漫画家まどの一哉ブログ
おんちみどり特集。現在自分が最も面白いと思っている漫画家のひとり。こんな愉快な絵でシュールなハナシが成立することじたいが愉快だ。よく純粋階段のようなものが画面に溢れていて、明らかに不思議な空間なのだが不安な感じがしない。時間の進み方もゆっくりしていて呑気なムードがたのしい。実は4コマ漫画が秀逸。
つげ義春の小特集のなかで、西野空男が「ねじ式」のパロディを描いているが面白い。「ねじ式」はだれでも一度は描いてみたい要素に満ちあふれている。それは「ねじ式」はシュールと言っても作者の生々しい感性が表面的には押さえられていて、旅漫画と同じ描き方で描かれているためだと思う。手ざわりとしては写真を懸命に模写すれば描けそうな作風である。言い換えれば細密な描写あってこそ成り立っている漫画であるとも言えるので、パロディひとつ描くにしても労力はたいへんだろう。
商品として考えなくても、漫画作品としての完成形というのはおそらくあって、それは読者に対する義理や礼儀のようなものだと思うが、「架空」はそのへんから自由な雑誌である。三本、鳥子、キクチ氏などベテラン作家はいつものペースであるが、若手は良い意味でも悪い意味でもそんな自由さを発揮しているようだ。
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本秀康特集。本さんは優れた短編作家で、悲しくも愉しくも極めてアットハートな作風だ。そんな本さんの代表作は長編「ワイルドマウンテン」だが、この長編をものにしても読者からの反応は薄く、漫画というよりはイラストの連続のように観られているのだろうか。読者一般に漫画としてイメージされているものはかなり限定されているようだ。
新たに始まったベンチウォーマーズの連載の中で南伸坊氏が斎藤裕之介氏にアドバイスしているのだが、やはり漫画ばかり見ていちゃだめだ。これは絵に関する問題で、もっと絵画作品など観て模写してみよとの仰せなのだが、自分などはストーリーに関しても映画・小説・落語などなんでもいいから惚れ込んでる必要があると思う。だいたい漫画だけたくさん見て、漫画史上どれが名作かなんて視点は狭いもんで、やはり先行する他分野をよく知っていての評価基準を持っているべきではなかろか。
自分は「灰」という昔話の「花咲か爺さん」を元ネタにした漫画を描いているが、読み返してみると展開が解りにくかったか?とかセリフが単純すぎたか?とか反省することしきりである。ラストは灰が飛び散って、多くの樹々は枯れてしまったのに、ある花だけは満開になっているという皮肉な結果を描いているが、コマ進行が失敗していて通じなかったかもしれない。とも思うし、いやいやこれでちゃんと出来ていると満足していたりもする。 現代日本の蒲松齢こと鳥子さんは相変わらず絶好調だ。菅野さんも自分で絶好調といっているとおり!こんな素敵な「アックス87号」はアックスストアでお買い求め下さい。
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中野タコシェで西野空男氏たちと合流してみると、なんと「架空」最新号にとある問題箇所が発生しており、詫び状を挟み込んで記事文にシールを貼るという作業を手伝ったのだった。そんなこともあり、なんとなく落ち着かないカンジで渋谷へ移動し、「万力のある家」で開催されている「つげ義春ミニ原画展」イベント:小林坩堝×高野慎三対談へ遅れて参加した。
気鋭の若手詩人である小林坩堝が、つげの名作「海辺の叙景」を題材に、吉行淳之介の小説作品との共通点をさぐるといった内容。「海辺の叙景」はつげ作品の中でも第一に人気のある作品だが、実は自分は一番苦手な作品である。また吉行淳之介の小説世界もけっして馴染めるものではない。
坩堝さんはつげの表現が風景を大きく描き、人物は点景であること。風景の中に人物が埋没する描き方で、より男女の情交を表現していることなどが、吉行の小説作品にもみられるところなどを発見した。ここらあたりが坩堝さんの好みなのであろう。こういったところが「海辺の叙景」が多くのファンを集める理由なのか高野さんに問いただすと、それは違っていて単に恋愛漫画だからだということだった。
つげ義春のカラーイラストや漫画のエスキースが展示されていたが、「架空」の件で、自分までなにやら慌てた気分で見ていた。(25日は休み、29日まで。http://manriki.sanpal.co.jp/)
読書
「無銭優雅」 山田詠美 作
恋愛小説という分野が苦手でふだんとんと手を出さないワタクシであるが、これは面白かった。主人公の二人は45歳同士で大人の恋愛なのだが、大人の恋愛ときいて思い浮かべる格好の良さとはかけ離れた、子供のように愉快なふたりなのである。全編に渡って語り手である主人公の彼女が、いかに相手の男が自分にとって理想の男であるか、その楽しさを語りまくる。ただそれだけで小説一本が仕上がっていて、最後に少しばかりの波乱があるものの劇的なストーリーはなく、彼女ののろけ話を聞かされているのが実に愉しい。 彼氏の方は乗り物が苦手で行動範囲も狭い、なんとなく頼りなげな予備校講師なのだが、彼女の言わんとするところををまさにピンポイントで受け止める希有の存在。やっと見つけた理想の男性。自分を全部わかって受け止めてくれる男と過ごせる、これぞ恋愛の極みといった話。
舞台である彼氏の住む古い日本家屋と雑草生い茂る中庭。そこで出される旨そうな料理のあれこれ。それらもこの小説を盛り上げる愉しい道具立てだ。また彼女の家は二世帯住宅で兄家族と両親もいっしょに住んでいる大家族で、そのメンバーたちのそれぞれ違った性格ゆえの事件。こんなところも話を膨らませてくれる。それに彼女は花屋で働いていて、花屋でのエピソードもちらほら。また作中世界の名作文学から、これぞというべき恋愛名文句が引用されていて、それが区切りとなっている仕掛けも効果的だ。
とにかく二人が幸せで過ごしているから、読む方としてはこのまま幸せが続いてくれるのか不安になってしまうくらいだが、そんな泣かせるような展開もなくてよかったよかった。やっぱ恋愛小説に安っぽいドラマは要らないよねえ。
読書
「ダマセーノ・モンテイロの失われた首」 アントニオ・タブッキ 作
ポルトガルの地方都市が舞台。ある朝ジプシーたちが住む草原で首なし死体が発見された。大衆新聞の若手記者フィルミーノは、早速社命によって現地入りし取材活動を開始。犯人不明のまま手探りで取材を進めるうち、電話で匿名の情報を受ける。
殺されたダマセーノ・モンテイロは、仕事先で輸入している精密機器に麻薬が忍び込まされていることに気付き、これを密かに横取りして儲けようと企んだのだ。ところがこの麻薬密輸入は国家警備隊員によるものであり、秘密を知ったモンテイロは、哀れ拷問されて殺されてしまったのだった。
この官憲による犯罪をなんとか証明し、犯人の国家警備隊員たちに有罪の判決を下すため、記者フィルミーノは地元の老弁護士ドン・フェルナンドと手を組む。博覧強記の個性派弁護士フェルナンドは独特の哲学的な論証で国家警備隊員の犯罪を証拠立てようとするが…。
幻想文学の語り手として、タブッキはかつて自分も読んだことがあるが、この作品はかなり傾向の違うものだ。実際の事件をもとにして書かれた社会派小説とも言うべきものである。ミステリー仕立てで進むためわくわくとしながら読めるが、老弁護士ドン・フェルナンドの口を借りて社会哲学のようなものが縷々語られるところは、ミステリー一般とはほど遠いこの小説ならではの醍醐味である。一にも二にもこの小説の面白さは、難事件に立ち向かう若手記者フィルミーノの行動力、そしてフィルミーノに指示を出す老弁護士ドン・フェルナンドの頭脳と蘊蓄。このふたりのタッグにあった。それでもあくまでミステリーではなく社会派小説だからおもしろかったのだ。もっと読もうタブッキ。
読書
「風音」 目取真 俊 作
沖縄文学。森に囲まれ河口に面して連なる断崖。その一部平らになったところは古来より伝わる風葬場だった。戦後石の階段が取り外され、今では昼顔の蔓草を伝って崖をよじ上っていくしかたどり着けない場所だ。その崖の上ではかつての特攻隊員の頭蓋骨が虚しく空を見上げ、風が吹くたび泣くような音を立てるのだった。子どもたちは勇気を試す為にここを訪れ、大人たちは沖縄戦を象徴するものとして、この頭蓋骨をルポ番組にしようとしている。敗戦間際、なぜここに特攻隊員の死体があったか。そのいきさつを知る男とその家族の過去と現在を巡るおはなし。
小説としては伝統的な文学の王道を行く構成で、落ち着いて読める。
芥川賞受賞作の「水滴」は男の片足が異常に肥大して足先から水を噴き出し、夜な夜な喉を涸らした戦死者の亡霊がその水を飲みにくるという、いささかグロテスクなはなしで、ちょっと構造が出来過ぎている気がして、わたしは「風音」のほうが素直に読めた。
「風音」にしても「水滴」にしてもテーマ小説のように、沖縄と戦争の問題が書かれるが、作者は1960年生まれなので、当然実体験ではなく考えて仕組んだ小説であり、ここらへんを素直に受け取れるか、リアルを感じないかは読む側にある。
読書
「ベロニカは死ぬことにした」 パウロ・コエーリョ 作
旧ユーゴスラビアから独立した小国スロベニア。中心都市リュブリャーナで有名なヴィレットと呼ばれる精神病院が舞台。ある日睡眠薬による自殺を試みた娘ベロニカが目を覚ますと、たくさんのチューブに繋がれて病院のベッドによこたわる自分がいた。自殺は失敗だった。しかも元々弱い心臓に負担がかかり、余命あと一週間ばかりであると医師から告げられる。残されたわずかな時間をこの病院の中でどうやって過ごせばいいのだろう。
ベロニカはこの病院の中で幾人かのわずかな話し相手を得る。それはあと数日で退院となるが、インシュリンショックによる治療の結果、一時的に魂となってさまよいだす経験を持つ鬱病の女ゼドカ。有能な弁護士として活躍しながらある日エルサルバドルの貧困を描いた映画を見て以降、精神のバランスを失いパニック症候に苦しむこととなったマリー。そしてベロニカが夜中に引続けるピアノのそばでじっと耳を傾ける多重人格障害の青年エドアード。これらの人々が外の世界でぶつかり思い悩んできた様々なことがらが語られながら、死を目前にしたベロニカは生きることへのまっすぐな態度を獲得していくのだった。
人間精神の病んだ部分をみつめて解きほぐしていく話がじつに読みやすい。いたずらに人生の意義を説くわけでもなく、スピリチュアルな世界を前提とするわけでもない。登場人物は極端な狂気を病んでいるわけではなく、誰にでも身近な混乱を抱いているところが親しみやすい。じつに素直に彼らの内面にシンクロして行ける。病める現代人の心を追いながらも、安心して落ち着いて読めるのは、経験からくる作者の人間性への信頼にあるのかもしれない。
読書
「人間失格」 太宰治 作
これは人格障害者の半生記である。純粋な私小説ではなく、作者をモデルにしたモデル小説なのだが、あきらかに主人公は太宰だ。人格障害とはいわゆる神経症・精神病ではないのだが、いかんせん人生を平穏に送るにはいささか問題ある性格ということで、異常性格の分類と同じものかもしれない。
この主人公の場合、相手の感情を害することを極端に恐れ、全く自分を偽って相手の意向に会わせ、そのために終始道化を演じている。自分ではちっとも楽しくなくても世間が喜んでいれば、そこにかろうじて安心を見つけることができるが、基本的に世間及び他人は恐怖の対象である。少年時よりそういった企みの成功と失敗が語られ、長じては世間全体といったものの本質が、実は一人一人の他人がいるに過ぎないことに気付いていささか落ちつきはするものの、結局身の回りの問題からは逃げ回って酒ばかり飲んでいる、まことに情けない実例の数々が披瀝されるわけだ。 まさに「人間失格」だが、人格障害ゆえの人生をそういうなら、いろんなタイプの人格障害者は皆そう言って正解なわけで、このタイトル自体をさほど大げさに考える必要は無い。
ここに心弱く純粋で真剣な精神が、理解なき世間と闘って敗北していく構造を読み取るのは、いささか美化しすぎだと思う。真剣であることは立派なことだが、作者の場合けっきょく酒に逃げているだけであり、読者はその弱さを同情しながら楽しめばよいので、弱いことを別の言葉で正しいことに転化させるのは一種卑劣ではないか。そういう意味で文庫本(新潮文庫)の奥野健男解説はむかしながらの文学者聖人説であって、弱き美しきかなしき純粋な魂という捉え方は聖化しすぎで、やはり簡単に人格障害だと言ってしまうほうが解りやすいのではないか。
ところでこの小説自体はウンザリするほど面白い。
読書
「コンラッド・ハーストの正体」 ケヴィン・ウィグノール 作
プロの殺し屋コンラッド・ハーストは、この仕事から足を洗おうと決心した。その為には自分の素性を知る4人の関係者を抹殺しておかなければならない。ところが一人殺した時点で、コンラッドは意外な真実を知る。自分に仕事を振っていたボスは実は偽物。後の二人は既にコンラッドの動きを恐れて行方をくらましている。しかも自分はCIAに監視されていて、次々と近づいてくる女たちもじつはスパイかもしれない。果たしてコンラッドは自分を利用していたCIAの男に会い、復讐を遂げることができるだろうか?
やはりときには動きの大きい痛快なエンターテイメント作品も読みたい。ところがいざ接してみると多くはすぐ投げ出してしまうのは、ひとつには文章が汚かったり、文体が馬鹿げていたり、また設定にリアリティが感じられなかったりするためだ。ときには半分まで読み進めたものでも、主人公の行く末に関心が持てなくて止めてしまったりする。
だから自分に合う痛快なエンターテイメントにめぐりあうのが一苦労だ。この作品は書店でパラパラ見て直感で買ったが正解だった。不快なセックスシーンも無いし、銃を使うシーンもじつにあっさりしていて助かった。主人公が失った純愛を大切にしているPTSDの青年というところも良かったのだろう。
エンターテイメントなので、主人公の殺人者としての迷いや葛藤をそれほど描いているわけではない。いとも簡単に人を殺してしまう。まだ相手との対峙と緊張がピークに達するまえに簡単に銃を撃つので、読んでいてびっくりするが、そこが作者のテクニックなのだった。とは言えこの種のものを読み馴れているわけではないので、自分にとってはいろいろと意外性の連続が感じられたのかもしれない。
読書
「ヤング・アダム」 アレグザンダー・トロッキ 作
イギリスにも水上生活はある。スコットランド地方グラスゴーの運河を無煙炭などを積んで行き来する舟の暮らし。レスリー一家の船(家)でジョーも働いていた。ある日半裸の女の水死体を引き上げたところから話は始まる。とは言ってもそのあとは主人公のジョーが、だんだんとレスリーの妻エラに思いを寄せ、遂には肉体関係を繰り返すに至るまでの心理が克明に描かれるだけだ。身体だけが興味の対象なのだ。その行為までの過程は読んでいても特別の興奮をそそられるわけではない。
ところが実は引き上げた水死体はジョーの元カノのキャシーで、前夜会った時の思わぬ事故により彼女は川に落ちたのだった。ジョーはとりあえず自分が疑われるような証拠は消しているが、内心落ちつきはしない。そこへ見知らぬ男が犯人として捕まってしまった。どうやら死んだ彼女の直前の恋人らしい。しかも裁判は無実の被告に状況悪く進んで行き、このままでは死刑が適用されてしまう。
その後ジョーは船を降りて陸上のアパートに間借りしているが、裁判の行方が気が気で無い。かといって当然自分が名乗り出るわけではない。密会を重ねたレスリーの妻エラのことも、その後は関心が薄れてしまって、興味はエラの妹グウェンドリンに向けられたようだ。すべてに中途半端ではっきりしないまま、女に対する純粋な欲求のみがつのる。
話の半分以上は女の身体に対する関心で、エラやキャシーとの関係を綴りながら、さりとてエロティックでもなく、ジョーの茫漠としたつかみ所の無いおそらくリアルな心理が描かれているところが読みどころだ。この漠然とした感じがいいと言えばいい。