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漫画家まどの一哉ブログ

   
読書(mixi過去日記より)
「ペール・ゴリオ」パリ物語
バルザック

「ゴリオ爺さん」という邦訳タイトルでおなじみの、バルザック人間喜劇シリーズ。
19世紀前半のパリの安下宿(宿付き食堂)に暮らす老若男女。貧乏書生の若きラスティニャックは、唯一の手っ取り早い出世の方法として、貴婦人とねんごろになって社交界デビューを志す。これも婚期の迫った妹達に、持参金を持たせてやるためだ。当時のパリ社交界にとって、結婚とはまったく政略的なもので、金と金とを繋ぎ合わせて、よりふくらませるだけのためにあったようだ。結婚はいわゆる事業だから、結婚後の自由恋愛はいくらでもアリという世界。

ゴリオ爺さん(挿し絵参照)も、かつて製麺業で儲けた資産を、すべて二人の娘を社交界に送り出すために使ってしまい、自分はラスティニャックと同じ安下宿で年金生活をおくる身分。そしてラスティニャックが愛人となるのに成功したのが、ゴリオ爺さんの娘デルフィーヌ・ニュシンゲン公爵夫人という設定。

物語の前半は公爵夫人と貧乏青年の自由恋愛のなりゆきが、上がったり下がったりしている話でやや退屈だったが、後半は捕り物もあって、破綻をきたす二人の娘の結婚生活と、娘を助けようとするゴリオ爺さんの苦闘がおもしろい。バルザックはいつも金(手形)の話。

とにかくゴリオ爺さんの二人の娘に対する溺愛ぶりがすさまじく、ぜんぜん子離れできていないです。死の間際まで娘たちへの執心ぶりを見せてくれるわけだが、娘の旦那(レストー伯爵)に「あの父親の性格のせいで、私の妻はあんなふうになり、我々の生活は全て破綻した」といわれる始末です。
ゴリオ爺さんの零落した最期を看取ったラスティニャックは、あらためて社交界への挑戦を誓うのであった。というわけで、ラスティニャックの活躍はまた別の機会に。バルザックの人間喜劇シリーズは、登場人物や背景がみな繋がっているというしかけです。

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読書(mixi過去日記より)
「第2の江原を探せ!」
(扶桑社)

根付いた感のあるスピリチュアルブーム。江原啓之を信じる人も、頭から全否定する人も、そろそろちゃんと検証する時期に来ているのではないか?
というわけで、気鋭のジャーナリスト5名が、身分を秘してスピリチュアルカウンセリングを体験。16人のスピリチュアリストはホンモノだったのか?
果たして守護霊はいるのか?
このジャーナリストの中に自分の知人がいることもあり、興味津々で買ってみた。

カウンセリングの予約を入れた時点で、住所や職業などを聞かれる場合、あきらかに事前リサーチに活用しているので、先ずインチキ。カウンセリング当日、こちらから与えた情報から、さも霊界からのメッセージのようにこしらえて話す例も多数。また、誰にでも当てはまる「あなたは迷っている」「転換期である」などの常套句で、その気にさせる人もいる。霊視しているようにいいながら、自説・自慢・説教の押しつけで、客をケムに巻くタイプの霊能者もやはりいるようだ。これらはみな格付けが最低点。

ところが相談者(各ジャーナリスト)個人しか知らない事を、こちらから何も言わないのに、当ててしまう人がいてビックリ!名前を聞いただけで、友人の性格までズバリと当てる。明らかに常人ではうかがい知れない特殊な能力を持った人間がいる!

ただしそれが、守護霊がいて霊界からのメッセージかどうかは検証できない。同一であるはずの直近の前世や、守護霊がまるで一致しない。遠い過去の人物の様子ばかり詳細に語られても、思いつきで言ってる風にしかみえない。
自分が思うに、世の中には意識では気付かないほどの小さな相手の様子。呼吸・発汗・体臭・体内電位・脳波状態などを、無意識に感じ取って相手が何者かわかってしまう能力の持ち主がいるのではないか?その延長で過去の出来事まで認識できるかどうかは、なんとも言えないが、即座に霊界を見ているからとは考えられない。

この愉快な企画は今後も継続されるようだから楽しみだ。
書店で社会派ルポのコーナーを探していたが、なんと占いコーナーにあった。やっぱそうか。

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77年春、神経症で人格障害の孤独な毎日だったが、ある日ふと思い立ってひさしぶりに調布の鈴木翁二さんを訪ねてみた。あいにく留守のようでその時はそれで帰り、自分の四畳半アパートでだらだらとしていたその日の夜、とつぜん翁二さんから電話が入った。なんとせっかく描き上げた漫画原稿を飲んでるうちに紛失し、明日の朝までに8ページもう一度描きあげなければならないとのこと。自分は眠かったのでコーヒーを一杯飲んで目を覚ましてから、大崎駅で翁二さんと合流したら「遅かったね」と言われた。

一度新宿かどこかの駅で茶封筒の紛失物がとどけられてないか確認したがムダだった。
京王線で西調布へ。さっそく翁二さん家で作業開始となった。自分はベタやホワイトを手伝い、ところどころ畳の目などを描いたりすると「芸術的じゃないか」などといわれた。お寺の名前をいくつか書かねばならないが、寺の名前知らないか?などきかれた。午前中になると青林堂の渡辺和博氏から進行状況に付いて確認の電話が、おなじみのぶっきらぼうな口調で来る。

やがて原稿完成。疲れた体ながら翁二さんを自転車の後ろにのせて駅へ。電車を乗り継いで青林堂へ付き、近所の喫茶店で原稿受け渡しとなったが、翁二さんはこの期に及んでもこの部分をどうしたかったこうしたかったと仕上がりにこだわっている。実は自分がベタを塗り忘れた箇所があり、それは本を読む少年のズボンなのだが、その意味でトレペ上に追加の指示を入れてもらうと、掲載された誌面では少年のズボンは2色刷りのアカベタになってしまった。それが「むべ咲く哉」という短編である。

青林堂を出て、牧神社にいくという翁二さんと別れた。
(無頼派の思い出1は2010/7/14)

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映画
「めまい」
 1958年 アメリカ
監督 アルフレッド・ヒッチコック
出演 ジェームズ・スチュアート、キム・ノヴァク


これが有名な「めまい」か。昔の映画は観やすい。
高所恐怖症が話のポイントになっているのだが、そのわりにはさほどふれられていなくて、じっさいめまいのシーンなどほとんど登場しない。それでも主人公がなぜ高所恐怖症になったか、そもそもの事件から始まっている丁寧さ。
前半はキム・ノヴァク演じる妖艶な美人妻の、心霊に憑かれているかのような不思議な行動。いやいやこれはミステリーだから何かわけがあるよ。と思っていると、謎の美人妻はおはなしの途中であわれ塔から落ちて死んでしまう。
これはおかしい、なにか裏がある。という気持ちを抱きながら後半へ。 

やはり娯楽作品で、美しいヒロインを登場させるからには、ラブロマンスは不可欠の要素なのだろう。死んだ美人妻そっくりの女が登場し、事件の謎について気がかりなまま、表面上ラブロマンスを追いかけているといった具合。先ず観ているわれわれにヒロインの正体が分かり、その後主人公の男にもバレるという順番で、クライマックスへ。もちろん危険がいっぱいの高い高い鐘楼の上、なんせ高所恐怖症だからな。とはいっても高所恐怖症の克服に悩む場面は無く、主人公は病をやすやすと克服したと思ったらラストは重大事が簡単に起きて、あっというまに終わってしまうのが、昔の映画のあっさりしているところか。おもしろかった。

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読書
「斜陽」
太宰治
 作

学生の頃一度読んだきりだが、大人に成ってから読んだ方が良い。没落ということがよくわかる。没落貴族と言えば三島由紀夫の小説によくでてくるが、なかなか楽しい設定である。金もないのに上品であるところが自分の趣味に合うのかもしれない。

太宰自身は裕福な階層の出身で、けっきょく坊ちゃんで労働者にもなれないし、金持ちたちと付き合うことも出来ないという居場所のない人生だったようだが、作品の中に登場する小説家に「駄目です。何を書いても、ばかばかしくって、そうして、ただもう、悲しくって仕様が無いんだ。いのちの黄昏。芸術の黄昏。人類の黄昏。それも、キザだね」と言わせている。これが太宰の立場だろうか?この悲しみってなんだろう?太宰ファンなら肌で感じているものだろうか。

この悲しみが作品全体を流れる基調で、それはたぶん悲しみという言葉で表現するのがいちばん適っているものなのだ。人生全般を表現するのに悲しみという言葉を使うのが、太宰ならではのあり方でそうやって死んでしまったようだ。たしかにこの作品を読み進むにつれ、心の底に動かしがたく感じる感情。それは朽ちてゆくものとしての暮らしが、没落貴族のみならずわれわれ平凡な人間の生き死にもしょせん朽ちてゆくものであり、はかなく果てるものであり、そのなかで日々を繋いでいることを思わざるを得ない感情だ。

この小説では母が死に弟が死んでゆくなかで、ひとり主人公の姉だけが、意図して愛人の子を姙むという荒技に成功する。滅びゆくもののなかで、この特異な展開がまさに没落の中の斜陽だった。
「この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかって来ました。あなたは、ご存じないでしょう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますわ。女がよい子を生むためです」

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読書(mixi過去日記より)
「レ・ミゼラブル」読了

分厚い新潮文庫で5巻まである、ユゴー作「レ・ミゼラブル」
8ヵ月かかって、やっと読み終わりました。
波瀾万丈の人間ドラマ、善対悪の対決です。

●なんといっても面白いのは1・2部。主人公はジャン・ヴァルジャン。有名な銀の燭台を盗む話。良心への目覚め。
そして無実の罪で捕まった男を救うために、地位を捨て、自ら正体を明かして名乗り出る話。それまでの葛藤が読みどころ。ドキドキする。
また追われる身となったジャン・ヴァルジャンが、悪党テナルディエの宿屋でこき使われる孤児コゼットを救出するところも胸躍る。

●3部以降は青年マリユスが登場し、話の中心がマリユスコゼットに移行し、悪人達の企みによる危機からの脱出や、愛し合う二人の逢瀬など、いってみればドラマの王道を行くが如しで、やはりジャン・ヴァルジャンの良心の葛藤といった面がないともの足らないね。またジャヴェール警部は心を見ないで法を見るといったイヤなやつなんだけど、ドラマには欠かせない塩味のようなもの。

そんなふうに登場人物は皆典型的な悪人、善人に描かれていて、わかりやすいのはいいが、それにしてもコゼットマリユスがあまりにも善人すぎる。とくにコゼットはあまりにもピュアで美しい心の持ち主、汚れを知らぬ天使のような乙女であって、つまらなくなってしまった。
それにひきかえ、よかったのは悪人テナルディエの娘エポニーヌだ。貧困のどん底で生きる彼女は青年マリユスに恋をし、騒動のさなか、マリユスをかばって銃弾に倒れるのだった。

このエポニーヌがミュージカルで歌うのが有名な「ON MY OWN」で、島田歌穂本田美奈子新妻聖子などいちばん歌える人がやってる役みたいだ。そんなことも知らなかったよ。
当然声のきれいな人がやってるけど、エポニーヌは設定では、もっとヤンキーでしゃがれ声だからね。俺は木下優樹菜想定で読んでいた。
歌を聴いてるだけで泣きそうになるから、舞台は見んとこ。

ジャン・ヴァルジャンは施しを与える人で、民主化運動に走る人物ではない。とはいえ作者ユゴーは、けっしてキリスト教の神を良心の前提とはしていない。ではなにが良心の所以かについて、深い考察をしているわけではなくて、それより実際目の前で貧困にあえぐ悲惨な境遇の人々を、社会が放っておいてはいけないという、すこぶる実際的な衝動からこの物語を書いたようだ。社会派小説と言えばそうかも。
したがって随所に作者ユゴーの、パリの歴史や文化についてのウンチク(説教)が挟まれ、またこれが長いから挫折する人も多いと思うが、基本的には飽きさせないストーリーです。

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読書
「予告された殺人の記録」
ガルシア・マルケス
 作

近代化の波が少しずつ押し寄せる旧社会的な田舎町。世界中かつて今でもどこにでもあるこの設定は、現代社会のわれわれ日本人が読んでも十分納得できる。もちろん名誉のための殺人が実際許容される余地は今の日本にはないが。

物語は、厳格に育てられたはずの娘が資産家にみそめられて嫁いでみると既に処女ではなく、結婚したその日のうちに離縁されて実家に送り返されてくる。その妹の名誉を晴らすため二人の兄たちが妹の処女を奪った男を惨殺するというもの。その行われた殺人事件を遡るかたちで、時間をモザイク的に織り込みながら、なぜ予告されていたにもかかわらず殺人が実行されてしまったかを語る。

話は直線的にではなく行きつ戻りつしながらゆっくり進む。なぜなら二人の兄たちが屠殺用のナイフを見せびらかしながら街中に自らの殺人計画をふれまわったのは、誰かに止めてほしかったからであり、名誉を重んじるのが旧社会の侠気(おとこぎ)としても、いかにもやりたくない仕事だからだ。それに妹の処女を奪ったのがほんとうにその男なのか全く検証されていないし、的となっているのは平凡だがやや裕福なアラブ人である。ここにほんの少々階層差がある。

当日が、えらい司教が街にやってくるという祝祭の日で、街全体が浮かれだっているのがいかにも悲惨な事件が起きるのに、話としてはふさわしい。しかも婚礼の日でもある。ざわついているのだ。みんな朝まで飲んで酔いつぶれている。そんななかで屠殺用ナイフを持った男たちが殺人を計画しながらもおびえていて、徐々に徐々にターゲットの男を追いつめるはめになっていくところは現実的だった。実はこの小説は実際に起った事件を題材に描かれているのだ。

したがって社会派リアリズム小説でもあるのだが、なにせ全時間が祭りの日なのでいかにも非日常のふわふわした幻想性が味わえるというものである。

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読書
「ホテル・アイリス」
小川洋子
 作

主人公の少女は高校を中退して、実家の観光地ホテルで母とともに働く毎日だ。ある日やってきた初老の男が身だしなみのしっかりした紳士であるにもかかわらず、連れ込んだ娼婦を怒鳴りつけるその声。その声に魅せられてしまう少女は、そこではじめてじぶんのマゾヒスティックな性的資質に目覚めるのだった。

というわけでつましく暮らす初老の翻訳家と少女の秘密の交際が始まるのだが、男は不能なのであり、少女は裸で縛られた状態で、舌を使ってあらゆる形で男の体に奉仕する。と、基本的にはSM小説で、しかもストーリー展開もドキドキするくらい充分にある。なにせ私は秘密の交際という設定だけで、スリリングに読めてしまう。その上ケガで舌をなくした青年が登場し、物語は意外なふくらみを見せるから凝っている。

初老の紳士と少女のSM的交際は、ストーリーとしてはおそらく平凡なものであり、作者小川洋子は何が描きたくてこの設定を選んだのか。充分にエロチックで美しいが、この作者がほんとうにこの世界が書きたくて書いているのか、ほかにも読んでみないとわからないところだ。

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映画(mixi過去日記より)
「宿無し犬」
1964年
監督 田中徳三
脚本 藤本義一
出演 田宮二郎・天知茂・江波杏子・坂本スミ子・成田三樹夫

拳銃大好きのアウトロー鴨井大介の活躍を、田宮二郎が演じる大映の「犬シリーズ」
全部で9作あるうち、以前偶然観ておもしろかったのが何作目の「○○犬」だったのかわからなかったが、シリーズ一作目のこれだった!二回観てもおもしろかった。

田宮二郎というと「白い巨塔」など影のある二枚目のイメージが強いが、この主人公はいたって軽薄な関西弁のチンピラで、たぶん同じ監督の「悪名」での役どころを再現しているのだろう。この演技で映画自体がすごく痛快なものになっている。
天地茂も眉間にシワをよせた影のある二枚目だが、ここではあたかもコロンボのような、さえないヨレヨレコートに無精髭の刑事役で、ボクははじめて天地茂に魅力を感じた。この配役は当時すでに意外だったのかどうか?
とにかく若い成田三樹夫があまりにカッコよくて、もう一度観ようと思ったのもそのためだが、あのカッコよさを自分の漫画で再現できたらと思うが、今のところ失敗している。 江波杏子のあの眼差しも、自作でぜひ描いてみたいが、難しそうだ。

ストーリー自体はそう珍しいものではないので詳述しないが、藤本義一がうまいのか、それとも田中徳三が撮ったからおもしろいのか。シリーズ9作で監督5人なので、他のを観てみないとなんとも言えない。

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ベイトソン「精神の生態学」より抜粋

ベイトソンも面白いけど、最近は年齢を重ねたせいか、こういう論理的なもの物を長く読んでいるのに耐えられない。感情が飢える。かの有名なダブルバインド理論を読み込む前に図書館に返却するつもりだが、なるほど!と印象に残った部分を以下に抜き書きしておこうかな。

「プリミティブな芸術の様式と優美と情報」より
あらゆる種類の技能の伝達は、つねにこの種のものだ。熟達した芸をみたとき、われわれは「すばらしい」ことを意識するが、それがどうだから「すばらしい」のかを言葉でうまく語ることはできない。
芸術家はキミョウなジレンマに陥っているといえそうだ。訓練によって技能に熟達していくにつれ、自分がそれをどのように行っているのかが意識からすり落ちていく。意識の手を離すことで、技能が身につく。

 だがそうした「ハート」の、いわゆる「無意識」の、演算規則は、言語の演算規則とは全く別の方法でコード化され組織されている。しかもわれわれの意識は、大部分言語の論理によって組み立てられている。そのために、無意識の演算規則を意識で捉えることは二重の困難をともなう。意識に支配されている限り精神はこうした対象をつかむことができないというばかりではなく、かりに夢、芸術、詩、宗教、酩酊などによってそれが運よく把握できたとしても、それを言葉にするのがまた途方もなく難しいのだ。


てな具合で詳述しないが、自分もそうやって無意識の手によるところ大でありたい。

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