漫画家まどの一哉ブログ
さりげない日常などとは正反対の、ひとつひとつ斬新な着想と技巧によって構成された短編集。諧謔味はあるが風刺というものではなく、人生に対する哀感を含んだ奥深いユーモア。解説によるとウモリズモというジャンル名になるのだそうだが、このレベルでそれぞれ違ったアイディアのものを250編近く書いたというから驚く。私でもタイトルだけは知っている映画「カオス・シチリア物語」「旅路」などの原作でもある。
「自力で」:死ぬ方はラクだが残された者の葬儀全般の手間や費用を考えると、おいそれと自宅で死ぬわけにもいかない。そこで主人公が考えたのが、わざわざ墓地まで出向いて縁者の眠る墓の前で自殺するというものだった。
「笑う男」:寝ているあいだ無意識に笑っていると精神を病む妻から難詰されるのだが、本人は夢を見た記憶もなくまったく納得できない。苦難の日常から解放されるため夢の中で楽しい思いをしているのだろうと自分を慰めていた。ある日とうとう見た夢を覚えていたが、その内容のくだらなさときたら!人間がいやになる可笑しさ。
「第三の魔弾」 レオ・ペルッツ 作
新大陸を蹂躙しようとするスペイン人コルテス。祖国を追われる身となったドイツ人伯爵グルムバッハ達は、少数ながらもインディオに味方し、インディオの財宝がローマへ渡るのを阻止するべく活躍する。ところがまんまと手にした一丁の銃には三つの呪いがかけられていた。
幻想歴史小説というジャンルの冒険小説。主人公グルムバッハは戦禍によって潰れた顔の半分を帽子を深くかぶって隠している隻眼屈強の男。敵役には卑劣な軟派美男子メンドーサ侯爵。天然の美貌を誇る野生の美少女ダリラなどエンターテイメントのキャラクター設定も怠りなく冒険は展開する。
主人公グルムバッハは悪魔と契約を結んでいる。そして縛り首となった人物によって呪いをかけられた銃。その一発目、二発目。はたして三発目は?
リアルな戦闘の物語の中に夢幻的な展開が混ざり込んいるという面白さ。
これが純粋な幻想小説として、呪いの銃弾のみを扱った短編であっても充分面白いものとなったであろう。幻想味は全体の3割くらいだが違和感なく楽しめた。
「内地へよろしく」 久生十蘭 作
1944年作品。太平洋戦争中、主人公は報道班従軍画家の青年。赤道を越えて南洋の島々に赴き、物資滞る中でも明るく誠実に生きる人々に出会う。タイトルから全編戦地での話かと思いきや、主人公は早々と内地へ帰ってきて、物語の大半はお見合い騒動を中心としたドタバタコメディである。内地外地ともに登場人物が個性的で、皆善人。人情味溢れる庶民ばかりだ。
そんな内容でありながら、久生十蘭の文章がさすがに密度が高くて面白く、緊張感があって味わいたっぷり。なかでも銚子(外川)の鰹漁師の不良爺さん連のしゃべる方言が気持ちよくってしかたがない。また主人公はじめ昔風の江戸っ子訛りで、こんな口調は今東京でも聞けないだろうが、まことに楽しい。
お見合い騒動も終わって主人公達は連れ立って、またもや南方の戦地へ赴くのだが、以前と違って戦況は熾烈なものとなり、呑気な常夏の暮らしはもはやありえず、島に生きる日本人達は国のために命を投げ出す覚悟で健気に毎日を送るといった描写に終始しているのは、時節がらしかたのないものであろう。
「薔薇とハナムグリ」 モラヴィア 作
シュルレアリスム・風刺短編集という副題。たしかにちょっと不思議なエピソードばかりで、それを読者が納得できないまま謎を謎のままで終わってしまうあたり、シュルレアリスムとよばれてもいいかもしれない。
ただ自分は本来のシュルレアリスムとはこういった作為的な技術を使ったものではなく、作者が意図しないところで幻想的な展開になってしまっているものと考えているので、これをシュールと言うのは少し違うと思う。
表題作などあきらかに動物を使った風刺・寓意小説で、とくにシュールと考えずに楽しめば良い。
パパーロとよばれる投資対象商品で失敗する一家の話は、パパーロなる物がなんなのかまったく解説されない。またお金持ちの夫人達がファッションとして背中に平然とワニを背負っていたりして、これらは意図されたシュール。
薔薇の蜜を好むハナムグリ達の中で、一匹だけキャベツを好むというマイノリティの孤独。来世でいけすとよばれるユートピアに行けると信じられていた蛸の社会。これらは典型的なわかりやすい寓意小説。
古くからある結婚式場で、参加者が次々と天井高く吊り上げられ、どこかへ消えてしまう不思議。島に住む怪物の見る夢のままに暮らしを左右されてしまう島の人々。こういったものは幻想的でよかった。
「彼らは廃馬を撃つ」ホレス・マッコイ 作
1920年代のハリウッド。ダンスマラソンなるものがあって、男女のペアで夜を日に継いで倒れるまで踊り続け、最後に残ったものが賞金を手にするというイベント。実際人気を博していたそうだが、その面白さが想像できない。踊り手もフラフラだろうし、そんなに長時間見ていられるものかな?
またダービーレースも行われ、なんと踊りながらトラックをクルクル周回するのだが、ステップを踏みながら走るのはどんなぐあいなのか?
主人公のペア2人はいつの日かハリウッド映画界で栄光を手にすることを夢見て生きてきたのだが、女の方は既に人生に絶望しており、毎日を鬱鬱と生きる人間。出る言葉は全否定と悪態であり、周りの人間に対する愛想も笑顔もない。この女の存在がこの小説を特異なものにしている。女が希望どおり相方に殺してもらって人生を終えたところから話は始まり、そこへ戻る仕掛け。
全編ほぼダンスのシーンでめったに外へも出ないし、パルプマガジンの作品にしてはまったく解放感がない。苦行のようなハナシだ。
「タルチュフ」 モリエール 作
一家の主とその母親だけが、偽善者タルチュフにうかうかと騙されており、それ以外の家族や縁者はみな冷静にタルチュフの企みを見抜いている。といった極端な設定がなんの経緯も語られずにいきなり登場するのが妙だ。しかし観客にはひじょうに分かりやすい状態で話が展開するので、まあ喜劇にはこの簡単さが必要なのかもしれない。
最後にうまくいくはずだったタルチュフの悪だくみが、賢明な国王陛下の判断によって未然に防がれ、一家は逃亡離散を免れるというところも、自分達を守ってくれる強い権力が大好きな大衆劇の基本か。水戸黄門や大岡越前のようなもの。
当主の妻は、まんまとタルチュフの望みどおりにタルチュフを愛していると一芝居うって、じつは当主はテーブルの下で隠れて聴いている。そんなハラハラドキドキの定番、基本中の基本もちゃんと入ってる。これが喜劇だ。
「聖なる酔っぱらいの伝説」
ヨーゼフ・ロート 作
訳文ではあるけど、ロートの文体はさっぱりしていて、テンポもよく軽快な感じだ。
「四月、ある愛の物語」:主人公の男はアンナという女性となんとなく同棲しながら、郵便局長の家にいる窓辺の少女に惚れ込んでしまい、アンナは平然とそのことを告げられる。
「ファルメライヤー駅長」:田舎の駅長は現在平和な家庭を築いているにもかかわらず、列車事故で助けたロシアの伯爵夫人に心を奪われ、家族を顧みることなく半生を伯爵夫人の後を追うことに費やす。いずれの話もなんとも自分に正直で、うしろめたさのかけらもないことに驚いてしまう。
「皇帝の胸像」:解体された旧オーストリア帝国の事情を知らないで読むわけだが、作中主人公の老いた伯爵は愛国心の名のもとに野蛮化する民族主義を嘆いている。皇帝の栄誉はおくとしても、各民族の自立に疑問符をなげかけるユダヤ人作家の視点は、現在汲むべきところ大いにあり。
「聖なる酔っぱらいの伝説」:寓意小説。住居を持たず河川敷で暮らしていた男に神の恵みか、次々と不思議な偶然がお金をもたらしてくれる。ただしミサのある日に教会で小さな聖女テレーズさまにお返ししなくてはならない約束。最後はちょっと涙するおはなし。手塚治虫でも喜んで描きそうだが、デフォルメしてしまうだろう。
「ペドロ・パラモ」フアン・ルルフォ 作
自分にとってラテンアメリカ文学の苦手なところは、人物名の印象が皆同じになってしまって、誰が誰やら分からないまま読んでしまうというところだ。この小説の場合時間が順を追って進まないのでなおさらだ。街の悪党ペドロ・パラモの人生が主な内容だが、それよりも前半のペドロ・パラモの後を追って寂れた街にやって来た息子のはなしが面白い。すでにペドロ・パラモは死んでいて、わずかに街に残った女たちとの交流があるのだが、生きているつもりでいた目の前の人物が実は幽霊だったりということがくり返されて、喪失感が重なってゆく。
ところでペドロ・パラモの悪党ぶりや愛する女への葛藤など物語の内容はあるのだが、なぜか直接頭に入って来ずに、悪魔的なイメージに占領されてしまう。なるほどマジック・リアリズムの嚆矢とされる作品だ。
「牛乳屋テヴィエ」
ショレム・アレイヘム 作
舞台や映画でおなじみ「屋根の上のバイオリン弾き」の原作であることを知らずに読みはじめた。主人公テヴィエは牛乳屋だが、牛乳配達だけしているわけではなく作り手なのである。生乳の他チーズもバターも生クリームも作る。お得意は街の金持ちだ。そして家には娘ばかり6人もいるのだ。
今や日本人にもおなじみのウクライナ。ソビエト政権成立のころウクライナに暮らすユダヤ人一家。イディッシュについてなんの知識も思い入れもないが、それを意識しなくても父親と娘たちの世代間の考え方の齟齬を描いて、世界中の人が見て読んで面白いものになっているわけです。屋根の上でバイオリンは弾かない。
親父さんからすれば自分が娘のためにいい縁談をまとめてきてやったと思っていても、娘と恋人は「ぼくたち結婚することにしました」ってそりゃいったいどういうことだ?といった具合。これが全編主人公テヴィエの語りで書かれており、それがまったく田舎の農家の親父さんの口調なので面白い。とはいっても自分の趣味とはちょっと違う作品。