漫画家まどの一哉ブログ
現在「月刊架空」では連続して安部慎一原作の漫画化が行われている。西野空男と斎藤種魚の作品がそれだ。なるほど内容はべったりとアベシンだ。いつもの私生活と宗教的思索、青年時の父親との葛藤など、原作に忠実に展開されているようだ。
しかし自分は不思議な違和感を感じた。人によっては漫画になっていないという意見もあるが、いやいやアベシンが自分で描いてもこうですよ。この展開になると思うよ。
この違和感はどう考えても、唯一無二のアベシンのネタなのに、唯一無二の西野空男や斎藤種魚の漫画世界で描かれているからだよ。
それで別のことを考えたが、ひょっとしたら漫画というものは、人物やらデフォルメやらセリフやらコマ展開で出来ているのではないのかな?
実は漫画を漫画たらしめているものは技術や方法ではなく、言葉には置き換えられないような、もっと描き手の身体そのもの。汗の匂いや、歩き方、声質、笑い方、肌の色、寝る姿勢のような言わば本人のDNAそのもの。技術や方法である程度までは描けるとしても、読者が感じているのはそこじゃない。読んで面白いのは他人が学習出来ない部分。つまり全ての漫画は自己流でしか描くことが出来ないのだ。
PR
しかし自分は不思議な違和感を感じた。人によっては漫画になっていないという意見もあるが、いやいやアベシンが自分で描いてもこうですよ。この展開になると思うよ。
この違和感はどう考えても、唯一無二のアベシンのネタなのに、唯一無二の西野空男や斎藤種魚の漫画世界で描かれているからだよ。
それで別のことを考えたが、ひょっとしたら漫画というものは、人物やらデフォルメやらセリフやらコマ展開で出来ているのではないのかな?
実は漫画を漫画たらしめているものは技術や方法ではなく、言葉には置き換えられないような、もっと描き手の身体そのもの。汗の匂いや、歩き方、声質、笑い方、肌の色、寝る姿勢のような言わば本人のDNAそのもの。技術や方法である程度までは描けるとしても、読者が感じているのはそこじゃない。読んで面白いのは他人が学習出来ない部分。つまり全ての漫画は自己流でしか描くことが出来ないのだ。
映画(mixi過去日記より)
「現金(げんなま)に体を張れ」The Killing
スタンリー・キューブリック監督
自分のような映画に疎い人間でも、わずか数作観たキューブリックはみな面白い。
競馬場の金庫から200万ドルの強奪計画をたてた男達。本命の馬をレース中に狙撃、また喧嘩騒ぎを起こして警官が出払っているスキをついて、まんまと現金の強奪に成功。あとは再び集合して山分けするだけかに見えたが、計画を嗅ぎ付けた欲深い女の手によって狂い始める…。
登場人物のわかりやすい性格設定。見た目もいかにもといった感じの気弱そうな小男やずるそうな女など。心理描写もさほど踏み込まず、すべてはストーリーのために徹底してムダが省かれている。
犯罪劇に親しんでいる人からしたら、どの程度の出来のネタなのかはわからないが、退屈しなかった。散漫な画面やダラダラした展開がないから観れた。それがキューブリックの手腕なのかどうか、映画通でないのでわからないが。
ぜひ手塚治虫に漫画にしてもらいたいところです。サクサク進むコマ展開や、手塚得意の暴力シーンが思い浮かぶよ。今の描き手なら細かく描写するつもりで、緩急失敗しそうです。
「現金(げんなま)に体を張れ」The Killing
スタンリー・キューブリック監督
自分のような映画に疎い人間でも、わずか数作観たキューブリックはみな面白い。
競馬場の金庫から200万ドルの強奪計画をたてた男達。本命の馬をレース中に狙撃、また喧嘩騒ぎを起こして警官が出払っているスキをついて、まんまと現金の強奪に成功。あとは再び集合して山分けするだけかに見えたが、計画を嗅ぎ付けた欲深い女の手によって狂い始める…。
登場人物のわかりやすい性格設定。見た目もいかにもといった感じの気弱そうな小男やずるそうな女など。心理描写もさほど踏み込まず、すべてはストーリーのために徹底してムダが省かれている。
犯罪劇に親しんでいる人からしたら、どの程度の出来のネタなのかはわからないが、退屈しなかった。散漫な画面やダラダラした展開がないから観れた。それがキューブリックの手腕なのかどうか、映画通でないのでわからないが。
ぜひ手塚治虫に漫画にしてもらいたいところです。サクサク進むコマ展開や、手塚得意の暴力シーンが思い浮かぶよ。今の描き手なら細かく描写するつもりで、緩急失敗しそうです。
読書(mixi過去日記より)
「香水」ある人殺しの物語
パトリック・ジュースキント作
先頃公開された映画「パフューム」の原作
18世紀フランス。光を見、音を聞くが如く、あらゆる物の臭いを嗅ぎ分ける絶対的な嗅覚の持ち主グルヌイユは、孤児の身分からやがて天才香水調合師としてパリ中に名声を馳せる。だが、彼が追い求める究極の香りとは、胸も膨らみかけたばかりの処女の持つ体臭であった。女の肉体にはなんの興味もない彼は、その香りだけを永遠に手に入れるため、密かに殺人を繰り返してゆく。といったストーリー。だがミステリーにあらず。
舞台は18世紀だが、近年書かれた幻想文学の傑作。耽美風味はなく素直な文体で読みやすいクチ。
物語途中、パリを離れた主人公が山中の洞窟で何年も世捨て人としての生活を送るが、このインターバルが結構長くて、自分は一度中断してしまった。必要やったんやろか?と、今でも思う。映画は未見だが、どうなってるんやろ?
(池内紀 訳・文春文庫)
「香水」ある人殺しの物語
パトリック・ジュースキント作
先頃公開された映画「パフューム」の原作
18世紀フランス。光を見、音を聞くが如く、あらゆる物の臭いを嗅ぎ分ける絶対的な嗅覚の持ち主グルヌイユは、孤児の身分からやがて天才香水調合師としてパリ中に名声を馳せる。だが、彼が追い求める究極の香りとは、胸も膨らみかけたばかりの処女の持つ体臭であった。女の肉体にはなんの興味もない彼は、その香りだけを永遠に手に入れるため、密かに殺人を繰り返してゆく。といったストーリー。だがミステリーにあらず。
舞台は18世紀だが、近年書かれた幻想文学の傑作。耽美風味はなく素直な文体で読みやすいクチ。
物語途中、パリを離れた主人公が山中の洞窟で何年も世捨て人としての生活を送るが、このインターバルが結構長くて、自分は一度中断してしまった。必要やったんやろか?と、今でも思う。映画は未見だが、どうなってるんやろ?
(池内紀 訳・文春文庫)
mixi日記より
たぶん77年か78年ころかな、阿佐ヶ谷の高瀬コーポにアベシンを訪ねたことがある。(「消えた漫画家」の中でチラと触れてあったかな?)前の日に夫婦喧嘩をして、ものを投げたらアパートの玄関ドアにあたって、ガラスにヒビが入り、とっさに喧嘩のことを忘れて弁償のことで頭がいっぱいになった。なんて話を聞いた。「まどのくんの絵は粘りがあっていい」といわれた。
ちょうど氏が「高橋信次の宗教法人GLA」に凝り出したころで、悪霊についてレクチャーを受けたがよくわからなかった。そのGLAのカセットテープを一日中かけていると、「隣近所の人からあそこは宗教に入ってると思われちゃうよ」と笑いながら話していたのがどう考えても変だ。
後日鈴木翁二さんに安部さんは宗教に入りましたよと言うと、「そうなんだよ、なんでもすぐ飽きるから、そのうち抜けると思うんだけどね」とやや心配していた様子だったが、その後てんで抜けなかったのはみなさんもご承知の通りだ。
インタビュー記事を読むと、その宗教がアベシンから長い年月を奪ったことに、ようやく本人も気付いているようだが、どっこいこの前読ませてもらった漫画原作は、モーゼや法然の生まれ変わりがどうだのこうだのと、相変わらずだった。
たぶん77年か78年ころかな、阿佐ヶ谷の高瀬コーポにアベシンを訪ねたことがある。(「消えた漫画家」の中でチラと触れてあったかな?)前の日に夫婦喧嘩をして、ものを投げたらアパートの玄関ドアにあたって、ガラスにヒビが入り、とっさに喧嘩のことを忘れて弁償のことで頭がいっぱいになった。なんて話を聞いた。「まどのくんの絵は粘りがあっていい」といわれた。
ちょうど氏が「高橋信次の宗教法人GLA」に凝り出したころで、悪霊についてレクチャーを受けたがよくわからなかった。そのGLAのカセットテープを一日中かけていると、「隣近所の人からあそこは宗教に入ってると思われちゃうよ」と笑いながら話していたのがどう考えても変だ。
後日鈴木翁二さんに安部さんは宗教に入りましたよと言うと、「そうなんだよ、なんでもすぐ飽きるから、そのうち抜けると思うんだけどね」とやや心配していた様子だったが、その後てんで抜けなかったのはみなさんもご承知の通りだ。
インタビュー記事を読むと、その宗教がアベシンから長い年月を奪ったことに、ようやく本人も気付いているようだが、どっこいこの前読ませてもらった漫画原作は、モーゼや法然の生まれ変わりがどうだのこうだのと、相変わらずだった。
「地球を呑む」
1968〜1969年作品
壮大なスケールで描く近未来超大作とかいう部類のものは、リアリティにおいて許せるか許せないかのギリギリのところがあって、SF的設定を含むとより危険だ。この作品は近未来ではないが、手塚治虫が得意とするその手のハナシ。
誰にでも簡単に変装できる「人工皮膚デルモイド」により犯罪が多発して防ぎ得なくなる。という設定はいろんな事件が起こりそうで愉快。だがこの話では、人工皮膚が全世界に氾濫して手が付けられなくなる。加えて無尽蔵にまき散らされる金塊により、金の価値が暴落。世界経済が破綻して文明が衰退し、産業革命以前の状態にまで戻るというのは、なんぼなんでもそりゃないやろ。という気がする。
この文明破壊計画を密かに遂行するのが、「ゼフィルス」という絶世の人工皮膚美人たちで、それも母親の復讐のためなのだが、この女は魅力的。おそろしくエロティックで、あらゆる男をたらし込むのも魅力的。そんな女が、関五本松という大酒飲みの主人公のみに心を奪われてしまうところが、いちばん面白い。
結局大スケールのパニック劇でも、男と女の話があればこそで、作者もそこを描いてるのが気持ちいいんじゃないかな?
荒唐無稽な設定でも、手塚治虫の昔ながらの表現だと「マンガだから別にいいか」と思えてしまう。これはリアリズムとは逆方向の成立の仕方だが、現代漫画も多くはこの「マンガだから別にいいか」を追いかけているのだと思う。その快感を得るために表現が発達してきた。現実の束縛を忘れられる気楽さや痛快感を得た上で、感動を得るために。
それをしなかった人が、つげ義春。(どこかにつづく)
1968〜1969年作品
壮大なスケールで描く近未来超大作とかいう部類のものは、リアリティにおいて許せるか許せないかのギリギリのところがあって、SF的設定を含むとより危険だ。この作品は近未来ではないが、手塚治虫が得意とするその手のハナシ。
誰にでも簡単に変装できる「人工皮膚デルモイド」により犯罪が多発して防ぎ得なくなる。という設定はいろんな事件が起こりそうで愉快。だがこの話では、人工皮膚が全世界に氾濫して手が付けられなくなる。加えて無尽蔵にまき散らされる金塊により、金の価値が暴落。世界経済が破綻して文明が衰退し、産業革命以前の状態にまで戻るというのは、なんぼなんでもそりゃないやろ。という気がする。
この文明破壊計画を密かに遂行するのが、「ゼフィルス」という絶世の人工皮膚美人たちで、それも母親の復讐のためなのだが、この女は魅力的。おそろしくエロティックで、あらゆる男をたらし込むのも魅力的。そんな女が、関五本松という大酒飲みの主人公のみに心を奪われてしまうところが、いちばん面白い。
結局大スケールのパニック劇でも、男と女の話があればこそで、作者もそこを描いてるのが気持ちいいんじゃないかな?
荒唐無稽な設定でも、手塚治虫の昔ながらの表現だと「マンガだから別にいいか」と思えてしまう。これはリアリズムとは逆方向の成立の仕方だが、現代漫画も多くはこの「マンガだから別にいいか」を追いかけているのだと思う。その快感を得るために表現が発達してきた。現実の束縛を忘れられる気楽さや痛快感を得た上で、感動を得るために。
それをしなかった人が、つげ義春。(どこかにつづく)
読書「臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」
大江健三郎 作
作家ケンサンロウはかつての学友、今は映画プロデューサーの男に、ある国際的な映画のシナリオを依頼された。主役を張るベテラン女優サクラは、かつてケンサンロウが学生時代に見た8ミリフィルム作品、「アナベル・リイ」(ポー詩原案)のなかのアナベル役の少女である。
ケンサンロウの故郷松山に伝わる「メイスケ母」の農民運動を素材に企画は進むが、やがて隠された事実が。かつて少女時代のサクラが主演した8ミリフィルム「アナベル・リイ」には、本人が知らない間に撮られたノーカット版があり、そこで彼女は裸身であった。これは忌まわしきチャイルド・ポルノなのだろうか?
大江健三郎の紡ぎ出すイメージはむかしから、あきらかにわたしの趣味に合っているのだが、あのだらだらした粘着質の文体がどうにも読みにくくて、つかず離れずといった読書体験だった。しかしこの作品は気にならずに読めた。森の中の土地に伝わる「メイスケ母」の怨霊、白い寛衣をつけて死者を演じる少女、そしてタイトルや文中に日夏耿之介のポー訳詩。土俗的で絢爛でエロチックな世界は、やはりあの独特の文体から匂い立つ。それにしても2007年の作品だから、作者老いてますます盛んと言っていいか。
大江健三郎 作
作家ケンサンロウはかつての学友、今は映画プロデューサーの男に、ある国際的な映画のシナリオを依頼された。主役を張るベテラン女優サクラは、かつてケンサンロウが学生時代に見た8ミリフィルム作品、「アナベル・リイ」(ポー詩原案)のなかのアナベル役の少女である。
ケンサンロウの故郷松山に伝わる「メイスケ母」の農民運動を素材に企画は進むが、やがて隠された事実が。かつて少女時代のサクラが主演した8ミリフィルム「アナベル・リイ」には、本人が知らない間に撮られたノーカット版があり、そこで彼女は裸身であった。これは忌まわしきチャイルド・ポルノなのだろうか?
大江健三郎の紡ぎ出すイメージはむかしから、あきらかにわたしの趣味に合っているのだが、あのだらだらした粘着質の文体がどうにも読みにくくて、つかず離れずといった読書体験だった。しかしこの作品は気にならずに読めた。森の中の土地に伝わる「メイスケ母」の怨霊、白い寛衣をつけて死者を演じる少女、そしてタイトルや文中に日夏耿之介のポー訳詩。土俗的で絢爛でエロチックな世界は、やはりあの独特の文体から匂い立つ。それにしても2007年の作品だから、作者老いてますます盛んと言っていいか。
電子出版とやらがいよいよやってきました。どうなんでしょうか。
とりあえず大手出版社は、出版社→取次ぎ会社→配信会社→書店→読者という既存の流れを守ろうとしているみたいだ。大手出版社と大手取次ぎと大手書店は一蓮托生の間柄だから、みんなが生き残ろうとして、それぞれマージンを取ることを考えて、最終価格が設定されてしまう。そんなことが可能だろうか?
実際必ず必要なのは配信会社であって、それ以外の紙の本を扱う業種は役目がないんじゃないだろか?
利幅のことを考えると、できるだけ中間業者を入れないで配信するのが一番だもの。
膨大な過去の文化遺産が本で残されているし、1ページずつめくって読むというカタチは消えない。要はそれが紙媒体でなくてほんとうによいか?だが、たぶんすぐ抵抗は無くなると思う。そのうち寝転がって読めるような、軽くて薄くて曲がるiPadが発売になるだろう。そして透過光もだんだん眼にやさしいものが開発されるだろう。
かつて写植版下がMacに移行する頃、知り合いの会社の写植オペレーターは「大丈夫、Macになっても仕事はありますよ」と楽観し、別の版下屋はあわててMac導入にふみきったが、数年後両社とも無くなってしまった。
技術革新によって職人が失職するのを進行形で見た。渋谷HMVが閉店しCDの世界が終わっても、レコード針の会社が生き抜いたように、全滅することはない。しかし規模の縮小は避けられない。
「大丈夫、紙の本は無くならない」とは、みんな言うところだが縮小はまぬがれないかもしれない。「自費出版」を手がける版元と同じように、簡単に自作を電子書籍として配信してくれるサービスも人気な様子。版元から書店まで、紙の本を扱うことに拠って生きている人々が、たくさん職を失う時代がいよいよ来た。
人間が80年生きるとして、こういうイノベーションによる産業構造のパラダイムシフトに何度も出会う世の中だ。などとわざとアホみたいな経済用語を使ってみたが、いろんな仕事が減っちゃって、みんな介護産業に行くしかない。それにしても俺が社会に出た頃は、会社にFAXすらなかったよ!信じられない!
とりあえず大手出版社は、出版社→取次ぎ会社→配信会社→書店→読者という既存の流れを守ろうとしているみたいだ。大手出版社と大手取次ぎと大手書店は一蓮托生の間柄だから、みんなが生き残ろうとして、それぞれマージンを取ることを考えて、最終価格が設定されてしまう。そんなことが可能だろうか?
実際必ず必要なのは配信会社であって、それ以外の紙の本を扱う業種は役目がないんじゃないだろか?
利幅のことを考えると、できるだけ中間業者を入れないで配信するのが一番だもの。
膨大な過去の文化遺産が本で残されているし、1ページずつめくって読むというカタチは消えない。要はそれが紙媒体でなくてほんとうによいか?だが、たぶんすぐ抵抗は無くなると思う。そのうち寝転がって読めるような、軽くて薄くて曲がるiPadが発売になるだろう。そして透過光もだんだん眼にやさしいものが開発されるだろう。
かつて写植版下がMacに移行する頃、知り合いの会社の写植オペレーターは「大丈夫、Macになっても仕事はありますよ」と楽観し、別の版下屋はあわててMac導入にふみきったが、数年後両社とも無くなってしまった。
技術革新によって職人が失職するのを進行形で見た。渋谷HMVが閉店しCDの世界が終わっても、レコード針の会社が生き抜いたように、全滅することはない。しかし規模の縮小は避けられない。
「大丈夫、紙の本は無くならない」とは、みんな言うところだが縮小はまぬがれないかもしれない。「自費出版」を手がける版元と同じように、簡単に自作を電子書籍として配信してくれるサービスも人気な様子。版元から書店まで、紙の本を扱うことに拠って生きている人々が、たくさん職を失う時代がいよいよ来た。
人間が80年生きるとして、こういうイノベーションによる産業構造のパラダイムシフトに何度も出会う世の中だ。などとわざとアホみたいな経済用語を使ってみたが、いろんな仕事が減っちゃって、みんな介護産業に行くしかない。それにしても俺が社会に出た頃は、会社にFAXすらなかったよ!信じられない!
読書「未見坂」
堀江敏幸 作
とある小さな街の人々の日常を描いた短編集。
個々の話は独立しているが、ゆるく繋がっている。
いちばん良かったのは次の話。
■戸の池一丁目
家族のものが亡くなって、残された義母と二人暮らしを続ける主人公の男。義母の具合がわるくなって以来、三叉路の角地に建つ団子屋を引き継いでいる。店の裏地には、動かなくなった旧式のボンネットタイプの大型バスが放置されていて、それはむかし男が移動スーパーの商売に使っていたものだった。ある日路線バスに乗り違えてやってきた、古い知り合いの娘と幼児。男の脳裏には移動スーパーを走らせていた頃のいろいろな思い出がかけめぐるのだった。
他にもバラバラになりかけ、またなってしまって進行中の様々な家族の様子が、いろんな家業のやりくりを通して描かれる。地方都市ゆえか、酒屋や、床屋など、親の代から引き継いだ商売の設定が多い。そんな場合、子供の目線で大人たちを描くのは定番で、それが分かりやすいのだろう。個人的には子供のこころの揺らぎに興味はないが…。
それにしても静かな筆致で味わいがあり、露骨な事件性もなく、もちろん狂気も幻想性もない。正統派の日本文学とはこういうものかという気がした。
堀江敏幸 作
とある小さな街の人々の日常を描いた短編集。
個々の話は独立しているが、ゆるく繋がっている。
いちばん良かったのは次の話。
■戸の池一丁目
家族のものが亡くなって、残された義母と二人暮らしを続ける主人公の男。義母の具合がわるくなって以来、三叉路の角地に建つ団子屋を引き継いでいる。店の裏地には、動かなくなった旧式のボンネットタイプの大型バスが放置されていて、それはむかし男が移動スーパーの商売に使っていたものだった。ある日路線バスに乗り違えてやってきた、古い知り合いの娘と幼児。男の脳裏には移動スーパーを走らせていた頃のいろいろな思い出がかけめぐるのだった。
他にもバラバラになりかけ、またなってしまって進行中の様々な家族の様子が、いろんな家業のやりくりを通して描かれる。地方都市ゆえか、酒屋や、床屋など、親の代から引き継いだ商売の設定が多い。そんな場合、子供の目線で大人たちを描くのは定番で、それが分かりやすいのだろう。個人的には子供のこころの揺らぎに興味はないが…。
それにしても静かな筆致で味わいがあり、露骨な事件性もなく、もちろん狂気も幻想性もない。正統派の日本文学とはこういうものかという気がした。
読書
「さすらう雨のかかし」
丸山健二 作
過疎化の波はくい止めようのないものの、穏やかに時間の過ぎ行く漁業の町「海ノ口町」。主人公のわたしは、ここで生まれここで育ち、四十過ぎの今日まで町を出てゆくこともないまま、市役所の苦情処理係を懸命に勤めていた。大豆畑のかかしは、そんなわたしをモデルに作られている。
ところがある日、主人公のわたしに瓜二つのヤクザ男が町に現れた。隣町のサーカスに、孤児院の子供たちを引率したおり、そのヤクザと間違われたのをきっかけに、わたしの中で平凡な人生が崩れ始める。堅実ではあるが、けしてさすらうことをしない人生。これでほんとうによかったのか?実は40年間自分に嘘をついてきたのではなかったか?
やがて何者かによっていたずらされるかかし。山から転げ落ちる大岩。さびれた工場跡にたむろする野犬の群れ。平凡な人生が突然揺らぎ出し、わたしはこの日常を捨てて、いよいよ町を飛び出す衝動にかられるが…。
取りかえしのつかないいら立ちにさいなまれる中年男の心情が、雨中を飛ばす車とあいまって、スリリングに描かれ、吸込まれるようにして読んだ。人生も後のほうが短いとこのあせりがよく分かるというもの。うかつにもこれまで気にはしていたが、丸山健二を読んでなかった。もう少し読んでみよう。もう少し。
「さすらう雨のかかし」
丸山健二 作
過疎化の波はくい止めようのないものの、穏やかに時間の過ぎ行く漁業の町「海ノ口町」。主人公のわたしは、ここで生まれここで育ち、四十過ぎの今日まで町を出てゆくこともないまま、市役所の苦情処理係を懸命に勤めていた。大豆畑のかかしは、そんなわたしをモデルに作られている。
ところがある日、主人公のわたしに瓜二つのヤクザ男が町に現れた。隣町のサーカスに、孤児院の子供たちを引率したおり、そのヤクザと間違われたのをきっかけに、わたしの中で平凡な人生が崩れ始める。堅実ではあるが、けしてさすらうことをしない人生。これでほんとうによかったのか?実は40年間自分に嘘をついてきたのではなかったか?
やがて何者かによっていたずらされるかかし。山から転げ落ちる大岩。さびれた工場跡にたむろする野犬の群れ。平凡な人生が突然揺らぎ出し、わたしはこの日常を捨てて、いよいよ町を飛び出す衝動にかられるが…。
取りかえしのつかないいら立ちにさいなまれる中年男の心情が、雨中を飛ばす車とあいまって、スリリングに描かれ、吸込まれるようにして読んだ。人生も後のほうが短いとこのあせりがよく分かるというもの。うかつにもこれまで気にはしていたが、丸山健二を読んでなかった。もう少し読んでみよう。もう少し。