漫画家まどの一哉ブログ
「黄色い雨」フリオ・リャマサーレス 作
フランス国境に近いスペイン山村。寂れ行く村に一人残り、一匹の雌犬と亡くなった妻や母親の亡霊とともに暮らす男の物語。
心を病んで自死した妻を埋葬したあと、雌犬を連れて村や山を歩き回る。家々は残っているがすでに空き家であり、風雪にさらされ朽ちてゆく様が痛ましい。一人暮らしを綴った小説はいろいろあろうが、見捨てられた寒冷地ということもあって、実に寂しく絶望的な印象。読むのも辛いのだが、雪に埋もれる山村の描写は凛として美しく身にしみるようだ。そんな話も季節が変わり夏になるといささか読むのが楽になるが、それはこちらが彼の一人暮らしに慣れてくるせいかもしれない。
先祖伝来の土地とはいえ、妻を亡くして一人になっても山暮らしを捨てて人々と交わろうとしなかったところに、この主人公の頑なな性格があり、それゆえにこの話が成り立っている。容易に人と交わらない。
併録の小編「遮断機のない踏切」も鉄道路線が廃止されたのちも、勝手に遮断機を操作することをやめない踏切番の話で、やはりそれまでの自分に頑なである。変化する状況に弄ばれても、生き方は変わらないのだ。
「やし酒飲み」エイモス・チュツオーラ 作
以前に挑戦してすぐお手上げ状態だった本作。文庫本を入手して再挑戦した。
全編現実離れしたおとぎ話のような、神話のような民話のような内容で、主人公とその妻が「死者の国」を目指して深い森の中を進み、いろんな妖怪じみた不思議な生物に襲われ、不思議な町や村で過ごし、ついには「死者の国」から故郷に帰ってくるまでの冒険物語。とは言っても描写はほとんどその恐怖と対策に費やされている。
ここまでやりたい放題だと現代文学という感触がなく、説得力や迫真性というものを感じなかった。全体がまるごと虚構すぎて幻想性も感じることができない。不思議な出来事も面白くなくはないが、それほどでもなかった。文化人類学的なあるいは現代アフリカ史的な読み方もあるだろうが、研究者的にはそうだとしても、予備知識なしで物語を楽しもうとしている段階では余計なことだ。ただ常に夫婦の結束が強くて、二人が力を合わせて苦難を乗り越えるところは微笑ましかった。
これを漫画化するならぜったい水木しげるの他はない。水木漫画の表現を思い浮かべながら読んでも違和感はないのだ。
読書
「わが子キリスト」武田泰淳 作
ユダヤを支配するローマ軍隊長の語りという体裁で書かれた小説。隊長がマリアに生ませた子供はイエスとなって神の子を名乗る。ローマ政府最高顧問官は隊長にイエスを利用してユダヤ人の精神的支配を命令。あえて裏切り者となってユダヤを救おうとするユダ。そしてイエス復活の真相とは。
ここまで大きな歴史的テーマを扱った作品だと当然ながらリアリズムではない。凡人の日常感覚をそのまま綴ったようなものと違い、日常からは遠い舞台の上にわざわざこしらえたものなので、当然セリフは説明だ。もちろんそこは説明的な印象はまったくなくワクワクと読めるが、登場人物が社会・民族・政治に関して喋るとき、そこには作者の思想が自ずから立ち現れていると思おうじゃないか。
そしてこれを政治・社会・キリスト教などに対する問題意識を持って読むか、それらを除いても十分楽しいエンターテイメントとして読むかは、読む方の問題であり作品評価とは別であろう。生々しい政治経済とそれらを超越する精神性との相克を読み取ることは正解かもしれないが、ああイエスは政治家に利用されたんだなあぐらいでも良い。なんとなくそんな気がした…でも良い。ただしイエスは出てこない。
「とてもいい!」マヤコフスキー 作
長詩。全体としてとても元気がいい印象。マヤコフスキーは34歳。著者もまだ若いが国(ソビエト連邦)も若いよ。土曜社のマヤコフスキー叢書の一冊には巻頭に児童文学作家カッシリによる「ある日のマヤコフスキー」という講演会のルポルタージュが掲載されている。それを読むとマヤコフスキーはたいへんな人気者で、溢れる聴衆を前に見事なパフォーマンスを繰り広げるところは、なかなか達者なヒーローであり、少なくとも内気なおとなしい詩人といったタイプではない様子だ。
十月革命叙事詩だからスローガン的なシュプレヒコール的な口調をうまく生かしているのか、それとも伴わない結果を批判するのにアイロニーとして利用されているのかわからない。何れにしても著者を取り巻く世界は流動的だ。
「流れていた、いつもの通り、十月が、風になって。資本主義の風と同じ風が。流れていた、トロツキー橋を、自動車と電車。いつものレールをくねらせて。橋の下はネヴァ河。ネヴァを泳ぐクロンシュタットの船々……小銃たちのざわめきに、冬宮がよろめきはじめた。
(2段×4ページ略)
流れていた、いつもの通り、十月が、風になって。橋の上、レールをくねらせて、電車はその疾走をつづけていた。もはや、社会主義のもとに。」
「夢魔は蠢く」東雅夫 編
明治から大正にかけて書かれた文豪たちによる怪談小話のうち、夢を素材としたものを選んだアンソロジー。
夏目漱石の「夢十夜」をそもそもの始まりとして、この方法に倣って色々なものが書かれたのではないか。幽霊が出てくるわけではなく、現実のようなそうでないような輪郭のはっきりしない出来事。水野葉舟の「響」などもまさにそうだが、本書には登場しない内田百間をその完成形とする、夢の中を彷徨うような描写は誰でも一度はやってみたいもので、多くの作家が試みたのではないだろうか。
それらとはまったく違う正岡子規のものはエッセイの形をとったもので、かえって面白かった。葬送に関するあれやこれやの迷いなど面白おかしく、ネタとしてはありがちなので先に書いたもん勝ちのような気がする。
付録の絵物語、坪内逍遙「神変大菩薩伝」はどう見ても現代なら漫画に仕立てられたであろう見事さである。赤い糸で結ばれていたとか、ワイヤレスの神通とか言葉が現代的で愉快。絵も逍遙。
「一条の光/天井から降る哀しい音」耕 治人 作
命終三部作「天井から降る哀しい音」「どんなご縁で」「そうかもしれない」
昭和60年頃、80歳に届こうとする作者夫婦。妻の認知症が進み、作者自身も病を得て入院することになった最晩年の生活を描く。
作者は私小説作家と言っても別に無頼派ではなく、長く出版社にも勤めたし、遊び呆けるわけでもなかったのだが、家計・家事一切を妻に任せきりで、また妻が自分のことは構わずに夫に尽くしてきた後ろめたさがあったのだろう。妻の認知症が進むのもみんな自分のわがままのせいと自身を責めてしまうようだ。そうやって懸命に妻の介護に励むわけだが、その自責の念の裏側にもやはりエゴイズムがあるのではないか。と言えなくもないがそこを責めても仕方がないだろう。人間そんなもんだよ。
おそらく明日はわが身と誰もが思える内容で、ケアマネやヘルパーの世話になりながら毎日をくぐり抜ける様はただただリアルで、日本が高齢化社会に踏み出した初期の実感が得られる。もちろんドキュメントとは違う小説としての愉しさがある。
最終的に妻は特養ホーム、自分は病院で離れ離れに暮らす日々となるが、妻を焦がれ妻がヘルパーに付き添われてお見舞いに来るのを楽しみに待つ気持ちは痛いほどわかる。たとえ相手が自分のことを誰だかわからなくなっていても。
そしてこの苦闘の記録を、病後80歳になった段階で味わい深い作品に仕上げたことに驚く。
「老いの生きかた」鶴見俊輔 編
ついに自分も老いになじむようになったか。というわけでもないが、以前から興味あるテーマ。鶴見俊輔が、キケロ・モンテーニュ・サルトルから中勘助・富士正晴・鮎川信夫・金子光晴・室生犀星・野上弥生子など古今東西の著名人の老いに関する発言を選んだアンソロジー。当然この選択は鶴見俊輔の老いに対する見方が反映されている。
総じて老いてもかなり元気な人々という気がする。食が細り、目や足が衰えてくるとどうしても気力が落ちると思うが、取り上げられている著名人が当然だが我々凡人よりはるかに脳力が高いので、肉体やその欲求が衰えても日々の知的活動がなんら減衰することはない。この辺りがまったく別世界のような気がする。もう少し日々の小さな絶望と虚しさに触れてほしかった。
「八月の光」フォークナー 作
主人公の一人とされている若い妊婦が素直でポジティブな明るい性格で、彼女が中心となって展開するのかと期待したが、残念ながらあまり登場しない。やはり主人公である孤児院出身の黒人の血が流れる白人の男が、生まれてから犯罪者となって死ぬまでに物語の大半が割かれており、愛を知らない人生で実に殺伐としたものだ。
そしてもう一人の主人公である教会をクビになった牧師。教会をクビになっても自分が牧師であることは捨て去ることができない。この神との責務を絶対に果たそうとするカルヴァン主義者の精神性はよく分からない。そういえばこの牧師と親しい工場労働者の青年も、土曜日も誰とも遊ぶことなく一人工場で自分に課したノルマを働く非常に内気で真面目な男で、牧師とは似たような人格だ。これが根っからのプロテスタントというものか。
長編小説ではよくあるが、新しい人物が登場するたびにその生い立ちから現在に至るまでを丁寧に追いかけて一章分くらい使う。話に深みが出て当然面白くなるが、ときどき子供の頃はもういいから、今のことを話せよと思ってしまう。多くの人間が登場するが、実に多様な顔ぶれで、貧しい自分の人生経験から彼らの内面を理解することはちょっと覚束ない。フォークナーの中ではこの作品が一番わかりやすく、他のものは多少難解なところがあるらしいが、なるほど王道を行くような人間ドラマで、エンターテイメントとしても遠慮するところがない。