忍者ブログ

漫画家まどの一哉ブログ

   

読書
「神の裁きと訣別するため」 アントナン・アルトー
 著


ラジオドラマとして放送されるはずであった「神の裁きと訣別するため」。そしてゴッホについての熱い思いを語った「ヴァン・ゴッホ 社会による自殺者」を併録。この2作がほんとうにアルトー最後の作品だ。

まあ私はさほど詩に詳しいわけではなく(というより昔はまったく苦手だったが)、アルトーの詩作を存分に楽しんでいるかというと、実はよくわからずに読んでいるのである。


例えば「ゴッホ」に関して言えば、アルトー自身が長年精神病院に収容されていて、医療に対する深い恨みがあるのだろう。医者という凡人を代表する存在が、社会の無理解と凡庸さを代表して、詩人や画家の首を絞めにくることが赦せないという怒りがまざまざと伝わってくる。つまりゴッホは狂人ではないのだ。それは自分もそう思うところで、狂気というレッテルを貼ったところで何を発見したことになるのだろうか。

アルトーは言葉を駆使してゴッホの作品を讃えるが、絵画作品であるからアルトーが言葉で表現していることは、あくまでアルトーにとってのゴッホにほかならないわけで、自分にしても誰にしたってアルトーの脳内にあることなんかわからない。かといってアルトーから詩的言語を奪って、分かりやすい論理的な評論にすれば、読みやすいだろうが2~3行で終わってしまうだろう。まさにこれがアルトー的世界の愉しみなのだから。


ところで「神の裁きと訣別するため」をめぐる書簡が収録されていて、この作品のラジオ放送が土壇場で中止になったことへの抗議や、労働に対する適切な報酬が払われていないことへの驚きと催促など、これはまた打って変わってリアルな話でおかしい。


拍手[1回]

PR

読書
「愛されたもの」 イーヴリン・ウォー
 作


高級な葬儀社を舞台にしているという点で珍しい小説。しかも主人公の青年は対照的に安物のペット葬儀社で働いているのだ。この男が詩人でありながら、まことにいいかげんなヤツというところに、この小説が暗くならない最大の要因がありそうだ。高級葬儀社の化粧師の彼女が他の男と婚約しても気にせず交際を求めるし、彼女が絶望の果てに自死を遂げても悲しみもせず、イギリスへ帰国する費用の捻出に利用する。この西海岸の無責任男のノリの軽さが、この作品を風刺小説に仕立て上げているのかもしれない。


弔われる死者を美しく修復する化粧師の彼女は、世間知らずというのか、まだまだ男を見る目を鍛えていく最中だったのに残念な結果となった。過去の名作を自分の詩作のように語る例の無責任男。また師に当たる化粧師の主任にも結婚を請われ、家に行ってみるとまるでマザコン。彼女が頼った新聞の人生相談コーナーを受け持つバラモン導師は実は二人のライターで、しかも馘首寸前。


そんなふうに彼女を取り巻く男たちが、みな悪事を企むような陰湿な人間ではなく、本質的にいいかげんな連中ばかりというのが実際ありがちで、なるほど世の中とはこうしたものか、皮肉なもんだなと思って読めば作者の思うツボ。それが楽しい。



拍手[2回]

読書
「アムステルダム」 イアン・マキューアン
 作


功成り名を遂げた男たちが主人公。有名作曲家や大新聞の編集長、外務大臣まで登場。ある社交界の花形女性が急逝したあとに発見されたプライベート写真。これが大臣や編集長を失脚にまで追い込む大スキャンダルとなる。最後には相互殺人事件まで起きてしまうというサービス付き。


短いせいもあってなんとなく最後まで読んでしまったが、なにやらテレビドラマを見ているような気がした。我々のようなどこにでもいる半善人で構成された俗世間を舞台に、そのモラルが思わぬ形で崩壊していく狂気を描いたものらしいが、そういった崩壊は狂気ではなく単なる失敗ではないかしらん。

社会的地位のある人間ばかりが登場するが、この場合事件とはその地位が脅かされて失われることである。地位が失われざるを得ない行動をとっているから仕方がないのだが、読者は「なるほど成功者であっても転落することもあるのだなあ」と思うだろう。登場人物の内面ももっぱら仕事に関する悩みが中心である。しかしこの種の揺らぎや崩壊は誰にでもわかることであって、それなら何故わざわざ書いてあるのかと感じる。


たとえば主人公の一人である作曲家は新曲のインスピレーションを得るために、一人で湖水地方を山歩きするが、それも曲作りの悩みと心のリラックスと事件に対するもやもやをくりかえしているだけで、なんということはない平凡さだ。もちろん才能ある作曲家の創作の秘密などめったに追体験出来ることではないが、これも大新聞の編集長が仕事の上で悩むのと同じレベルでしか書いていない。

これが梅崎春生「幻化」のように、阿蘇山周辺を歩くときの得体の知れない不安や虚無感があると物語の読みがいもあるというもので、つまり読者誰もが納得できることではないことが自分は好きということです。


拍手[2回]

読書
「切れた鎖」 田中慎弥
 作


今をときめく田中慎弥


「不意の償い」:主人公夫婦の両親が勤めるスーパーマーケットの火事で、両親4人ともいっぺんに死んでしまうという設定は、ちょっとムリがあるんじゃないか。また幼いころから同じ団地に住み、自分達も両親と同じスーパーに勤めようとする主人公夫婦というのも強引ではなかろか。それでも主人公の妄想や幻視は、電車の中や産婦人科の前で猿や狸や蝙蝠が暗躍していておもしろかった。主人公は親が死んだ日に初めてセックスをしたことや、玄関でむりやり挿入したことが妻の妊娠につながったことをうしろめたく感じていて、そのやり場のない感情がとんでもない幻視幻想へと彼を導いていくのだが、なんでそうなるの?という気がした。


「蛹」:主人公はカブトムシで、親の代から話は始まり、幼虫時代を土中で過ごし、いよいよツノを出して地上での生活を迎えるはずが、なかなか土中から脱出できず、仲間がどんどん出て行く中で、自分だけいつまでも土中に囚われている。これはワクワクとした。


「切れた鎖」:文庫本表題作。地方都市で没落していく旧家の女三代を描いた話だが、ある意味正統な純文学の書き方なのか、現実の出口のなさに容赦がない。ところどころ目眩のような過去の時間のズレがあって暗い中にも気持ちがよかった。


この3作品に共通する作者の個性というものがわからなかったが、文体は自分にはぴったりだ。


拍手[0回]

読書
「雲の影/貧乏の説」 幸田露伴
 著


露伴のエッセイ集。少年時代のことや、釣りのこと。世情のことや、もちろん文学のこと。どれも案外素直な内容でそんなに驚く程の洞察はないが、雰囲気を楽しむことができる。


露伴は1867年(慶応3年)に生まれて1947年(昭和22年)に死んだ人で、さすがにまだまだ江戸文化の香りが残っている時代に育っただけあって、江戸文学の語り方が歴史学者のそれではない。三馬を語り京伝を語り、近松を語り一九を語るが、自分が作家として彼らに繋がっている感覚を自然と持っていた気がする。江戸時代後期に親しまれてきたものは、やはり露伴が若いころも引き続き大衆にとっても定番の娯楽作品だったはずで、その辺りのリアルさが江戸期の作品について近しく語られる所以であろう。


(ところで話はそれるが、考えてみれば露伴と同時代の尾崎紅葉「金色夜叉」、泉鏡花「婦系図」あるいは後の新国劇の「国定忠次」や「月形半平太」など、現代でも私の親の世代までは日本人共有のネタというものがあったものだ。今残るは「忠臣蔵」くらいか。)


さて漢学はこの時代の共有知であって、露伴のこのエッセイ集でも「簡素治新」など手慣れたものである。曰く「簡」はこう也、曰く「素」はどう也。ところがしばしば自分はこの種の道を説く漢学というものに上滑りを感じてしまい、なにか言葉の辻褄を合わせることに傾いていて、きれいごとに終始している気がするのは、こちらに素養がないためでありましょうか。


拍手[2回]

読書
「ゲーテとトルストイ」 トーマス・マン
 著


ゲーテとトルストイは、どちらも裕福な社会階層の出身で、頭脳明晰なうえ体力も運動神経も勝っているという怖いモノなしの人間だ。自然状態で動物としての生存能力が高く、実際長生きした。


さて、ゲーテは自分の才能を「まったく自然のもの」と考え、芸術的創造は「自然」の創造と同じく、結果には無頓着であるという。世界は究極目的からは自由であり、善も悪も同じく存在する理由を持っている。そういう意味で、芸術に道徳的欲求を求めることを拒否する。これはまさにその通りで自分もおおいに共感するところ。

トルストイもゲーテと同じく自然児でありながら、彼自身の魂を救済するために社会的活動に入ったというわけだ。


この圧倒的な健康さに対して、病患を持った立場から「精神」の力をもって「自然」へ対立し、人間性を高めようと格闘したのが、シラーやドストエフスキーの立場であった。というのがこの著作でトーマス・マンが力説しているところだ。


自分のような心身ともに脆弱でアホで「自然」状態では生存競争に敗れていかざるを得ない人間としては、ゲーテやトルストイの圧倒的な力強さはやはり勘弁してほしく、シラーやドストエフスキーの立場に共感する。しかし「精神」と呼べる程の立派なものはないので、創作結果には無頓着でさらに無内容であることをお許し願いたい。



拍手[1回]

読書
「となり町戦争」 三崎亜記
 作


ふつうの街中でいつのまにか戦争をやっていて、日常と非日常が不思議な感じで混ざり合っている。というような設定は自分もぼんやりと考えていて、以前同人誌でためしに描いたこともあった。そんなわけで気になっていた小説。


作中、直接的な戦闘シーンはまったく出てこなくて、主人公は偵察目的でとなり町に侵入しているのだが、それでも町のどこかで戦争は行われていて、知らないうちに人が死んでいく。この戦争自体がまったく役所で管理運営されていて、主人公とペアを組む公務員の女性はてきぱきと仕事として処理して行くのだった。


この不思議な設定を生かすためにすべてのエピソードが組み立てられている。ストーリー進行と解説のために人物が動いているのはエンターテイメントのつくりで、作者の内面や問題意識が反映されるといったふうはない。当然非日常のシーンを活かすために、主人公のごく平凡な日常が多く描かれているが、フツーすぎて個人的には感情移入できなかった。文章は平易で読みやすい。設定以上のおもしろさというものは情景描写や心理描写に巧まずして滲み出ていてほしいものだが、それがうまい具合に常識的な範囲にとどめてあって、なるほどこれならば逆に多くの読者の共感を得るであろうとは思った。


ある程度の長さがあり特殊な設定があり、その設定を盛り上げるためにストーリーが進行するのだけど、欲を言えばやはりなにかしら作者個人の存在が色濃く出ていたほうが、読むのも描くのも面白い。しかしそれを計算して描くのは難しい。


拍手[0回]

読書
「阿片」ある解毒治療の日記 
ジャン・コクトー
 著


コクトーを一度も読んだことがないままこのエッセイを読む。コクトーは阿片中毒で入院していたわけだが、その症状はさほどひどいものではなく、本書の内容も阿片のことより日頃の芸術家たちとの交流などについて語っていて興味深い。

阿片というのはやはりダウナーで、やってる間にバリバリと創作活動するといったものではないようだ。コクトーは阿片に対しては常に親和的で、その効果を説くばかり。曰く身体が暖かくなり、風邪も引かず、心が落ち着く…。それでもこうした記述もまだ治りきっていないうちは書けるが、中毒から立ち直ると中毒の時の状態を思い出して書くことは苦しいと言っている。


「阿片こそいい迷惑だ。解毒治療の後で、僕は以前阿片の中毒だと思っていたのだが、実は阿片が却ってそれを軽くしていた症状をまた感ずるようになった。僕は思い出す、この同じ患者が以前まだ阿片を知らぬ前にも自分にもあったと。」

「阿片の下にある時、人はルーセルの如き作家を賞味するが、この喜びを他人に頒とうとは思わない。阿片は人を非社会的にし、共同精神から遠ざける。尤も共同精神は早速復讐をするのだが、阿片喫煙者に対する迫害は非社会的行為に対する社会の本能的防御だ。」

同時代に活躍したアナトール・フランス、プルースト、ルーセル、エイゼンシュタイン、ブニュエル、ピカソ、サティ等についてのコメントが読みどころ。


拍手[1回]

読書
「ヘリオガバルス」または戴冠せるアナーキスト 
アルトー
 作


前に難解ながらもわくわくと読んだ記憶があり、再読したがやはり面白かった。


ローマ帝国史上最悪最低の少年皇帝。母親らシリアの女性たちの権謀術数の結果、わずか14歳で皇帝の地位につく。ローマ入城の時は10トンの陽物像を台車に乗せて、300頭の牡牛に引かせ、胸もあらわな300人の女たちや、オーケストラ、踊り子たちと共に、ローマに尻を向けて犯されるカタチでやってきた。


彼ヘリオガバルスはまったく自らの欲望(男と寝ること)に忠実な人間でそれを隠しもしなかった。自身に紅白粉を塗り、女装して男を呼び込み、王室を公然たる娼窟それも男娼窟としてしまう。官僚や軍人などなんの価値もない人間であり、民衆の中からチンコの大きい者をピックアップして要職につける。連日の豪華な食事にも全く予算を出し惜しみしない。そうやって快楽にふけり、戦争などすることもなくこの体制が4年も続いたのだから驚きだ。もちろんこの伝説には歴史家の装飾や、アルトーの誇張された描写が含まれているだろうが、なんともシュールレアリスティックな雰囲気があって自分好みだった。


この作品は歴史小説ではあるが、アルトー哲学もおおいに混ざっていて、詩的言語を駆使した論理展開は、はっきり言って自分にはチンプンカンプンに近い。だがそれもまた良しだ。


拍手[0回]

読書
「スピリット」 ティオフィル・ゴーチェ
 作


ゴーチェもいろいろ読んだが、ポー、ホフマン、バルザックより後の人でありながら、いちばんオーソドックスなストーリーテラーなような気がする。この物語も片思いを抱いたまま亡くなった少女の霊との交流を美しく描いたものだが、展開はストレートで意外性はない。この時代の小説の舞台はほとんどが貴族階級であり、とうぜん働かないし、女性はいかに美しく自らを飾り訴えるか以外の関心はないようだ。劇場に置いても人々の関心は、舞台よりも観客の誰と誰の仲がどの程度進んでいるかであり、まったくショーペンハウエルが馬鹿にしてののしった生活である。


この時代の西洋幻想小説の多くがスピリチュアルな話であり、この小説のタイトルであり登場する娘の愛称がスピリット。まさに心霊譚の王道をいく話だ。それでも死んだ娘の魂は、過去も未来もなく距離と言う概念もなく、何処へでも一瞬にして移動する存在であり、宇宙は無数の光り輝く霊体に満たされているという描写は、現代に語られる臨死体験と全く同じであって興味深い。


霊体である彼女と親しく触れ合いたいからといって、自ら死を選んでしまったら、それこそ未来永劫引き裂かれた間となってしまうという設定も、ちゃんと考えられているのだった。


拍手[0回]

  
カレンダー
10 2025/11 12
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30
フリーエリア

「世の終りのためのお伽噺」
アックスストア
「洞窟ゲーム」
アックスストア 西遊
「西遊」
amazon ヨドバシ.com
アックス75号
アックスストア

祭り前

秘密諜報家
最新コメント
[08/13 筒井ヒロミ]
[02/24 おんちみどり]
[05/10 まどの]
[05/10 西野空男]
[01/19 斎藤潤一郎]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
madonokazuya
性別:
非公開
自己紹介:
漫画家
バーコード
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析
カウンター
カウンター
フリーエリア
Copyright ©  -- まどの一哉 「絵空事ノート」 --  All Rights Reserved

Design by CriCri / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]