漫画家まどの一哉ブログ
読書
「新世帯」あらじょたい
徳田秋声 作
小僧時代からの苦労が実ってようやく酒や醤油や乾物などを売る自分の店を持った新吉。朝から晩まで働きに働いて商売以外に余念がない。やがて周りの人々の世話で嫁をもらうこととなり、薦められるままに農家出身の娘お作と所帯を持つこととなった。
ところが奉公先(バイト先)で評判が良かったというお作だが、何の役にも立たない。商売の手伝いもできないし機転を利かすことも無い。家のことも望んで大きな買い物をする事は無いが、工夫して倹約するということもない。言われたことは失敗しながらもやるが、進んでこうしようという気配り・気働きがいっこうにない女だった。
もとよりせっかちな新吉にしてみれば、とんだ愚物をつかまされたわけで、しじゅういらいらしっぱなしだが、子供も生まれる予定もあり、時々はやさしくしてもやる。
そんなお作が出産を控えて実家に帰っている間に、警察沙汰をおこして入牢する事になってしまった友人の妻お國が行く宛もなく転がり込んでくる。これがお作とは正反対のさばさばしていてなんにでも気の付く女だった。
という事件性をはらんだ展開だが、新吉とお國の間になにかが起きるわけではなく、それぞれの個性豊かな感情の推移が丁寧に描かれて、市井の人々の暮らしというものがしみじみと感じられて楽しい。こんな明治期の小説を今読む人も少ないかもしれないが、読んでみると現代文学となんら変わらない。タクシーが俥に変わっているだけだ。みんなが着物を着ているだけだ。これが初期の自然主義文学の楽しさである。翻って漫画という分野もこの自然主義をしっかり通ってこないとロクな者にならないだろうが、漫画の自然主義とは何かというところがなかなかムツカシイ。
「新世帯」あらじょたい
徳田秋声 作
小僧時代からの苦労が実ってようやく酒や醤油や乾物などを売る自分の店を持った新吉。朝から晩まで働きに働いて商売以外に余念がない。やがて周りの人々の世話で嫁をもらうこととなり、薦められるままに農家出身の娘お作と所帯を持つこととなった。
ところが奉公先(バイト先)で評判が良かったというお作だが、何の役にも立たない。商売の手伝いもできないし機転を利かすことも無い。家のことも望んで大きな買い物をする事は無いが、工夫して倹約するということもない。言われたことは失敗しながらもやるが、進んでこうしようという気配り・気働きがいっこうにない女だった。
もとよりせっかちな新吉にしてみれば、とんだ愚物をつかまされたわけで、しじゅういらいらしっぱなしだが、子供も生まれる予定もあり、時々はやさしくしてもやる。
そんなお作が出産を控えて実家に帰っている間に、警察沙汰をおこして入牢する事になってしまった友人の妻お國が行く宛もなく転がり込んでくる。これがお作とは正反対のさばさばしていてなんにでも気の付く女だった。
という事件性をはらんだ展開だが、新吉とお國の間になにかが起きるわけではなく、それぞれの個性豊かな感情の推移が丁寧に描かれて、市井の人々の暮らしというものがしみじみと感じられて楽しい。こんな明治期の小説を今読む人も少ないかもしれないが、読んでみると現代文学となんら変わらない。タクシーが俥に変わっているだけだ。みんなが着物を着ているだけだ。これが初期の自然主義文学の楽しさである。翻って漫画という分野もこの自然主義をしっかり通ってこないとロクな者にならないだろうが、漫画の自然主義とは何かというところがなかなかムツカシイ。
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読書
樋口一葉を読む
男が主人公ではこう奇麗な文章は出てこまい。と思われるほど流麗で情緒のある文章が心地よかった。長文でもさらさらと読まされてしまう。さすがに恵まれない境遇で苦労する女のはなしが多いが、どの女主人公にも作者一葉のルサンチマンが影を落としている。女が生きていくためにどうやって収入をえるか、いつの世にも通じる永遠のテーマが描かれる。
「大つごもり」:お峯を育ててくれた優しい叔父夫婦だが、叔父は病を得て収入の道途絶え、年内に2円の借金を返すことができない。八歳の弟も学校がひけると天秤棒をかついで行商の手伝いをしているありさま。お峯はきっと奉公先の大店から2円借りてくると約束するが、これは現実には不可能に近い計画であった。ついに主家の引き出しより2円を盗み出してしまうが、折よく主家の放蕩息子がその後財布ごと頂戴していったので、犯行はばれなかった。主人公は清廉な女子といえども常に潔白でもいられない。そこを書くのは珍しい気がした。
「十三夜」:身分の違う上流階級の資本家に見初められて嫁いだお関だが、夫からのいじめに耐えきれず、ついに戻らない決心をして夜遅くに実家を訪れる。家ではお月見のお団子が飾られ、いかにも気の張らない庶民の暮らしぶりである。お関は意をけっして両親に離縁の決意を訴えるが、父親に諭されその夜は嫁ぎ先に帰ることに。その帰り道に乗った俥の車夫は、かつて自分に心を寄せていた幼なじみの零落した姿だった。人の運命さまざまである。現代ドラマを見るような趣だった。
「うつせみ」:街中でも緑に囲まれた静かな貸家で、病身を横たえているのは雪子である。気分が良い時には幼子のように両親に甘えてすごすが、いざ狂気となると自死するために飛び出してゆこうとするのを周りの者が必死で取り押さえなければならない。過去に愛した男性が死を遂げたのは、みんな自分のせいと思い込み、苦しげに胸を抱いて身悶える。両親はじめ介護するものみなすっかり疲れきっているのだが、雪子の狂状は日に日に増していくのだった。リアルでしみじみと悲しい小説。
樋口一葉を読む
男が主人公ではこう奇麗な文章は出てこまい。と思われるほど流麗で情緒のある文章が心地よかった。長文でもさらさらと読まされてしまう。さすがに恵まれない境遇で苦労する女のはなしが多いが、どの女主人公にも作者一葉のルサンチマンが影を落としている。女が生きていくためにどうやって収入をえるか、いつの世にも通じる永遠のテーマが描かれる。
「大つごもり」:お峯を育ててくれた優しい叔父夫婦だが、叔父は病を得て収入の道途絶え、年内に2円の借金を返すことができない。八歳の弟も学校がひけると天秤棒をかついで行商の手伝いをしているありさま。お峯はきっと奉公先の大店から2円借りてくると約束するが、これは現実には不可能に近い計画であった。ついに主家の引き出しより2円を盗み出してしまうが、折よく主家の放蕩息子がその後財布ごと頂戴していったので、犯行はばれなかった。主人公は清廉な女子といえども常に潔白でもいられない。そこを書くのは珍しい気がした。
「十三夜」:身分の違う上流階級の資本家に見初められて嫁いだお関だが、夫からのいじめに耐えきれず、ついに戻らない決心をして夜遅くに実家を訪れる。家ではお月見のお団子が飾られ、いかにも気の張らない庶民の暮らしぶりである。お関は意をけっして両親に離縁の決意を訴えるが、父親に諭されその夜は嫁ぎ先に帰ることに。その帰り道に乗った俥の車夫は、かつて自分に心を寄せていた幼なじみの零落した姿だった。人の運命さまざまである。現代ドラマを見るような趣だった。
「うつせみ」:街中でも緑に囲まれた静かな貸家で、病身を横たえているのは雪子である。気分が良い時には幼子のように両親に甘えてすごすが、いざ狂気となると自死するために飛び出してゆこうとするのを周りの者が必死で取り押さえなければならない。過去に愛した男性が死を遂げたのは、みんな自分のせいと思い込み、苦しげに胸を抱いて身悶える。両親はじめ介護するものみなすっかり疲れきっているのだが、雪子の狂状は日に日に増していくのだった。リアルでしみじみと悲しい小説。
読書
「どん底」
ゴーリキー 作
社会主義リアリズム劇の古典を文庫本で読んだ。社会主義リアリズムであるからといって、直接的にプロレタリア解放が訴えられるわけではなく、社会の底辺で蠢く貧しい人々が直接的な描写で描かれているというものだ。そりゃそうでなければ面白くないだろうと予断を持って臨んだ。
このリアリズムは単に社会派のそれというだけでなく、会話に細やかなリアルがあった。例えば「なに?だれがいるって?おい……お前なんとか言ったね?」「なんだって?お前_おれに言ってるのか?」「お前、今なんとか言ったじゃねえか?」「あれか、ありゃなんでもねえ……ひとり言よ……」と、このようなやり
取りは説明的な作品なら使わないものだ。それが省かれていないところが良い。
登場人物はみんな心のすさんだ者ばかりで、誰が誰だかちゃんと追わなくても気にならないが、ひとりルカという名前の流れ者の爺さんが個性的で、この爺さんだけが温厚な人の路をとく。これが基本民衆レベルでのキリスト教を根っこにしているのがまたリアル。それはそうで、ここで爺さんが労働者解放を説いてもおかしいだろう。
大きなストーリーは無く、泣いたり喧嘩したり病気したりして、酒を飲んではぶつぶついうというものだが、もしこれがコメディであっても大衆が主人公の集団劇となるとそうなるかもしれない。また階層がどん底でなくてもインテリが出てこなければ、この方法はある種基本形なのかも。
「どん底」
ゴーリキー 作
社会主義リアリズム劇の古典を文庫本で読んだ。社会主義リアリズムであるからといって、直接的にプロレタリア解放が訴えられるわけではなく、社会の底辺で蠢く貧しい人々が直接的な描写で描かれているというものだ。そりゃそうでなければ面白くないだろうと予断を持って臨んだ。
このリアリズムは単に社会派のそれというだけでなく、会話に細やかなリアルがあった。例えば「なに?だれがいるって?おい……お前なんとか言ったね?」「なんだって?お前_おれに言ってるのか?」「お前、今なんとか言ったじゃねえか?」「あれか、ありゃなんでもねえ……ひとり言よ……」と、このようなやり
取りは説明的な作品なら使わないものだ。それが省かれていないところが良い。
登場人物はみんな心のすさんだ者ばかりで、誰が誰だかちゃんと追わなくても気にならないが、ひとりルカという名前の流れ者の爺さんが個性的で、この爺さんだけが温厚な人の路をとく。これが基本民衆レベルでのキリスト教を根っこにしているのがまたリアル。それはそうで、ここで爺さんが労働者解放を説いてもおかしいだろう。
大きなストーリーは無く、泣いたり喧嘩したり病気したりして、酒を飲んではぶつぶついうというものだが、もしこれがコメディであっても大衆が主人公の集団劇となるとそうなるかもしれない。また階層がどん底でなくてもインテリが出てこなければ、この方法はある種基本形なのかも。
読書
「自由の彼方で」
椎名麟三 作
現在でも格差社会で底辺の生活は厳しいものがあろうが、この自伝的小説に書かれた戦時中の作者の境遇たるや、あまりに悲惨で驚いた。いや金銭的には食えている時期もあるのだが、なにせ人格が浮世離れしているからなあ。
主人公が未成年の頃、コックの見習いとして厨房に入っているところから話は始まる。ここに登場するのが人品卑しい若者たちばかりで、水商売の世界で生き抜いていくあれこれが面白く、主人公にも哲学的・観念的な思索は一切無い。ときどき夜空の星を見上げては、自然と涙をながすばかりだ。
そのリアルな世界にひきこまれて読み進んでいくと、主人公はいつのまにやら神戸ー姫路間の鉄道で車掌をやっているのだ。これがなかなかに過重労働で、やがて自らの意志で共産党員になってしまう。戦前だからもちろん非合法。秘密裏に連絡を取りながら、職場でビラを配ったりして労働運動を画策する。
しかしコックをやっても車掌をやっても共産党員をやっても、どこかなぜやっているのかわからない、自分がまるで幽霊としてこの世に生きているような感覚。死に操られて生きている男。主人公は精神性が過剰なあまり、現実に対して本気になれないのではないだろうか?精神デッカチの畸形ではないのか?
このあたり自分の共感するところで、自分もひととおり学校も出て会社勤めもしたが、未だにどこか密着した感じになれず、社会人としてはどこか宙に浮いたような気持ちで過ごしているのだ。
ついに警察にとらえらえた主人公。彼は留置場でシラミと格闘する無為な毎日を送り、ついに非人間的な一個の抽象物へ成り果ててしまった。することといえば、ダイヤモンドの製造法を考案して金持ちになるなど、非現実的な妄想をふくらませるばかりである。
このあたりの現実離れ感もまったく若いころの自分と共通するものがある。
やがて出獄した主人公は、土間に畳を二枚敷いただけの物置のような部屋を借り、マッチ工場で三人分の雑役を一人でやらされて、疲労困憊しながらも自身の境遇に付いて考え直す気力も無く、ぼろぞうきんのように働く。それでも蚊を叩き潰したときなど、ふと最低限の意志に気がつくこともあり、そんな時久しぶりに彼は人間へと帰ってくるのである。そしてそんな彼でも物語の最後には、まるで輝かしい未来があるかのごとく夢中になって東京へ向かうのであった。
「自由の彼方で」
椎名麟三 作
現在でも格差社会で底辺の生活は厳しいものがあろうが、この自伝的小説に書かれた戦時中の作者の境遇たるや、あまりに悲惨で驚いた。いや金銭的には食えている時期もあるのだが、なにせ人格が浮世離れしているからなあ。
主人公が未成年の頃、コックの見習いとして厨房に入っているところから話は始まる。ここに登場するのが人品卑しい若者たちばかりで、水商売の世界で生き抜いていくあれこれが面白く、主人公にも哲学的・観念的な思索は一切無い。ときどき夜空の星を見上げては、自然と涙をながすばかりだ。
そのリアルな世界にひきこまれて読み進んでいくと、主人公はいつのまにやら神戸ー姫路間の鉄道で車掌をやっているのだ。これがなかなかに過重労働で、やがて自らの意志で共産党員になってしまう。戦前だからもちろん非合法。秘密裏に連絡を取りながら、職場でビラを配ったりして労働運動を画策する。
しかしコックをやっても車掌をやっても共産党員をやっても、どこかなぜやっているのかわからない、自分がまるで幽霊としてこの世に生きているような感覚。死に操られて生きている男。主人公は精神性が過剰なあまり、現実に対して本気になれないのではないだろうか?精神デッカチの畸形ではないのか?
このあたり自分の共感するところで、自分もひととおり学校も出て会社勤めもしたが、未だにどこか密着した感じになれず、社会人としてはどこか宙に浮いたような気持ちで過ごしているのだ。
ついに警察にとらえらえた主人公。彼は留置場でシラミと格闘する無為な毎日を送り、ついに非人間的な一個の抽象物へ成り果ててしまった。することといえば、ダイヤモンドの製造法を考案して金持ちになるなど、非現実的な妄想をふくらませるばかりである。
このあたりの現実離れ感もまったく若いころの自分と共通するものがある。
やがて出獄した主人公は、土間に畳を二枚敷いただけの物置のような部屋を借り、マッチ工場で三人分の雑役を一人でやらされて、疲労困憊しながらも自身の境遇に付いて考え直す気力も無く、ぼろぞうきんのように働く。それでも蚊を叩き潰したときなど、ふと最低限の意志に気がつくこともあり、そんな時久しぶりに彼は人間へと帰ってくるのである。そしてそんな彼でも物語の最後には、まるで輝かしい未来があるかのごとく夢中になって東京へ向かうのであった。
幻燈展初日のイベント、山田勇男氏と原マスミ氏による対談「つげ義春とシュールレアリズム」を聞いてきた。つげ義春のシュール作品に対する山田氏の思いといったものを、原氏が聞き役として受け止めていくといった進行だった。
両氏の体験でもあるが、ダリであったりデルボーであったり、若い頃始めてヨーロッパのシュールレアリズムに出会いショックを受ける。だがなぜその作品に自分が感銘を受けるかは、いつまでたっても謎のままで、この解らないというところにその作品が自分にとって大切なものになっている理由がありそうである。
ところがヨーロッパのシュールレアリズムは、やはり我々日本人にとってはその成り立ち自体がリアルではない。我々は普段の彼らの生活を知らない。もちろんシュールレリストたちもけっして裕福であったとは思われないが、生活レベルでの表現となると、われわれ日本人にとってはどうしてもリアリズムではなく、虚構の上での遊戯に感じられてしまう。
翻ってつげ義春作品であるが、あきらかに貧乏な、拭けば飛ぶような紙と木で出来た家を舞台とした、生活のリアルそのものがある上でのシュールレアリズムである。これこそが伝統的なシュールレアリズムの歴史を勉強していても得られない、つげ独自の世界であり、われわれは始めて日本人の生活感に密着したかたちでの無意識を見たのではないだろうか。
無意識というものは無意識故にわからないというのは当然だが、だからこそ作品はわからないままに意味があって、わかってしまえばそれは意識となり作品の魅力は失われてしまう。無意識のわからなさをそのままに漫画として意図的に表現し得たつげ義春の作品世界が、いかにすぐれているかわかるというものである。
というような結論が導きだされた濃密な時間だった。ように私は思った。
両氏の体験でもあるが、ダリであったりデルボーであったり、若い頃始めてヨーロッパのシュールレアリズムに出会いショックを受ける。だがなぜその作品に自分が感銘を受けるかは、いつまでたっても謎のままで、この解らないというところにその作品が自分にとって大切なものになっている理由がありそうである。
ところがヨーロッパのシュールレアリズムは、やはり我々日本人にとってはその成り立ち自体がリアルではない。我々は普段の彼らの生活を知らない。もちろんシュールレリストたちもけっして裕福であったとは思われないが、生活レベルでの表現となると、われわれ日本人にとってはどうしてもリアリズムではなく、虚構の上での遊戯に感じられてしまう。
翻ってつげ義春作品であるが、あきらかに貧乏な、拭けば飛ぶような紙と木で出来た家を舞台とした、生活のリアルそのものがある上でのシュールレアリズムである。これこそが伝統的なシュールレアリズムの歴史を勉強していても得られない、つげ独自の世界であり、われわれは始めて日本人の生活感に密着したかたちでの無意識を見たのではないだろうか。
無意識というものは無意識故にわからないというのは当然だが、だからこそ作品はわからないままに意味があって、わかってしまえばそれは意識となり作品の魅力は失われてしまう。無意識のわからなさをそのままに漫画として意図的に表現し得たつげ義春の作品世界が、いかにすぐれているかわかるというものである。
というような結論が導きだされた濃密な時間だった。ように私は思った。
映画(mixi過去日記)
「崖」
1955年
監督 フェデリコ・フェリーニ
出演 ブローデリック・クロウフォード他
詐欺師として生きる中年男の話。
「この仕事に家族があっちゃいけない。いつどこへでも動ける身軽さがないと」
やっぱりアウトローは孤独が信条か。画家志望の仲間は、女房に隠して詐欺で稼いだ金を、すべて女房に渡していたが、やがて夫婦仲は破綻する。主人公の中年男も、離れて暮らす娘に偶然出会い、進学のための費用を工面することを約束してしまう。
この進学費用30万リラという金額は、物語の最後に貧しい農家から、聖職者のふりをして贋の宝物とひきかえにせしめる金額35万リラと、繋がってくる。その農家には自分の娘と同年代の足の不自由な健気な娘がいて、その娘に祝福を請われたとき、さすがの詐欺師の良心も動揺を来すのだった。
主人公は、仲間を偽って金を独り占めしようとするが結局失敗。フクロにされて崖下に放り出された翌朝、崖上を通る土地の子供達にかけた声は届かなかった。
というぐあいで、悪人の心も揺れるが、けっして善人にもなりきれないところがイイですねえ。ほんとうの詐欺師は平気でウソをつく人だから、もうちょっとイヤな人間だと思うが、映画ではフツーの人として描かれていた。いやいや人間はなかなかに二重三重の人格を持ってるから、天使でもあり悪魔でもあり。でもこの映画では、ふつうの人間の情けない面が見れてよかった。
ところで群衆のシーンがすごくおもしろいが、これってフェリーニ流なのか?
「崖」
1955年
監督 フェデリコ・フェリーニ
出演 ブローデリック・クロウフォード他
詐欺師として生きる中年男の話。
「この仕事に家族があっちゃいけない。いつどこへでも動ける身軽さがないと」
やっぱりアウトローは孤独が信条か。画家志望の仲間は、女房に隠して詐欺で稼いだ金を、すべて女房に渡していたが、やがて夫婦仲は破綻する。主人公の中年男も、離れて暮らす娘に偶然出会い、進学のための費用を工面することを約束してしまう。
この進学費用30万リラという金額は、物語の最後に貧しい農家から、聖職者のふりをして贋の宝物とひきかえにせしめる金額35万リラと、繋がってくる。その農家には自分の娘と同年代の足の不自由な健気な娘がいて、その娘に祝福を請われたとき、さすがの詐欺師の良心も動揺を来すのだった。
主人公は、仲間を偽って金を独り占めしようとするが結局失敗。フクロにされて崖下に放り出された翌朝、崖上を通る土地の子供達にかけた声は届かなかった。
というぐあいで、悪人の心も揺れるが、けっして善人にもなりきれないところがイイですねえ。ほんとうの詐欺師は平気でウソをつく人だから、もうちょっとイヤな人間だと思うが、映画ではフツーの人として描かれていた。いやいや人間はなかなかに二重三重の人格を持ってるから、天使でもあり悪魔でもあり。でもこの映画では、ふつうの人間の情けない面が見れてよかった。
ところで群衆のシーンがすごくおもしろいが、これってフェリーニ流なのか?
読書
「従妹ベット」
バルザック 作
文豪バルザックの長編小説。主人公のリスベットは、従妹のアドリーヌと同じアルザス地方の村の生まれ。アドリーヌが絶世の美女であるのに比べ、リスベット(ベット)は不器量で、ゴツゴツした感じの女だ。子供の頃からなにかにつけ美しいアドリーヌばかりがちやほやされておもしろくない。ユロ男爵にみそめられ、パリで裕福に暮らす従妹アドリーヌ。かたわらリスベット(ベット)はパリで生計を立てながら、男爵夫人アドリーヌとその一族たちをなんとか不幸にするべく画策する。という珍しく不器量な女を主人公にした復讐劇である。
とはいっても物語の大半はもう一人の主人公というべきアドリーヌの夫、ユロ男爵のあくなき女道楽の行く末が描かれている。ベットと手を取って計画を練り、男たちを翻弄し大金を手中に収めようとする悪女マルネフ婦人。そしてマルネフ婦人に群がるユロ男爵はじめ、成金の実業家クルヴェル、大富豪の貴族モンテス、芸術家のヴェンセスラスなど、懲りない男たち。そんな中でユロ男爵は女のために公金まで横領し、しだいに落ちぶれてゆくのだった。
この小説は新聞連載だったそうで、話がどんどん進んで読みやすいが、そのぶん進展が解りにくい面もあって、というのは物語の後半になってけっこう重要な人物が登場するし、終わりごろに謎の必殺仕事人婆さんが出てくるなど、娯楽本意だが全体の構成としては妙な気がした。
また金の話が頻繁に出て、どの男がどれだけの年金を女に与えられるかが、やりとりの枢要をなしている。さすがにややわかりにくいが、大金だなと思って読めばさしつかえない。
ベットの復讐劇も中途半端で、復讐が挫折することよりも、女たらしのユロ男爵がよぼよぼの爺さんになっても、若い娘に手を出そうとするところを描きたかったようだ。和訳副題「好色一代記」。
「従妹ベット」
バルザック 作
文豪バルザックの長編小説。主人公のリスベットは、従妹のアドリーヌと同じアルザス地方の村の生まれ。アドリーヌが絶世の美女であるのに比べ、リスベット(ベット)は不器量で、ゴツゴツした感じの女だ。子供の頃からなにかにつけ美しいアドリーヌばかりがちやほやされておもしろくない。ユロ男爵にみそめられ、パリで裕福に暮らす従妹アドリーヌ。かたわらリスベット(ベット)はパリで生計を立てながら、男爵夫人アドリーヌとその一族たちをなんとか不幸にするべく画策する。という珍しく不器量な女を主人公にした復讐劇である。
とはいっても物語の大半はもう一人の主人公というべきアドリーヌの夫、ユロ男爵のあくなき女道楽の行く末が描かれている。ベットと手を取って計画を練り、男たちを翻弄し大金を手中に収めようとする悪女マルネフ婦人。そしてマルネフ婦人に群がるユロ男爵はじめ、成金の実業家クルヴェル、大富豪の貴族モンテス、芸術家のヴェンセスラスなど、懲りない男たち。そんな中でユロ男爵は女のために公金まで横領し、しだいに落ちぶれてゆくのだった。
この小説は新聞連載だったそうで、話がどんどん進んで読みやすいが、そのぶん進展が解りにくい面もあって、というのは物語の後半になってけっこう重要な人物が登場するし、終わりごろに謎の必殺仕事人婆さんが出てくるなど、娯楽本意だが全体の構成としては妙な気がした。
また金の話が頻繁に出て、どの男がどれだけの年金を女に与えられるかが、やりとりの枢要をなしている。さすがにややわかりにくいが、大金だなと思って読めばさしつかえない。
ベットの復讐劇も中途半端で、復讐が挫折することよりも、女たらしのユロ男爵がよぼよぼの爺さんになっても、若い娘に手を出そうとするところを描きたかったようだ。和訳副題「好色一代記」。
読書(mixi過去日記より)
「祭りの場」「ギヤマンビードロ」
林京子 作
林京子という小説家は、以前短編をちらっと読んでイイカンジだったので、あらためて文庫本一冊読んでみた。これがメチャメチャおもしろい!
上海での子供時代と、長崎での被爆体験をベースに書かれた短編集。
作者は父親の仕事の関係で、中国上海の雑然とした町中で、中国人の子供達と遊んで育つ。やがて日中戦争が緊迫化したため帰国。長崎県の長崎高等女学校に編入となり、三菱兵器工場に学徒動員中被爆。爆心地から1.4キロの場所で被爆しながら、奇跡的に外傷もなく生き残った。
作品は被爆の瞬間から、がれきからの脱出、焼け野原を彷徨、実家にたどり着くまでや、その後の放射能障害の不安、死んでいった街の多くの人々、そして何年も生き延びた後やはり放射能障害で死んでいく知人達。後年長崎の地を訪れ、あらためて想いをはせることなどが、モザイク的に混じり合いながら語られていく。
とにかく描かれる事実がしっかりしているのがいいんでしょうか。いくら考えを巡らしても追いつかないだけのれっきとした現実。現実>観念という不等式が快適だ。生と死がすぐ目の前に迫る内容で、読みだすとひきこまれる。ワクワクする。こんなの大好き。
「祭りの場」「ギヤマンビードロ」
林京子 作
林京子という小説家は、以前短編をちらっと読んでイイカンジだったので、あらためて文庫本一冊読んでみた。これがメチャメチャおもしろい!
上海での子供時代と、長崎での被爆体験をベースに書かれた短編集。
作者は父親の仕事の関係で、中国上海の雑然とした町中で、中国人の子供達と遊んで育つ。やがて日中戦争が緊迫化したため帰国。長崎県の長崎高等女学校に編入となり、三菱兵器工場に学徒動員中被爆。爆心地から1.4キロの場所で被爆しながら、奇跡的に外傷もなく生き残った。
作品は被爆の瞬間から、がれきからの脱出、焼け野原を彷徨、実家にたどり着くまでや、その後の放射能障害の不安、死んでいった街の多くの人々、そして何年も生き延びた後やはり放射能障害で死んでいく知人達。後年長崎の地を訪れ、あらためて想いをはせることなどが、モザイク的に混じり合いながら語られていく。
とにかく描かれる事実がしっかりしているのがいいんでしょうか。いくら考えを巡らしても追いつかないだけのれっきとした現実。現実>観念という不等式が快適だ。生と死がすぐ目の前に迫る内容で、読みだすとひきこまれる。ワクワクする。こんなの大好き。
読書(mixi過去日記より)
「職業欄はエスパー」
森達也 著
日本を代表する(世間を騒がせた?)3人の超能力者たち。その日常を追ってテレビドキュメンタリーを仕上げるまでの、数年間を描いたルポルタージュ。
筆者森達也は、超能力を信じる信じないについては、あくまでニュートラルな立場で、超常現象そのものを持ち上げる姿勢はとらない。社会派ルポであり、筆者の視点は孤立する超能力者達の悲哀と、かれらをめぐる世間とマスコミの硬直した姿勢への疑問にある。それは、オカルトと称する詐欺まがいの社会悪を糾弾せねばならないという、あまりにも単純な正義の側に立った二分法であり、オウム事件以降のメディアが牽引する、過剰な正義感への嫌悪である。
はじめから超能力自体をまったくの詐欺行為とするなら別だが、ボク自身はそういう社会正義とは切り離して、事実ならば現時点で科学的説明がつかなくても、事実として肯定する。人間の意志(イメージ)だけで、スプーンが折れ曲がってちぎれたとしても、そこにトリックの余地がないならばそれが現実だ。
否定派の教授などは、超能力が科学を全否定しているようにいうが、これは否定のためのレトリックだと思う。森達也も書いているように、スプーンが曲がることがどうしてニュートン力学や相対性理論を排除することにつながるのだろう?あらたな科学的課題ととらえればよいではないか。科学で解明できていないことだってゴマンとあるのだから。
ボクの偏見だが、一般に学者という者は専門領域のみに詳しい人種であって、自分の専門でもって全ての現象にコメントしているように思う。精神医学や脳科学で幻覚を説明できれば、全ての心霊現象はそれだということになり、物理学で否定できれば全ての超能力はトリックだということにされる。
これは乱暴なハナシで、個々の事例にあたってみて、この場合はこういう脳内現象、こういうトリックと完璧に証明していかなければ解明したことにならない。超常現象の95%は錯覚・あるいは意図的なインチキだったとしても、5%なんとも言えない現象が残れば、素直に今後の研究を待てばよいと思う。これはオカルト商法を糾弾することとは別のことだから。
残念ながら超能力者は、社会の正義感により存在をゆるされていないようで、読んでいて途中、殺伐とした気持ちになった。森達也の描きたかったことも、そのナマの姿にあるのだから仕方がない。それでも読了すると社会の一端に触れた満足感は得られた。
「職業欄はエスパー」
森達也 著
日本を代表する(世間を騒がせた?)3人の超能力者たち。その日常を追ってテレビドキュメンタリーを仕上げるまでの、数年間を描いたルポルタージュ。
筆者森達也は、超能力を信じる信じないについては、あくまでニュートラルな立場で、超常現象そのものを持ち上げる姿勢はとらない。社会派ルポであり、筆者の視点は孤立する超能力者達の悲哀と、かれらをめぐる世間とマスコミの硬直した姿勢への疑問にある。それは、オカルトと称する詐欺まがいの社会悪を糾弾せねばならないという、あまりにも単純な正義の側に立った二分法であり、オウム事件以降のメディアが牽引する、過剰な正義感への嫌悪である。
はじめから超能力自体をまったくの詐欺行為とするなら別だが、ボク自身はそういう社会正義とは切り離して、事実ならば現時点で科学的説明がつかなくても、事実として肯定する。人間の意志(イメージ)だけで、スプーンが折れ曲がってちぎれたとしても、そこにトリックの余地がないならばそれが現実だ。
否定派の教授などは、超能力が科学を全否定しているようにいうが、これは否定のためのレトリックだと思う。森達也も書いているように、スプーンが曲がることがどうしてニュートン力学や相対性理論を排除することにつながるのだろう?あらたな科学的課題ととらえればよいではないか。科学で解明できていないことだってゴマンとあるのだから。
ボクの偏見だが、一般に学者という者は専門領域のみに詳しい人種であって、自分の専門でもって全ての現象にコメントしているように思う。精神医学や脳科学で幻覚を説明できれば、全ての心霊現象はそれだということになり、物理学で否定できれば全ての超能力はトリックだということにされる。
これは乱暴なハナシで、個々の事例にあたってみて、この場合はこういう脳内現象、こういうトリックと完璧に証明していかなければ解明したことにならない。超常現象の95%は錯覚・あるいは意図的なインチキだったとしても、5%なんとも言えない現象が残れば、素直に今後の研究を待てばよいと思う。これはオカルト商法を糾弾することとは別のことだから。
残念ながら超能力者は、社会の正義感により存在をゆるされていないようで、読んでいて途中、殺伐とした気持ちになった。森達也の描きたかったことも、そのナマの姿にあるのだから仕方がない。それでも読了すると社会の一端に触れた満足感は得られた。