漫画家まどの一哉ブログ
読書
「ミイラ物語」
ゴーチェ 作
古代エジプト。大司祭の娘タホゼールは裕福に暮らしていたが、祭りの日に見初めたヘブライ人ポエリの後を追って姿をくらます。身分を偽ってポエリの経営する農園へまぎれ込んだのだ。しかしある夜ポエリの舟をつけてナイル川を泳ぎ渡ると、たどり着いたヘブライ人の部落にはポエリの愛する人がおり、タホゼールは恋に破れたことを知るのだった。
かたや世界を支配する大王ファラオは、タホゼールを我がものにするべく国中を探しまわり、ついにヘブライ人の部落からタホゼールを略奪してしまう。
一方、虐げられたヘブライの民を導くモーゼはファラオに抗ってエジプトからの脱出を目指す。ここにファラオに仕える学者たちとモーゼの魔法合戦がくりひろげられ、やがて海を割って進むヘブライ人たちを追いかけるファラオの大隊は大波にのまれて消え去ってしまうのであった。
といういきさつが発掘されたミイラに添付されていたというオハナシ。
私小説的な近代文学や身辺雑記、また最新のアンチロマンなどを読んでいると突然イヤになってくる。もっと空想の羽をひろげたものを読みたくなって、今回選んだのがこれ。現実離れしたストーリーに救われた。もちろん世の中空想的な話はゴマンとあるだろうが、なにぶん古いものが好きなもんで…。
「ミイラ物語」
ゴーチェ 作
古代エジプト。大司祭の娘タホゼールは裕福に暮らしていたが、祭りの日に見初めたヘブライ人ポエリの後を追って姿をくらます。身分を偽ってポエリの経営する農園へまぎれ込んだのだ。しかしある夜ポエリの舟をつけてナイル川を泳ぎ渡ると、たどり着いたヘブライ人の部落にはポエリの愛する人がおり、タホゼールは恋に破れたことを知るのだった。
かたや世界を支配する大王ファラオは、タホゼールを我がものにするべく国中を探しまわり、ついにヘブライ人の部落からタホゼールを略奪してしまう。
一方、虐げられたヘブライの民を導くモーゼはファラオに抗ってエジプトからの脱出を目指す。ここにファラオに仕える学者たちとモーゼの魔法合戦がくりひろげられ、やがて海を割って進むヘブライ人たちを追いかけるファラオの大隊は大波にのまれて消え去ってしまうのであった。
といういきさつが発掘されたミイラに添付されていたというオハナシ。
私小説的な近代文学や身辺雑記、また最新のアンチロマンなどを読んでいると突然イヤになってくる。もっと空想の羽をひろげたものを読みたくなって、今回選んだのがこれ。現実離れしたストーリーに救われた。もちろん世の中空想的な話はゴマンとあるだろうが、なにぶん古いものが好きなもんで…。
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青林工藝舎やセミ書房には旧「ガロ」のバックナンバーが全册揃っているが、自分も好きな作家の単行本に収録されていない作品を「ガロ」等から切りはずして長年持っている。単行本未収録作品はつげ忠男や三橋乙揶にもあり、菅野修のものはかなり多い。最近書棚を整理しているのであらためて確認してみたが、これらの切り置きは自分にとってけっして捨てられない貴重品である。
例えば自分の所有していた「ガロ」と単行本を見比べると
鈴木翁二作品なら以下のとおり。他にもあるかもしれない。
「五点やの狸」1971.6
「詩人の部屋」1972.11
「懸垂」1973.6
「夢を見た人」1974.6
「丘」1974.9
「けいこちゃんの好きなビールについての一考察」1974.10
「秋の負債」1974.11
「軌条の脇道」1974.12
「海のキラキラ」1975.2
「赤いゆびをしたシルウエット」1975.4
「ちきゅうのよかぜ」(少年存在学ノート)1991.10
その他『あした」「ウツクシイユウガタ」等の少年存在学ノート
例えば自分の所有していた「ガロ」と単行本を見比べると
鈴木翁二作品なら以下のとおり。他にもあるかもしれない。
「五点やの狸」1971.6
「詩人の部屋」1972.11
「懸垂」1973.6
「夢を見た人」1974.6
「丘」1974.9
「けいこちゃんの好きなビールについての一考察」1974.10
「秋の負債」1974.11
「軌条の脇道」1974.12
「海のキラキラ」1975.2
「赤いゆびをしたシルウエット」1975.4
「ちきゅうのよかぜ」(少年存在学ノート)1991.10
その他『あした」「ウツクシイユウガタ」等の少年存在学ノート
読書
「ワーニャおじさん」
チェーホフ 作
戯曲はあまり読まないが、小説でも会話が多いのが好きなので、セリフばかりというのは楽しい。ドラマでも見ているような感覚で読める。
ワーニャおじさんというのは農場を経営しているが実は貴族階級出身のインテリで、農場経営の上がりを、学者に嫁いだ妹を支援するために注ぎ込んだのである。自身もその学者に入れ込んで尊敬し、生涯の大切な時期を学者の手足となって働いたのだった。ところがその学者が、嫁いだ妹亡き今、美人の後添いをつれて村に住み着いた時点で、ワーニャおじさんは彼にまったく失望している。俺の人生はこいつの学説にだまされたおかげでムダだった。それに新しいヨメさんはなんて美人なんだ。というわけ。
そんな彼と同じ屋敷に暮らす人々のさまざまを描く。
最後に拳銃騒動まであるが、そんなヤマがなくてもセリフが豊かというか、解説の言葉を借りれば人間描写の彫りが深い。だからストーリーは簡単でも実にダイナミックだ。
屋敷にたびたび訪れる医師は先進的なエコロジストで、森林が金儲けのためにどんどん伐採されていくのを嘆き、森の小屋を作って樹々の生育を研究している。チェーホフの時代(1890年代)に既に今日的環境問題が持ち上がっているとは知らなかったし、チェーホフが登場人物の言葉を借りて、持論を展開するのもやや感心した。
「ワーニャおじさん」
チェーホフ 作
戯曲はあまり読まないが、小説でも会話が多いのが好きなので、セリフばかりというのは楽しい。ドラマでも見ているような感覚で読める。
ワーニャおじさんというのは農場を経営しているが実は貴族階級出身のインテリで、農場経営の上がりを、学者に嫁いだ妹を支援するために注ぎ込んだのである。自身もその学者に入れ込んで尊敬し、生涯の大切な時期を学者の手足となって働いたのだった。ところがその学者が、嫁いだ妹亡き今、美人の後添いをつれて村に住み着いた時点で、ワーニャおじさんは彼にまったく失望している。俺の人生はこいつの学説にだまされたおかげでムダだった。それに新しいヨメさんはなんて美人なんだ。というわけ。
そんな彼と同じ屋敷に暮らす人々のさまざまを描く。
最後に拳銃騒動まであるが、そんなヤマがなくてもセリフが豊かというか、解説の言葉を借りれば人間描写の彫りが深い。だからストーリーは簡単でも実にダイナミックだ。
屋敷にたびたび訪れる医師は先進的なエコロジストで、森林が金儲けのためにどんどん伐採されていくのを嘆き、森の小屋を作って樹々の生育を研究している。チェーホフの時代(1890年代)に既に今日的環境問題が持ち上がっているとは知らなかったし、チェーホフが登場人物の言葉を借りて、持論を展開するのもやや感心した。
織田信長で有名な「敦盛」の「人間50年」とは、じつは寿命のことではないらしいが、それでも人間は50年生きたらかなり違ってくる。
若いうちは未来に見えない時間がいっぱいあって、過去から未来へと向かう時間軸のなかで生きている。典型的なサラリーマンや主婦の人生のコースはあるていど未来へ向かってレールが敷いてあるけれど、そうでなくとも将来はなにか良いことが実を結ぶかもしれない。という希望を持って生きていくことができる。
しかし50歳を過ぎるころになると、自分の能力的限界もとうにわかっているうえに、体力・知力とも衰えを見せ始める。徹夜を連続することはもちろん、集中して勉強して資格試験に挑むなども、なかなか追いつかない。そもそもは野生生物としての限界がきているのだ。
社会的に成功している一部の人を除き、平凡な人間は収入も余裕なく、もちろん返すあてのない借金などできず、家を借り替えようにも保証人もたてられず、とあれば今後なかなか人生を華開かせていくのも難しい。
加えて暗い話で申し訳ないが、病魔に倒れる人もおり、身の回りでもぽつぽつと死んでいく人も増えてくると、未来の時間の少なさにはっとする人も多いはずだ。
今まで時間の矢のなかで見えない未来があるからこそ生きて来れた、その生き方がもはや通用しない年代にさしかかっているのだ。
そこで未来を理由に生きることができないとすれば、考えを変えて、流れる時間のなかではなく、今この瞬間存在しているか、もしくは存在していない(死んでいる)のどっちかだと考えたい。自分が死んでしまう存在であることが、だんだんとリアルに感じられてくる以上、今この瞬間しかよりどころはないんじゃないか。前も後ろも向かずに生きていたい。
若いうちは未来に見えない時間がいっぱいあって、過去から未来へと向かう時間軸のなかで生きている。典型的なサラリーマンや主婦の人生のコースはあるていど未来へ向かってレールが敷いてあるけれど、そうでなくとも将来はなにか良いことが実を結ぶかもしれない。という希望を持って生きていくことができる。
しかし50歳を過ぎるころになると、自分の能力的限界もとうにわかっているうえに、体力・知力とも衰えを見せ始める。徹夜を連続することはもちろん、集中して勉強して資格試験に挑むなども、なかなか追いつかない。そもそもは野生生物としての限界がきているのだ。
社会的に成功している一部の人を除き、平凡な人間は収入も余裕なく、もちろん返すあてのない借金などできず、家を借り替えようにも保証人もたてられず、とあれば今後なかなか人生を華開かせていくのも難しい。
加えて暗い話で申し訳ないが、病魔に倒れる人もおり、身の回りでもぽつぽつと死んでいく人も増えてくると、未来の時間の少なさにはっとする人も多いはずだ。
今まで時間の矢のなかで見えない未来があるからこそ生きて来れた、その生き方がもはや通用しない年代にさしかかっているのだ。
そこで未来を理由に生きることができないとすれば、考えを変えて、流れる時間のなかではなく、今この瞬間存在しているか、もしくは存在していない(死んでいる)のどっちかだと考えたい。自分が死んでしまう存在であることが、だんだんとリアルに感じられてくる以上、今この瞬間しかよりどころはないんじゃないか。前も後ろも向かずに生きていたい。
読書(mixi過去日記より)
「ゲゲゲの女房」
武良布枝
昨年発売されて話題をよんだ、水木しげる夫人の回想記。
水木さんの漫画でみると、いつもヌボーッとした顔に描かれているが、写真をみるととてもチャーミングな人ではないか。
水木さんの自伝はいろいろと目にする機会が多いので、あらかたは知っていたが、奥さんの目で見るとまた格別だ。極貧の貸本漫画家時代、ほとんど食えていないのに、水木さんは漫画家を止めようとしない。常に生活のことを第一に考えている水木さんなら、もっと儲かる仕事に転職してもよさそうなものだが、やっぱり漫画家は天職だと信じていたのだろう。食えなくても描く、この根性がすごい!
いちばん感動したのは、ある夏の夜、奥さんが夕食の用意をして水木さんを呼びにいった時、無心でカリカリとペンを走らせるその後ろ姿にオーラのようなものを感じ、感動して動けなくなるところ。これほど集中してひとつのことに打ち込む人間を、それまで見たことがない。この人の努力は本物だと誇りに思うようになったという箇所。奥さんからすれば、あれだけの努力が報われないはずがない、という信念があって極貧生活を耐え抜くことができたのかな。
後年人気が出て、ある程度の収入を得るようになって、体がぼろぼろになるほど忙しくなっても仕事の量を減らさない。それは再び貧乏に追われることが恐ろしくてしょうがなかったからだそうだ。つげさんも自作のなかで「俺は貧乏の恐ろしさを、骨の髄まで知っている」というセリフを使っていたが、現代の我々には計り知れない恐ろしさなのだろう。
水木さんのころは、自己表現としての漫画はありえなかったから、漫画を描くことは絶対に漫画で飯を食うことだった。その努力は自分みたいな中途半端な立ち位置の漫画描きが、真似できることではない。自分はこれは自己表現だという逃げ道を持っている。
でも、水木作品は売れる前のほうがオモシロイけどね。
「ゲゲゲの女房」
武良布枝
昨年発売されて話題をよんだ、水木しげる夫人の回想記。
水木さんの漫画でみると、いつもヌボーッとした顔に描かれているが、写真をみるととてもチャーミングな人ではないか。
水木さんの自伝はいろいろと目にする機会が多いので、あらかたは知っていたが、奥さんの目で見るとまた格別だ。極貧の貸本漫画家時代、ほとんど食えていないのに、水木さんは漫画家を止めようとしない。常に生活のことを第一に考えている水木さんなら、もっと儲かる仕事に転職してもよさそうなものだが、やっぱり漫画家は天職だと信じていたのだろう。食えなくても描く、この根性がすごい!
いちばん感動したのは、ある夏の夜、奥さんが夕食の用意をして水木さんを呼びにいった時、無心でカリカリとペンを走らせるその後ろ姿にオーラのようなものを感じ、感動して動けなくなるところ。これほど集中してひとつのことに打ち込む人間を、それまで見たことがない。この人の努力は本物だと誇りに思うようになったという箇所。奥さんからすれば、あれだけの努力が報われないはずがない、という信念があって極貧生活を耐え抜くことができたのかな。
後年人気が出て、ある程度の収入を得るようになって、体がぼろぼろになるほど忙しくなっても仕事の量を減らさない。それは再び貧乏に追われることが恐ろしくてしょうがなかったからだそうだ。つげさんも自作のなかで「俺は貧乏の恐ろしさを、骨の髄まで知っている」というセリフを使っていたが、現代の我々には計り知れない恐ろしさなのだろう。
水木さんのころは、自己表現としての漫画はありえなかったから、漫画を描くことは絶対に漫画で飯を食うことだった。その努力は自分みたいな中途半端な立ち位置の漫画描きが、真似できることではない。自分はこれは自己表現だという逃げ道を持っている。
でも、水木作品は売れる前のほうがオモシロイけどね。
読書
芥川龍之介を読む
今回読んだのはちくま文庫の「芥川龍之介全集5」1~4まで読んできた続きをひさしぶりに読んだわけだが、やはり面白かった。芥川というと古典に題材を取った技巧的な作品を思いうかべるが、おもいのほか私小説的な作品が多い。作者をモデルにした堀河安吉という教師を語り手として、身辺雑記的に日常世界を描き綴った作品がたくさんある。当時芥川は小説を書く傍ら海軍機関学校の英語教師として勤めていて、安給料と安原稿料に嘆いていたようだ。その職場で金を借りるいきさつや、軍人への弔辞を書かされることや、女学生の批判文を目にしたことなど、その内容が面白いかというと当然とりたてて面白いわけではない。それでも読んでしまうのは文章・文体の魅力であり、さすがに読みやすくて引き締まっているのだ。
また堀河安吉シリーズとは別に、有名な「大導寺信輔の半生」も作者の少年時の暗い葛藤や孤独感をふりかえった作品であるが、貧しい家の早熟な秀才であれば、さもありなんというところで意外なものではなかった。かように自分にとって芥川はやはり本人より作品としての虚構が楽しい作家である。例えば「馬の脚」という作品は、手違いで行ったあの世の入口で、腐りかけた脚の代わりに馬の脚を付けられてこの世に戻ってくるという荒唐無稽な話で、非常に気色が悪い。またそこまでシュールでなくとも、「一塊の土」という作品は、夫に死なれた農家の嫁がその後も男勝りに畑仕事に精を出し、子育てその他あらゆる家事をおしつけられた姑が疲弊してしまうというめずらしい着眼で書かれたもので印象に残った。
芥川龍之介を読む
今回読んだのはちくま文庫の「芥川龍之介全集5」1~4まで読んできた続きをひさしぶりに読んだわけだが、やはり面白かった。芥川というと古典に題材を取った技巧的な作品を思いうかべるが、おもいのほか私小説的な作品が多い。作者をモデルにした堀河安吉という教師を語り手として、身辺雑記的に日常世界を描き綴った作品がたくさんある。当時芥川は小説を書く傍ら海軍機関学校の英語教師として勤めていて、安給料と安原稿料に嘆いていたようだ。その職場で金を借りるいきさつや、軍人への弔辞を書かされることや、女学生の批判文を目にしたことなど、その内容が面白いかというと当然とりたてて面白いわけではない。それでも読んでしまうのは文章・文体の魅力であり、さすがに読みやすくて引き締まっているのだ。
また堀河安吉シリーズとは別に、有名な「大導寺信輔の半生」も作者の少年時の暗い葛藤や孤独感をふりかえった作品であるが、貧しい家の早熟な秀才であれば、さもありなんというところで意外なものではなかった。かように自分にとって芥川はやはり本人より作品としての虚構が楽しい作家である。例えば「馬の脚」という作品は、手違いで行ったあの世の入口で、腐りかけた脚の代わりに馬の脚を付けられてこの世に戻ってくるという荒唐無稽な話で、非常に気色が悪い。またそこまでシュールでなくとも、「一塊の土」という作品は、夫に死なれた農家の嫁がその後も男勝りに畑仕事に精を出し、子育てその他あらゆる家事をおしつけられた姑が疲弊してしまうというめずらしい着眼で書かれたもので印象に残った。
読書
「肖像画」
ゴーゴリ 作
いかにも自分好みの幻想文学だった。貧乏画家が安値で手に入れた不思議な肖像画。そこには恐ろしい表情でにらみつけるアジア人が描かれていて、その目はあまりに生き生きとした本物の目のような迫力、見る者を釘付けにするのだ。そんな肖像画を部屋に置いたばかりに、主人公の画家は悪夢に悩まされることになるが、ある日夢の中で手にした大金が、ほんとうに肖像画の額縁のなかに隠されていて、それから画家の運命は大きく変わっていく。
画家は売れていくにしたがってしだいに努力しなくなり、お客の肖像画を注文に応じてインスタントに仕上げる俗物に成り下がっていく。有名画家として名士の一員に名を連ねたけれども、かつての才能の萌芽はどこえやら、ある日ほんとうに素晴らしい新人の作品に出会って、激しい後悔の念に襲われたが、もはやかつての才能は失われていて凡庸な絵しか描くことができなくなっていた。
そして画家は金にものをいわせて優れた作家の絵を買いとるや、それを引き裂く行為に陥って悪夢のうちにこの世を去るのだった。
悪魔的な幻想のうちに引き込まれてしまった主人公が、やがて破滅に至るというのが自分の好きな幻想文学の典型。リアリズムの中での悪魔的な幻想がよい。この小説では主人公の破滅はまったく本人のせいだが、不思議な肖像画がそのきっかけを作っている。破滅するのは簡単なものである。
第二部ではこの恐ろしい肖像画の来歴が明かされる。岩波文庫「狂人日記」所収
「肖像画」
ゴーゴリ 作
いかにも自分好みの幻想文学だった。貧乏画家が安値で手に入れた不思議な肖像画。そこには恐ろしい表情でにらみつけるアジア人が描かれていて、その目はあまりに生き生きとした本物の目のような迫力、見る者を釘付けにするのだ。そんな肖像画を部屋に置いたばかりに、主人公の画家は悪夢に悩まされることになるが、ある日夢の中で手にした大金が、ほんとうに肖像画の額縁のなかに隠されていて、それから画家の運命は大きく変わっていく。
画家は売れていくにしたがってしだいに努力しなくなり、お客の肖像画を注文に応じてインスタントに仕上げる俗物に成り下がっていく。有名画家として名士の一員に名を連ねたけれども、かつての才能の萌芽はどこえやら、ある日ほんとうに素晴らしい新人の作品に出会って、激しい後悔の念に襲われたが、もはやかつての才能は失われていて凡庸な絵しか描くことができなくなっていた。
そして画家は金にものをいわせて優れた作家の絵を買いとるや、それを引き裂く行為に陥って悪夢のうちにこの世を去るのだった。
悪魔的な幻想のうちに引き込まれてしまった主人公が、やがて破滅に至るというのが自分の好きな幻想文学の典型。リアリズムの中での悪魔的な幻想がよい。この小説では主人公の破滅はまったく本人のせいだが、不思議な肖像画がそのきっかけを作っている。破滅するのは簡単なものである。
第二部ではこの恐ろしい肖像画の来歴が明かされる。岩波文庫「狂人日記」所収
読書
「黄村先生言行禄」他
太宰治 作
太宰治は「人間失格」の流れで捉えられるのが一般だけど、お話のうまさが秀逸であり、自分は物語作家として楽しんでいる。そんななかでもこの黄村先生シリーズはとってもユーモラスな作品で気に入った。文庫本(「津軽通信」新潮文庫)解説の奥野健男はやや低く評価し、社会風刺であるところに価値を見いだしているが、ユーモラスなものを第一に評価しない人にありがちな視点だと思う。
主人公黄村先生はなんの先生なのか、「私は、失敗者だ。小説も書いた、画もかいた、政治もやった、女に惚れたこともある。けれどもみんな失敗、まあ隠者、そう思っていただきたい。」というご隠居なのだが、相手はいつも若い書生連。武道のすすめを講義したリ、我流の茶道で茶会を開いたり、珍しい山椒魚を買い付けにいったりして、たいてい大きな失敗をやらかして終わりとなる。
たしかにこれらはみな国粋主義の風潮高まる時代に、古来からの日本的なものをありがたがる精神をからかっているので風刺ではあるけれど、そこを読み取らなくても充分笑える。
太宰自身が道化となった作品も愉快だが、こんなのもいい。
「黄村先生言行禄」他
太宰治 作
太宰治は「人間失格」の流れで捉えられるのが一般だけど、お話のうまさが秀逸であり、自分は物語作家として楽しんでいる。そんななかでもこの黄村先生シリーズはとってもユーモラスな作品で気に入った。文庫本(「津軽通信」新潮文庫)解説の奥野健男はやや低く評価し、社会風刺であるところに価値を見いだしているが、ユーモラスなものを第一に評価しない人にありがちな視点だと思う。
主人公黄村先生はなんの先生なのか、「私は、失敗者だ。小説も書いた、画もかいた、政治もやった、女に惚れたこともある。けれどもみんな失敗、まあ隠者、そう思っていただきたい。」というご隠居なのだが、相手はいつも若い書生連。武道のすすめを講義したリ、我流の茶道で茶会を開いたり、珍しい山椒魚を買い付けにいったりして、たいてい大きな失敗をやらかして終わりとなる。
たしかにこれらはみな国粋主義の風潮高まる時代に、古来からの日本的なものをありがたがる精神をからかっているので風刺ではあるけれど、そこを読み取らなくても充分笑える。
太宰自身が道化となった作品も愉快だが、こんなのもいい。
東日本大震災以降しばらく、直接天災自体を恐れているわけではないが不安が増した。
もとより妻は更年期の双極性障害で離れて療養中であるが、その妻との連絡がうまくいかないだけで、おろおろする有様となり、やがて自分の依存性人格障害に思い至ったわけである。
また一人暮らしは多分に自己満足を含むことにも気付いた。どこでなにを買うとか、なにを食うとか、まことに些事だ。
思えば震災前のセミ書房で西野氏や斎藤氏と「架空」の編集を語っていた頃が懐かしい。同人活動特有のあの優雅な貧しさは、他に替えられない楽しさだった。残念ながら被災した斎藤氏の復活はもうしばらく待たなければならない。
そんななかでも「アックス」の掲載は途切れることなく続けて、短編もそこそこたまった。今はお伽噺を題材にした連作を行っているが、これをまとめて一冊とするか、あるいはお伽噺以外でまた作品集を出すか、編集長の手塚さんと合意しているわけでもなく、とりあえず描き続けているのだ。しかも相変わらず一作仕上げるごとに頭の中はカラッポで、毎回使い切った歯みがきのチューブからさらにしぼりだすように考えている。それでも現代物の長編を連載する夢はあきらめていなくて、これこそ漫画の神様が降りてきてくれるのを祈るばかりである。
50代が年齢的に危機的であるのは以前から言っていることだが、まさに増々混沌としてきた。世相を反映して収入はつらいものとなってきた。クライアントが予算を使わないためである。この歳で能力もないのに新たな得意先の開拓は不可能に近い。
さらに遠方で暮らす老親は心も体もいよいよ衰えが進み先が見えない。介護や入院の手配でなんども関西へ往復することとなろう。それを思えば40代までは平和なものだった。妻も健康であり自分も甘えていたと思う。
さてなんと言っても年末に、初の長編漫画「西遊」が発行できたことは他に代え難い喜びでアリマス。西野さんやワイズ出版の岡田さんに感謝したいです。この本は来年もぜひじりじりと売れていってほしい。と、切に願うものでアリマス。
もとより妻は更年期の双極性障害で離れて療養中であるが、その妻との連絡がうまくいかないだけで、おろおろする有様となり、やがて自分の依存性人格障害に思い至ったわけである。
また一人暮らしは多分に自己満足を含むことにも気付いた。どこでなにを買うとか、なにを食うとか、まことに些事だ。
思えば震災前のセミ書房で西野氏や斎藤氏と「架空」の編集を語っていた頃が懐かしい。同人活動特有のあの優雅な貧しさは、他に替えられない楽しさだった。残念ながら被災した斎藤氏の復活はもうしばらく待たなければならない。
そんななかでも「アックス」の掲載は途切れることなく続けて、短編もそこそこたまった。今はお伽噺を題材にした連作を行っているが、これをまとめて一冊とするか、あるいはお伽噺以外でまた作品集を出すか、編集長の手塚さんと合意しているわけでもなく、とりあえず描き続けているのだ。しかも相変わらず一作仕上げるごとに頭の中はカラッポで、毎回使い切った歯みがきのチューブからさらにしぼりだすように考えている。それでも現代物の長編を連載する夢はあきらめていなくて、これこそ漫画の神様が降りてきてくれるのを祈るばかりである。
50代が年齢的に危機的であるのは以前から言っていることだが、まさに増々混沌としてきた。世相を反映して収入はつらいものとなってきた。クライアントが予算を使わないためである。この歳で能力もないのに新たな得意先の開拓は不可能に近い。
さらに遠方で暮らす老親は心も体もいよいよ衰えが進み先が見えない。介護や入院の手配でなんども関西へ往復することとなろう。それを思えば40代までは平和なものだった。妻も健康であり自分も甘えていたと思う。
さてなんと言っても年末に、初の長編漫画「西遊」が発行できたことは他に代え難い喜びでアリマス。西野さんやワイズ出版の岡田さんに感謝したいです。この本は来年もぜひじりじりと売れていってほしい。と、切に願うものでアリマス。
読書
「夢屑」
島尾敏雄 作
島尾敏雄という作家は何作か読んでいるのだけれど、ものすごく面白いわけでもないのは文体のせいかな?なにか普通の報告文みたいな飾り気のなさがあって、けれん味まではいらないがもっと詩魂のようなものがほしいな。これは好みだけど。
それでもつげ義春と近しい人だけあって、夢を題材にしたものは面白く読める。内田百閒の作品が怪奇幻想を夢のテイストにのせて切れ味良く仕上げているのと違って、これはまさに夢そのままで加工が少ない。偽りなしの夢そのままなのかもしれない。ただ三人称で書かれているので、夢の中なのに三人称とは妙な気がした。
夢の話なのでやはり理不尽なことや納得できないことに振り回される。電車に乗りはぐれる、部屋の中に他人が入ってくるなどは自分もよく夢で体験するが、光のカタマリが高速度で往来をびゅんびゅん行き過ぎるのは面白かった。
「夢屑」
島尾敏雄 作
島尾敏雄という作家は何作か読んでいるのだけれど、ものすごく面白いわけでもないのは文体のせいかな?なにか普通の報告文みたいな飾り気のなさがあって、けれん味まではいらないがもっと詩魂のようなものがほしいな。これは好みだけど。
それでもつげ義春と近しい人だけあって、夢を題材にしたものは面白く読める。内田百閒の作品が怪奇幻想を夢のテイストにのせて切れ味良く仕上げているのと違って、これはまさに夢そのままで加工が少ない。偽りなしの夢そのままなのかもしれない。ただ三人称で書かれているので、夢の中なのに三人称とは妙な気がした。
夢の話なのでやはり理不尽なことや納得できないことに振り回される。電車に乗りはぐれる、部屋の中に他人が入ってくるなどは自分もよく夢で体験するが、光のカタマリが高速度で往来をびゅんびゅん行き過ぎるのは面白かった。