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漫画家まどの一哉ブログ

   
映画(mixi過去日記より)

「フェリーニのローマ」ROMA
監督:フェデリコ・フェリーニ
 1972年

フィルム・ドキュメンタリーという設定で描かれた、今と昔のローマ。
一貫したストーリーは無く、過去と現代を行きつ戻りつしながら、数々の細切れにされたエピソードが連続する。もちろん創作である。
●猥雑な下宿に群れ集う人々。子供や年寄りが主役だ。
●雨中の外環道渋滞、悪路ぶりがすさまじい。
●ステージのショーとちっともおとなしく観ない観客。やがて空襲警報。
●遺跡が連続して発見され、なかなか進まないローマの地下鉄工事。フレスコ画が発見されるが、外気に当たって消えて行く。
●売春宿に群れ集う男達と、呼びかける売春婦達。これが安売春宿も高級店もまったく同じシステムで紹介される。
●教会に枢機卿様を迎え、なんと始まったのは僧服のファッションショー。しかし枢機卿様は寝ていた。
●最後は深夜の市街をぐるぐる廻る暴走族。

ひとつひとつのエピソードの中身も、四コマ漫画の繋がりみたいで、おもしろくて笑ってしまう。下宿アパート下での往来に設定された、ピザ&パスタでの夕食風景が騒がしいことこの上なく、いちばん面白かった。ローマではじっとしているヤツが居ないというか、人間は面白いことに正直なのがいいよ。

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読書
「雨瀟瀟」
永井荷風
 作

しとしとぴっちゃ~ん。雨が降り続く夜など、一人暮らしの老境、いかばかり寂しかろ。そんな荷風のつぶやきが縷々綴られた私小説。どうしても想いは時代の移り変わりを嘆くほうへむかうようだ。それが現代とちっとも変わらないところがおもしろい。いま自分は滝田ゆうの短編を読んでいて、ここに描かれる風俗に気持ちが入る世代はギリ自分たちが最後かもと思っているが、ことごとくデジタルになって行く世の中、アナログの風情が理解されるのはいつまでかなあ…。などと嘆くのとちょうど同じ様子が、この荷風の小説でも登場する。以下荷風の友人の言葉。

「家の娘は今高等女学校に通わしてあるがそれを見ても分かる話で今日の若い女には活字の外は何も読めない。草書も変体仮名も読めない。新聞の小説はよめるが仮名の草双紙は読めない。(略)稽古本の書体がわからないのはその人の罪ではない。町に育った今の女は井戸を知らない。刎釣瓶の竿に残月のかかった趣なぞは知ろうはずもない。(略)僕はもう事の是非を論じている時ではない。それよりわれわれは果たしていつまでわれわれの時代の古雅の趣味を持続して行く事ができるか、そんな事でも考えたがよい。」

そして荷風本人は
「(略)二葉亭四迷出て以来殆ど現代小説の定形の如くなった言文一致体の修辞法は七五調をなした江戸風詞曲の述作には害をなすものと思ったからである。このであるという文体についてはわたしは今日なお古人の文を読み返した後など殊に不快の感を禁じ得ないノデアル。わたしはどうかしてこの野卑蕪雑なデアルの文体を排棄しようと思いながら多年の陋習遂に改むるによしなく空しく紅葉一葉の如き文才なきを嘆じている次第であるノデアル。」

わっはっは。

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読書
「マックス・ヴェーバーの哀しみ

羽入辰郎 

社会学の巨人マックス・ヴェーバーが、実は「一生を母親に貪り喰われた男」であったことを解き明かした一冊。
ヴェーバーの母親は熱狂的なカルヴィニスト(プロテスタントの一種)で、子供たちにとっては恐怖の存在。逆に父親は楽天的で現実的な資本家。ヴェーバーはほんとは嫌いな学者にまでなって、母に愛してもらいたく努力するのだが、母親は息子の名声を利用するだけで、父親への抵抗も息子を利用する始末。
このヴェーバーの努力は無意識下に行われ、母親の嫌うタイプの恋人には求婚もせず、精神の不安定をワーカーホリックとなってやりすごし、迎えた新妻とはセックスレス。哀れ、ほんとうは父親のように生臭く堂々と生きたかったヴェーバーは、母親の敷いたレールから一歩も逃れられずに短い一生を終えるという、現代社会にいくらでもみられるハナシだ。

ヴェーバーの名著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を初読したとき、なんて面白いんだと感動したものだが、後年読み返してみるとまるで退屈だった。そんな経験を持つワタクシとしては、社会学の本格的な土俵より、こういった周辺記事みたいなもののほうが愉快かもしれない。ヴェーバーの生涯を研究している学者はたくさんいるようだが、この著作が正解か不正解かはこの際どっちだってよくて、読み物として痛快であれば私には正解である。

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映画(mixi過去日記より)
「地下室のメロディ」Mélodie en sous-sol
監督:アンリ・ヴェルヌイユ 
出演:ジャン・ギャバン、アラン・ドロン
1963年 モノクロ

高級リゾートホテルからカジノの大金を強奪する計画を立てた主人公達(アラン・ドロンとジャン・ギャバン)、金持ちの振りをして2週間ホテルに泊まり込んだ。最後の金曜の深夜、支配人が金庫をチェックしにくると同時に、換気口からエレベーターの天井を抜け、まんまと金庫室に突入。強奪成功後は現金を詰めた鞄を受け渡しして、逃げるはずだったが…。

人情の絡まない犯罪ドラマで、気持ちよかった。犯罪自体もとくにトリック的なことは無く、アラン・ドロンが体を張って、ダクトを抜けたり、エレベーターのロープを伝ったりするのが見どころ。ルパンでも多用されている泥棒映画の定番が、このころ確立されたのかも知れない。
音楽も建物も題字も、ミッドセンチュリーならではのオシャレ感に溢れていた。

こういう犯罪ドラマは、計画がまんまと成功するところはもちろん観たいし、また最後にどうやって失敗するのかが見どころで、両方楽しめるようになっております。
それにしても、やはり野沢那智と森山 周一郎の声が浮かんでしまう…。

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つげ義春がその黄金期に一連の旅モノを発表して、それまでの漫画概念を革新した。これがいわゆる「つげ義春インパクト」である。当時の世間の反応としては、こんなものは漫画ではない(漫画はデフォルメでわかりやすく娯楽を表現するものだから)。すでに漫画を越えて文学にまで達した(優れた内容なので漫画という娯楽の域を越えた)。などさまざまなもので、さらに「ねじ式」が発表されるに及んで、全否定されたりアートとして祭り上げられたりしたらしい。
したらしいと書くのは、私はとうぜんリアルタイムでその作品群に接していないからで、私が少年漫画からやや青年のものへ興味が移りだした頃には、「つげ義春」という一大ムーブメントは既に終わっていたのである。

つまり時代の流れのまま「つげ義春インパクト」を語れる人はしだいに少数となり、多くの漫画読者が、自分なりのタイミングで「つげ義春」を体験しているから、純粋な意味でインパクトを受けているわけではない。かくいう私もすでにつげ忠男や勝又進、安部慎一らに衝撃を受けてから、はじめて「つげ義春」に接している。たのしく読んでいたが、「ねじ式」には特に関心は持てなかった。

さて世間はどうだろうか。先にあげた文学への分類などジャンルを内容で分ける見方はもとより、多くの読者は方法のみを内容から分けてみる必要がないから、「つげ義春」の表現の革新に気付かない。私小説漫画・旅エッセイ漫画などという見方で今も昔も理解されているのではないか。ここにはつげ義春の方法が漫画のリアリズムを一歩前進させたという発見はなくて、もし私小説でない大ドラマを描くならば、当時の手塚治虫の方法でなんら問題はない。といった漫画の見方がある。これはいつの時代でも変わりはなく、評論家でも、大学の偉い先生でも、漫画作品の表現力の差をまったく気にしない読者のほうが大半であるから、私小説漫画・旅エッセイ漫画といったジャンルを読まないのであれば、べつに「つげ義春」という革新はいらなかったのだ。

したがって手塚治虫以降の漫画の革新は、24年組や大友克宏をまってなしとげられ、その後岡崎京子以降となるわけで、「つげ義春」は一部の私小説漫画が好きな人がやれば良いことになった。
その証拠につげ義春の衣鉢を継いで輩出した「ガロ」漫画家は、つげ忠男や鈴木翁二・安部慎一に至るまで、みな私小説(私漫画)ではないか。やはり「つげ義春」の方法とは私小説(私漫画)を書くための方法だったのか。
しかしこの理解では「無頼平野」「こくう物語」「筑豊漫画」などの漫画史に残る、私小説でない作品群がなぜ存在しているのかわからない。私小説でないドラマ一般を、記号的表現を排した方法で描くことにより、作品は確たるリアリズムを得ることができる。これが実は「つげ義春インパクト」の正体である。というのはいろんな漫画をたくさん読んでいる人にとっては、たぶんまだ大ざっぱな、何を言ってるのかわからない話であるが、この文章のつづきはないのである。

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読書
原民喜を読む

「美しき死の岸に」:作者の妻の病がだんだんと重くなり、やがて死に至るまでの一連の連作。そのなかでとうとう妻が死んでしまう話。悲しい話だが、日本文学史上もっとも美しい散文といわれるだけのことはあって、例えば室内楽を聴いているような澄み切った美しさ。

「夏の花」:広島での被爆体験を語った代表作。これは事実が脚色なしに克明に綴られる。散文の名手だけに、この事実はカタカナで書きなぐるのがふさわしい、としている箇所があるのがおもしろい。アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム

「鎮魂歌」:この小説だけが珍しく観念的で、作者の想念が、かけめぐる言葉のままにくり返すリズムにのせて演奏されていくような書き方をしている。客観的事実よりもこころの動きを忠実においかけるカタチで、好きな人は好きだろうが、自分はだめだった。

事実の推移は、まるで新聞記事を読むくらいの分かりやすさがあるが、それでいて人物のこころのうごきも手に取るようにわかる。それが澄んだきれいな文章で書いてあるから、内容が深刻でも読んでいてとても気持ちがよい。

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読書
「巨匠とマルガリータ」
ミハイル・ブルガーコフ


モスクワ市街。作家協会会長が公園でツルリとすべったまま、電車にはねられ首が飛んでしまったのを皮切りに、作家・劇場関係者のまわりに次々と起こる怪事件。黒魔術のショーでは10ルーブル紙幣が降ってきたり、豪華衣裳が女性客に与えられたりするが、数時間後には紙くずと消える。劇場支配人たちは一瞬で遠隔の地に飛ばされてしまう。これらはすべて黒魔術ショーを行った4人の悪魔たちの仕業なのだが、その中のひとりはでかい黒猫なのだ。
一方、ローマ帝国総督ポンティウス・ピラトゥスは、ヨシュア(イエス)を処刑してしまったことにどうしても悔いが残り、毎日を鬱鬱と過ごしていたが、実はこの挿話はモスクワの精神病院に収容されている巨匠と呼ばれる作家の手による未発表の作品であった。
巨匠の愛人マルガリータはぜひとも巨匠を救出し、この未発表作を世に出そうと強く願う。そこへ実際のピラトゥスとヨシュアの現場を目撃していたくだんの悪魔たちが協力し、マルガリータは魔女となってほうきにまたがり、モスクワの空をかけめぐり、批評家のアパートを破壊し、パーティで悪魔の女王の役目を果たしたりする。
やがて、巨匠とマルガリータは悪魔たちの手のよって今生での暮らしを終え、遠い昔ピラトゥスの生けるローマで安寧の日々を得るのだった。


といったかなり破天荒で荒唐無稽な小説。ドタバタ劇の如く動きの多い話で、空飛ぶシーンのスピード感は秀逸だった。また、人なのか大型のネコなのか?おかしなキャラクターも登場して、落ち着いたリアリズムを味わうことはできないが、当時のソビエト社会を風刺しているからといって単純な寓意小説でもないから安心だ。ナンセンスな幻想とリアリズムが混淆して同居するという作風は、まさに自分のスタンスと同じといってもよく、今まで世界幻想文学の中でポーとホフマンを座右に置いてきたが、この際ブルガーコフも仲間に加えたいものである。

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斎藤種魚さんの「巻頭言」、なんだか楽しくて素敵だ。

非常夢遊口さんの「ユメノオト」いい絵だと思う。まさにペンネームそのままの世界。キミイルキミナル氏の解説がすべてを語っている。この作品を見ると、同人誌「走馬燈」が目指す菅野修以降の作法というものは、ほとんど絵の魅力で出来上がるのではないか?などと考えてしまう…。

ところが斎藤種魚さんの「ハダシ」を読むと、相変わらず言葉を駆使していて、言葉の魅力も捨てがたい。その言葉と絵がシンクロしていたりしてなかったり、このサジ加減が作者の自家薬籠中の技術だ。ハダシって結局誰だったんだろ?

川勝徳重さん「縁の下の蝸牛」見たか、このコマ展開!なんと自由で大胆な!非常夢遊口さんのようなタイプと違って、ストーリーを追っていける描き方で、これだけやりたい放題遊べるのは才能の所産である。愉快愉快。

バキトマ先生、キクチヒロノリ「(改訂版)犬がほしい」キクチさんは常識あるとてもいい人だが、心の中に蠢くバキトマ部分には、蛭子さんや根本さん以上に気色の悪い、見てはいけないものがあることが、この漫画から分かる。それってなんだろう?誰しもあるのだろうか?キクチさんは石を持ち上げて、下にいる虫を見ておかないと生きていけない人なのだろうか?

鳥子悟「サマー・サスピション」こんなに名人芸みたいでいいのだろうか。ショートストーリーの語り手としては、0.ヘンリーや星新一みたいに上手い。それでも漫画界が求めるもののなかではマイナーなのかな。もったいない。

安部慎一・西野空男「深夜の栄光」やっぱりアベシンの語り口がいいのかな。それとも言葉数の少なさが心地よいのか、ついつい面白く読んでしまう。西野さんの絵もアベシンの心情に沿う描線となっている。この作品をアベシンのことをまったく知らない読者がどんなふうに感じるのか、それも気になる。

オオタヤスシ「THE SCARBOYS SHOW」途中、夢のシーンがなんとフライング沖!なんでやねん!というツッコミが通じる年齢が限られる(笑)

三本義治「マシンガンぎゅんぎゅん」アックス主力漫画家は皆大量に映画を観るが、この作品、いかにも日本娯楽映画の王道を行くような話だと思いました。

さて私の絵を描く楽しみは、世界を輪郭線に省略してしまうところにあって、つまり半分は図を描く楽しみなのです。美よりも意味を上に置くやりかたです。それでいつも失敗しているのですが、死ぬまでこの方法でいくつもりです。よろしくお願いします。

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巻頭特集は、デビューほぼ30周年「MY WAY」と書いて「けものみち」と読む、泉晴紀・久住昌之・根本敬・みうらじゅん、お歴々の豪華対談だ。みなさん50歳を過ぎてますます意気盛んなご様子。実は自分もまったく同世代。むかし自分は赤瀬川先生の「美学校・絵文字工房」を卒業した翌年も、OB面して平口広美さんらと毎週顔を出していたが、そのとき現役の生徒として在籍しておられのが、泉晴紀さんと久住昌之さんである。

ところでこの4人と久々に漫画を発表している川崎ゆきお氏とも、30年経ってもまったく変わらない印象を受ける。もちろんどんな作家も本質的には変わらないのかも知れないが、ヘタウマの資質を持っている人はとくにそうだ。自分はヘタウマをアール・ブリュットと同一視しているが、やはり直球で勝負しているからだろうか。おそらく今号も活躍の後藤友香さんや高橋宏幸さんも、30年経ってもまったく変わっていないのではないか。とくに川崎さんの今号の作品を読んで、そのあまりのいつもどおりさに、水を飲んでいるような気持ちになった。

さて私は「海の愉しみ」という漫画を後ろのほうに発表しています。単行本「洞窟ゲーム」の表紙絵の秘密が分かります。ぜひお楽しみください。

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読書(mixi過去日記より)
「偶然の本質」
アーサー・ケストラー


1974年発行のニュー・サイエンスの古典。
先ず超心理学。テレパシーや透視などのESP(超感覚知覚)、果ては念力(PK-サイコキネシス)まで、世界中の研究機関でくりかえされた各種実験を紹介。有名なものは、別室で選ばれたカードの絵柄を当てるといったようなもの。するとくり返すほど、大数の法則に従って近づいていくはずの確立から、明らかな偏差が現れる。つまり確立以上に当たる。これぞ超感覚知覚の証明か?

翻って著者は現代の素粒子物理学の成果に言及し、物質が極微の素粒子に分解されていくにつれ、それは我々の日常世界でいうところの「もの(物質)」ではなく、粒子でありながら同時に波動でもあり、エネルギーが決まれば位置が決まらないといった、ハイゼンベルグの不確定な世界を解説。実はこの物質ならざる物理世界が、精神の実態と関係しているのではないか?という推論が導かれる。

この筋立てで、ユングいうところのシンクロニシティ(同時性)の正体に迫ろうとする。つまり物事が、因果性に基づいて起きる普通の世界に対して、因果性に基づかずに立ち現れるシンクロニシティの理由にたどりつけないかと…。

著者は各研究を紹介するにとどまり、裏付けの無い断定はしていないので、いわゆるトンデモ本とは違うとしておこう。村上陽一郎の訳やし。
しかし、この本が日本で刊行された1974年当時と現在とでは、素粒子物理学も発展していて、著者が鍵を握るとしていたニュートリノにも、質量はあった。
加えて近年MRI(おなじみ磁気で脳を輪切りするヤツ)の発達もあって、脳科学が著しい成果をあげているらしく、著者ケストラーが物質に対置させていた精神といううものも、多くが脳内物質の作用で解明されている。意識の本質にたどり着くことはまだないにせよ。

そうはいっても偶然や霊的世界の謎は解き明かされていない。ネタとしてはおもしろいけど、基礎知識がないとトンデモ科学にひっかかちゃう!

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