漫画家まどの一哉ブログ
「愛の妖精」
ジョルジュ・サンド 作
(岩波文庫・宮崎嶺雄 訳)
19世紀半ば、フランスの農村。仲の良い双子の兄弟と悪魔の如く嫌われる極貧の少女。みずみずしい彼らの交流と成長を描いた青春小説の白眉。
実際双子と言っても成長するにつれ少しは違ってくるもので、兄はひ弱で弟は頑健。性格的にも兄は未熟で嫉妬深く、弟は素直で誠実。この兄がいつまでたっても弟を離さず独り占めにしようとしている実に困ったやつで、弟と彼女の愛が成就しても最後の最後まで彼の問題が残る。しかしここがドラマの組立のおもしろさ。
もともとお転婆で、村人からは悪魔の如く蔑視されていた少女ファデット。本当は愛に溢れた賢い彼女が、はたして幸せになれるか心配でハラハラしながら読んだ。素直で清冽な10代の少年少女たちの細やかな心の動きを、わかりやすい表現で描いていて快感を得た。昭和34年の訳文だが充分に現代的で驚いた。
「セビーリャの色事師と石の招客」
ティルソ・デ・モリーナ 作
(岩波文庫・佐竹謙一 訳)
17世紀前半、興隆するスペイン文学に生まれた元祖「ドン・ファン」の物語。観客へのサービス精神たっぷりに書かれたティルソ・デ・モリーナの戯曲世界。他一編。
かなり大味な展開で、そんなにも簡単に多くの女性が騙されるのかという疑問を抱きながらも「ドン・ファン」の悪行はどんどん進む。観客にとってはこれくらいのわかりやすさが痛快だろう。口先だけで複数の女性に結婚の約束をして関係を持つが、その末路は幻想的な怪談となっていて驚いた。
話を面白く持っていくのは従者(下男)たる男の存在で、主人「ドン・ファン」の背徳ぶりをいちいち嘆きながら指示に従っているのが薬味の如く効いている。併録作品「緑色のズボンをはいたドン・ヒル」でも、登場する貴族それぞれについている下男の存在が、主人の奇行ぶりを際立たせている。
「緑色のズボンをはいたドン・ヒル」は、真正ドタバタコメディで新喜劇のようなもの。男装の麗人が巻き起こす複雑な恋愛模様と嫉妬や裏切り。恋愛関係がかなり複雑に入り込んでいるのでやっかいだが、ラストは簡単にめでたしめでたしになるのが安心して見ていられるという仕組みです。
「バラントレーの若殿」
スティーヴンスン 作
(岩波文庫・海保眞夫 訳)
兄は颯爽として快活だが希代の悪党。対して誠実で実直だが冴えない弟。死を賭して対立する二人。スコットランド名家の物語。
スコットランドからフランス、インド、北米までにわたる大スケール。波瀾万丈の物語でスティーヴンスンの面目躍如だ。
ジェームスというはっきりした悪人を設定したことで、非常にわかりやすい面白さがある。このジェームスが権力や地位を背景とする政治家的悪人ではなく、我欲のままに直接的行動に及ぶ犯罪者気質なのがよい。しかも才気煥発、派手でウケが良い。
対する弟ヘンリーは善人ではあるが、人当たりは悪く口数は少なくはっきりしない、いわゆる暗い人間で大衆の人気が全くないことも好対照。しょせん兄ジェームスとの戦いは絶望的なものとならざるを得ないのである。混乱する彼を支える老執事マケラーが物語の語り手であることで我々読者も心の平衡を保つ。
途中、海賊船に乗って荒れ狂う海を渡るシーンがあるが、「宝島」は言うに及ばず、海洋冒険小説を書かせたらスティーヴンスンの右に出るものなし。スコットランド周辺は自家薬籠中の海域だ。
「ペンギンの島」
アナトール・フランス 作
(白水Uブックス・近藤矩子 訳)
間違った洗礼により人間となって暮らすこととなったペンギンたちの島。歴史は進み古代から近代へと愚行を繰り返すペンギン人間。著者渾身の寓意小説。
本当のフランス史ではなく、あくまでペンギンの話なんですよという前置き。お人好しの老聖者マエールが悪魔に騙され、流された北の海でペンギンを人間と見間違えて洗礼を与えてしまう。それが神様会議で承認されるというとぼけたプロローグ。しかもこの聖者マエールは次々とその凡庸ぶりを発揮する。
古代の竜退治伝説の勇者による捏造や、のちに聖女とされる女性のたいそうな策謀家ぶり、また近代ではユダヤ人ピロへの国家的冤罪事件、政府閣僚夫人と宰相との不倫から招く戦火へと、いずれも近代フランス史のパロディなのだが無知なる自分はそこはちっともわからない。
わからなくても楽しく読める。いずれ変わらぬ人間と近代国家の混乱ぶりは、ほんとうは笑ってる場合ではない。最後に作者が予想する未来社会(現代)は発達した工業世界ではあるが、爆弾によるテロリズムが横行。疫病や飢饉も重なって一度破滅した社会ははたしてほんとうに復興するのだろうか?
「わが悲しき娼婦たちの思い出」
G・ガルシア=マルケス 作
(新潮社・木村栄一 訳)
90歳の誕生日に眠ったままの少女と同じベッドで一夜を過ごした男性。繰り返すうちにほんとうの恋愛を知る。
川端康成「眠れる美女」に倣って書かれた作品。川端の匂い立つ様なエロチシズムに比べ、意外にもマルケスの健全な人間性を感じる。この主人公の90歳の男が自身を揶揄するにも関わらず、著述家として一般の多大な支持を得ており、読み進むにつれ心優しい感性豊かな人間であることがわかる。
彼は性欲の趣くままになじみの娼館に通い、数知れぬ娼婦と過ごしてきた性豪でもある。それでもアブノーマルなところはなく、肉体関係抜きで少女を愛するところはまるで初めてピュアな恋に目覚めた少年のようなものだ。川端にあきらかにある耽美がマルケスにはなく、本作はマジックレアリスムもない。「眠れる美女」がヒューマニズムになったようだ。
「子どもがほしい」
セルゲイ・トレチャコフ 作
(白水Uブックス)
黎明期ソビエト。極めて合理的・社会科学的な女性共産党員ミルダは、優秀な子孫を残すため、夫を持つことなく精子のみを得ることを果断に実行する。粛清により非業の死を遂げたトレチャコフの問題作。
思いっきり物議を醸すであろう設定で初めから面白い。
舞台はミルダの暮らす共同住宅と付属の劇場として使われているクラブスペース。彼女は優生学と獲得形質の遺伝という、当時ソビエトでも支持されていた思想を信条に優秀な労働者を選択。「夫はいりません。あなたの精子だけください」と愛なき生殖をくりかえそうとするが、地域住民の間でとんでもない騒動を巻き起こすのは必然である。
登場する男性には誠実な人間もいるが、劇団代表は新人女優に採用と引き換えに肉体を迫るし、共同住宅の管理人は妻が長く留守中にミルダに性交を要求。街のフーリガンたちは悪びれもせず集団レイプ。などなど女を性欲の対象としか見ない連中をわざと書いている様だ。しかしその対局として、ミルダに体を提供した男性労働者は妊娠のための道具であって人間扱いされていない。彼と恋人の錯乱も当然。さすがに人情は合理主義では片付かない。
「出版という仕事」
三島邦弘 著
(ちくまプリマー新書)
出版という仕事の楽しさ、奥深さとそのシステムを丁寧に解説するとともに、出版不況とよばれる現代のほんとうの姿を紹介する。
「おもしろマグマ」という情熱をキーワードに、企画から社内審査、制作、出版から営業までビギナーがワクワクする形で出版の仕事を解説。まさしく誠意ある入門書。ミシマ社主催著者の実体験から、岩波書店や中央公論社の始まりまで具体例豊富。若いみなさんはぜひ出版の世界へ飛び込んでほしい。
返品率40%の現状でありながら、目先の売上を落とさないために大量の新刊を出す。この悪循環を断ち切るためにミシマ社始め取次を介さない、書店との「直接取引」がある。すると単なる消費者ではなくほんとうにその本を愛する読者とのつながりが生まれていく。
ミシマ社が立ち上げた書店と出版社をつなぐ受注プラットフォーム「一冊!取引所」にも100社以上の出版社、1900書店の加入があるが、こうした直接取引は出版業界の売上には計上されていない。また文学フリマの億を越える売上も同じ。加えて書店と言っても取次口座を持っていない書店はカウントされていない。
現在着々と増えつつある古書&新刊書店、雑貨&書店、喫茶&書店などもほとんどカウントされておらず、出版不況としてマスコミで伝えられる数字は大資本の中央集権的な世界なのだ。直接取引系の出版と書店は大いに盛り上がっている。これは読者である私としても実感できる話で、DNPと日販が構想する未来の流通プラットフォームの行方もなんとなく信じられない…。
「金毘羅」
笙野頼子 作
集英社(2004年)
自身が実は金毘羅神であることに思い至った自伝的小説。自在に習合をくり返す金毘羅でありながら人間の女(ほんとうは男)である作者とは?
幼き頃から家族内での自分の在り方や両親からのあつかい、学校での立ち位置など。やはり人間10人いれば10人の環境と条件があり、こんな生い立ちも普通にあるだろうなと思う。いわゆる女子的可愛げのない女子もたくさんいるわけで、しかし実は金毘羅だったのだからちょっと違うか?
ワニであり蛇である金毘羅大権現とはどういうものか、神仏習合から伊勢神宮と対立するその立場を解き明かし、伊勢朝熊山や千葉佐倉での存在までが、おなじみのカオス的な書き様でさんざん繰り広げられるが、この神様探求に正確に追いついてゆくのはたいへんだ。なにせ長さ1000キロの大蛇が列島を這います。
「落葉(おちば)」他12篇
G・ガルシア=マルケス 作
新潮社
マジックレアリスムの香り溢れる若きマルケスの初期長編「落葉(おちば)」。他12の幻想的短編を収録。
「落葉」:街に流れ着いた漂白の博士。博士を家に受け入れる大佐。大佐の娘とその息子。博士の埋葬までを親子三代にわたって代わる代わるモノローグで語り続ける。彼らの周りの人物も同時に年代を行ったり来たりするので、人物は混交し眩暈を覚える感覚。しかしトータルで見ると一人称でありながら、多くの人間の一生を俯瞰したスケールとなり、ここにマジックレアリスムが完成する。
この長編に付随して「落葉」本編から独立した形で短編「マコンドに降る雨を見たイサベルの独白」が掲載されているが、この作品は他の短編と違ってマジックのない、非常にリリカルな情景描写で描かれた逸品である。意外な落ちつきぶりだ。つまり本編はいかにそわそわと浮き足だった波乱含みの、事件スタイルで書かれているかというもの。
巻末解説にあるマルケスのジャーナリズムの手法というのはこの辺りのことを言うのだろうか?それでいて作品には惑溺されるような文学的魅力があるので、なにか騙されたような後味がある。登場する人間たちが甚だ要領を得ず低きに流れるありさまなので、そこは納得できるところ。人は皆流れ者だ。
「ケアの物語」フランケンシュタインからはじめる
小川公代 著
(岩波新書)
「フランケンシュタイン」の物語と作者メアリ・シェリーの人生をベースに、現代社会の様々な課題をケアの視点から問い直す。
テレビドラマやアニメ、現代文学その他社会の話題もふんだんに登場して、親ガチャ・レイシズム・エコロジーなど10の現代的テーマを考察。あまりにも多くの課題があまりにも多くの具体例(といってもドラマや文学などの作品)と共に溢れかえっているので、読んでいて落ち着かないが、これはこれでひとつの書き方だと思う。
例えば「マンスプレイニング」において、女性の意見に対して男性は必ず教え導いてやろうとしたり、女性は男性にはやさしく天使のように接してあげなければならないなどの刷り込みからの解放。「ケアの倫理」によればケアをする女性の無私性が前提とされてきた背景があって、ケアをする女性本人が自身をケアすることがないがしろにされてきた。などなど…。
全てのテーマの根底にあるのは男女の世界観の違いで、この世界が男性優位な価値観前提で出来ていることに問題の所以がある。マチズモ(フェミニズムにもある)では救い取れないゆるやかなつながりといった叡智が必要。これまでの無私的なケアの倫理は男性にとって好都合な女性観を助長する。しかしことは単純ではなく、この二分法を乗り越える丁寧な関係性を見つけていかなければならない。