漫画家まどの一哉ブログ
「近代の呪い」(増補)
渡辺京二 著
(平凡社ライブラリー)
まぎれもなく西欧化であった近代化。その恵みと失ったものを検証する講演記録。
名著「逝きし世の面影」で近世(江戸期)の日本の幸福な社会を世に知らしめた著者ならではの視点で語られていてさすがだ。昨今オリエンタリズムあれど、どう見たって近代化イコール西欧化であったことは事実。特に人権思想と科学技術への目覚め。
その人権思想が世界人類に普遍的なものと我々は思っていたが、現在進行しているガザ爆撃などを見ると、西欧人の視野はアジア・中東人にまで及んでいなかったようだ。著者も批判するとおり中国現政権は西欧の人権思想を否定しているのだからもっての外である。
悲惨なフランス革命から始まった国民国家。その国民国家と対峙するために大急ぎで幕藩体制から中央集権体制へ変わる必要があったことがよくわかる。これも江戸期ののんびりした幸福な社会を考察した著者ならではの解説だと思った。
「認知バイアス」
鈴木宏昭 著
(講談社BLUE BACKS)
日常生活に潜む思い込みや勘違い。認知のズレを招くさまざまな要因にはどんなものがあるのか?
人間が同時に注意できるものが限られていることや、マスコミ等で多く耳にすることを実際多いと思ってしまうなど、言われればなるほどそうだろうなと思うことばかりで、大きな意外性はないが納得できる。第一印象や自己決定感覚についてもそうだ。
しかし人間はじっくり熟慮するいとまなく、急いでとりあえずの判断をして生きていかねばならない。このヒューリスティックという概念は初めて知ったが、われわれの暮らし方と認知を考える上で基本となる概念だ。つまりどうこう言っても認知のズレは起こらざるを得ないわけだ。
最終章で、今まで実験してきた認知の間違いも、実際には実験時に考慮しなかった原因が現実にはあることなど、省みていて肯ける。長い人類史のなかでつい最近膨大に増えた情報量とその解釈のためのことばと抽象化など、そもそも人間の暮らしには必要でなかった。人は大自然の中で野生的に生きていたのだ。ここが基本。
「冬物語」
シェイクスピア 作
(岩波文庫・桒山智成 訳)
嫉妬に狂った王により命果てた妻。密かに生き延びた幼子。
運命の変転を描く悲喜劇。
嫉妬という主題はかなり多くの文芸作品で目にする気がするが、このシチリア王の嫉妬はかなり極端な設定だ。だんだん疑いの目が育っていくという経緯を経ず、物語が始まるやいなや妻の浮気を決めつける急な展開。妻が亡くなり赤ん坊が捨てられた後に、アポロの神託により妻の無実が証明される。すると王は手のひらを返したように涙ながらに反省するのである。
このわかりやすい前半の設定があって後半、ボヘミア国で生き延びた娘が王子の愛を受けて祖国へ帰るまでの紆余曲折の物語が展開される。面白いのは途中で時のコーラスというものが入り、月日が流れたことを観客に説明するのである。実は王の血を引く娘でありながらそれが証明されず、魔女あつかいされる悲劇だ。
この作品は「パンドスト」という種本があり、これをシェイクスピアが改変してハッピーエンドにしたもの。大衆娯楽として楽しめるかなり単純なものだが、捨てられた赤ん坊の王女を羊飼いと道化師が拾って育てたり、王女の証明にゴロツキ男が一役買っているところが、ちょっとした味付け。ボヘミアに海があっても誰も疑問としない。
「十二月八日・苦悩の年鑑」
太宰治 作
(岩波文庫)
終戦の日を挟み、戦前戦後の身辺を語った作品を中心に、太宰の国家観・人生観を垣間見る。
14編のうち「水仙」「花火」は既読であったが、この2作は破滅型の人間を描いて鬼気迫る秀逸の出来栄え。さすがに太宰だ。自分を天才画家と思い込み、夫を捨てて虚飾に溺れる女性。コンプレックスの塊でいい金づるにされて家計を破壊する長男。私小説でない作品の面白さは群を抜く。
その他掲載作は戦禍を受けてふるさと津軽へ一家で帰ることを中心に、一族中自分のみがいかに外れ者の情けない人間であるか、多くの支援者に迷惑をかけて兄弟たちにも顔向けできない失格者であるかを滔々と並べ立てるいつもの太宰流である。
この作風に関しては人によってはわざとらしい韜晦。或いは自己愛ゆえの感傷を感じて、批判的に見る人も多いだろう。それくらいのことで大袈裟な…というわけだが、そこは趣味の問題としておく。自分は好きでも嫌いでもない。
戦後太宰は軍閥官僚を批判し、それでも日本を愛することにおいては純粋だった旨述懐するが、これは平凡な民衆としては素直な気持ちだろう。こういう純朴で情緒的な視点であるため天皇制を相対化できない。これもやむなしか…。
「自我と無意識」
C.G.ユング 著
(レグルス文庫・松代洋一/渡辺学 訳)
ユング心理学を著者自身がトータルにまとめた入門書となるべき著作。
集合無意識といわれると捉えどころがない気がしていたが、人間は個人的生活より先に所属する共同体・集団の共通した暮らしがある。例えば気候の変化や獲物の取れる時期、種を蒔く時期、神事祭事などは無意識のレベルで共有されていてしかるべきで、そこまでなら集合無意識の存在も肯ける。ここを手がかりとしたい。
ペルソナの概念が面白く、社会的な存在としての仮の姿。これも集合無意識の圧力のなせるわざか、本来の個人としての自分を忘れてペルソナに支配されてしまう人がいる。過労死するタイプかもしれない。社会ではトップリーダー的な優れた男性が、家庭では子供のままで、すべて奥さんに頼ってくる例が多いそうだ。なるほどね。
しかし平時に無意識に動かされて空想するという状態がわからない。私個人は空想は全て意識的だ。夢以外に個人的無意識を体験していない以上、アニマとアニムスをはじめマナ人格に至るまで、雲を掴むような話で、納得できるできないの段階ではなかった。たぶん自分は今後とも無意識を意識することはできないだろうと思う。
「家霊」
岡本かの子 作
(ハルキ文庫)
さまざまな人生のひとつひとつを美しく照らし出す、魔法のような珠玉の短編4編。
ここまで華麗に彫琢された引き締まった文章は、なるほど作者かの子の短歌から引き継がれているのか。驚くほどの意外な修飾の連鎖に息を呑む。めったに読めない言葉の芸術を体験できる。
「鮨」:秀才だが食べ物に対する許容範囲が狭く痩せていく子ども。この男の子を救うべく母親が手ずから鮨をにぎって、ようやく卵も魚も食べられるように…。こういう繊細で特殊な少年を、作者はどうやって創作したのか。不思議な気がする。
「家霊」:ナマズやスッポンを食わせる店。零落した彫金師が、ツケも払わずに夜な夜などじょう汁を注文する。「あのーー注文のーーご飯付きのどじょう汁はまだでーー」このセリフ大好き。彫金の動作説明は身の引き締まる美しさ。
「見るものに無限を感じさせる天体の軌道のような弧線を描いて上下する老人の槌の手は、しかしながら、鏨(たがね)の手にまで届こうとする一刹那に、定まった距離でぴたりと止まる。」
「娘」:スカルボートを操る肉体派の娘。彼女を慕う腹違いのおもちゃやお菓子に夢中の少年。このコンビが楽しい。
「室子は頬を撫でても、胸の皮膚を撫でても、小麦色の肌の上へ、うすい脂が、グリスリンのように滲み出ているのを、掌で知り、たった一夜の中にも、こんなに肉体の新陳代謝の激しい自分を、まるで海驢(あしか)のようだと思った。」
「人種は存在しない」人種問題と遺伝学
ベルトラン・ジョルダン 著
(中央公論新社・山本敏充 監修・林昌宏 訳)
遺伝学の成果により人種概念の無効性を明らかにし、遺伝子を理由とした人種差別に異議を唱える。
ここで「人種」というのはかなり大きな枠組みで、アジア系・アフリカ系・ヨーロッパ系などのこと。日本人・韓国人・中国人などはもちろん人種ではない。その人種のDNAは99.9%が同型である。残る0.1%の違いが体格や肌や髪の色などを決定するらしいが、これは自然選択であって遺伝的形質が親から子へ伝わるようなことらしい。人種差より個体差の方が大きいのだ。
自分の属する人種の優位性を、遺伝子によって科学的に裏付けようとするのは完全に間違っている。しかし孤立した環境で長年生きてきた民族に、特徴的な遺伝的特質が生まれるのは否定できないので、「人種」という概念を狭くとらえられると、遺伝子を理由にされる危険はある。生物学的な厳密さを一般人に期待しなければならないところが難しい。
一般読者にも読めるように書かれているとはいえ、私にとってはさすがにハードな部分はあった。肝心のアレル(対立遺伝子)というものがよく理解できず(対立という言葉に引っかかる)、またマーカーとして利用されるスニップス(一塩基多型)も単純なことはわかるのだが、それ以上の展開はついていけなかった。この辺りはまたの機会に…。
「刑の重さは何で決まるのか」
高橋則夫 著
(ちくまプリマー新書)
刑法学とはなにか?刑罰に対する考え方の基本を丁寧に解説。
署名通りの内容を即期待するが、その前にまず刑法の世界を順に繙かなければならない。これは用語的には当然専門的で素人読者が正確に覚えられるものではないが、読んでみると意外なことはなく、それはそうだろうなという感想。言わば教科書的な読後感がある。
やはり第4章の量刑論だ。重いか軽いかどれくらいの刑罰にするのか?我々読者にとって意外な根拠が、具体例と共に示されるだろうと期待する。しかしあたりまえだが、これまでの刑とのバランスが大事でそうそう突飛な判断がされるわけではない。意外性はなく内容は量刑が決まるまでの仕組みの解説が中心である。
終章でこれからの新しい刑法学の方向が示されるが、個人的には被害者感情が疎かにされていると常々感じるので、修復的司法というものによって応報感情が損害回復されるならばそれは良いと思う。しかし加害者・被害者(コミュニティ)による対話および会議などは、なかなか辛いものがあるのではないかと…。
「明治深刻悲惨小説集」
斎藤秀明 選
(講談社文芸文庫)
1890年代流動する社会の中で、虐げられ捨てられてゆく人々の末路を描いた一連の「深刻小説」。自然主義以前の豊かな娯楽性と共に作家のゆるぎない批判精神を見ることができる。
10編の短編のうち多くは、素直で美しく若き女性がその不幸な境遇のため悲惨な最期を遂げるというもので、必ずアンハッピーエンドだとわかっているだけ読むのも辛いものがある。例えば田山花袋「断流」では生きるために奴隷的労働のあげく身を売らざるを得ない主人公に対して、善意溢れる寺の和尚も「世の中の罪だ」と繰り返すのみ。
また徳田秋声「薮こうじ」、小栗風葉「寝白粉」などは新平民である主人公たちへの言われなき差別をとりあげ、作者の世間への憤りをあらわにする。そんな中で自分が最も面白いと思ったのは広津柳浪「亀さん」で、知的障害者である青年と、彼を利用しようとする蟒蛇(うわばみ)と呼ばれる娼婦あがりの悪女という珍しい設定。どちらもあわれなものである。
ところで8編は文語体だが、読み物としてのリズムがあって読む楽しさに溢れている。中でも小栗風葉は音楽のように心地よく、やはり音読を聞きたい代物だ。また川上眉山、泉鏡花などにある江戸言葉(べらんめい)の口調がなんとも歯切れ良くて気持ちが良い。
江見水蔭「女房殺し」は口語体だが派手さのある特異な文章。樋口一葉「にごりえ」は人情味溢れるさすがのドラマ作り。
「スターバト・マーテル」
桐山 襲 作
(河出文庫・1991年)
経済的繁栄の裏側で取り残されてゆく人々を、現実から解き放ってよりリアルに描いた魔法のような作品群。
「スターバト・マーテル」:高度成長期からバブル以前までの、復古的保守政権vs抵抗運動の構図は、雰囲気だけは体感しているので戸惑うことはなく読めた。単純な政治的作品などではなく、14人の活動家の亡霊がいくども甦る夢幻的作品。折り重なるように立ち上がる幻想。社会派文学として読むかどうかは読み手次第。
「旅芸人」:1960年韓国。今や解散寸前の旅芸人一座。曲芸師や占い師、火吹き男や双子姉妹の美声デュエットなど個性的な団員たちだが、団長を筆頭にみな悲しい人生を背負っていて哀感迫る。時代は変わろうとしていて、韓国もイルボンのように人工的な血の通わない国となっていくのだ。
「地下鉄の昭和」:昭和最後の日。変われない人生を抱えて戦後を生きる人々。若くして戦死した夫に話しかける妻。士官としての軍人精神のまま昭和を生きる男。偶然二人は同じ日に年に一度靖国神社へ向かう。わかりやすい構図と言えばそうだが、小説は構図を読むことがゴールではない。