漫画家まどの一哉ブログ
「同期する世界」 蔵本由紀 著
非線形科学というショルダータイトルあり。科学の世界を横断して、シンクロ現象の謎に迫る一冊。
振り子時計、メトロノーム、ロウソクの炎、コオロギのコーラス、カエルの発声、体内時計、吊り橋の揺れ、電力供給網、心拍、電気魚、酵母細胞の解糖、インスリンの分泌、ヤツメウナギの遊泳、アメーバの移動、交通信号機のネットワークなど、実にさまざまな出来事に同期する仕組みがあるのだった。
そのシステムは種々違えど、この同期現象をなるたけ具体例から離れ、抽象化された言葉で捉えることはできないか?そのためにリズムの進み方を「位相」という言葉に置換え、規則的な反復運動・周期運動を持続する「振動子」の進み方の差を「位相差」と表現する。そして一定のくり返し現象を、円周上を回転する粒子の動きとして図にしてみると、あら不思議「位相差」を持った粒子が引力・斥力の働きによりやがて安定した同期状態に。個々の「振動子」の持つミクロリズムが結合してマクロリズムを生み出すさまを抽象的に理解することができます。
というわけでいろんなシンクロ現象が解き明かされるわけだが、なんの予備知識もない者としては、「ふ~んそうなの」というばかりだ。後半が生理現象の話で、細胞膜の内と外の電位差や遺伝子発現などからも特定のリズムが生み出される云々なのだが、そこまで詳しい話は別にいいや。
「最後の恋人」 残雪 作
残雪の2004年作長編処女作。まさに全編を通して悪夢の中を連れていかれるようで、抜け道は無く息継ぐ隙も無い。夢だからこそあり得るような非合理ばかりが連続して、それでも登場人物達の運命は流れていく。
短編ならまだしも長編でこの世界に浸るのはかなりな労力が要った。この息苦しさはちょうど水泳を習っているようなもので、はじめは苦しいが呼吸に慣れてくると意外にスイスイと進むものだ。残雪の世界に慣れてしまえばスルスルと読める。この感じはルーセルの「ロクス・ソルス」を読んでいた時に感じた濃密なシュールレアリスム空間の読書体験と同じだった。
登場人物はアパレルメーカー経営者ヴィンセントとその妻リサ。優秀な営業社員ジョーと妻のマリア。ゴム農園農場主のリーガンと愛人アイダ。これらの愛し合う人々の離合集散が描かれて最後の恋人となるわけだ。なかでもジョーは読書家で、今まで自分の読んだ物語を全部繋げて、頭の中で壮大な物語地図を描こうとする男だ。
南方のゴム園、北方の牧場、東方の塔、そして賭博城。主人公達の様々な旅の中で不思議な出会いが繰り広げられていく。その幻想的な内容をひとつひとつ紹介してもキリがないのでやらないが、なんども読み返せばもしかしたら、そこから象徴主義的な寓意小説的な意図を読みとってしまうかもしれない。しかし自分はそれは読み過ぎだと思う。ただ味わえばよい。
読書
「集合知とは何か」西垣 通 著
そういえばあったよなー、第5世代コンピューター。80年代に産官学共同で推進された大掛かりなプロジェクト。並列推論マシンを作る夢の企画は当時テレビで見て自分も覚えている。この企てが失敗したところに人間の知というものに対する根本的な誤解があったらしい。
コンピューターの世界は開かれた知の世界で、見る者にとって全てが明晰であり、同じ事を全員で共有することができる。対して人間の知というものはあくまで閉鎖されたものであり、他者から窺い知ることができない。生物として生き残る為に世界を認識するところから始まる、かのクオリアを出発点とした、個々の人間の脳内で完結したものなのである。これをコンピューターの知の世界のように開放されたものと混同するところから間違いが起るのである。
この話は目ウロコだった。
そして人間の共有知は、閉鎖された個々の人間どうしの相手のキャリア(経験)に信頼をおくところからスタートしていて、それが集団に置けるリーダーの存在に発展していくらしい。簡単に言えば共有知といっても限られた片目をつぶっているような状態で、それがかえって社会の存続の為には有効であり、これがコンピューターのように開放された誰にとっても均質な世界となってしまうと、社会は全体主義や独裁国家のようなものに転落してしまう。
例として企業内でのコミュニケーションシステム等あげられているが、自分は会社の話などどうでもいいので、ネット集合知をそんなことに使わないでほしい(笑)。
「エピクロスの肋骨」
澁澤龍彦 作
著者若き日の初期作品小説。「撲滅の賦」「エピクロスの肋骨」「錬金術的コント」の3作プラス巌谷國士の解説が収められた短編集。「撲滅の賦」は埴谷雄高の「意識」という作品を下敷きにしたオマージュのようなものであり、「錬金術的コント」はフランスの作家の作品のアレンジであるそうだ。ようするに立派な二次創作であって、やはり二次創作は若い頃にありがちな創作の楽しみなのだろうか。
どの作品もモダニズム文学趣味を絵に描いたような文体で、こういうのもコツを掴めば案外簡単に書けるのかもしれないが、さすがにおもしろく格好よく出来ている。キザなところはまるで無くユーモラス。巌谷國士の言うように足穂や石川淳を思い出す。澁澤ならではのオリジナリティがどの辺りにあるかは、これ以外の小説作品を読んでいないのでなんとも解らないが、後の「高丘親王航海記」を引き合いに出さなくても充分愉しい。解説は1/5くらいでよい。
「ゴーレム」
グスタフ・マイリンク 作
呪文によって土塊から作られる怪人ゴーレム。その伝説が息づくプラハのユダヤ人ゲットーを舞台に、不思議な運命に操られる宝石細工師の物語。
さぞやゴーレムの謎を巡ってお話が進むかと思いきや、ゴーレムらしきやつは最初にチラッと登場して無言である本を手渡すのみである。悪役であるところの古物商の悪だくみに立ち向かう主人公とその友人達の数奇な人生が描かれる。
さすがドイツ幻想文学の旗頭マイリンクだけあって、現実と幻想がないまぜとなった語り口は頭がとろけるような心地よさ。主人公は青年時の記憶を失った人間であり、しばしば白日夢を見るので、読む側にとっては何が事実だったのか解らない。それでもアパートに連なる地下道を通って出入り口のない秘密の部屋にたどりついたり、殺人犯に仕立て上げられて未決囚としての日々をおくったり、冒険小説としてのおもしろさがふんだんにある。
小説全体は登場するラビの説くように、精神的なものに重きを置き、大いなる魂の存在へ憧れる人々の物語となっているのだが、確かにそういう向きはあるにせよ、全体の構成はあらかじめ考えられていたとは思われず、作者は筆の趣くままにゴーレムそっちのけで面白い事を書いたのだと思う。なにせラストは大掛かりな夢落ちだから。
「安部公房とわたし」 山口果林 著
女優山口果林が作家安部公房との秘められた20年の愛の奇跡を綴ったルポルタージュ。安部公房ファンの自分としては作家の日常や創作の秘密が描かれた貴重な資料。山口果林ファンは安部公房のことはよく解らずに山口果林の人生を知るだろう。自分は「ヒントでピント」くらいしか知らない。
確かに不倫は良くない事なのだが、家庭を築いた後で自分にとってこの人こそといった人に出会う事もあるだろうし、そのまま恋に落ちたとしても仕方がない。男と女だもの。そんなこともあるでしょう。
それにしても20年を越える年月、お互いの家を行き来しながら二人の関係が隠されていたことには驚いてしまう。安部公房の死に至るまで山口果林を許さず、憎悪の炎を燃やしていた本妻安部真知はなぜ世間に訴えなかったのだろう。安部公房は調布の自宅を離れ箱根の別荘で暮らし、自由になるお金も少なかったようだ。
映画・演劇には疎いが、山口果林の桐朋学園演劇科から俳優座というコースはかなりエリートのように見える。学生の頃から安部公房に師事し、周りには一流の演劇人がいっぱい。そしてその頃から23才の歳の差を越えて二人の愛が育まれていくようすが、世間から隠れながらだとはいえ、楽しそうで心暖まるものがある。これは赦されない愛だからこそ訪れる時間なのかもしれない。その貴重な時間を大切に過ごす二人のようすがほほえましい。そして死を前にした安部公房の病室に入る事もかなわない山口果林の不安や悲しみが切ない。
安部公房も山口果林も才能を惜しみなく使いまくって生きてきた。それは幸福なことだ。
「庶民烈伝」 深沢七郎 作
いかに庶民がすさまじいものであるかを描いた短編集。
小説家と言っても深沢七郎はギターを弾いたり、ラブミー農場を開いたり、今川焼を売ったり、まったくインテリ臭のする人ではないのだが、その深沢七郎から見ても庶民というのはびっくりするくらいすさまじいことをするものらしい。作家の常識が通用しない。
たとえば「お燈明の姉妹」の4姉妹は美人ぞろいだが、みな父親が違うというおおらかな性風俗で、好きなように生きている。「べえべえぶし」の善兵衛さんは、ヘリコプターで散布された消毒薬に疑いを持ち、わざわざ自分の田んぼでヘリコプターの真下に立って消毒液を吸い込んで確認し、それがためにあの世に行ってしまう。「サロメの十字架」だけが農村ではなく都会のホステス達の話で、かわいそうにママはオーナーによって首になってしまうのだが、どんな世界を書いても品があって楽しい文章。作者の人間を見る目の優しさが滲み出るよ。
巻頭序章に作者と近隣友人との、庶民とはいかようなものであるかについて茶話があるが、キリのない庶民比べのような内容で愉快愉快。
読書
「西海原子力発電所/輸送」 井上光晴 作
福島第一原発事故以前に書かれた原発小説だが、事故後を知る我々にとって驚くべきリアリティを持っている。
「西海原子力発電所」では反原発の劇団シンパと原発職員の謎の焼死をめぐって、原発地元の街中にいろんな憶測が飛び交い、「輸送」では輸送中断崖から落ちたキャスクによって起きた放射能事故後、安全宣言を信じて戻って来た街に様々な異変が続発する。といった具合に直接的な社会問題はあるにはあるのだが、それはあくまで下地のようなものである。
井上光晴の魅力は社会に横たわる根源的な不確かさを、そのままにグレーで夢幻的なイメージで描き出すところ。その妙味はなんといっても会話にあって、いくら話しても齟齬ばかりが大きくなり、伝わらないもどかしさ。同意を得て話が進むということがなく、ただただ懐疑ばかりが膨らんでいく。なにかしら良くない出来事が進んでいるようだが、噂話にすぎないかもしれずはっきりしない。しかもその会話はモザイクのように様々な場所でいくつも繰り広げられ、全体で一つの塊となって話が成立する仕組みだ。非常にミステリアス且つスリリングであって解決もない。
社会派的なテーマがあってもなくても、我々にとって社会全体のイメージがつかみどころのない悪夢のように描かれており、これが井上光晴の世界であり全作品がこうであって、私にとってはたまらないゲージツなのです。
「社会契約論」 重田園江 著
副題は「ホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズ」これら4人の社会思想家を繙きながら、社会契約のなんたるかを解き明かす研究。読みやすい文章で今さら本気で社会科学をする気もない自分にぴったりの解説書。ちなみに自分は若年の頃、本家ルソーの「社会契約論」は手に取ったがとうぜん解らなかった。ホッブスは読んだことないが、巻末に紹介されている文献の中では長尾龍一の「リヴァイアサン」は楽しく読んだ。
闘争に明け暮れる自然状態に置かれた人間が、どうして社会契約を選択するに至るか?平和がいいのは解っていても、どうして相手を信用することができるのか?ここにある飛躍がホッブス問題である。このなぜ政治共同体が生まれたのか?という問題設定がまことにスリリングで興味深くわくわくとする。
中核となるルソーの一般意志について著者は難解である旨再三ことわっているが、これは案外わかりやすい。他人と同じように自己を尊重されたいという相互性の観点から説かれると納得しやすい。利己的な個人が共同体の中に先ず自己の利益を見出し、自分も他の大勢と同じ権利を得たいと思うこと。他人の幸福の為に働く、その他人の中に自分も混じっている。これが特殊意志ではなく一般意志であるのは理解できる。
わからないのはロールスの原初状態と無知のヴェールだ。これは思考実験として語られているのか?自己について何の情報も持たない、特殊個別的な個人から隔てられているゆえに、社会的公正を選択せざるを得ない原初状態。この設定から出発するのは自分にはどうしても無理だ。抽象的すぎる。
「文壇五十年」 正宗白鳥 著
1879年生まれで1962年まで生きていた正宗白鳥が見た近代文学裏面史。正宗白鳥はほんの少し読んだことがあるだけだが、その印象どおりまことに冷静な筆致で主に明治文学草創期のようすが語られる。
いちばん意外なのは田山花袋「蒲団」の影響の大きさである。いわずと知れた自然主義文学の革命的作品だが、藤村・鴎外・漱石など名だたる文豪が「蒲団」から影響を受けているというのだ。島村抱月などヨーロッパから帰った者が、海外文学の素養をいかしてどんな画期的な名作をものにしたかというとそんなことはなく、結局影響を与えたのは花袋の「蒲団」なのだった。これは実際に文壇に身を置いた著者ならではの実感だ。つまりこの自己暴露小説を読んで皆「あんなものでいいのか」と驚いたというかバカにしたのである。あんなものなら自分にも書けると言って広がり出したのが近代日本の身辺小説なのだ。チェーホフやモーパッサンよりこの暴露小説のほうが影響力があるのが、どうしたって日本だなという気がする。それでいて白鳥は「蒲団」じたいはたいしておもしろくもない小説だと言っているのである。
ほかにも文壇で話題の文豪がとりあげられるのだが、たいていこの口調で「たいしてなんとも思わない」という感想である。感激して評価しているのは歌舞伎役者の一部の演技のみで、かといって話題作をこきおろしているわけではなく、まことに冷静なものである。あまり社会的政治的スタンスをとるタイプではない人であるが、戦中から戦後にかけての激動はどこ吹く風みたいなようすで、今後の小説はがらりと変わるのではないかと言いながら、やはり昔話に花が咲く感じである。