忍者ブログ

漫画家まどの一哉ブログ

   

 私が中学時代より最も尊敬する漫画家つげ忠男氏にやっと会えた。

新刊「曼陀羅奇譚」にサインをいただき、拙著「洞窟ゲーム」を受け取ってもらったが、毎号「アックス」で私の作品を読んでくれているとのことで、たいへん嬉しかった。

 

つげ忠男作品では冴えない中年男(青岸良吉)がよく登場するが、やはり一番リアリティを感じられる。たしかに無頼漢達はかっこいいが、身近には存在しないキャラクターなので、読者が実感するのは難しい。中年男とは人物造形のそもそもが違う。女性ファンから見ても冴えない中年男がいちばん魅力的であるらしい。忠男さんは自分の好きな映画俳優やプロレスラーを反映させているが、そこに自身が若い頃血液銀行時代に実際見知ったアウトロー達が混ざってくるのだろう。ところで忠男さんがいちばん好きなキャラクターは、サブでも銀さんでもなくリュウだそうだ。

 

最新作「曼陀羅奇譚」を読み返してみても、やはりキャラクター漫画なのだなと思う。忠男さんは大枠を考えたら、あとは描きながらストーリーを進めるらしいが、これは登場人物が勝手に動き出してくれる(喋ってくれる)から可能なのだ。それだけ各人物の造形がはっきりしている。読者にとってはエンターテイメント作品のように分かりやすい設定ながら、じつはそこにもう少し深い人間観が忍んでいるところがミソ。

 

つげ忠男作品を特徴づける河川敷のヨシ原。背丈より高いヨシ原の中を歩くときなど、まことにシュールな現実離れした感覚があるとのこと。そういえばあのザクザクッと描かれた大胆な一面の草原表現の効果で、つげ忠男作品はどんなリアルなものでも夢の中のような非現実感がある。あの線は抽象である斜線と具象である草原の中間を行くものではないか。我々はその効果に酔いしれるのではないか。

 

ところで氏は昔の原稿を紛失しているので、単行本未収録の「野の夏」や「道化」などは元原稿がないそうだ。大変残念だが雑誌から版を起こして、どなたか発行してほしいものだ。自分の切り置きも協力できます。

拍手[1回]

PR

 

私のまわりの漫画家達にもファンが多いヘンリー・ダーガーを見てきた。この魅力を解説する能力は自分にはない。アールブリュットの発するイノセントな魅力というものは、手持ちの言葉ではとても追いつかないものがある。

 

個人的な感想では、まず線の弱々しさ、彩色の弱々しさにひかれた。人間社会を生き抜いていくパワーがなく、自分を守るすべをしらない赤ん坊が引いた線のようだ。そして描かれる少女達はみな人形のようであり、あるいは昔の少女漫画のようであり、悲惨で残酷な戦争物語を生き抜いている登場人物にしては夢の世界の住人のように重さがない。その証拠に巨大な花の中でふわふわと蠢いているではないか。

 

また時には半裸・全裸の少女達が、きわめて過酷な戦争の主人公であるというのは、昨今主流の戦闘系美少女の設定と、心理学的には同じではないのか?ところが裸の少女達にはペニスがついているから、この場合の美少女という位置づけはかなり微妙な、男女差がはっきりしない幼児期の精神性で成立しているのかもしれない。

 

ところで独り引きこもって「非現実の王国」を築き上げることは、多かれ少なかれ漫画家なら持っている気質だと思う。ヘンリー・ダーガーの作品は絵画ではなく、ストーリーのための線画であり、ところどころフキだしもあって、あきらかに漫画の領分だった。

拍手[6回]

大西巨人の小説を読んでいて、アンドレーエフに二度出会った。それはゴーリキーの伝えるアンドレーエフのエピソードとして語られるものだ。以下。

まだ十四歳の時、僕は、僕自身に、「有名になるか、そうでなければ、生きるにはあたらない。」と宣告したものだ。僕は、「僕以前に成されたすべてのものが、僕自身の成し得るものよりも優れている、とは思われない。」と断定して憚らぬ。これは無数の人間の無差別な列伍に自己を置きたくないと思う者が、めいめい持っている根源的信条であるべきはずだ。すなわち、自己の卓異性にたいする信条は、想像力の源泉として役立つべきであり、また実に役立ち得るのである。

偉大!抜群!世界征服と名声の不朽!この目的に比べれば、永久に名も知られぬ人々の幸福など、すべて何の価値があろう?名を知られること__地上の諸国民に名を知られて愛されること。この夢想、この衝動の快さを何一つ知らぬ人々よ、利己心とでも何とでも勝手にしゃべるがよい。悩んでいる限りすべての抜群な者は、利己的なのだ。抜群な者は、言う、__君たち何らの天職をも帯びぬ人々よ、君たちは、君たちだけでやって行ったらよかろう。君たちは、この地上で、われわれよりもずっと安楽に暮らしているのだから。そして名誉心は言う、__今までの苦悩は徒労だったなんぞということが、あるはずだろうか。苦悩は、おれを偉大にせねばならぬのではないか。


なんて正直なんだ。もちろんさすがに自分の才能に自身があるにせよ、こんなに名声への欲求を露骨に語る人は少ないのではないか。彼の生い立ちに何があったか知らないが、承認欲求がただごとではない。
この承認欲求というやつはボクも多い方だと自分で思う。このあいだ精神神経科の医師にきいたが、ボクのように幼少時から母親の過干渉で、母親の満足する子供を設定されてきた人間は、ほんとうの自分を認めてもらってないという屈折をもっている。それが過度の承認欲求に結びつくのかもしれない。ほめられたいという心理は創作の原動力であることは確かだ。

それにしても偉大なる先輩漫画家と比較して、自分の実力の限界も知っているので、さすがにアンドレーエフのごとき無謀な欲望はおきない。アンドレーエフは若かったにせよ、正しかった。

拍手[0回]

映画(mixi過去日記より)
「灰とダイヤモンド」
1957年ポーランド
監督  アンジェイ・ワイダ
出演  ズビグニエフ・チブルスキー エヴァ・クジジェフスカ

名高い作品なので観てみた。
主人公の青年マチェクは、政治活動家としての暗殺者であって単なるヤクザ者ではないが、孤独なアウトローという設定は同じ。映画の王道を行く気がした。
第二次大戦後のポーランドの政治的背景、またワルシャワ蜂起などの歴史的事実に詳しければ、そういった歴史の大きなうねりのなかで、彷徨える孤独な魂といった見方も出来る。ただそうではなくて、所謂ヒットマン一般の悲歌として理解しても、なんら問題ないと思う。政治や社会運動自体が映画の前面に出たものではなかった。

●天涯孤独の主人公マチェクは、最初ターゲットを間違えて、一般労働者を殺してしまう。
●それでも使命を果たそうとする中、ホテルのバーで働く女と知り合い、初めて愛に目覚める。
●その彼女は失うことの悲しみを、これ以上経験したくないという女。最初はマチェクとの恋に消極的だったが、しだいに彼を受け入れるようになる。
●愛に目覚めたマチェクはふつうの生活に憧れ、殺しの仕事を抜けようとするが、ままならない。
●最後には結局暗殺の使命を果たし、逃走の途中監視員に見つかり、銃撃を受けてゴミ捨て場で悲惨な最期を迎える。


と、こうやって粗筋を書き出してみると、しごく真っ当なストーリーで、アウトロードラマの基本形のようなものだ。ただそれは今だから言えることで、この作品が切り開いた世界なのかもしれない。もちろんそんな骨組み以外に、面白い場面がいろいろありました。例えばラストのシーツのシーンなど。

拍手[0回]

読書
仮名草子「竹斎」
富山道治 作(1634年没)

京の都で食い詰めたヤブ医者竹斎。思い切って下僕の「にらみの介」をお供に江戸への移住を目指す。その道中記かと思いきや、確かにそうなのだが記述バランスが道中より定点(京都・名古屋・江戸)に置かれていた。出発前に清水寺はじめ、有名な神社仏閣にお参りし、また酒盛りや蹴鞠などをして遊ぶ洛中の人々のようすを見物しては、戯れ歌を一首、二首残していく。例えば蹴鞠を見て
 へたのける けまりはぜんしゅ(禅宗)のなまざとり(生悟り)
  ありといへどもあたらざりけり

やがて名古屋について、「天下一・やぶくすし・竹斎」という看板を出して、しばし営業に励む。自分でヤブを名乗るところがおもしろく、かえってウケて客をよぶ。ある日、鉄粉が目に入ってしまった鍛冶屋に、磁石を刷り込んだ膏薬を目に貼って、鉄粉の取り出しに成功。これに気を良くしたか梅の実が喉につかえた女にもこの膏薬を使ったところ、梅は出たが目鼻が顔の中央に吸い寄せられてしまう(そんなバカな)。これに「梅の療治は心得たり。目鼻のことはしらぬ」と答えてうちたたかれそうになる。また、井戸に落ちた子供を救出するにもこの磁石入り膏薬を使い、木の蓋に膏薬を貼って吸い付いてくるのを待つのだが、あわれ子供は死んでしまい、竹斎は袋だたきに。

そんな愉快なエピソードも交えつつ、江戸まで行くオハナシ。仮名草子は泰平の世の中を反映してか、無常観は薄いものらしいが、この話はいたるところ諸行無常・諸行無常の嘆き節の連続で、自分はやっぱり仏教的無常観を感じた。

ところで続編「竹斎狂歌物語」で京都まで帰ってくるよ。

拍手[3回]

いつもながら編集長の巻頭言は名文だ。大震災で西野空男は精神的に疲弊・消耗し、斎藤種魚は現実に被災し、ワタクシは関係ない家庭的事情で精神的に不安定となって、全く創作活動に従事できていない。さすがに甲野酉さんは落ち着いているようだがどうなのだろうか。

「キクチヒロノリ特集」に寄せられた文章では、堀さんのものが素直によかった。それにしても漫画という分野は、ストーリーと絵の比率がどんな割合でも成立してしまう分野だな。キクチさんのデザイン遍歴を読んでも、あの独特のデフォルメがどこから来るのか謎のままだった。

自分は今回ひさびさに登場の香山哲と炭子部山貝十のコミカルなデフォルメが大好きで、おおいに親近感を持つ。ところがキクチ氏のデフォルメはそのギャグ漫画の安心感を破壊する力があって、そういえばエルンストといわれてぼんやり繋がったかもしれない。

ところで甲野酉「未踏」が、こんなに超能力自体の話になるとは驚いたが、この描線は余計な力が抜けていて、非常に馴染みやすい。

さて「西遊」だが、次回分は完成していて、後一回最終話を描けば完結である。努力します。

拍手[5回]

読書(mixi過去日記より)
「ユリイカ」
ポオ
作 岩波文庫

わが最愛の幻想文学作家、エドガー・アラン・ポオ最後の作品。当時最先端の宇宙科学論を下敷きに、直感のみで組み立てられた形而上学的宇宙論。いっさいの数学的物理学的検証をともなわない。
壮大なるナンセンスと言えば言えるが、1840年代の天文学を基礎にした解釈は、あながち大ハズレでもない。たとえば、この宇宙は静止した状態ではなく、ある原始の究極の単一にその萌芽があり、斥力に応じて拡大の一途を経、やがて重力作用によって再び原始の単一に戻るであろう。などの論考は、現在のビッグ・バン&ビッグ・クランチ論を先取りしているとも思える。
ところが、太陽系の形成過程について、太陽が自転とともにその遠心力を用いて、次々と質量を解き放ち、それがやがて凝結して順番に惑星が形作られるところなど、まったくオカシイ。

加えてこれは形而上学的試みだから、これらの宇宙の営みは、すべて神のなせる業として導かれている。このあたりの論旨についていくのには、読み手の脳に跳躍力が必要である。

ポオはこの論考を、大きな意味での散文詩と思ってほしいそうだが、いえいえまったく詩になってませんよ。ポオはどうしてこんなものを書き残したかったのか?人間やはり、壮大な宇宙論や存在論を手にすると、本人は絶対正しいつもりなんだから、死ぬ前にどうしても多くの人に語りたくなるのは、天才作家も凡人も同じなのか?

解説によると、かのポール・ヴァレリーは「ユリイカ論」の中で、「人間としての栄光は、空虚な事柄との対決に自己を費やすことのできること」であり、「純粋な論理学は虚偽が真実を意味することを教える」と、精神の求める無稽を讃えて「ユリイカ」を弁護している。

まあ、それを言ったらずるい気もするが、現在自作の中で荒唐無稽な虚妄の世界を目指しているボクとしては原則賛成しておかねばならないかも…。それにしてもやっぱりこれってトンデモ本…?

拍手[0回]

読書(mixi過去日記より)
「われら」
ザミャーチン
作 岩波文庫

200年戦争が終わり、全地球を征服した単一国が誕生して1,000年。恩人様の支配により、人々は睡眠・生殖を含む全生活を、時間律法表で定められたとおりに行っていた。全ての建造物はガラス張りであり、守護者(秘密警察)による監視も徹底している。
自然状態の動植物は、人工物だけで構成された都市をめぐる壁の向こう側に排除されていた。

今にも飛び立たんとする宇宙船インテグラルの制作担当者D-503は、女性I-330に出会って以来、生活が一変。どうやら魂の発生という病気らしい。彼女を追ってたどりついた博物施設「古代館」に迷い込むうち、単一国政府に異を唱える自由な人間(古代人)の集団にめぐり会った。しかし、インテグラル打ち上げ前日、全国民に想像力を奪う脳手術が強制されようとしていた。

1920年代、発表されるや反ソビエトの宣伝小説と批判され、スターリン政権下で亡命せざるをえなかった、ザミャーチンの傑作近未来小説。独裁政権と科学技術が結びついた、暗黒の未来を的確に描く。
ただしこの小説、映画「未来世紀ブラジル」や「マイノリティリポート」を観るように、ストーリーを追ってわくわくと楽しめるかというとさにあらず。散文詩のように、心象が描写され、読者はむしろ沈鬱なイメージの中へ引き込まれ、一章ごとに作者の詩的遊戯を味わうという仕掛け。それ故に捨てがたい名作となった。

拍手[1回]

読書(MIXI過去日記より)
「今日様」
葉山嘉樹短編小説集


女房のおたねといつもの如くケンカした藤蔵は、ついに離婚して単身満州へ渡ることを決意。親父に資金を迫る。もう60を越えた親父に言わせれば、息子の藤蔵は、朝鮮や樺太に一旗揚げに飛び出しては、失敗して親に尻拭いばかりさせているダメ男。遠い夢ばかり追いかけて、毎日の労働に喜びを見いだせないのだ。
ところがこの親父さんは藤蔵の百姓仕事に地下足袋さえ与えないドケチ人間で、藤蔵に与えられたのは、山の上の水漏れたんぼで、肥料代さえもかけられないというありさま。

さて藤蔵夫婦のケンカの仲裁を頼まれた居候の山田は、おたねの実家へと赴くが、おたねの実父は、生えて育ったから立っているという木のような人間で、なにもしない。
妙に頭のいいおたねは「百姓は永久に圧しつけられる生業の中に、湧いてくる蛆虫だ」とか自説をぶちあげ、母親に「また気違いが始まったよ」と嘆かれる。はたして山田は無事おたねを藤蔵のもとへ連れ帰ることができるのか?


面白すぎる人物設定。
葉山嘉樹(1894~1945)といえば、分類的にはプロレタリア小説家で、たしかに代表作「海に生きる人々」などをみても、資本家の搾取を攻撃するインテリ労働者などが出てくるのだが、そういう箇所を読むと実は自分は気持ちが引いてしまう。
そういう警察になんども捕まっている運動家のような、言葉を操る人物ではない、底辺の生活者だけで構成された話がぐっとくる。
室蘭から荒海に乗り出す小さな石炭運搬船の水夫達や、天竜川上流に鉄道施設のためトンネルを掘る坑夫達など、作者の肉体労働体験がリアルで、あたまでっかちにならない。

有名な「セメント樽の中の手紙」は菅野修によって、漫画化されています。(ガロ1991.10月)

拍手[1回]

映画(mix過去日記より)
「けんかえれじい」
1966年
監督 鈴木清順
出演 高橋英樹・浅野順子・川津祐介

昭和10年ごろの旧制中学を舞台として、けんかばかりしている主人公達の話だが、おもしろかった。
もしこれが、経済的に自立している大人の世界ならば、ピストルなども登場して悲惨な話になるだろうが、学生間の意地の張り合い・男気の見せ合いなので愉快愉快。殺傷能力の高い手作り武器なども登場するが、そこはユーモアとして安心して見れる。

男らしさと女らしさが極端に別れていて、硬派の男達の憧れる女は、可憐な一輪の白百合が如し少女であり、マドンナであり、純然たる女性像のようなもの。「男は男らしくあれ」というのが昔の日本社会共有の建て前で、中性的なポジションがない。(ドラマではときどき男勝りのおてんばな女の子が登場するけど…。)
この極端な男と女で構成された社会が、本宮ひろ志が「男一匹ガキ大将」で憧れた世界で、つまり既に失われていた社会なのかも知れない。それとも自分が知らないだけで、相変わらずヤンキーの世界は同じような精神性なのかな?

高橋英樹は若いくせにゴツ過ぎるが、川津祐介がやはりカッコイイ(自分は川津祐介の「三回死にかけてわかったこと」という妙な本を読んだことがある)。

北一輝が登場し、二・二六事件が起こり、主人公が東京へ赴こうとするラストはかなり唐突な感じがするが、この作品が公開された当時、学生運動の時代の雰囲気から歓迎されたようだ。どんな作品もその時代の若者が共有する感覚を描いて評価される部分がある。時間が経ち、世代が変わるとさっぱりわからない。それについては、いいとも悪いとも思わないが。

拍手[1回]

  
カレンダー
03 2025/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
フリーエリア

「世の終りのためのお伽噺」
アックスストア
「洞窟ゲーム」
アックスストア 西遊
「西遊」
amazon ヨドバシ.com
アックス75号
アックスストア

祭り前

秘密諜報家
最新コメント
[08/13 筒井ヒロミ]
[02/24 おんちみどり]
[05/10 まどの]
[05/10 西野空男]
[01/19 斎藤潤一郎]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
madonokazuya
性別:
非公開
自己紹介:
漫画家
バーコード
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析
カウンター
カウンター
フリーエリア
Copyright ©  -- まどの一哉 「絵空事ノート」 --  All Rights Reserved

Design by CriCri / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]