漫画家まどの一哉ブログ
「かきつばた・無心状」
井伏鱒二
つげ義春が愛読書にあげていた井伏鱒二。以前自分はもうひとつ馴染めなかったのだが、近ごろはがぜん気に入っている。この文庫版短編集は身辺雑記のような日常の小事件を描いたものが多いが、けっしてエッセイではなく小説としての面白さに満ちている。文体のなめらかさにあるのだろうか、大事件でなくてもワクワクする。それだけ精密に人間を見ているし、その見方が自分の趣味に合うのだろう。
「爺さん婆さん」:まさにつげ作品の如し。田舎の鉱泉にいってみると、そこは混浴で年寄りばかりが湯治に来ている。みんな足腰が立たないから動くのがたいへんだ。しかも口だけは達者な入れ墨入の婆さんがいてこいつが愉快。
「おんなごころ」:かの太宰治はじゃじゃ馬にてんで頭の上がらない男で、死の前までの太宰の暮らしぶりを振り返った小説。またその女とは正反対の太宰がひそかに憧れていた女も登場。太宰に関しては想像通りでまったく違和感なし。
「乗合自動車」:戦時中から戦後にかけて走っていた木炭バス。これがすぐエンストするのだが、そんな時は再びエンジンがかかるまで乗客みんなで延々バスを押さねばならない。乗車賃を払っているのになんとも納得いかないはなしだが、運転手はえらそうにしている。しかも短気。
もとより妻を信頼し、不安を払拭すべく努力する。それしかないことは分かっている。より自身を分析し、なにかしら堂々としたものを掴みたいものだ。そのためにもこうやって、内情を公開して気持ちを整理し、出来れば友人のアドバイスを受けよう。捨て身で望まなければ、乗り越えられない。ここが正念場だ。つづく。
よるひる店内や近くの公園で自分たちで手軽に撮っているので、そのテキトーな感じがいいのだと思う。脱力できてラクに観れた。それでもやはり漫画家の作ったものは、いつもの漫画作品と同質の個性を感じた。それは古泉作品のユルっとした日常感や、羽生生作品のストーリー感。そして堀さんのギャグや三本さんの紙芝居そのものである。
ショートムービーというものは編集の妙味があって、編集次第でよくも悪くもなるらしいが、自分にはその編集しどころは分からない。ただあまりプロっぽくガッチリ構成されているより、なにかしらヌケのある放ったらかしな感じや、意外な部分の長さなどがかえって新鮮で退屈しなかった。逆にプロの手が入ったものは、いかにもという感じで編集されていて、さすがだがつまらない気がした。
終了後近くでやってる田中六大作品展を三本さんと見学。雨まじりの阿佐ヶ谷の商店街は、情があって実にイイカンジ。会場の幻我堂はほんの小さなスペースだが、これまたいいカンジ。そして田中六大の絵画作品はいつもの古今和洋折衷の不思議な世界をお話付きで楽しめる。
「死に行く人魚」(戯曲)
国枝史郎 作
とある領主の館。その夜は各地から名うての音楽家が集まり、演奏の腕を競い合って勝ち残った者に、領主の寵愛する女子(おなご)が与えられる趣向だった。
しかし、その実領主の目的は、かつて我が妻を竪琴のしらべとともに奪い去り海に葬った、紫の袍を着た音楽家(実は魔法使い)をおびき寄せること。ところがその女子も既にかつて、同じ悪魔に呪いをかけられていたのだ。女子を救い出すべく、館の公子(おうじ)は「死に行く人魚」の歌を奏で、魔法使いの「暗と血薔薇」の歌と闘うが、女子は操られるように魔法使いに引かれて行く…。
「神州纐纈城」など奇想伝奇小説が有名な国枝史郎。こんな短編戯曲もやはり国枝ワールド全開で、酔いしれるような耽美・幻想世界は変わらなかった。始めから終わりまで、スキのない異世界に浸ることが出来るが、その間、圧倒的に濃密な耽美モードに呼吸困難になります。
「信号」
ガルシン作
戦地帰りのイワーノフは、常日頃から神様への感謝を忘れない真面目な男。やっとありついた線路番の仕事に文句も言わず、黙々と働いていた。
ところが隣の地区の線路番ワシーリイは、あまりの薄給と待遇の悪さに納得がいかず、とうとう直訴のため家を出て姿を消してしまう。
そうしたある日、イワーノフは自分の担当地区のはずれで、故意にレールがはずされているのを発見。修理道具を家まで取りに帰っている余裕はない。もうすぐ列車が通過するのだ。
彼は自分の腕を切った血で、赤く染めたハンカチを木の枝に巻き付け、列車に向かって振りかざした。止まってくれ、止まってくれ!しかし、多量の出血のため彼の意識はだんだん朦朧と薄れ行くのだった。さて感動のラストはいかに?
その暗いセンチメンタリズムが、日本人の情緒に根っこで合うと、俺も思うよロシア文学。
その中でもガルシンは、報われない悲しみを背景に感じて、好きな作家です。短編作家というせいもあるのかもしれない。この作品はごく短いものだが、わかりやすく感情に訴えてきます。
精神病院の庭に咲く花に、全世界の悪意を発見する「赤い花」が有名。
「迷宮」
大西巨人 作
かつて東京文壇で活動していた作家・皆木旅人は、その素性を隠し九州地方で教員をしていたが、やがて謎の自死を遂げる。その自殺を怪しむ縁者の春田は、皆木の他殺を証明するべく奔走。
ところが調査結果はかえってその自殺を裏付けるものばかりだ。やがて明らかとなる老いとともに避けられない皆木の運命とは。そして皆木婦人が使った、ディジタル置き時計カシオ・クォーツのトリックとは?
ミステリーの装いで描かれた人間の運命。
作者特有のおおげさで情緒性のない文体がおもしろい。
例えば、
「九月十三日、春田は新幹線下り東京駅発午前十一時四分の『ひかり』十三号に乗っていた。春田は、昨十二日午後六時三十分より二時間ばかり、東京駅八重洲地下街のレストラン『しらぬい』で鶴島直義と飲食しながら語り合った。午後十時ごろ帰宅した春田は、四、五日前から読みかけのガブリエル・ガルシア・マルケス作(エディス・グロスマン訳)、love in the Time of Cholera(『コレラ時代の恋愛』、「ペンギンブックス」1989年刊)を夜半一時ちょっと過ぎに読み終え、そのあとTVの「深夜映画」でフランス映画『熱風』(1934年作品、演出フョードル・オツェップ、出演マルセル・シャンタル、ヴァレリー・インキジノフ、ジャン・ヨンネルら、原作シュテファン・ツヴァイクの『アモック』)を見て、午前三時二十分に就寝した。」
などどうでもいい設定まで事細かに書かれているが、この細かい記述はストーリーにはまるで関係しないから、読んでいて実に奇妙な感覚に捕らえられる。ナンセンス文学なのだろうか?それでいてまったく退屈しないから不思議だ。
作中登場人物の皆木曰く「作家たるもの老いてもなおクリエイティブパワーを失ってはならず、作品がしだいに身辺雑記的なものになってゆくなら、その作家は既に終わっている。百歳を超えて大長編を構想・執筆するほどの覚悟でなければならない」。これは作者大西巨人の自負あるいは自戒であろうと思われる。
日本の企業風土というものは基本的に同じものがある。肉体労働であるとないとにかかわらず、村落共同体の伝統を受け継ぐ、人生全体を捧げるものとして会社がある。みんな仲間だということにされるのはしょうがないとして、オフタイムの遊び方まで決められる。プライドをもたされるが、凡人でなければならない。そしてモノをいってはならない。とくに肉体労働者は言葉を扱う役割ではないというのが、西野さんの話にもあった。
これはつげ忠男作品に通じる話で、つげ忠男作品に多く見られる人物の無言のセリフ「……………」。肉体労働というものが、いかに語ってもしょうがない種類の行為かがわかる。黙ってやるしかないのだ。まさにアタマで理解してはならないし、アタマを使ってしまっては持続できないものなのだ。もちろん労働環境は日々改善されるべきだろうけど、そもそも労働という名で置き換えられる人生は、言葉が追いつけないどうしょうもないものだ。ということを説明ではなく実感として描くところに、つげ忠男作品の読み応えがあるというもんだ。
※ところで私も学歴はないのですが、輸入アパレル代理店の倉庫で箱を積んだり開けたりしていたのが、唯一の肉体労働?かな。
私が中学時代より最も尊敬する漫画家つげ忠男氏にやっと会えた。
新刊「曼陀羅奇譚」にサインをいただき、拙著「洞窟ゲーム」を受け取ってもらったが、毎号「アックス」で私の作品を読んでくれているとのことで、たいへん嬉しかった。
つげ忠男作品では冴えない中年男(青岸良吉)がよく登場するが、やはり一番リアリティを感じられる。たしかに無頼漢達はかっこいいが、身近には存在しないキャラクターなので、読者が実感するのは難しい。中年男とは人物造形のそもそもが違う。女性ファンから見ても冴えない中年男がいちばん魅力的であるらしい。忠男さんは自分の好きな映画俳優やプロレスラーを反映させているが、そこに自身が若い頃血液銀行時代に実際見知ったアウトロー達が混ざってくるのだろう。ところで忠男さんがいちばん好きなキャラクターは、サブでも銀さんでもなくリュウだそうだ。
最新作「曼陀羅奇譚」を読み返してみても、やはりキャラクター漫画なのだなと思う。忠男さんは大枠を考えたら、あとは描きながらストーリーを進めるらしいが、これは登場人物が勝手に動き出してくれる(喋ってくれる)から可能なのだ。それだけ各人物の造形がはっきりしている。読者にとってはエンターテイメント作品のように分かりやすい設定ながら、じつはそこにもう少し深い人間観が忍んでいるところがミソ。
つげ忠男作品を特徴づける河川敷のヨシ原。背丈より高いヨシ原の中を歩くときなど、まことにシュールな現実離れした感覚があるとのこと。そういえばあのザクザクッと描かれた大胆な一面の草原表現の効果で、つげ忠男作品はどんなリアルなものでも夢の中のような非現実感がある。あの線は抽象である斜線と具象である草原の中間を行くものではないか。我々はその効果に酔いしれるのではないか。
ところで氏は昔の原稿を紛失しているので、単行本未収録の「野の夏」や「道化」などは元原稿がないそうだ。大変残念だが雑誌から版を起こして、どなたか発行してほしいものだ。自分の切り置きも協力できます。
私のまわりの漫画家達にもファンが多いヘンリー・ダーガーを見てきた。この魅力を解説する能力は自分にはない。アールブリュットの発するイノセントな魅力というものは、手持ちの言葉ではとても追いつかないものがある。
個人的な感想では、まず線の弱々しさ、彩色の弱々しさにひかれた。人間社会を生き抜いていくパワーがなく、自分を守るすべをしらない赤ん坊が引いた線のようだ。そして描かれる少女達はみな人形のようであり、あるいは昔の少女漫画のようであり、悲惨で残酷な戦争物語を生き抜いている登場人物にしては夢の世界の住人のように重さがない。その証拠に巨大な花の中でふわふわと蠢いているではないか。
また時には半裸・全裸の少女達が、きわめて過酷な戦争の主人公であるというのは、昨今主流の戦闘系美少女の設定と、心理学的には同じではないのか?ところが裸の少女達にはペニスがついているから、この場合の美少女という位置づけはかなり微妙な、男女差がはっきりしない幼児期の精神性で成立しているのかもしれない。
ところで独り引きこもって「非現実の王国」を築き上げることは、多かれ少なかれ漫画家なら持っている気質だと思う。ヘンリー・ダーガーの作品は絵画ではなく、ストーリーのための線画であり、ところどころフキだしもあって、あきらかに漫画の領分だった。
まだ十四歳の時、僕は、僕自身に、「有名になるか、そうでなければ、生きるにはあたらない。」と宣告したものだ。僕は、「僕以前に成されたすべてのものが、僕自身の成し得るものよりも優れている、とは思われない。」と断定して憚らぬ。これは無数の人間の無差別な列伍に自己を置きたくないと思う者が、めいめい持っている根源的信条であるべきはずだ。すなわち、自己の卓異性にたいする信条は、想像力の源泉として役立つべきであり、また実に役立ち得るのである。
偉大!抜群!世界征服と名声の不朽!この目的に比べれば、永久に名も知られぬ人々の幸福など、すべて何の価値があろう?名を知られること__地上の諸国民に名を知られて愛されること。この夢想、この衝動の快さを何一つ知らぬ人々よ、利己心とでも何とでも勝手にしゃべるがよい。悩んでいる限りすべての抜群な者は、利己的なのだ。抜群な者は、言う、__君たち何らの天職をも帯びぬ人々よ、君たちは、君たちだけでやって行ったらよかろう。君たちは、この地上で、われわれよりもずっと安楽に暮らしているのだから。そして名誉心は言う、__今までの苦悩は徒労だったなんぞということが、あるはずだろうか。苦悩は、おれを偉大にせねばならぬのではないか。
なんて正直なんだ。もちろんさすがに自分の才能に自身があるにせよ、こんなに名声への欲求を露骨に語る人は少ないのではないか。彼の生い立ちに何があったか知らないが、承認欲求がただごとではない。
この承認欲求というやつはボクも多い方だと自分で思う。このあいだ精神神経科の医師にきいたが、ボクのように幼少時から母親の過干渉で、母親の満足する子供を設定されてきた人間は、ほんとうの自分を認めてもらってないという屈折をもっている。それが過度の承認欲求に結びつくのかもしれない。ほめられたいという心理は創作の原動力であることは確かだ。
それにしても偉大なる先輩漫画家と比較して、自分の実力の限界も知っているので、さすがにアンドレーエフのごとき無謀な欲望はおきない。アンドレーエフは若かったにせよ、正しかった。