく一部にすぎない。つまり知性は生命のごく一部にすぎないとすれば、知性で歴史をとらえていくことは生命の歴史を見えなくしてしまうのではないか。そうやって見えない記憶・身体の記憶・生命の記憶を忘れていく過程で、われわれはキツネにだまされなくなってしまったのである。

以上は現代哲学ではベーシックな考え方となっているらしいが、これをわざわざ歴史という言葉でとらえることにより、現代の私たちの生き方を反省することができるというもんだ。やはり社会や自然との共生感を取り戻さなければ、生きることも死ぬこともつらくなるよ。これって大事だよ。う〜む。

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