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漫画家まどの一哉ブログ

   
映画
「第三の男」 1949年 イギリス
監督 キャロル・リード
出演 ジョセフ・コットン、オーソン・ウェルズ

子どもの時、淀川長治の日曜洋画劇場で観覧車のシーンを垣間見た記憶があって、今回観たのはそれ以来だが、やはり記憶とは違うもんだ。なにか地面に落ちた眼鏡のレンズ越しに人物をとらえていた記憶があったが、別の映画だったようだ。それでも殺人事件が起きるかも知れないくらいの緊迫した場面で、ワザと使われる軽快な音楽。この裏腹な効果は予想通りだった。巷間、その観覧車のシーンが有名でラストシーンのように思っていたが、ラストは長々とした下水道での逃走シーンだった。これはやや冗長な気がした。

「第三の男」とはつまり事件の現場にもう一人目撃者がいたらしいが、だれもそんなヤツはいなくて二人だけだったと証言するという謎からきたタイトルである。はたして「第三の男」の男は誰だったのか?という謎解き的な面白さは、グレアム・グリーンの原作を読むと感じられるのかもしれない。映画でのストーリーのバランスは、謎が解けてからに置かれていて、それは女を裏切るか、女はそれでも男を信じ続けるのかという部分を描きたかったからだろう。

ジョセフ・コットンもオーソン・ウェルズも顔立ちが個性的で説得力がある。警官は正義漢だが細い口ひげをはやしているのでイヤなヤツにみえた。

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読書
「三界の家」
林京子


林京子は長崎での被爆体験を中心に、自身の人生をすべてなぞって作品にしている私の好きな作家である。
この短編集では作者の父親を描いた話が心に残った。

彼女の父親は戦前M物産の上海支店に勤めるエリートであり、家族からは「とうさま」と呼ばれ、尊敬を集めていた。敗色濃厚な中国大陸、一家は父親を残したまま先に引き上げ、作者は長崎の三菱兵器工場にて被爆。やがて父親も帰国するが財閥解体の指令を受けてM物産社員という肩書きを失ってしまう。

そうなるとエリートは弱い者で、就職難の中やっと見つけたクチも雑用までやるのが苦痛ですぐ止めてしまい、昼間から家でぶらぶらである。ようやく続いているらしい職場をある日母親と作者が訪ねてみると、海岸近くの小屋の中で、ひとり伝票仕事をしていた。寂しくて呆然とするシーンだ。
母親は家政婦の職を見つけて働きに出るようになるが、そのころ閑な父親はぶらり散歩がてら母の勤め先である家庭に立ち寄り、おみやげに果物などをもらって帰る。なんとも情けない有様である。

時代が流れて老いた父親はやがて膵臓がんを患い、病院では家族総出の世話になるが、ひっきりなしにベッドのそばで付き添って寝ている母親の名を呼ぶ。しかし母は返事をしない。返事をすると甘えるからだそうである。「とうさま」と呼ばれて尊敬されていた父親は、母の中でとうのむかしに終わっているのである。

小説では父の死後、葬儀があって一族の墓を掘り起こすシーンが描かれる。父の親族に連なる何代かの人達の骨壺が出てくる。残された母親は父の骨壺を最終的に近代的なロッカー式の墓に移してしまう。自分も死後はそこに入るつもりだ。娘(作者)たちも来てよいという。父方の縁はそこで切られてしまった。作者も自分の子どもが結婚した時点で縁は断ち切り、無性としての存在に帰りたいと思うのだった。

雑感:親子というものは逃れられないものであるが、人生によっては積極的に親子の縁を切ってそれがプラスである人もいよう。ましてや親以前自分以降につながる縁は人それぞれだ。関係はないのが事実だろう。大きな意味で先祖や共同体が自分にもつながっていることは、安心して死んでいく心の支えではあるが、それは今自分の周りにいる人々がそうだと考えてもいいと思う。

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読書
「通話」
ロベルト・ポラーニョ
 作

チリ・メキシコ・スペインなどで暮らし、スペイン語で多くの小説を書いて2003年に50歳で死んだ著者の短編集。

「文学の冒険」:作家Bは自作の中で知り合いの売れっ子作家Aをモデルにとりあげ、その偽善性と御用作家ぶりを揶揄する。その後Bもはじめて大手出版社から本を出すが、これをAが手放しで絶賛した。これにはなにか裏があるのだろうか?Aの態度が気が気でならなず延々と悩むBが描かれるが、とうとうAと会うことになった直前、目を通したAの新作はすばらしいものだった。

「刑事たち」:車を走らせながらあれこれと雑談にふける二人の警官。ある日自分たちの警察署に中学時代の同級生が連れられてきた。そいつは接見禁止でカミソリもタオルも持たせてもらえなかった。しかも今の自分の様子を鏡で見ようともしない。なぜなら鏡に映るのは別人だからだという。そんなばかなことはあるまいと主人公の警官が鏡を見てみると、そこには肩越しにうしろから覗く知らない男と無数の人間の顔が…。しかしそれはほんの一瞬のことだった。

「ジョアンナ・シルヴェストリ」:37歳ポルノ女優として成功したジョアンナは、かつてポルノ界の大スターだったジャック・ホームズに会いにいく。借りたポルシェをとばしてようやくたどり着いたボロボロのバンガロー。今や業界から離れて無気力な生活を続けるジャック。もう来るなよと言われたようなものだけど、この人にはアタシが必要だと決意するジョアンナ。かれの大きなぶよぶよになったペニスを太ももの間に挟んで泣きながら眠った。そして二人がただ生きているということが意味あることだと感じるのだった。

いろいろな人々の人生の変転がめくるめく繰り広げられ、男と女たちがくっついたり離れたり、みんなフツーの人間で、それだけにおおきな振幅はないが読んでいるとふるふると心に沁みてくる。これこそ小説の醍醐味だ。理屈抜きがいい。

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まえから気付いていたことだが、はっきりと自分に該当する病名をみつけた。「依存性人格障害」である。私のように子どもの頃、母親から過保護・過干渉で育てられた人間は、成長の過程で独立した人格を形成できない。どうしても母親に依存した状態で性格が形成される。母親はいつまでも子どもを手放さないので、子どもは心地よい保護された状態に安住し、大人へのステップを登ることができない。これは私が高校入学時にその精神的未熟さ・幼児性のため高校生活についていけず、パニックから神経症への転落というカタチで身をもって経験している。

その後長年の努力で仕事も配偶者も手に入れたわけだが、これで生来の人格障害が快癒されていると思いきやそうではなく、今度は対象が妻というカタチで温存されていくのであった。相手に依存していないと自分の存在理由を確立できないという点では同じで、妻の人生を支えるように寄り添って、頑張ってきたつもりだが、これは言い方を変えればつきまとっている・干渉していることと同じだ。つねに相手の気に入るように自分の欲求をも合わせて、相手から見放されることを異常に恐れているのである。

そんな私であるが、現在妻は双極性障害のため別宅にて静養中であり、鬱状態の時にはろくにコミュニケーションがとれない。そうなると私は「見捨てられ恐怖」に陥ってしまい、孤独と不安感でおろおろとするのであった。

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読書
「月の石」
トンマーゾ・ランドルフィ
 作

手持ちの幻想文学事典を見ても、当然まだまだ知らない作家のほうがうんと多い。ランドルフィというイタリアの作家を初めて読んだが、充分にその幻想世界に酔うことができた。

主人公の大学生ジョヴァンカルロは村では坊ちゃんだが、ある日山からやってきた娘グルーを見て恋に落ちてしまう。ところが足元を見るとグルーは山羊の足を持っていて、なぜか誰もそのことを指摘しない。それは一瞬の幻であったのか、ふだんのグルーの足は普通の人間の足だ。
しだいに愛し合う関係となった二人。ある夜グルーに誘われて山へ山へと歩いていくと、しだいに激しくなる雨に降られ、ふと聴こえる山羊の鳴き声。近づいてくる山羊。するとグルーと山羊の体は互いに混じり合ったものに変わってしまうのだった。
その後二人はグルーのなじみの山賊達と行動を伴にし、真っ暗な深い深い渓谷で酒盛り、村人との決闘・虐殺。しかしこれらは全て今現在のことではなかったのか?山中を動物と人間の合体した異形の群れが歩いていくのだった。

というあらすじを書いてもワケはわからないが、このはっきりしないところが幻想文学の味わいで、夢の中に引っ張られていく心地よさがある。ランドルフィは奇想・滑稽・シュール・ナンセンスの作家でもあるらしいから、今後出会えたらぜひ読んでみたい。

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読書(mixi過去日記より)
「巴里の憂鬱」
ボードレール
三好達治

散文詩っていいですねえ。
ボクはむかしから、詩が苦手で、分からないことはないが、どうにも韻文というのがあかん。あの段落をぷつぷつ切っていく表現がどうも自分の脳に合わない。

小説の文体を鑑賞しながら読むほうではあるけれども、詩の形にされるとまるで違う世界だ。現代詩文庫近代詩編を集めていたこともあったが、とっくの昔に売り払ってしまった。

でも散文詩のように、散文のカタチをとってあるものはとても楽しい。一応のスジがあるものも面白いし、ただただ美的イメージを拡げて見せてくれるものも楽しい。だが散文詩自体が世の中にあまりないようで、一番好きなアポリネール以外では、ロートレアモン、このボードレール、日本人では萩原朔太郎の「猫街」その他ぐらいか。
詩人はやっぱり韻文を操ってこそ、創作のしがいもあるものだろうか?
(話はそれるが、ストーリー漫画家のボクから見ると、斎藤種魚さんのコマつなぎは詩人に思える。)

というわけでボードレール「巴里の憂鬱」
ひとつひとつの作品解説はしないが、また全体を評論する能力も自分にはないが、酔えますよ。「酔え」という作品もあります。
「今こそ酔うべきの時なれ!虐げらるる奴隷となって、時間の手中に堕ちざるために、酒によって、詩によって、はた徳によって、そは汝の好むがままに、酔え、絶えず汝を酔わしめてあれ!」
てなぐあいです。「けしからぬ硝子屋」が有名かな。「貧民を撲殺しよう」という作もおもしろい。

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昨日は妻に誘われて江東区夢の島で開催された野外音楽フェス「World Happiness 2011」に行ってきた。陽射しを避けて途中から参戦したが、会場に着いたころから曇り空となり小雨がパラパラ。おかげで熱中症になることもなく最後まで観れたが、後半は立って観ていたので疲れてしまった。

自分はとくに固執している音楽があるわけではなく、楽曲がよければ喜んで聴くほうである。たとえばLittle Creatuersなどヴォーカル以外はよい。耳なじみのあるヒット曲連発のサカナクションなど、キャッチィでよい。The Beatniks(高橋幸宏&鈴木慶一)は伝統的でよい。それよりSalyu×salyu(サリュー・バイ・サリュー)は知らなかったがロック魂のない自分にはいちばんよかった。古くはジュディマリでよく聴いていたYUKIをナマで見れたが、いちばんの人気者だった。若い頃聴いていた音楽を今まったく聴かないが、YMOはあいかわらずで楽しい。メロディラインにブラスを使っていて少しモッチャリしておかしかった。自分は軽く踊るふりをして、じつは腰をいたわってユル体操していたのだった。アンコール時にサーチライトが低くたれこめた雲を照らしていた。

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読書
「肉体の悪魔」
レイモン・ラディゲ
 作

三島由紀夫が憧れたこの夭折の天才作家の名作を、なんで今まで読んでいなかったかと言えば、一つには恋愛というテーマが苦手。もう一つには青春という設定についていけない。もう一つはもし耽美文学だったら好き嫌いがある。というものだった。
しかしまったく違っていた。たしかに主人公達は恋愛しているのだが、縷々語られるのは男である「僕」のエゴイスティックな内面であり、それが冷徹に突き放した目線で描写されていて、悩んでいてもけっして懊悩や混乱を描くわけではなく、あくまで実験動物のように分析されいく。恋のかけひきは、まるで戦地に置ける作戦遂行の如くである。こういう推理小説のような味わいが優れた心理小説のおもしろさで、泣いたり叫んだりされるとこの味わいは出ない。

心理小説としての面白さもそうだが、物語の設定が不倫なので、主人公の二人が他人目を盗んで逢瀬を実行するストーリー上のスリル感も味わえる。そもそも相手の彼女は若くして結婚したのち、すぐさま主人公の「僕」と本当の恋に落ち妊娠までしてしまうが、結婚前に「僕」が態度をはっきりさせていればこんなややこしいことにはならなかった。という設定はまったく三島由紀夫の「豊饒の海(第一話:春の雪)」で主人公が彼女に犯した行為と同じである。三島は基本にラディゲを置いて組み立てていったものと思ったが、そのへんは語り尽くされているに違いない。

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映画(mixi過去日記より)
「狂った果実」
1956年

監督 中平康
原作 石原慎太郎
出演 石原裕次郎・北原三枝・津川雅彦・岡田真澄

石原裕次郎初主演のため、石原慎太郎が書き下ろした脚本。
トリュフォー絶賛、ヌーヴェル・ヴァーグに先んじる鬼才、中平康監督の名作との情報を得てから観た。

裕次郎は突出した美男というわけではないが、格好の付け方にキレがあって、独特のスカした早口で、何言ってるか聞き取りにくいまでも、昔風に言えば確かにイカしている。しかも感情表現はちゃんと伝わってくるという不思議な俳優だ。

力を持て余しながら、その力を何処へ向けていいかわからず、ひたすら日々遊び続ける不良少年の鬱屈と焦燥を描くのは、洋の東西を問わずいつの時代にもある。ただ石原兄弟の作品世界は、主人公達に金もヒマも存分にあるというのが、われわれ一般庶民が素直に感情移入できないところだろう。「そうそう、俺も学校サボって、よく家のヨットで葉山の海にでたなあ」という人がどれくらいいただろうか。車を自由に乗り回せる学生が。

もちろん階級差を問題にしてもしようがないのであって、話は兄弟で一人の女を取り合うという、単純なものだが、中平康の腕のさえなのか、緊張感のある展開で退屈しなかった。オープニングで津川雅彦の絶望的な表情がだんだんとアップになって驚いた(これはエンディングに繋がっていた)。ラストシーンで、追いつめられた裕次郎と北原三枝の乗るヨットの周りを、津川のボートがぐるぐるぐるぐる廻るのだが、このシーンが不気味に長いのも効果的。必要な長さだと思った。

ところで石原慎太郎の代表作「太陽の季節」をかなり以前に読んだとき、精薄の少女が金持ちの不良青年たちに輪姦される内容に、読後きわめて嫌悪感を持ったが、この映画にはそういうところはなかった。ちなみに津川雅彦の乗り回すボートは「sun seazon」号。

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読書
「ちびのツァッヒェス」
E・T・A・ホフマン
 作

ある貧しい農家に生まれたツァッヒェス。小さな体で、こぶのように丸まった背中、盛り上がった両肩の間に埋まった頭、枝のように貧弱な足、もじゃもじゃの髪にとがった鼻。言葉もろくに話せなかったが、あわれに思った心優しい修道女にもらわれていく。この修道女が実は妖女であり、後年ツァッヒェスは魔法の力によってみるみる出世していくのだ。
ところがこのツァッヒェスは主人公ではなく悪役である。その魔法とは他人の成功はみな自分のものとし、自分の失敗はすべて他人のやったことにしてしまうというもの。周りいるもの皆魔法にかかってツァッヒェスを持ち上げ、あげくは大臣にまで昇りつめ、学園のアイドル的美女と婚礼を迎えんとする。

ヒーローは詩才豊かな大学生バルタザール。友人と協力してツァッヒェスの秘密を探り、愛する学園のアイドルを取り戻そうと格闘。そしてついに秘密が暴かれ、魔法は効力を失い、ちびのツァッヒェスはあわれな最期を迎えるといったお話であります。

作者ホフマンは、このあわれな人物に特別な情けをかけるわけではなく、物語は読者の好きな華やかな婚礼シーンで終わり、ツァッヒェスは置き去りだ。彼が死んで「ああ、かわいそうな身の上だったなあ」といったラストではないのだ。ツァッヒェスはあくまで不気味な奇形児というキャラクターで、その性格も実に俗物でイヤなやつに描かれており、読者が彼に感情移入することは防がれている。

この物語が書かれたのが1819年。まだメルヘンの世界では畸形は非常にアクの強いキャラクターで、魔法使いとして登場するのがふつうだったのではないか?そのへんはよくわからなくて、「生まれつき体の不自由な人を笑い者にしてはいけない」というセリフもあるが、内面が粗野な人間はどのみち幸福にはなれないというオチになっているのは、作者ホフマンの作戦だったのではないかとも思った。

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