漫画家まどの一哉ブログ
読書
「怪異考/化物の進化」 寺田寅彦 著
夏目漱石の弟子と言っても寺田寅彦は科学者であるから、これは物理学を基本としたエッセイである。極めて理知的で整然としていながら味わいのある文章で楽しい。もっと早く読んでみるべきだった。もっともちらちら顔を出す物理学の知見は自分のようなバカにはぼんやりとしか分からないが、それでも著者がなんとなくカオス理論的なことに触れているらしいことは気付く。例えば「偶然」ということについて繰り返し語られていて、ほんの少しの精子と卵子の出会いが違っただけでナポレオンは誕生せず、ヨーロッパの歴史は違っていただろうとか、宇宙から飛来する宇宙船が脳内を通過することによって偶然どんな影響を及ぼしているかも分からないなどなど。これこそ近年流行った非線形科学、バタフライ効果についての先駆的考察ではあるまいか。
そんなことは素人の私が深入りするまでもないが、人魂や鎌鼬(かまいたち)に関する科学的見解がおもしろい。なんでも高知県の海上には昔から不思議な地鳴りのようなものがあってジャンとよばれているのだが、これがこの地域の断層帯の運動によるもので、昔から何回かの大地震の頃頻発し、近年になって収まったのかその噂をきかないが、やがてまた活発化することもあるかも知れないなど、地震の情報に敏感になった現在読むとおおいに納得できるものである。
読書
「午後の曳航」 三島由紀夫 作
大人にとっての具体的現実とは経済的現実のことであるが、少年はこの経済的現実を肌身で知りようがないだけに、世界に対して観念的な全能感を持つ。そして中学・高校と進学していくにしたがって、自分の能力的限界を知ることになるのだが、三島文学で特徴的なのは主人公の少年が早熟な秀才であること。つまり周囲と比べても自分の限界を知ることがない。そして家庭が裕福でおそらくこの先人生で経済的限界を知る必要がない。これでは空想的全能感にブレーキがかかることがないわけで、逆の意味で世界をつかみ損ねる男になるだろう。
さてこの作品の少年たちは、海の男であることを捨て模範的な父親になるべく陸に上がった人物を、堕落した存在として処刑しようとする。ここでは少年は性的な意味ではまったく早熟でなく、理想とされる男性像は家庭を捨てて未知の世界へ挑む冒険家なのだ。主人公の少年が大人たちのセックスを覗き見るのは、男としての性的好奇心からではない。異性を省みない男性が理想としてあるのだ。
この理想的男性像が三島自身の理想的男性像であったということはなく、あくまで劇中の典型として設定されたものと思うが、なんとなく三島の好みそうなニュアンスは感じる。ここに三島の世界があって、こういった世界がヌメヌメ・テラテラした美文で絢爛豪華に展開されているので、読んでいると驚いたままくらくらとなってしまう。
読書
「走れトマホーク」 安岡章太郎 作
「海辺の光景」や「質屋の女房」など以前楽しく読んだので手に取ってみた後期短編集。
著者あとがきによると50歳前後から小説の書き方が自然と変わってきたそうで、往々にして作家は歳をとるにつけ物語性から遠のき、身辺雑記的な作風に変わってゆくのが前から自分は不満なのだが、この短編集もそんな気がした。もともと自身をモデルとした私小説的な作風は変わらないが、やはり若いころのほうが面白かったようにおもう。
それでも人生に対して張りつめない、どこか投げやりな感じは相変わらずあって心地が良い。その投げやりな感覚の原因は子供の頃からの引越しと落第で、「聊斎私異」は落第を「野の声」は就活失敗を扱った短編だが、たかが落第くらいが一生のテーマになっているところが愉快だ。
たとえば「テーブル・スピーチ」は結婚披露宴の現場で、新郎である友人とのかつての様々な出来事を回想しているが、やや冗漫な気がして読んでいると突然人が死んだり狂ったりして、平凡な家庭の幸福をうすっぺらく感じてしまうというお話。結局作者は人生で成さねばならない平凡な暮らし方にも、どこか本気になれない虚無感のようなものを抱いていたのかもしれない。(講談社文芸文庫)
読書
「グッド・バイ」 太宰治 作(新潮文庫)
太宰の小説は名人の落語を聞いているように心地よく読める。「人間失格」によれば太宰は少年の頃より道化を演じることで社会をくぐり抜けてきたそうだが、自分の読後感ではどれを読んでもその本質は変わっていない。悲惨な内容でもユーモラスな語り口で楽しい。もちろん根本的に太宰が苦悩を背負った人間だとは理解するが、人前に出すものは必ず道化的技術によって加工されていて、ここが苦悩を苦悩らしく出されるよりも自分の趣味に合う。そもそも葛西善蔵や嘉村礒多のような苦闘する私小説にしても、それが作品足り得ているのは必ず料理人としての技術があるからで、苦悩だけではちっとも面白くないはずだ。
たとえば「饗応夫人」など、主人公の未亡人は来客を断ることができず、常にもてなしに奔走して病に伏してしまうのだが、この主人公を憐れむよりもその極端な気弱な人格が愉快でコントを観るようだ。太宰はダメな自分のしでかすことや、身の回りで起きる困難をつぎつぎと繰り出してくるが、必ず第三者の目で見て茶化している。それがドタバタ劇を見るようで、あれあれこんなにダメなことを繰り返すよ!といったおかしさがあるのだ。
ところでスラスラと読まされてしまうのはおそらく会話やセリフの妙だね。「冬の花火」「春の枯葉」など、あまり笑いもない戯曲で、しかも敗戦後日本の相変わらずの前近代的な問題点を登場人物がべらべらと喋るのだが、まったく鼻につかず、しかも真実味を帯びているのはここにこそ技術があるというもんだ。
読書
芥川龍之介全集6
読んだことのある名作も含めて、筑摩文庫の一巻を読む。
自分は芥川ファンだが感想は世間一般に言われているもの以上の言葉をもたない。おもしろさの理由を寓意や風刺や狂気といってしまうと作品の外周をぐるぐる回っているに過ぎない気がするが、多くは他に方法を持たない。そうやって評価しても追いつかないのが名作の名作たる所以か。
ここで漫画界のことを持ち出してすまないが、大枠でしか語らない文化論的な漫画評論がつまらないのと同じ気がする。
芥川は古典に材をとった技巧を凝らした寓意溢れる短編もあれば、身辺雑記的に日常を描いた私小説的なものも多くある。この身辺雑記的なものは、なにが面白いのか分からないままスラスラと読まされてしまって退屈しない。おそらく文章にその秘密があるのかと推測するが、小説家でない自分にはわからない。
それでも晩年の「歯車」「暗中問答」「或る阿呆の一生」などは単なる身辺雑記を遥かに越えた鬼気迫る内容でぞくぞくとする。私小説という枠でみれば自己批判や自己憐憫はつきものだが、そんな余裕を感じさせない脳神経の疲弊が描かれていて恐ろしい。精神性云々よりこの病的な感じが、たとえば死の直前のゴッホの作品をみるようなザワザワとした印象だ。この精神状態で作品が成立していることが希有な事例で、じっさいこのあとは死か発狂しかないといったところだったのだろう。もし芥川がこのあとも書き続けたとしたら、破綻したものになってしまっている可能性もある。ここで終わったのが良かったのか悪かったのか…、考えてもしかたがない。
読書(mixi過去日記)
魯迅と「阿Q」その他
魯迅というと「阿正伝」が有名だが、他にも種類の違った短篇を書いていて、けっこうおもしろい。たとえば「孔乙己」という作品に出てくる落ちぶれたインテリや、「故郷」に登場する困窮した農民の友人などは、ボクの好きな人物だ。まったく偉くなくて、おとなしい人間。細々と情けなく生きている。
「阿Q正伝」にしても、主人公阿Qは負ける一方だがケンカもする、けっこうアッパーな男だが、思慮は浅く、その日暮らしでいいかげんな人間だ。また和を持って尊しとしないトラブルメイカーでもある。こんな人間はいつの時代にもいるのが愉快だ。
魯迅を評するに当時の中国の時代背景や、魯迅の民族に対する問題提議をもってするのは、まあ常だろうが、小説自体はそんな状況とは無縁にとても楽しく読めるもので、阿Qの住む街にも金持ちや貧乏人がうようよと、それこそリアルに描かれていて痛快だった。
これが当時列強の支配下に置かれようとしていた中華民族特有の社会であるとはとても思えない。おそらくいずれの世の中だって、強い者と弱い者がいて欲望に正直に生きているかぎり、こんなものだろう。ボクはそれがおもしろい。
「眉間尺」という一編は、首が飛んで喰らい合う復讐劇で、圧倒的な幻想文学だ。こんな作品も書くのか。菅野修の「剣」という作品と似ていた。
読書
「無限の網」草間彌生自伝
初期草間彌生はドットばかりではなく、網状に広がる描線で画面を埋め尽くしていた。これが「無限の網」だ。おどろいたことに画家として走り出した当初から、中心のない水玉の反復と増殖という作風で、これは作者の不安・恐怖を解消するためのほかに置き換えられない行為であるようだ。いくら天性の才能と言っても非常に特異な資質だ。
またニューヨークではパフォーマンス集団の先頭に立ち、ミュージカルやファッションの企画を進めるなど、社会的には充分適合して渡り合ってゆける人物である。芸術家は創作衝動を作品自体に解消させてしまえば、ほかに人格面で破綻している必要はまったくない。このへんがおおいに勘違いされてはならないところで、創作衝動はたとえそれが狂気を含んだものであろうと、作者にとっては自然と持っているもので、あとはそれを出すだけ。出し切るまではいくらでも描けるし、それ以外の面ではふつうに社会人であって何ら問題はない。
結局芸術は自分の都合であり、全ては自己流でやるしかない。つまり草間彌生の自伝を読んで、本人がああしたこうしたと言っていることに他人はまったく口を挟めないのであって、草間彌生本人がそうなんだから仕方がない。嫌いな人は作品を見なければいいだけのことで、気に入る人がどれだけいるかも計算してもしょうがないことである。
もし芸術が努力や練習で到達できる世界に過ぎなければものすごくつまらないものとなるであろう。また仮にマーケティングの観点から企画されたとしても、それだけでしかなかったらやはりつまらない。こんなことを思うのも当然自分の属する漫画の世界を少々省みてのことであって、草間彌生の作品内容に誰も口出しできないように、漫画も他人のアドバイスが不可能な個性のほうがうんと面白いよ。
読書
「風媒花」 武田泰淳 作
産声を上げたばかりの社会主義中国。戦後占領期の日本で中国文化研究会の面々を中心に描かれる群像劇。今となっては当時の政治的運動や研究者の苦悩など思い図るすべもないが、小説作品にそういったインテリ層のサークル活動が描かれるのはよくあることで自然ではある。
この作品の場合支配者として大陸に君臨した立場から一転敗者として引き上げる身となり、日本帰国後は社会主義中国に理想を追い求める当時の親中インテリ層の複雑な心情を理解することも出来よう。ただしそれをもって作品の第一義的意義とされるのでは作品はだいなしだ。もはや作中人物たちと想いを共有することは不可能な現在、それらのくだりはたいして面白くなく、作品の魅力はもっぱら登場する女性たちの政治性などに無縁な自由さにある。奥さんの武田百合子がモデルとして面白い人なので、パチンコや万引きのシーンなどが抜群に面白い。武田泰淳はとうぜんインテリだが、人間のたわいもない日常を描いたときがてんでインテリ臭くなく、リアルな会話が絶妙であってそれが楽しくて読んでしまう。
戦後文学を読んで政治思想史を研究するのもアリだとは思うが、それは19世紀フランス文学を読むとき王党派か自由派かどっちでもいいのと同じで、作中人物がいきいきと動いていればそれでよい。自分は作品を大きな枠組みでは読まずに、仕上がりの細かな技術を味わう趣味なので、視野狭く楽しんでゆきたい。
読書
「宝島」 スティーヴンスン 作
少年文学として子供の頃接することも多いこの作品。実は良く知らないでいたが、大人になって読んでもすこぶる面白い冒険小説の傑作だ。ただ、りんご樽の中に隠れて海賊たちのわるだくみを知るシーンなどところどころ知ってはいた。
冒頭から出てくる海賊の一味は、その下劣な人格がよく書けていて実に興をそそる。もちろん自分がしらないだけで、現代のエンターテイメント小説・ピカレスクロマンでも魅力的な悪人はたくさん登場するのだろうが、ここに出てくる海賊の多くはまったく卑しい乱暴者でそれがわくわくする。
唯一ジョン・シルバーだけが海賊の中でも頭のキレる人物で、頭はキレるが平気で人を裏切る卑怯者なのだ。この小説はジョン・シルバーの魅力でほとんど成り立っていると言っても過言ではない。
主人公ジム・ホーキンス少年も小舟で島をめぐって大冒険を繰り広げるが、ふつうの勇敢な少年である。また船長、ドクター、孤島の住人ベン・ガンなど味方の人物はみな理性的で誠実な信用のおける人間でそれだけにつまらない。
翻って海賊はシルバーでさえも計画性のない欲にまみれた乱暴者で、こいつらをリアルに描いたところがこの小説の魅力だろう。なにしろ島での生活を考えれば大切な食料や酒を無計画にどんどん飲み食いしてしまうのだから。こいつらまったく信用おけない。
考えてみれば街の利権に絡むヤクザ者vs住人の戦いみたいな話で、宝探しというロマン溢れる設定になっているから子どもでも読めるだけのことかも。現代でも一攫千金の宝をめぐって大人たちはうごめいているのである。
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「幻滅」メディア戦記 バルザック 作
バルザックの人間喜劇シリーズの中核となる長編。「メディア戦記」の副題からも分かるとおり、19世紀パリの新聞・出版界を舞台にその腐敗した構造を暴きだす傑作である。主人公はフランスのアングレーム地方に暮らす青年詩人のリュシアン。そして友人のダヴィット。
リュシアンの類い稀な文学的才能を理解するのは、田舎では地方貴族のバルジュトン夫人ばかり。これはぜひ夫人の愛人となってパリへ打って出て貴族社会の仲間入りを果たし、作品を上梓して中央文壇へ躍りでないではおくものか。と、この二人が愛情を育んでパリへ打って出るまでのシーンが思いのほか長くてやや退屈したが、もともと独立した作品だったようだ。
ところがパリへ出てみると自分たちはしょせん田舎者で、バルジュトン夫人は一応貴族ではあるものの都会のきらびやかな女性たちと比べてあまりにみすぼらしかった。一方天才詩人のはずのリュシアンも一応その文才を認められはするが、ジャーナリズムに使い捨てにされて終わる。
このあたり作者バルザックの若き苦闘の日々が忍ばれる。文学者とジャーナリストでは資質がかなり違うと思うが、同じ文筆という畑で今日でも両者を兼ねて仕事している人は多いかもしれない。
リュシアンはカネ次第で舞台や書評を持ち上げたりこき下ろしたり、自由派についたり王党派についたりと、ジャーナリズムの世界に翻弄されて結果失敗するわけだが、このあたりの駆け引きも読んでいて分かりにくい。それは新聞社を経営する権利や、出版のいろんな形のマージンの取り方などがからむせいで、そのリアルさがバルザックのオモシロさでもあるわけだけれども…。
つまりがこの作品はバルザックの得意な経済小説なんである。物語後半はアングレーム地方でのリュシアンの友人ダヴィットとその妻が小さな印刷屋を営む苦労話だが、ダヴィットもリュシアンと同じく商売にはてんで向いていない夢想家で、経営はそっちのけで新しい安価な印刷用紙の開発研究に没頭している。この研究成果と印刷屋の権利を奪うべく、ライバル会社や代訴人などが権謀術数をくりひろげるが、お人好しのダヴィットはたわいもなく引っかかってしまうのだ。このあたりも手形のやりとりなどが頻発して一読では理解できない。自分もこのダヴィットと同じく商売にはてんで向いていないことがわかる。
結局バルザックの世界では、人間は欲望のためならなんでもやるし、それは世間の裏側で巻き起こることで、これこそが人類の本当の歴史だということだ。バルザックのオモシロさはここにあります。