漫画家まどの一哉ブログ
3.11以降、世界が変わったかどうか自分の知るところではないが、そんなことを考えることにあまり意味があるとも思えない。果たして世界が変わるのかと言えば、変わらないと思う。
確実なことは被災者の人生は激変した。そして今日一日避難所で生きていけるのか、今日の衣食住の問題。そして肉親の安否、失った仕事。これらの強烈に具体的なことを考え、言葉にしていくしかほかにない。
翻って自分など平和なものだが、やはり計画停電と納期を考えた仕事のやりくり、品不足の中での買い物、電車の運行状況、そして自分の作品の構想。など具体的なことについて発言していくしかない。同じといっては申し訳ないが、やはりこの具体的なことだけが真実で、概念的なことは不毛を感じる。
もちろん放射能に襲われて関東地方がもぬけの殻になるかも知れない。私も政府や東京電力の発表を信じているわけではない。東電の体質からして触れたくない重大事項は先送りして、当座の責めを免れようとしているだろう。原子力行政を継続したい政府も問題を過小に発表したいだろう。
しかしそのことは、今現在福島原発が既に破滅的状況であることとイコールではない。破滅の可能性はあるが、例えばプルサーマルである3号機の炉心が熔解しているのを、我々がこの目で見てきたわけではないのだから、我々の乏しい知識で、もう破滅しかないと決めつけることはできないのだ。
すると専門家の話を聞くしかないのだが、これまた一人一説で、たとえ御用学者のいうことを否定しても反原発派の現状認識が正しいと、一方的に信じ込むのもつまらない話だ。つまり福島原発の状況に対して、推論ではなく具体的なことしか語れないとすれば、我々庶民に言えることはなにもないのだ。あきらめろ。
復興ということは今までの世界を取り戻すことであり、また被害に遭っていない地域の暮らしが今まで通りであるかぎり、世界はそう簡単に変わらない。そして我々は今まで通り小さな世界で仕事をして生活費を得て、生きて死んで行くしかない。この具体性が人生であり、歴史的な視点で概括するのは後世の人間の仕事で、今現在の人間は毎日を虫のように生きて死ぬしかないのだ。
確実なことは被災者の人生は激変した。そして今日一日避難所で生きていけるのか、今日の衣食住の問題。そして肉親の安否、失った仕事。これらの強烈に具体的なことを考え、言葉にしていくしかほかにない。
翻って自分など平和なものだが、やはり計画停電と納期を考えた仕事のやりくり、品不足の中での買い物、電車の運行状況、そして自分の作品の構想。など具体的なことについて発言していくしかない。同じといっては申し訳ないが、やはりこの具体的なことだけが真実で、概念的なことは不毛を感じる。
もちろん放射能に襲われて関東地方がもぬけの殻になるかも知れない。私も政府や東京電力の発表を信じているわけではない。東電の体質からして触れたくない重大事項は先送りして、当座の責めを免れようとしているだろう。原子力行政を継続したい政府も問題を過小に発表したいだろう。
しかしそのことは、今現在福島原発が既に破滅的状況であることとイコールではない。破滅の可能性はあるが、例えばプルサーマルである3号機の炉心が熔解しているのを、我々がこの目で見てきたわけではないのだから、我々の乏しい知識で、もう破滅しかないと決めつけることはできないのだ。
すると専門家の話を聞くしかないのだが、これまた一人一説で、たとえ御用学者のいうことを否定しても反原発派の現状認識が正しいと、一方的に信じ込むのもつまらない話だ。つまり福島原発の状況に対して、推論ではなく具体的なことしか語れないとすれば、我々庶民に言えることはなにもないのだ。あきらめろ。
復興ということは今までの世界を取り戻すことであり、また被害に遭っていない地域の暮らしが今まで通りであるかぎり、世界はそう簡単に変わらない。そして我々は今まで通り小さな世界で仕事をして生活費を得て、生きて死んで行くしかない。この具体性が人生であり、歴史的な視点で概括するのは後世の人間の仕事で、今現在の人間は毎日を虫のように生きて死ぬしかないのだ。
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読書
「地獄編三部作」
大西巨人 作
ごつごつとした観念的な抽象的な言葉で彫琢された文体。骨格だけがむき出しになっているような、がちがちの文章。それが論理を展開するために使われるのではなく、あくまでも小説の役割として使われていて、つまり人物の内面や情景描写のために使われていて、読んでいるとクラクラと引き込まれる。こんな文体があったのか!という印象。これも美文の一種だ。例えば
__それは、遠い以前に税所が見失った「人間性への確信」および「生と存在の肯定」の回復可能に関する幽かな予感の瞬きであった。その明滅する微光を抱き締めながら、税所は、一人の女性との合一の意志を・瑞枝との結婚の決意を、彼の内側に育成することができた。
__そんなふうに、敗戦後の税所は、たまたまみずから省みては、そのたびごとに、彼自身の過去を恥辱と醜悪と卑屈と汚穢との堆積としか感ずることができなくて、そういう唾棄するべき彼自身をほとほとこの世から抹殺したいほどに激甚な疼きの発作を心裏に覚えるのであった。
こんな調子です。
小説は第一部で台本形式,日記形式などを織りまぜながら、第二部はまるごと小説内小説になっているといったコラージュ的面白さがある。またこの小説が未発表を余儀なくされた理由である、当時の作家・批評家達が誰と分かる仮名(坂口鮟鱇・汁菜輪蔵など)で登場するパロディもあり、この作者の愉快な資質がうかがわれるというもんだ。
さて地獄編ときいて、どんな地獄かなと思うと、これが女を死に至らしめる罪作りな主人公の内面的煩悶である。そのあたりはよくある話で、それ自体は自分はどうでもよかった。
「地獄編三部作」
大西巨人 作
ごつごつとした観念的な抽象的な言葉で彫琢された文体。骨格だけがむき出しになっているような、がちがちの文章。それが論理を展開するために使われるのではなく、あくまでも小説の役割として使われていて、つまり人物の内面や情景描写のために使われていて、読んでいるとクラクラと引き込まれる。こんな文体があったのか!という印象。これも美文の一種だ。例えば
__それは、遠い以前に税所が見失った「人間性への確信」および「生と存在の肯定」の回復可能に関する幽かな予感の瞬きであった。その明滅する微光を抱き締めながら、税所は、一人の女性との合一の意志を・瑞枝との結婚の決意を、彼の内側に育成することができた。
__そんなふうに、敗戦後の税所は、たまたまみずから省みては、そのたびごとに、彼自身の過去を恥辱と醜悪と卑屈と汚穢との堆積としか感ずることができなくて、そういう唾棄するべき彼自身をほとほとこの世から抹殺したいほどに激甚な疼きの発作を心裏に覚えるのであった。
こんな調子です。
小説は第一部で台本形式,日記形式などを織りまぜながら、第二部はまるごと小説内小説になっているといったコラージュ的面白さがある。またこの小説が未発表を余儀なくされた理由である、当時の作家・批評家達が誰と分かる仮名(坂口鮟鱇・汁菜輪蔵など)で登場するパロディもあり、この作者の愉快な資質がうかがわれるというもんだ。
さて地獄編ときいて、どんな地獄かなと思うと、これが女を死に至らしめる罪作りな主人公の内面的煩悶である。そのあたりはよくある話で、それ自体は自分はどうでもよかった。
巨大地震が東北を襲った日、揺れには驚いたが家の中は無事だった。妻の部屋を含めて幸いにも何一つ倒れていない。不思議なことに本やCDも整然と並んだままだった。
しかし終日余震が続いて、神経を消耗している妻には酷だった。
あろうことか、この未曾有の危機的状況のなかで、仕事がいつもにも増して連続していて、拡大する被害状況を気にしながら、レイアウトワークから手が離せず、なんとも落ち着かない数日を過ごした。
それでも街の人々はのんきなもので、地震などなかったかのようにふらふらと出歩いている人が多かったが、ついに計画停電が始まると一転した。ガソリンを求めるクルマの列。半日しか開かないスーパーで買いだめする人々。わさわさとした空気が街中にあふれる。
やがて原発の様子が刻一刻報道されると、ネット内では今にも最悪の事態が起きるかのように大騒ぎする書き込みが増えて、嫌な気がした。最悪の事態は自分も否定はしないが、あまりに情緒的な反応はやめてほしかった。自分一人になにができようか。
それより多くの人が津波にのまれて一瞬のうちに死んでいるではないか。生き残った人も街も暮らしも壊滅している。原発報道は真実を判断する能力が自分にはないが、被災地の状況は現実だ。これを直視するしかない。
幸い自分の関係する漫画家達はみな無事だったが、編集・出版は計画通りにはいかないようだ。まあ、よいよい。今はアイデアを練るチャンスだと思おう。
しかし終日余震が続いて、神経を消耗している妻には酷だった。
あろうことか、この未曾有の危機的状況のなかで、仕事がいつもにも増して連続していて、拡大する被害状況を気にしながら、レイアウトワークから手が離せず、なんとも落ち着かない数日を過ごした。
それでも街の人々はのんきなもので、地震などなかったかのようにふらふらと出歩いている人が多かったが、ついに計画停電が始まると一転した。ガソリンを求めるクルマの列。半日しか開かないスーパーで買いだめする人々。わさわさとした空気が街中にあふれる。
やがて原発の様子が刻一刻報道されると、ネット内では今にも最悪の事態が起きるかのように大騒ぎする書き込みが増えて、嫌な気がした。最悪の事態は自分も否定はしないが、あまりに情緒的な反応はやめてほしかった。自分一人になにができようか。
それより多くの人が津波にのまれて一瞬のうちに死んでいるではないか。生き残った人も街も暮らしも壊滅している。原発報道は真実を判断する能力が自分にはないが、被災地の状況は現実だ。これを直視するしかない。
幸い自分の関係する漫画家達はみな無事だったが、編集・出版は計画通りにはいかないようだ。まあ、よいよい。今はアイデアを練るチャンスだと思おう。
読書(mixi過去日記より)
「気違い部落周遊紀行」
きだ みのる著(冨山房百科文庫)
戦中から戦後にかけて、東京都下の山村に住んだ著者が、その村社会を活写したフィールドワーク。
フランスの社会学・人類学の翻訳家である著者が、都市生活者の目で観た、伝統的で閉鎖的な日本の村社会。それははたして「気違い部落」と呼ばれるほどの驚きを持ったものなのか、はたまた逆にそれを笑う都会人のほうが「気違い部落」の住人なのか。
著者が移り住んだのは山寺だが、ここの住職は「人間、肉体の欲望に忠実に生きることこそ真実」との哲学のもとに、博打と女買いにあけくれたあげく行方不明になっていて、かわりに蓄音機が経を読むという合理的なシステムになっていておかしい。
村人はもちろん自分の作る農作物の改良・増産には感心があるが、それは自分家だけが抜け駆けできる場合に限った話で、全体の収穫が上がったのでは結局価格が下がるだけだから、自分の畑だけの豊作を考える。
したがって私欲の満たされない、山の木を刈るなどの共同作業は、たき火の周りでだべっていることに多くの時間が割かれ、まったくもって進まない。
もちろん隣人が病気になったときなどは、相互扶助の精神が自然と発揮されて、大切な卵でも気前よく分け与えたりもするが、これが単に食料に困窮しているとなると、とたんに弱肉強食の自然状態となり、たまごは高く売りつけられるのである。
と、要約していくとキリがなく、戦後民主主義下での村議選の様子などは、選挙前から義理と実弾によって当選者が決まっているところなど、今もっておなじみの風景だ。
10年以上前初読の時には、都会とは違う、今も残る村社会の後進性を描いたものだと思ったが、今回再読してみて感じるのは、なんのなんの、これは現在も変わらぬ都会も含めた、日本社会そのものであり、それどころか人類全体に通じる本質だということ。世界中いつだって人間のやることはこういうもんだよ。
「気違い部落周遊紀行」
きだ みのる著(冨山房百科文庫)
戦中から戦後にかけて、東京都下の山村に住んだ著者が、その村社会を活写したフィールドワーク。
フランスの社会学・人類学の翻訳家である著者が、都市生活者の目で観た、伝統的で閉鎖的な日本の村社会。それははたして「気違い部落」と呼ばれるほどの驚きを持ったものなのか、はたまた逆にそれを笑う都会人のほうが「気違い部落」の住人なのか。
著者が移り住んだのは山寺だが、ここの住職は「人間、肉体の欲望に忠実に生きることこそ真実」との哲学のもとに、博打と女買いにあけくれたあげく行方不明になっていて、かわりに蓄音機が経を読むという合理的なシステムになっていておかしい。
村人はもちろん自分の作る農作物の改良・増産には感心があるが、それは自分家だけが抜け駆けできる場合に限った話で、全体の収穫が上がったのでは結局価格が下がるだけだから、自分の畑だけの豊作を考える。
したがって私欲の満たされない、山の木を刈るなどの共同作業は、たき火の周りでだべっていることに多くの時間が割かれ、まったくもって進まない。
もちろん隣人が病気になったときなどは、相互扶助の精神が自然と発揮されて、大切な卵でも気前よく分け与えたりもするが、これが単に食料に困窮しているとなると、とたんに弱肉強食の自然状態となり、たまごは高く売りつけられるのである。
と、要約していくとキリがなく、戦後民主主義下での村議選の様子などは、選挙前から義理と実弾によって当選者が決まっているところなど、今もっておなじみの風景だ。
10年以上前初読の時には、都会とは違う、今も残る村社会の後進性を描いたものだと思ったが、今回再読してみて感じるのは、なんのなんの、これは現在も変わらぬ都会も含めた、日本社会そのものであり、それどころか人類全体に通じる本質だということ。世界中いつだって人間のやることはこういうもんだよ。
読書(mixi過去日記より)
「よもつひらさか往還」
倉橋由美子
うら若き男子、主人公の慧(けい)くんは、とある古いクラブで不思議なバーテンダーの九鬼さんと知り合う。九鬼さんの作る色鮮やかなカクテルを飲み干すたび、慧くんの魂はこの世を離れて、冥界を彷徨いだし、妖しい女達と都合良くも情交をかわすという短編連作。
途中九鬼さんはいとも簡単に自ら命を絶って(ネタバレ)、その後はいつ何処へでも融通無碍に出現して、いよいよもって、あの世とこの世を繋ぐ案内人としての正体を現すのだった。
怪奇幻想の中にもアイロニーと毒をたっぷりと含む倉橋由美子にしては、この作品はわりと素直にきれいな幻想譚で、主人公の青年は女に寵愛されるタイプという設定が、現実から読者を解き放つミソのような気がする。ただ自分としてはやはり毒がないと物足りない…。
「よもつひらさか往還」
倉橋由美子
うら若き男子、主人公の慧(けい)くんは、とある古いクラブで不思議なバーテンダーの九鬼さんと知り合う。九鬼さんの作る色鮮やかなカクテルを飲み干すたび、慧くんの魂はこの世を離れて、冥界を彷徨いだし、妖しい女達と都合良くも情交をかわすという短編連作。
途中九鬼さんはいとも簡単に自ら命を絶って(ネタバレ)、その後はいつ何処へでも融通無碍に出現して、いよいよもって、あの世とこの世を繋ぐ案内人としての正体を現すのだった。
怪奇幻想の中にもアイロニーと毒をたっぷりと含む倉橋由美子にしては、この作品はわりと素直にきれいな幻想譚で、主人公の青年は女に寵愛されるタイプという設定が、現実から読者を解き放つミソのような気がする。ただ自分としてはやはり毒がないと物足りない…。
巻頭特集、近藤聡乃さんへのインタビューを見よ。大学での実績を糧として文化庁の奨学金を受け、ニューヨークに留学し成果を出す。もちろんアニメばかりでなくその核として漫画がある。漫画学部が盛んな昨今、これぞ今日本でもっとも有効に使われたアニメ教育ではないか。専門学校や大学での漫画教育というものに、自分は正直かなり疑問を持っているが、結局のところ全ては近藤さんのように本人の才能あってこそのものであり、それ以外のなにものでもない。
その近藤さんにインタビューしている中野シズカさんの連載「モリミテ」が始まって、自分は驚いた。いつもにも増して細密なトーンによる描写の連続。これで連載とは!このトーンは、いわゆる中間色という役割じゃないよ。役割としてはカラーなんですよね、モノクロだけど。
その中野シズカさんとオカダシゲヒロさんと藤宮史さんという「三大時間かかりそう漫画家」は、実はけっこう仕事早いんじゃないか?みんな自家薬籠中のワザだし。
あらいあきさんの「ヒネヤ2の8」を読んでいて、おなじみの人物がいつもの町でうろうろしているこの感じ。なんかどこかで知っていると気になっていたが、ひょっとしたら滝田ゆうかもしれない。
川崎タカオさんの「待ちぼうけ紳士」が壮大なドラマとして終わった。連作中いつのまにやらボケ役が紳士本人じゃなくなっていたが、同じパターンで落とすという設定の難しさを感じるよね。
オカダシゲヒロさんの「半熟キッズ」もラストへ向かって大きく動いているが、この漫画もハダカで登場している時点で出オチであり、そこからその後を描いていく漫画だから大変だ。
藤枝さんはやっぱり元気でおもしろいわ。いちばん元気。
具井さんはいつも期待しています。元気が無くていい。
●ボクは「宇宙恐るるに足らず」というSFを(SFなわけないだろ!)巻頭近くに掲載してもらっております。自分でも気に入っている作品です。ぜひお楽しみください。
その近藤さんにインタビューしている中野シズカさんの連載「モリミテ」が始まって、自分は驚いた。いつもにも増して細密なトーンによる描写の連続。これで連載とは!このトーンは、いわゆる中間色という役割じゃないよ。役割としてはカラーなんですよね、モノクロだけど。
その中野シズカさんとオカダシゲヒロさんと藤宮史さんという「三大時間かかりそう漫画家」は、実はけっこう仕事早いんじゃないか?みんな自家薬籠中のワザだし。
あらいあきさんの「ヒネヤ2の8」を読んでいて、おなじみの人物がいつもの町でうろうろしているこの感じ。なんかどこかで知っていると気になっていたが、ひょっとしたら滝田ゆうかもしれない。
川崎タカオさんの「待ちぼうけ紳士」が壮大なドラマとして終わった。連作中いつのまにやらボケ役が紳士本人じゃなくなっていたが、同じパターンで落とすという設定の難しさを感じるよね。
オカダシゲヒロさんの「半熟キッズ」もラストへ向かって大きく動いているが、この漫画もハダカで登場している時点で出オチであり、そこからその後を描いていく漫画だから大変だ。
藤枝さんはやっぱり元気でおもしろいわ。いちばん元気。
具井さんはいつも期待しています。元気が無くていい。
●ボクは「宇宙恐るるに足らず」というSFを(SFなわけないだろ!)巻頭近くに掲載してもらっております。自分でも気に入っている作品です。ぜひお楽しみください。
読書
「悪魔という救い」
菊地章太 著
しばしば映画やドラマの題材となる悪魔憑きと悪魔祓い。カトリックの社会で今現在も廃れるどころかさらに勢いを増すこの伝統について、有名な映画を手がかりとしながら考える。
その映画作品とは「エクソシスト」「エミリーローズ」「尼僧ヨアンナ」である。映画に疎い自分はどれも未見だが、うっすらとは知っていた。どの作品もカトリック界で正式に定められた悪魔祓いの方法を忠実に再現していて、なかには本物の神父たちも登用されているくらいだ。そして悪魔に憑かれた主人公たちのみせる症状も実例をもとに描かれている。有名なブリッジ歩きや、肌に現れる聖痕(スティグマ)。他人の声でうなるように叫ぶ、異常なものを吐き出すなど。しかしこれらはすべて現在の精神医学で解説できるヒステリー患者の症例と同じで、まったく神がかり(悪魔がかり)的なものではない。簡単にいえば、悪魔なんていない。
興味深いのはその文化的背景で、絶対悪である悪魔と対決して闘うといった苛烈な設定は、西洋キリスト教社会に特有なもので、我が日本社会ではありえないというところである。著者は個人ひとりひとりが唯一神と対峙するキリスト教社会と、個が曖昧でつねに全体性を重んじる日本社会との違いを理由にあげるが、そうかもしれない。ボクが思い出すのは、例えば臨死体験でふれる死後の世界が文化によって違っていて、東洋では閻魔様に出会ってくるといった体験があるが、まさか西洋人が閻魔様に出会うことはあるまい。とうぜんだが、悪魔や地獄もそれぞれの文化で長く蓄積されたものを、われわれは無意識の世界で引き継いでいる。考えではなく宗教的体験が違う。この著作では東南アジアのかなり親和的な悪魔の例があげられていて面白かった。
さて、苦しむ人間は精神医学や心理学の処方ではなしに、もっと大きなすべてを包みこんでくれるような理解を求めていて、それが神様を作り出すとともに悪魔をも必要としているのではないか。もちろんすべてを悪魔のせいにするワケではないが、個や自由を見つめ直したときに、神による救いと同時に悪魔による救いもあるのではないかというのがこの本の結論めいたところ。なるほど。
「悪魔という救い」
菊地章太 著
しばしば映画やドラマの題材となる悪魔憑きと悪魔祓い。カトリックの社会で今現在も廃れるどころかさらに勢いを増すこの伝統について、有名な映画を手がかりとしながら考える。
その映画作品とは「エクソシスト」「エミリーローズ」「尼僧ヨアンナ」である。映画に疎い自分はどれも未見だが、うっすらとは知っていた。どの作品もカトリック界で正式に定められた悪魔祓いの方法を忠実に再現していて、なかには本物の神父たちも登用されているくらいだ。そして悪魔に憑かれた主人公たちのみせる症状も実例をもとに描かれている。有名なブリッジ歩きや、肌に現れる聖痕(スティグマ)。他人の声でうなるように叫ぶ、異常なものを吐き出すなど。しかしこれらはすべて現在の精神医学で解説できるヒステリー患者の症例と同じで、まったく神がかり(悪魔がかり)的なものではない。簡単にいえば、悪魔なんていない。
興味深いのはその文化的背景で、絶対悪である悪魔と対決して闘うといった苛烈な設定は、西洋キリスト教社会に特有なもので、我が日本社会ではありえないというところである。著者は個人ひとりひとりが唯一神と対峙するキリスト教社会と、個が曖昧でつねに全体性を重んじる日本社会との違いを理由にあげるが、そうかもしれない。ボクが思い出すのは、例えば臨死体験でふれる死後の世界が文化によって違っていて、東洋では閻魔様に出会ってくるといった体験があるが、まさか西洋人が閻魔様に出会うことはあるまい。とうぜんだが、悪魔や地獄もそれぞれの文化で長く蓄積されたものを、われわれは無意識の世界で引き継いでいる。考えではなく宗教的体験が違う。この著作では東南アジアのかなり親和的な悪魔の例があげられていて面白かった。
さて、苦しむ人間は精神医学や心理学の処方ではなしに、もっと大きなすべてを包みこんでくれるような理解を求めていて、それが神様を作り出すとともに悪魔をも必要としているのではないか。もちろんすべてを悪魔のせいにするワケではないが、個や自由を見つめ直したときに、神による救いと同時に悪魔による救いもあるのではないかというのがこの本の結論めいたところ。なるほど。
読書
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」
内山 節 著
昔から日本人の生活の中でごく自然にあった「キツネにだまされる話」。
これがしだいに廃れて語られなくなったのが、どうやら1965年頃らしいという興味深い発見から始まる哲学的エッセイ。それがほんとうだとすると、そのころから日本人の生活の仕方が大きく変わったのではないか。ちょうど高度経済成長のただなかで、キツネが暮らす農山村でも経済発展のみを追いかける生き方が主流となった。また科学技術を信奉して迷信を排し、テレビや電話の普及によってコミュニケーションのあり方が変化した。進学率が高まって伝統的な村の教育より全国一律の受験教育優先となり、村の自然と共同体のなかで生きることを離れて死生観が変わった。と、なるほどこれらの変化を1965年を境にして考えるならば、キツネとの交流を失っていくのは当然で、素直に納得できる話だ。
ところがこの著作は実は「歴史哲学序説」であって、ここからがおもしろいのだ。
人類は進歩・発展するものとして直線的に過去を振り返るのが現在の歴史の見方であり、後れた社会から技術・経済・人権などが発達した現代社会へと進んでいくものとして書かれる。
そういった発達していく歴史ではない、過去をのりこえようとしないあるがままの自然と一体となった村の暮らし。生者と死者がともに生きていく暮らし。そこにも歴史というものはあるのではないか。それが人々がキツネにだまされて生きてきた歴史ではないか。
いきなりだが、主観は世界から先がけて存在しているのではなく、世界に向き合うことによって立ち上がってくるものだ。したがって世界から独立した主観というものは存在しないし、主観を排することもできない。歴史学が客観的事実としているものは、あくまで主観によって選びとられた客観的事実である。
そしてそれは合理的な知性の働きであるけれども、その知性は現在の問題意識によって記憶を選びとっていくから、それだけが歴史であったように見えてしまう。
ところが記憶にはふだん意識されないものもずいぶんあって、何かの拍子に思い出すこともある。また手や身体が覚えている記憶もわざわざ言葉では意識されない。われわれが主体的な意識と思っているものは、実は記憶の中のごく一部にすぎない。つまり知性は生命のごく一部にすぎないとすれば、知性で歴史をとらえていくことは生命の歴史を見えなくしてしまうのではないか。そうやって見えない記憶・身体の記憶・生命の記憶を忘れていく過程で、われわれはキツネにだまされなくなってしまったのである。
以上は現代哲学ではベーシックな考え方となっているらしいが、これをわざわざ歴史という言葉でとらえることにより、現代の私たちの生き方を反省することができるというもんだ。やはり社会や自然との共生感を取り戻さなければ、生きることも死ぬこともつらくなるよ。これって大事だよ。う〜む。
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」
内山 節 著
昔から日本人の生活の中でごく自然にあった「キツネにだまされる話」。
これがしだいに廃れて語られなくなったのが、どうやら1965年頃らしいという興味深い発見から始まる哲学的エッセイ。それがほんとうだとすると、そのころから日本人の生活の仕方が大きく変わったのではないか。ちょうど高度経済成長のただなかで、キツネが暮らす農山村でも経済発展のみを追いかける生き方が主流となった。また科学技術を信奉して迷信を排し、テレビや電話の普及によってコミュニケーションのあり方が変化した。進学率が高まって伝統的な村の教育より全国一律の受験教育優先となり、村の自然と共同体のなかで生きることを離れて死生観が変わった。と、なるほどこれらの変化を1965年を境にして考えるならば、キツネとの交流を失っていくのは当然で、素直に納得できる話だ。
ところがこの著作は実は「歴史哲学序説」であって、ここからがおもしろいのだ。
人類は進歩・発展するものとして直線的に過去を振り返るのが現在の歴史の見方であり、後れた社会から技術・経済・人権などが発達した現代社会へと進んでいくものとして書かれる。
そういった発達していく歴史ではない、過去をのりこえようとしないあるがままの自然と一体となった村の暮らし。生者と死者がともに生きていく暮らし。そこにも歴史というものはあるのではないか。それが人々がキツネにだまされて生きてきた歴史ではないか。
いきなりだが、主観は世界から先がけて存在しているのではなく、世界に向き合うことによって立ち上がってくるものだ。したがって世界から独立した主観というものは存在しないし、主観を排することもできない。歴史学が客観的事実としているものは、あくまで主観によって選びとられた客観的事実である。
そしてそれは合理的な知性の働きであるけれども、その知性は現在の問題意識によって記憶を選びとっていくから、それだけが歴史であったように見えてしまう。
ところが記憶にはふだん意識されないものもずいぶんあって、何かの拍子に思い出すこともある。また手や身体が覚えている記憶もわざわざ言葉では意識されない。われわれが主体的な意識と思っているものは、実は記憶の中のごく一部にすぎない。つまり知性は生命のごく一部にすぎないとすれば、知性で歴史をとらえていくことは生命の歴史を見えなくしてしまうのではないか。そうやって見えない記憶・身体の記憶・生命の記憶を忘れていく過程で、われわれはキツネにだまされなくなってしまったのである。
以上は現代哲学ではベーシックな考え方となっているらしいが、これをわざわざ歴史という言葉でとらえることにより、現代の私たちの生き方を反省することができるというもんだ。やはり社会や自然との共生感を取り戻さなければ、生きることも死ぬこともつらくなるよ。これって大事だよ。う〜む。
読書
「黒い雨」
井伏鱒二 作
追い求めているわけではないが、原民喜・林京子・井上光晴など、少しだが原爆文学を読んでいるくせに、この最も有名な古典が未読であった。
主人公夫婦があずかっている姪っ子の縁談へ向けて、彼女が8月6日に被爆していないことを証明するため清書される原爆日誌。この日誌をここまで書いた、ここまで書いたと繋いでいく形式で小説は進行する。原爆投下以降の主人公たちの一日一日が日誌という形で描写される。
原爆という事実がただごとではないので、当時の広島の街と人々の様子を追っているだけで引き込まれてしまい興奮して読んでいたが、日誌であるせいか初めから終わりまで同じ調子で書かれていて変化には乏しい。この均質な手応えもリアリズムなのかもしれないが、さすがに半ばくらいまで読んできて飽きてしまった。なぜ作者はこの記録文学のような方法を選んだのだろうか。
選ぶというよりこういう冷静で絵画的な描写というところが作家の特質なのだろうか。
長編だからといってドラマが仕立ててある必要はまったくないのだ。
「黒い雨」
井伏鱒二 作
追い求めているわけではないが、原民喜・林京子・井上光晴など、少しだが原爆文学を読んでいるくせに、この最も有名な古典が未読であった。
主人公夫婦があずかっている姪っ子の縁談へ向けて、彼女が8月6日に被爆していないことを証明するため清書される原爆日誌。この日誌をここまで書いた、ここまで書いたと繋いでいく形式で小説は進行する。原爆投下以降の主人公たちの一日一日が日誌という形で描写される。
原爆という事実がただごとではないので、当時の広島の街と人々の様子を追っているだけで引き込まれてしまい興奮して読んでいたが、日誌であるせいか初めから終わりまで同じ調子で書かれていて変化には乏しい。この均質な手応えもリアリズムなのかもしれないが、さすがに半ばくらいまで読んできて飽きてしまった。なぜ作者はこの記録文学のような方法を選んだのだろうか。
選ぶというよりこういう冷静で絵画的な描写というところが作家の特質なのだろうか。
長編だからといってドラマが仕立ててある必要はまったくないのだ。
映画(mixi過去日記より)
「煙突の見える場所」
1953年
監督 五所平之助
原作 椎名麟三
出演 田中絹代 上原謙 高峰秀子 芥川比呂志
椎名麟三を読んだところなので、椎名麟三原作の映画を観てみた。
昭和20年代の下町。場所によって2本にも4本にも3本にもなる、大きな煙突が見える下町を舞台にしたヒューマンドラマ。舞台となる小さな家の1階には、田中絹代と上原謙の夫婦が住んでいて、2階の二間をそれぞれ高峰秀子と芥川比呂志に安く貸しているという設定。その家の一階にある日、見知らぬ赤ん坊が預けられ、しかも添付された戸籍謄本を見ると、妻(田中絹代)の籍は空襲で死んだはずの前夫の籍となっているというややこしい展開に。社会正義をふりかざす芥川比呂志は、言い出した手前、想いを寄せる高峰秀子の目もあって、赤ん坊の父親を捜してまわるハメに落ち入るが…。(役名省略)
田中絹代と上原謙は昔風の日本的美男美女だが、くらべて若い高峰秀子と芥川比呂志がぐっと現代的な顔立ちで、俳優といっても時代によってだいぶ違うもんだと思う。
上原謙は気の弱い亭主の役がぴったりだ。そして若い高峰秀子は凛とした美しさがあった。
それにしても昭和20年代の街と暮らしの、いかに現代と隔たっていることよ。
昨今、昭和30年代がブームだが、かなり美化されていると思うので、やはり昔の日本映画を観たほうがいいと思うよ。まずボクらあたりが、高度成長以前の日本を知っている最後の世代だと思うので、若い人はこの映画を観てもなにやってるのかわからないかも。例えば炭をおこして火鉢に入れるとか…。
「煙突の見える場所」
1953年
監督 五所平之助
原作 椎名麟三
出演 田中絹代 上原謙 高峰秀子 芥川比呂志
椎名麟三を読んだところなので、椎名麟三原作の映画を観てみた。
昭和20年代の下町。場所によって2本にも4本にも3本にもなる、大きな煙突が見える下町を舞台にしたヒューマンドラマ。舞台となる小さな家の1階には、田中絹代と上原謙の夫婦が住んでいて、2階の二間をそれぞれ高峰秀子と芥川比呂志に安く貸しているという設定。その家の一階にある日、見知らぬ赤ん坊が預けられ、しかも添付された戸籍謄本を見ると、妻(田中絹代)の籍は空襲で死んだはずの前夫の籍となっているというややこしい展開に。社会正義をふりかざす芥川比呂志は、言い出した手前、想いを寄せる高峰秀子の目もあって、赤ん坊の父親を捜してまわるハメに落ち入るが…。(役名省略)
田中絹代と上原謙は昔風の日本的美男美女だが、くらべて若い高峰秀子と芥川比呂志がぐっと現代的な顔立ちで、俳優といっても時代によってだいぶ違うもんだと思う。
上原謙は気の弱い亭主の役がぴったりだ。そして若い高峰秀子は凛とした美しさがあった。
それにしても昭和20年代の街と暮らしの、いかに現代と隔たっていることよ。
昨今、昭和30年代がブームだが、かなり美化されていると思うので、やはり昔の日本映画を観たほうがいいと思うよ。まずボクらあたりが、高度成長以前の日本を知っている最後の世代だと思うので、若い人はこの映画を観てもなにやってるのかわからないかも。例えば炭をおこして火鉢に入れるとか…。