漫画家まどの一哉ブログ
「私の作家評伝」
小島信夫 著
(中公文庫)
近代文学作家16人のエピソードを追って、その生き方と作品を丹念に探る唯一無二の評伝集。
文庫本にしては大部ながら、小島信夫の文章が小説を読むように面白く、ついつい読んでしまった。徳田秋声・有島武郎・岩野泡鳴など前半に登場する作家はそのほとんどが女性関係をめぐる話題で、妻および愛人の間でどのように立ち回ったか念入りに探るといった内容だ。それにしても作家だからかどうだか、こんなにも簡単に男女の関係が次々とうまれるものか不思議な気がする。
後半になると高浜虚子・田山花袋・徳冨蘆花・正岡子規・近松秋江など女性関係を離れ作家としての生き方が前面に出てくる。なかでも啄木の破天荒で破滅的なことは群を抜いていて、早世ゆえか悲しみをさそう。子規はやはり漱石に比べるとポジティブで明るい人間のようだ。そして近松秋江は小島信夫によると稀有の作家らしく、確かに文体は美しいので近々ちゃんと読んでみようと思う。
ところで正直なところ小島信夫の小説の構成・展開・表現に渡る解読が専門家すぎてよくわからない。それは私が個人的に人間心理に疎く、気持ちのやり取りがわからないためでもあるが、人物の態度や言葉使いで実はこういう人間関係の抜き差しがあったとか言われても、ああそうなのかと思うばかりである。いい調子で読んでいてもしっかり理解して読めているわけではないのだ。
「神曲」地獄篇
ダンテ 作
(河出文庫・平川祐弘 訳)
著者ダンテ本人が、古代ローマの詩人ウェルギリウスの魂とともに地獄をめぐる体験記。
近代文学以前の、小説という形を取らない大作を読むのは初めてだが、意外にも一大娯楽巨編といった感覚で読めた。1966年の平川祐弘訳がくだけた現代文で古典であることを気取らず、作者ダンテが目指した喜劇のスタンスを敷衍しているらしくそれがよかった。
こればかりは仕方のないことだが、徹底的にキリスト教の立場で書かれていて逆におもしろいくらいだ。マホメットでさえ地獄の底の方で体を切り刻まれて喘いでいるのだから容赦がない。
地獄を底の方へ底の方へと順番に降りていくに従い罪深い連中が手酷い劫罰をくらっていて、そのエスカレーションが楽しみだが、ストーリー的には途中危険な崩れかけた橋や断崖を渡ったり、鬼どもに騙されたり、現世で横暴を働いた連中のうらみつらみを聞いたりと、仕掛けはあれやこれやたっぷりだ。
全編詩篇ということだが、自分の理解している詩というものとかなり違っていて、叙事詩の体裁をとっているせいか改行された散文といったふうである。師匠である詩人ウェルギリウスとダンテとの上下関係がはっきりしていて、師匠はやたらえらそうである。
「西への出口」
モーシン・ハミッド 作
(新潮クレストブックス・藤井光 訳)
内戦下の中東。しだいに広がる武装勢力の占領を避けて国外へ逃れた若い夫婦。秘密の「扉」を通って次々と国境を越える二人の心の移り行きを追う。
おそらくイスラム圏とわかるくらいで現実の国が設定されているわけではない。サイードは祈りくらいは毎日捧げる男性で、ナディアはあくまで防御用として黒いローブで全身を覆っている女性。宗教にたいしてどれくらいのスタンスでいるか大体の感触がわかる。原理主義的な勢力の支配を逃れるため難民の道を選ぶ。
「扉」とよばれるそれこそ「どこでもドア」のようなものがあって、くぐるとそこはすぐ遠い異国である。これを世界中の移民の生活を描き普遍化するための方便・トリックと思って読んでいたが、訳者あとがきでは移動中の時間は省略されていることになっている。
現代社会派小説でありながら恋愛小説でもある本作。移動して次々と変わる難民生活のなかで、二人の気持ちも揺れ動き、しだいになんとなく離れていく。多くの苦労を乗り越えてきたのにこれが結果かと思うと寂しく、自分としては嘘くさくても最後まで幸福な二人を見ていたかった。
「巣 徳島SFアンソロジー」
なかむらあゆみ 編
(あゆみ書房)
徳島を舞台に徳島に縁のある作家が集った短編アンソロジー。S(そっと)F(ふみはずす)がテーマ。
暮らしに身近な日本幻想文学集といったふうで、SFに疎い私にとっては馴染みやすかった。どの作品もちょっと不思議なことが起こるが、慌てるでもなく日常は継続していて、この生活のリアリティがあるからこそ楽しめる仕掛けだ。
そうは言ってもなるべくならやはり文章自体に味わいがあって、行を追うだけで脳に快感をもたらしてくれるものが良い。個人的な趣味の問題もあろうが、はやりの現代文学でも表現自体はただ書いただけの感触のものも多く、この辺は贅沢な悩みか。
小山田浩子「なかみ」:セリフも地の文も区別することなく改行もなく一気に書かれているが、リズムがいいのかグルーブがあり、名演奏を聴いたような楽しさだ。
久保訓子「川面」:ここに登場するダンナというものが小動物のような不思議な生物で、バッグに入れられて移動しているのだが、ふだんは会社勤めで出張もするという謎の存在である。妻である私のちょっとしたスリリングな冒険もあるのだが、文章自体は落ち着いていて安心感があった。
「ひっくり返す人類学」
奥野克己 著
(ちくまプリマー新書)
狩猟採集民の暮らしをフィールドワークによって明らかにする人類学。我々が当たり前としている現代社会や生き方を「そもそも」から見つめ直す。
個人的にはやや苦手だった人類学。この著作で学校や教育、貧富の差や権力が存在しない社会を知って確かに驚いた。カナダ北部のヘヤー・インディアンやボルネオ島のプナンなど狩猟採集民の暮らしが具体例だが、素人考えではやはり農耕以前の少人数共同体であればこその生き方だと思う。
年々生産力が向上して蓄積が増えるわけでもなく、その村に生まれれば一生同じことをして代々暮らしていくのであれば、わざわざ学校などで教えなくても大人のやることを見て自然に覚えることばかりだ。規律や訓練など上下関係や権力が発生する必要がない。
誰かが獲った獲物はすべてみんなのもので必ず全員に分け与えられるというシェア法則は、狩猟採集社会を維持していくために厳しくルールづけられているのも興味深い。個人的な独占欲はやはり人間の自然な衝動で、子供の頃から独り占めを禁止されることによりシェア法則が内在化され維持されていく。権力を生じさせないための仕組みが徹底されている。
またこれら狩猟採集社会には我々の現代社会にあるうつ病に代表されるような心の病はないのだが、驚いた時に汚言や卑猥語をしゃべってしまう病理があってなんとも不思議だ。これは未解決だ。
また「あの世」などの概念がなく、人が死ぬと肉親が自分の名前を変えて死者を忘れようとする文化は、農耕社会と狩猟採集社会の違いかとも思う。
動物に人間と同じ精神性を認めるのは、私個人的にはあたりまえの感覚で、西欧社会がおかしいと感じている(笑)。
「死んでから俺にはいろんなことがあった」
リカルド・アドルフォ 作
(書肆侃侃房・木下眞穂 訳)
とある犯罪で捕まることを恐れ、妻子をつれて国を離れ異国の島に逃げた男。言葉が分からぬまま夜の街で迷い、なんとかバスを乗り継いで家に帰ろうとするが…。
世界中にあふれる不安定な立場の移民たち。不法滞在とは一口に言えないさまざまな事情があろうが、この主人公夫婦の場合言葉がわからないというのが致命的である。主人公の男は悪い奴ではないが、現実判断につねに運とか勘が混じっており、ちょっとしたトラブルを大惨事や大悪事の予兆と捉えて、すぐ行動を変えてしまう。例えばせっかく乗ったバスを降りてしまう。この非合理・非科学的な行動がすべての事態悪化の原因であろう。
彼の妻はたくましい現実的な女性だが、根本的に彼を愛しているので、この夜の放浪に付き合ってしまっても致し方あるまい。それだけこの二人はいい夫婦で好感が持てる。致命的なケンカには至らず微温的な状態なままなのもよい。
コメディだがブラックな印象はなく、移民政策の矛盾や弥縫作が根底にあるのだろう。とは言っても本人たちのいい加減さは人間の限界で、つまり人間とはこんなもんだろうと思わせる。
「原民喜戦後全小説」
原民喜 作
(講談社文芸文庫スタンダード)
最愛の妻を亡くし、その後郷里広島にて被爆。生活者であり文学者である自身の苦闘を、彫琢された文章で綴る。
ここにまとめられた作品はほとんどが自身の体験を綴った実話小説である。といっても私小説とは真逆の内容。自分をモデルに内心を告白するようなものではなく、あたかもドキュメンタリー作品の如く容赦ない身の回りの現実をルポする。この世の役に立たない人間として自覚する自身の、精一杯な生きるための格闘が描かれる。
「夏の花」:「夏の花」「廃墟から」「壊滅の序曲」の三部作で構成される8月6日前後の広島の様子。「壊滅の序曲」のラストで原爆投下40時間前。
「美しき死の岸に」:最愛の妻が亡くなるまでの悲しく美しい思い出の数々。妻が病を得てからの二人を、ここまで丹念に追っていった作品は他に例を見ないのではないか。妻なくては他に世の中との接点を持てない人間だったとはいえ、あまりにも切ない。
「原爆以後」:再び単身首都圏へ戻った作者だが、経済的自立への道は険しく、とくに住まいに関しては考えられないくらい苦労している。ここまで不安定だったとは後世の我々も思い及ばなかったところ。作者自身そうまでして生きていく意味は感じていなかったのかもしれない。
「大江健三郎論」 怪物作家の「本当ノ事」
井上隆史 著
(光文社新書)
戦後民主主義者としての立場に収まらない、大江文学に潜む闇を明らかにする。
大江健三郎の薄い読者である自分のような者が、この評論を読んであれこれ言うのも恥ずかしいが、他人事として簡単に書く。
あらゆる作品は必ずしも作者の生活・人生とシンクロして描かれるわけではないし、基本的に作品が面白ければ作者がどんな人間であろうが構わないわけで、作者論というのは作品に基づいた作家論とは別のものであろう。
ところが大江文学の場合は作品のモデルが作者の私生活であるし、大江がオピニオンリーダー、アンガージュマンとしても活動しているので、その戦後民主主義理念の体現者としての立場が作品と整合性があるかどうかが問題視される。
しかし自分はそこは矛盾していても大いに結構だと思う。ようするに作品に偽善があるということだが、それも魅力の一つであり作家ごと作品を愛する人はその矛盾を楽しめば良い。
もちろん本書の著者も偽善的な態度を批判・糾弾しているわけではなく、大江文学の理解に「本当ノ事」は核となるポイントであり、全作品を分析して組み上げていくこの論考はたいした労作。重量感もあり且つスリリングで読み応えがありすぎる。
野次馬的にみれば「本当ノ事」が顔を覗かせているものの方がゾクゾクする面白味はある。それが障害児・天皇・ロリータなどであればそうだ。私の少ない読書体験のなかでも「個人的な体験」「﨟たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」などはゾクゾクとしたし、次に読むなら「『雨の木』を聴く女たち」かもしれない。
「血の涙」
李人稙 作
(光文社古典新訳文庫・波田野節子 訳)
韓国文学を古典から近代へと繋ぐ「新小説」の開拓者李人稙(イ・インジク)の代表作。1906年作品。
日本による植民地支配がじわりじわりと進行する中で、日本への留学生たちの手で少しずつ変わり始める韓国文学。その先頭に立っていたのがこの作者。この辺りの文学史はまったく知らなかったし、またそれまでの韓国古典文学も当然よくわからない。「新小説」というジャンルに触れるのも初めて。
驚いたのはあまりに簡単に超スピードで進んでいく語りぶりで、なにか紙芝居を読んでいるような感覚だった。言文一致や人物の心情描写は近代文学への第一歩だとしても、この進行の速さは例えば江戸時代の戯作文学の感覚かもしれない。その点では近代文学を読んでいる読み応えは全くない。
ただ反対に明治期の日本文学に比べるとスケールは大きく、祖国を離れて日本・アメリカに渡り、教養・実業を蓄えて祖国を近代化しようとする人々。主人公の不遇の秀才少女オンニョンや行動を共にする青年、アメリカで実業に励む父親、絶望の日々を送る母親。など家族は日清戦争下で離れ離れになった運命のままに苦闘する。大長編ストーリーをあらすじだけでしあげたような味わいだった。
「ケイレブ・ウィリアムズ」
ウィリアム・ゴドウィン 作
(白水Uブックス・岡照雄 訳)
名望厚い主人の隠された犯罪を知った秘書ケイレブ。主人の策略の結果、逆に極悪人として追われる身となってしまう。元祖ミステリー。
主人公ケイレブは有望な青年ながらも、主人の過去に対する好奇心が災いしてまんまと罠に落ちた格好だ。余計なことを調べなければよかったのだ。そもそも主人が犯罪を犯すに至る過去の事件を語るだけでこの長編の3分の1を占める。その後ようやく現在のケイレブの話となり、彼が無実ながらも世間に誤解され、恥ずべき人間の屑とされる困苦の逃亡生活が続くわけだが、これがあまりにしつこい。
けして冗漫ではないが、ケイレブが信頼を寄せる人々に次から次へと裏切られ、けだものと罵られるありさまが、読んでいて辛くやりきれない。別に殺人を犯したわけでもなく、主人の金を盗んでそれを主人のせいにしたぐらいのことでそこまで非難されることはあるまい。しかも冤罪である。だが物語は最後の最後まで極端な非難を受けるケイレブの悲哀を繰り返し、徹底して絶望を描いてゆく。
物語のバランスとしてどうかと思うが、ゴシック小説の名作にしてミステリーの原点ということならば仕方あるまい。現代の視点では語るべからず。