漫画家まどの一哉ブログ
「カンガルー・ノート」
安部公房 作
安部公房最後の長編。主人公は脛にびっしりとカイワレ大根が生える奇病にみまわれ、医者に指示されるまま硫黄泉での治療をめざして自走ベッドで運ばれてゆく。まるで意思を持ったかのような頑丈なベッドは、謎の地下水道を通り、三途の川イベントが繰り広げられる河原へ到達。その後採血コンテスト日本一の看護婦の家や、脳震盪で入院した病院での事件等が続く。
奇妙な出来事が連続するが、ある程度現実的な裏付けがなされているので、純粋なシュールレアリズム小説ではないのかもしれない。この現実感が読みやすい理由で、安心して次の冒険へ入って行ける。シュールレアリズム小説としてはある意味オーソドックスな定番の書き方だと思う。ただ個人的には足にカイワレ大根が生えているという設定がグロテスクで、そこは我慢しながら読んだ。
「リア王」シェイクスピア 作
老王リアと3人の娘たちの話ではあるのだが、同時にある家臣の妾腹の子が親兄弟を裏切って成り上がろうとする話が進行する。このサブストーリーがなぜ必要なのか?自分も最初は疑問に思ったが、話が進行するうちに本筋と絡んできて全体が重層的な厚みのあるストーリーとなった。
当然ながらリア王はじめ人物のセリフはみな過度に修飾された詠嘆調で、リアリズムとは程遠いものだが、この大仰な詩的装飾が読み進むうちになくてはならない味わいに感じられてきた。その実個々の台詞はその性格をあらわす内容豊かなもので、人間臭い魅力に満ち溢れたものだ。単に神や自然を引き合いに出して飾り付けているだけではないのだ。そしてこのセリフが彷徨える教王リアの魅力を十二分にいや増していると思った。
典型的な分かりやすい善人悪人が入り乱れる中で、リア王と道化の存在がその典型をはずれた面白さを持っている。やはりここが名作の鍵だ。
「第三の嘘」
アゴタ・クリストフ 作
「悪童日記」「ふたりの証拠」に続く三部作の最終話。主人公の双子は50歳を越えて、子供時代を過ごした懐かしの街で再会を目指す。とは言ってもこの三部作に一直線につながったストーリーがあるわけではなく、彼らによって語られる物語のどれが真実でどれが嘘かはあきらかではない。
作者は当初から三話書くつもりではなく、「悪童日記」の設定を使ってまた別の話を書いてみたといった経緯のようだ。それがかえって複層的な効果を生んで、稀代の名作が完成した。
第一部「悪童日記」では作者の頭の中にのみあって書かれなかった設定や、前二作で書かれたことをあとから伏線として利用するなどしたのか、合わせて読むと見事にモザイク的な面白さ。読者にとっては謎のままだが、いくつもの真実がある世界が出来上がる。しかし基本的には主人公の、社会から外れたところで独力で生きている、人並み外れて頭の良い双子の魅力があってこそ成功した作品だ。たしかにちょっと捨てがたいキャラクターです。
「ふたりの証拠」
アゴタ・クリストフ 作
代表作「悪童日記」の続編。主人公の双子のうち、一人は国境を越えて行き、残ったもう一人の青春期を描く。直接政治的なテーマを追うものではないが、ハンガリー動乱の結果多くの市民が犠牲となったことやソビエトの支配が背景としてある。動乱で愛する人を亡くし、悲しみを抱えて生きる人々の話でもある。
まるで箇条書きのような、何の修飾もなくぶっきらぼうに事実のみを書いて放り出したような文体。それなのに登場人物の人格が濃厚に立ち上がってくるのが実に不思議だ。内心の説明がなく、未亡人と幼い連れ子を引き取ったり図書館員の女性をつけまわしたり、主人公リュカのとる行動の真意もわからぬままあれよあれよと読まされてゆく。
ところが物語も半ばすぎると、政府に殺害された妻と暮らした旧宅を見続ける不眠症の男や、一編の小説を書くことを遠い目標に酒に浸る書店兼文房具屋の店主など、人物の語りがだんだん濃密になって行き、その様々な人生の迫力に息を飲む。ミステリーのような仕掛けも含みながら充分ドラマティックだが嘘ではない。これぞ筆力というものだ。
「怠惰の美徳」
梅崎春生 作 萩原魚雷 編
若き頃の怠け者としての毎日や、近ごろ家族の周りで起きた出来事を綴ったエッセイ集。これは他の作家でもそうなのだが、自分はエッセイを読むと「そりゃそんなもんだろうよ」「そんなこともあるだろうさ」「それでどうだというんだ」という感想ばかりで痛快感を感じることはあまりない。わざとユーモアたっぷりに失敗談などを書かれると、人畜無害すぎて苦痛になってくる。
この文庫本でもそれは感じるのだが、後半、体験を素材に書かれた「寒い日のこと」「一時期」「飯塚酒場」「百円紙幣」「防波堤」などの短編小説が絶品とも言える味わいでよかった。やはり小説だよなと思う。物みな不足する戦前の暮らしの中で、わずかばかりの酒を売る居酒屋へ何度も走って行列する話など、おかしさと悲しさの絶妙な色調。日常の事件を切り取っていても実は絶望や諦念を含んだ落ち着きがある。それが心地よかった。
「世界イディッシュ短篇選」
西成彦 編訳
やはりポーランドやウクライナ、ベラルーシ出身の作家が多い。ロシア革命やホロコーストをくぐり抜けたユダヤ人の体験が、直接ではなくても登場人物の背後に見え隠れする形で語られる。そうやって物語が成り立つ所以を実感することは日本人には不可能だが、短編自体は面白く読める。
「つがい」ショレム・アレイヘム作:アレイヘムは以前「牛乳屋テヴィエ(屋根の上のバイオリン弾き)」を楽しく読んだ。つがいといっても夫婦ではない七面鳥のオスとメス。これを七面鳥目線で描いて愉快。祝祭日のために用意された身の上なのに、いつか解放されると信じているのだ。
「塀のそばで(レヴュー)」デル・ニステル作:神学者として地位も名誉もある男性が、サーカスの曲芸氏の女に惚れ込み、職を捨ててサーカス団に入団するという話のベースはあるのだが、部屋の片隅から埃人間なる茫漠とした案内人が登場したころから時空は入り交じって本格的な幻想文学に。具体的な輪郭がはっきりしないままなのに、起伏のあるストーリーが止まることなく進行するのは見事。
「プラトーノフ作品集」
プラトーノフ作
ソビエト黎明期に一時的に話題になるも、その後反革命的作家として文学史から追放されたプラトーノフ。その貴重な中・短編を収録。
「ジャン」:党中央委員会の命令を受け、中央アジアを放浪する滅びかけた遊牧民ジャン族を救うべく赴いたジャン族出身の青年チャガターエフ。残された数名の老人たちを連れて、元々の自分たちの土地サル・カムシュへ帰るべくよたよたと歩き始めるが、道を見失い砂漠の中を食料も無くさまようこととなる。湿った砂を口に入れて水分を摂取し、草を食べ、鳥を殺しては生肉を分けあって進むが、生きていること自体がありえないと思われる過酷な設定で、あまりに日常世界と離れており、ある種幻想的な非現実感がある作品。
アム・ダリヤ川やウスチ・ユルト台地。カラカルパック人やバルチスタン人など、ふだん馴染みのない地域なのでなおさらだ。
「帰還」:兵役を終えて我が家に帰還した夫だったが、留守中に妻が下心ある他の男たちの世話になっていたことが許せない。長男は子供のくせに小舅のごとく口うるさく家を切り盛りする人間に育っている。妻の夫に対する愛は変わらないのだが夫は理解しない。この夫婦の心情をしっかり緻密に描いた正当派家族劇。これがこの作家の本来的な仕事だろう。
「母アンナの子連れ従軍記」
ブレヒト 作
2005年に上演された台本を文庫用に再訳。それを機に「肝っ玉おっ母とその子どもたち」として知られるタイトルを変更。
17世紀の宗教戦争下、娘や息子たちとともに幌車を引き、部隊に連れ添いながら兵隊たちに日用品を売って生きて行くアンナ。「度胸アンナ」と呼ばれるたくましい母親だが、両軍の間で立場を揺さぶられ、戦争なしでは生きていけない生業から離れられないうちに、一人また一人と子どもたちを失い、それでもくたびれた幌車を引いて生きていかねばならなかった。
ブレヒトや舞台芸術の世界をまるで知らないので、ブレヒト特有の社会観や表現があるのかもしれないがわからない。誰でもわかる客観世界だけで成り立っていて、素直にアンナの心情に心をよせて楽しめる。戦争の行方に翻弄される平凡な人間しか出てこないので、わかりやすいが物足らないところもある。しかしそれが大衆に喜ばれる社会派か。いろいろな社会的問題に関心を寄せ研究して書いても、説教くさくならないのはさすがにあたりまえかもしれない。
「出身国」
ドミトリィ・バーキン 作
1964年生まれの謎のロシア人作家短編集。デモーニッシュなイメージが横溢する文体。暴走する詩的観念。言葉の魔力にゾクゾクとする。
「荒廃は石にさえ浸透して壁に宿ったのだが、その壁にこそ極限の孤独と残酷な時間の流れによって孵化した妻の愛が、音もなく赤々と燃えているのだった。」
「ついに倒れこんだ男の唇が無慈悲で無関心な大地に触れると、脳に黒い花が咲いた。」
「ペトラーギンをいついかなるときも支配していたのは、息をひそめ、混濁した歳月の奔流から一歩離れていたいという思いとーーその時間の奔流に飲まれた人々は、泥濘、折れた枝、擦りきれた服、ひん曲がった銃、水に洗われて角がとれた骨といった物体に遮られながらも、理想を追い求めてひたすらに疾走していくのだーー産声をあげた瞬間から頭に落ちてくる法の影を欺いて、息をひそめ一歩離れて立ち、人々に助言を与えてやりたいという思いだった。」
「ペトラーギンがボイラー室に入ってきたとき、大きな鼻と万力のように閉められた唇と、草を咀嚼する雄牛のように突きでた力強い顎をした男の顔は、炭と煤の粉が固まってできた外皮が、額や頬や唇の筋肉神経を鍛接してしまったかのように微動だにしなかった。」
などなど…もとよりどこから来たとも知れぬ風来が村に住み着いて働き始める設定が幻想文学の雰囲気を醸し出していて、現実から遊離したもうひとつの現実を十分に味わうことができる。とはいっても、そこまでイメージ中心の作品ばかりではなく、素直に物語が進んで行くものもあるが、いずれも幸福とは程遠い底辺をのたうちまわるような話だ。主人公の男たちは流れ者だったり、一兵卒だったり、頑固親父だったりするのだが、自己中心的で他者とは容易に相容れぬ性格でありながら日々忠実に働いている。そしてこの作者もふだんはトラック運転手として忙しく、小説など書くヒマがないそうだ。
「黒いピエロ」
ロジェ・グルニエ 作
フランス青春小説。主人公の青年はクリーニング工場のせがれで、軽トラでホテルなどを回りリネンを回収している。また眼鏡屋のバイトも重ねて家計を助ける毎日だ。彼の交流関係には子供の頃からの友人で、太った金持ちの男がいて広大な屋敷に住んでいる。周りに集まる女たちもある程度裕福な階層に属する人間だ。
そんな中で主人公の彼だけが、この田舎町を出ようともせず、積極的に女性をものにしようともせず、ただ流れのままの生活にあけくれている。
やがて戦争となり街にはドイツ軍が進駐。それも過ぎて戦後、彼を含めて様々な男と女の出来事が静かに終わり、たどりついた儚い日常が今日も続いていく。といった次第。
なんとも静かで流れるように進む。派手な盛り上がりはなく、やや哀調を含み人生のやるせなさを味わうような語り口が心地よい小説だった。