漫画家まどの一哉ブログ
読書
「宇宙戦争」 H・G・ウェルズ 作
映画は未見のまま作者ウェルズを信じて読んだ。
なんといっても火星からの侵略者に襲われたロンドンは汽車と馬車の時代。そんな時代に金属製でピカピカと光る大型戦闘マシーンが現れるのだから、その落差たるや現代SFの比ではない。火星人の大型戦闘マシーンは三本足の乗り物で、ヒュンヒュンと地上を走り回る。火星には車輪という概念がないという設定なのだが、今でこそ人間が乗り込んでの巨大ロボは数多溢れるけれど、これはウェルズがまっ先に考えたアイデアではないかとも思う。乗り込んでるのは火星人だけど。
自分にとっておもしろい初期SFは、現実社会の描写がしっかりとリアリティを感じさせるもの。幻想小説のつもりで楽しんでいるので、現実をきっちり書いてもらった方がより空想が映えるというものだ。ウェルズの短編はみなおもしろい。こういう長編でも飽きずに読めるのは、戦闘自体を描こうとしていないからだろう。だいたい火星人と当時の人類では力の差がありすぎて戦闘にならないから、地球人はただ逃げ惑うばかり。そこを多く描いたパニック小説と言えるかもしれない。英雄が出てこないから読めた。
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「幽霊たち」 ポール・オースター 作
主人公ブルーがホワイトから任された仕事はブラックという男を見張って報告するというものだった。以来ブルーはブラックの住む部屋が見える隣のマンションの一室に陣取り、ひたすらブラックの行動を監視する日々が始まった。ところがブラックは毎日ただただ机に向かって書き物をするのがもっぱらで、ほかにこれといった行動をしないのだ。なんとも退屈な尾行作業が続く。 業を煮やしたブルーはいろいろと変装を試みてブラックと会話。するとブラックは自分の仕事はある男を終日見張ることだというのだ。やがてとうとうブラックの部屋に忍び込んだブルー。そこで彼が見たブラックの原稿は、ブルーの書いた報告書だった。ついにブルーはブラックと直接対峙するが …。
ブルーもホワイトもブラックも、ほんとうは何者なのか得体の知れない人間たちによって、輪郭の茫漠とした物語が語られる。徒労とも思える監視作業ははなはだ不条理なので、逆に興味をそそられる具合だ。もちろん最終的に謎解きがあるようなたぐいの小説ではないことは読んでいて解るので、おそらく種明かしはないだろうと思っていると、最後に銃や殴打などアクションも出てくるにせよ果たして謎のままだった。なんと不思議な話だろう。ただブルーの困惑と懊悩が他人事ではないので読んでしまう。純粋なエンターテイメントだと全部他人事なのでこうはいかない。
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「トモスイ」 高樹のぶ子 作
一度は読みたいと思っていた高樹のぶ子。この本はアジア各国の文学者を尋ね、作者自身も触発されて短編を書くというプロジェクトの結果出来た小説をまとめたもので、ふだんの長編とはかなり違うだろうと推測するがこれはこれで面白く読めた。
「トモスイ」:夜釣りに出かけて、トモスイとよばれる何やら裸の貝のようなものを釣り上げる。それは地元の名物で、突起物と反対側の穴との両方から口を付けて、ちゅるちゅると内容物を吸うととても旨いといういささか気味の悪いお話。
「天の穴」:台風の夜、運転中に少年に接触しそうになるが、彼は台風の目を追いかけているのだった。車に乗せてみると気象天文にやたら詳しい。やがて見つけた台風の目のむこうに見える渦巻銀河。彼を残して死んでいった肉親たちは、いつの日か台風の目からこの世に落ちてくるという。
「どしゃぶり麻玲」:なにもかも運命と捉える少女麻玲。雨宿りのデパートの玄関で出会った彼女に案内され、同行した写真展は彼女の父親の遺作展だった。だが実は麻玲はすでにこの世の人ではなく、主人公の私の心の中で生きる娘なのだ。
「唐辛子姉妹」:そもそも韓国の唐辛子は、豊臣秀吉によって伝えられたという伝説を語り合う姉唐辛子と妹唐辛子。二人はやがて摘み取られ、麻袋に入り、そのあと瓶に詰め込まれて赤くなった。二ヵ月後あるレストランでいっしょにペーストとなり、人間の腹の中へ。間もなく大阪へ渡り、真っ赤な水となって排泄されたのだった。
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「雨の中の蜜蜂」 カルロス・デ・オリヴェイラ 作
1953年発表、ポルトガル・ネオリアリズム文芸の代表作。 商人兼農場主の主人公は、なにやら常にくよくよと悩んでいる男で、自分がこれまで犯した罪と呼べるほどでもない罪を、神父に懺悔するばかりでは足らず、地元の新聞に記事として発表しようとする。このおかしな行動は阻止されるが、そもそも落ちぶれた名門の出身である自分の妻を、この行為に巻き込んで恥をさらしてやろうとする下心もある。そんな主人公は大酒を喰らって酔いつぶれ、妻に寝室から追い出しをくうが、明くる早朝自分の雇っている御者と、近所の陶工の娘との逢い引きを知ることとなり、これを陶工に密告。怒った陶工は弟子と組んで御者を撲殺してしまい、密告した主人公はますます良心の痛みに苦しむこととなるという粗筋。
悲劇と言えば悲劇に違いないが、主人公の情けなさが可笑しいので全編気持ちよいユーモアに満ちている。主人公はいるものの、上流から下層までいろんな住民が登場する集団劇でもあって、ストーリーよりは人物描写が小説の中心となる。
また主人公は基本的に死の恐怖にとらわれていて、雨に打たれて死んでいく蜜蜂の如く人間の行く末のはかなさに日々思いをはせているが、けっして達観しているわけではなく、その恐怖におののいているのだ。まことにキリスト教徒にしては人間として正直だ。神父は彼の信頼を勝ち得ていない。この小心でちっぽけな人間が、酔っぱらいながらおろおろと過ごす、実はたった2日間が描かれている小説なのである。
おんちみどり特集。現在自分が最も面白いと思っている漫画家のひとり。こんな愉快な絵でシュールなハナシが成立することじたいが愉快だ。よく純粋階段のようなものが画面に溢れていて、明らかに不思議な空間なのだが不安な感じがしない。時間の進み方もゆっくりしていて呑気なムードがたのしい。実は4コマ漫画が秀逸。
つげ義春の小特集のなかで、西野空男が「ねじ式」のパロディを描いているが面白い。「ねじ式」はだれでも一度は描いてみたい要素に満ちあふれている。それは「ねじ式」はシュールと言っても作者の生々しい感性が表面的には押さえられていて、旅漫画と同じ描き方で描かれているためだと思う。手ざわりとしては写真を懸命に模写すれば描けそうな作風である。言い換えれば細密な描写あってこそ成り立っている漫画であるとも言えるので、パロディひとつ描くにしても労力はたいへんだろう。
商品として考えなくても、漫画作品としての完成形というのはおそらくあって、それは読者に対する義理や礼儀のようなものだと思うが、「架空」はそのへんから自由な雑誌である。三本、鳥子、キクチ氏などベテラン作家はいつものペースであるが、若手は良い意味でも悪い意味でもそんな自由さを発揮しているようだ。
購入はnisinosorao@yahoo.co.jp まで
本秀康特集。本さんは優れた短編作家で、悲しくも愉しくも極めてアットハートな作風だ。そんな本さんの代表作は長編「ワイルドマウンテン」だが、この長編をものにしても読者からの反応は薄く、漫画というよりはイラストの連続のように観られているのだろうか。読者一般に漫画としてイメージされているものはかなり限定されているようだ。
新たに始まったベンチウォーマーズの連載の中で南伸坊氏が斎藤裕之介氏にアドバイスしているのだが、やはり漫画ばかり見ていちゃだめだ。これは絵に関する問題で、もっと絵画作品など観て模写してみよとの仰せなのだが、自分などはストーリーに関しても映画・小説・落語などなんでもいいから惚れ込んでる必要があると思う。だいたい漫画だけたくさん見て、漫画史上どれが名作かなんて視点は狭いもんで、やはり先行する他分野をよく知っていての評価基準を持っているべきではなかろか。
自分は「灰」という昔話の「花咲か爺さん」を元ネタにした漫画を描いているが、読み返してみると展開が解りにくかったか?とかセリフが単純すぎたか?とか反省することしきりである。ラストは灰が飛び散って、多くの樹々は枯れてしまったのに、ある花だけは満開になっているという皮肉な結果を描いているが、コマ進行が失敗していて通じなかったかもしれない。とも思うし、いやいやこれでちゃんと出来ていると満足していたりもする。 現代日本の蒲松齢こと鳥子さんは相変わらず絶好調だ。菅野さんも自分で絶好調といっているとおり!こんな素敵な「アックス87号」はアックスストアでお買い求め下さい。
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中野タコシェで西野空男氏たちと合流してみると、なんと「架空」最新号にとある問題箇所が発生しており、詫び状を挟み込んで記事文にシールを貼るという作業を手伝ったのだった。そんなこともあり、なんとなく落ち着かないカンジで渋谷へ移動し、「万力のある家」で開催されている「つげ義春ミニ原画展」イベント:小林坩堝×高野慎三対談へ遅れて参加した。
気鋭の若手詩人である小林坩堝が、つげの名作「海辺の叙景」を題材に、吉行淳之介の小説作品との共通点をさぐるといった内容。「海辺の叙景」はつげ作品の中でも第一に人気のある作品だが、実は自分は一番苦手な作品である。また吉行淳之介の小説世界もけっして馴染めるものではない。
坩堝さんはつげの表現が風景を大きく描き、人物は点景であること。風景の中に人物が埋没する描き方で、より男女の情交を表現していることなどが、吉行の小説作品にもみられるところなどを発見した。ここらあたりが坩堝さんの好みなのであろう。こういったところが「海辺の叙景」が多くのファンを集める理由なのか高野さんに問いただすと、それは違っていて単に恋愛漫画だからだということだった。
つげ義春のカラーイラストや漫画のエスキースが展示されていたが、「架空」の件で、自分までなにやら慌てた気分で見ていた。(25日は休み、29日まで。http://manriki.sanpal.co.jp/)
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「無銭優雅」 山田詠美 作
恋愛小説という分野が苦手でふだんとんと手を出さないワタクシであるが、これは面白かった。主人公の二人は45歳同士で大人の恋愛なのだが、大人の恋愛ときいて思い浮かべる格好の良さとはかけ離れた、子供のように愉快なふたりなのである。全編に渡って語り手である主人公の彼女が、いかに相手の男が自分にとって理想の男であるか、その楽しさを語りまくる。ただそれだけで小説一本が仕上がっていて、最後に少しばかりの波乱があるものの劇的なストーリーはなく、彼女ののろけ話を聞かされているのが実に愉しい。 彼氏の方は乗り物が苦手で行動範囲も狭い、なんとなく頼りなげな予備校講師なのだが、彼女の言わんとするところををまさにピンポイントで受け止める希有の存在。やっと見つけた理想の男性。自分を全部わかって受け止めてくれる男と過ごせる、これぞ恋愛の極みといった話。
舞台である彼氏の住む古い日本家屋と雑草生い茂る中庭。そこで出される旨そうな料理のあれこれ。それらもこの小説を盛り上げる愉しい道具立てだ。また彼女の家は二世帯住宅で兄家族と両親もいっしょに住んでいる大家族で、そのメンバーたちのそれぞれ違った性格ゆえの事件。こんなところも話を膨らませてくれる。それに彼女は花屋で働いていて、花屋でのエピソードもちらほら。また作中世界の名作文学から、これぞというべき恋愛名文句が引用されていて、それが区切りとなっている仕掛けも効果的だ。
とにかく二人が幸せで過ごしているから、読む方としてはこのまま幸せが続いてくれるのか不安になってしまうくらいだが、そんな泣かせるような展開もなくてよかったよかった。やっぱ恋愛小説に安っぽいドラマは要らないよねえ。
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「ダマセーノ・モンテイロの失われた首」 アントニオ・タブッキ 作
ポルトガルの地方都市が舞台。ある朝ジプシーたちが住む草原で首なし死体が発見された。大衆新聞の若手記者フィルミーノは、早速社命によって現地入りし取材活動を開始。犯人不明のまま手探りで取材を進めるうち、電話で匿名の情報を受ける。
殺されたダマセーノ・モンテイロは、仕事先で輸入している精密機器に麻薬が忍び込まされていることに気付き、これを密かに横取りして儲けようと企んだのだ。ところがこの麻薬密輸入は国家警備隊員によるものであり、秘密を知ったモンテイロは、哀れ拷問されて殺されてしまったのだった。
この官憲による犯罪をなんとか証明し、犯人の国家警備隊員たちに有罪の判決を下すため、記者フィルミーノは地元の老弁護士ドン・フェルナンドと手を組む。博覧強記の個性派弁護士フェルナンドは独特の哲学的な論証で国家警備隊員の犯罪を証拠立てようとするが…。
幻想文学の語り手として、タブッキはかつて自分も読んだことがあるが、この作品はかなり傾向の違うものだ。実際の事件をもとにして書かれた社会派小説とも言うべきものである。ミステリー仕立てで進むためわくわくとしながら読めるが、老弁護士ドン・フェルナンドの口を借りて社会哲学のようなものが縷々語られるところは、ミステリー一般とはほど遠いこの小説ならではの醍醐味である。一にも二にもこの小説の面白さは、難事件に立ち向かう若手記者フィルミーノの行動力、そしてフィルミーノに指示を出す老弁護士ドン・フェルナンドの頭脳と蘊蓄。このふたりのタッグにあった。それでもあくまでミステリーではなく社会派小説だからおもしろかったのだ。もっと読もうタブッキ。
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「風音」 目取真 俊 作
沖縄文学。森に囲まれ河口に面して連なる断崖。その一部平らになったところは古来より伝わる風葬場だった。戦後石の階段が取り外され、今では昼顔の蔓草を伝って崖をよじ上っていくしかたどり着けない場所だ。その崖の上ではかつての特攻隊員の頭蓋骨が虚しく空を見上げ、風が吹くたび泣くような音を立てるのだった。子どもたちは勇気を試す為にここを訪れ、大人たちは沖縄戦を象徴するものとして、この頭蓋骨をルポ番組にしようとしている。敗戦間際、なぜここに特攻隊員の死体があったか。そのいきさつを知る男とその家族の過去と現在を巡るおはなし。
小説としては伝統的な文学の王道を行く構成で、落ち着いて読める。
芥川賞受賞作の「水滴」は男の片足が異常に肥大して足先から水を噴き出し、夜な夜な喉を涸らした戦死者の亡霊がその水を飲みにくるという、いささかグロテスクなはなしで、ちょっと構造が出来過ぎている気がして、わたしは「風音」のほうが素直に読めた。
「風音」にしても「水滴」にしてもテーマ小説のように、沖縄と戦争の問題が書かれるが、作者は1960年生まれなので、当然実体験ではなく考えて仕組んだ小説であり、ここらへんを素直に受け取れるか、リアルを感じないかは読む側にある。