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漫画家まどの一哉ブログ

   
読書
「ハーメルンの笛吹き男」阿部謹也 
(ちくま文庫)

久しぶりに読んだ歴史書。しかも不慣れなヨーロッパ中世史。
【ネズミ被害に困っていた中世ドイツの街ハーメルン。ある日現れた笛吹き男の笛の音に誘い出されてネズミは川の中へ。ところが笛吹き男は約束の報酬をもらえず、その報復に子供達130人を誘い出したまま忽然と姿を消してしまう。】
誰もが聞いたことのあるハーメルンの笛吹き男伝説。この130人もの子供達の喪失は1284年6月26日に実際に起こった事件らしい。では子供達はどこへ向かいなぜ消えてしまったのか? 過去の研究書を比較検証し、この謎を解き明かしていくスリリングな魅力たっぷりの力作。

ハーメルンのあまり肥沃でない土地柄もあって開拓地を求めて移動する人々。また労働人口の減少を食い止める必要に迫られる諸都市など、さまざまな局面がこの伝説の背景にあるらしい。
民衆史的な視点で当時ドイツの下層社会を明らかにしてゆくのが興味深く、身分制度の埒外におかれた市民権を持たない人々、職人・徒弟・僕婢・日雇い労働者・婦人・乞食・賎民などがいかに悲惨な生活を余儀なくされていたか。職人組合のツンフトに入れてもらうだけでもたいへん金がかかるし、子供を抱えた寡婦などは地下住宅で暮らすという惨状。この下層社会の大きさと差別的な扱いに驚く。
なかでも笛吹き男のような遍歴芸人は身分外の人間として蔑まれる存在であったこと。日常外からやってくるため悪魔的な役割をもたされていたことなどが伝説の発生と結びついてくる。この身分制度も長い年月の中でしだいに緩んで行き、遍歴芸人も城主から重用される地位を得ていく。

キリスト教会が民衆の伝統的な土着の宗教行事を極力排斥しようとしていたことなど、知らなかったことばかりだ。社会史というジャンルの魅力を充分堪能できる傑作。文庫にはブリューゲル他図版が大量に挿入されており、これがなければ中世の庶民の様子はもっとわからなかっただろう。

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読書
「人生の踏絵」遠藤周作 著
(新潮文庫)

講演録数編を収録。
「文学と宗教の谷間から」:モーリヤック作「テレーズ・デスケルウ」という作品が課題作。主人公テレーズは非常に冷めた陶酔できない女で、平凡で没個性的な日常を嬉々として消化する夫がなんとも面白くない。ある日何気なく夫に多量の睡眠剤を飲ませて急病にしてしまう。彼女は罪に問われるが、犯行理由が「あなたの目の中に不安と好奇心の色をみたかったのかも」という答えである。
遠藤は、それまで小説では人間ははっきりした心の動きがあって行動するという了解のもとに書かれていたが、モーリヤックの小説では何故だかわからない漠然とした心の動きで行動する人間の本性を描いている。と現代小説の新たな地平を解説する。モーリヤックはキリスト教徒として、テレーズをなんとか救ってやろうとしたが、どうしてもできなかった。ここに新しい小説の萌芽がある。ここまでは文学論として納得できるものだ。では何故この作品がキリスト教文学であるのか?

遠藤によると、人生に満ち足りた世界に生きるより一歩でも抜け出そうとしたとき、キリスト教の世界に近づいている。良くも悪くもない人生に神様は興味はなくて、罪を犯してしまったとき神様が入り込んでくる。よってこの作品はやはりキリスト教文学だというものである。

しかしそれではキリスト教文学というのは日常から逸脱した設定にのみ依存するものなのだろうか。ある程度の劇性がなくては神的なものは描きにくいといことはあろうが、罪を犯した場合にのみ神的なものが登場する、神様が入り込んでくるというのは、一種の牽強付会のような気がして、なんとなく納得できない。また文学芸術によらないキリスト教のあり方がわからなくなってくる。
文学好きの間でキリスト教文学のみ把握できればよいのならそれでもよいが、文学を離れた一般的な立場でキリスト教を理解するとき、もし神的なものが悪事からでなくては近寄れないのであれば何故なのかわからない。しかしこれは違うのかもしれない…。

他にグレアム・グリーン「事件の核心」、ジュリアン・グリーン「モイラ」、アンドレ・ジッド「狭き門」などがとりあげられるが、これらの作品は直接的にキリスト教文学として理解できる。そして「狭き門」は、男性が恋人にあまりにも聖女のイメージを抱いてしまって返って亡くしてしまう、実はキリスト教文学とは無縁の話らしい。

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読書
「狂い凧」梅崎春生 作
(講談社文芸文庫)

双子の兄弟栄介と城介。一族のボスとして一家に介入してくる叔父。兄弟の運命はしだいに分かれ、衛生兵として大陸を移動するうち薬物に犯される城介。戦後、栄介は戦死した城介の足跡を追う。語り手は栄介の友人としてつねに同行する私。

読み始めるやいなやその暗いトーンに鬱々とする。
主人公栄介は転倒で背中を病む状態であり、語り手の私に対しても友人ゆえの無遠慮な応対でそれはいいのだが、語り手の私の方は相手の背中の具合や腫瘍に野次馬的に関心を持っており、気の置けない友人関係とはいえさすがに気持ちのわるい感触だ。これがリアリズムといえばそうだ。
二人の人生に少年の頃から関わってくる叔父というのが偉そうなやつで、これも一家の行方を支配する不愉快そのものといった人間。そんなわけでこの小説はままならない現実に左右される日常のくすぶりを書いたようなものだ。

ままならない現実といえば城介の戦中を描いた部分の方が、戦争のままならなさが大きく日常を超えているので、逆に割り切った気持ちで読める。そういう意味では戦記文学は運命に対する諦めが前提となっているので、読むほうも諦めがつくというものだ。

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読書
「セルバンテス短編集」(岩波文庫)

はるか昔のスペインでドン・キホーテが出版されたのが1605年。その後書かれた短編小説がこれだけ時代を超えておもしろいのだから、世界文学あなどるべからずである。
セルバンテスが小説家として活躍したのは69歳で亡くなるまでの10年間くらいで遅咲きの天才であるが、それまで実社会で従軍や負債・投獄などじゅうぶん辛酸をなめているので、この経験は創作に活かされているはず…。

「やきもちやきのエストレマドゥーラ人」:68歳の成金が14歳の娘を娶って、だれにも指一本触れさせないように高い塀で囲った家の中に厳重に囲いこむといった非道。これを外から突破しようとする話だが、実際自身の年齢を省みず、若い娘に求婚する大芸術家のエピソードなどよく聞くからね。
「愚かな物好きの話」:最愛の貞淑な妻を信じきれず、わざと友人による不倫をしかけて、結果破滅に至るバカな男。騙し合いのような内容で共感性羞恥の自分としてはやや辛かったが、二転三転するストーリーで引っぱってゆく。
「ガラスの学士」:自分の体がガラスで出来ていると思い込んだ男。内容は同時代の世相に対する風刺で言葉遊びの連続だが、てきぱきとした表現で現代の日本人でも読めてしまう不思議。
「麗しき皿洗い娘」:貴族の身分を隠して平民の荒くれた世界を楽しむ二人の若者。そして宿屋に潜む絶世の皿洗い娘。実は彼女の生まれは…。貴種流離譚の一種だが、この時代貴族といえども女は物みたいな扱いだ。

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読書
「南海千一夜物語」スティーヴンスン 作
(岩波文庫)

南太平洋サモアに移住した英国作家スティーヴンソンが、当地で書き残した異色海洋冒険小説3編。
「ファレサァの濱」:悪党退治の冒険譚だが悪党の惨殺に容赦がない。
「瓶の妖鬼」:これは怪奇短編集にも収録されている名品。
「声のする島」:これも幻想小説。魔法っぷりがすごい。
この文庫本の初版は1950年ながら、中村徳三郎の訳はまったく古くなっていない。

スティーヴンスンは私の大好きな作家で、ロンドンが舞台の「自殺クラブ」「ジキル博士とハイド氏」や南海が舞台の「宝島」「引き潮」など。どれをとっても面白い。文庫解説文中のゴールズワージーの論評(1928年)が的を射ているので引用する。「スティヴンソンは人間の型を描いたり人間の生活の種々なる面を描き出すというよりは寧ろ物語作家であって、アレグザンダ・デューマーやディッケンズに較べてみて遜色がないのみか、筋の運びの手際の良さと快適な速さをもつ点では却って両者を凌駕するものである。19世紀の英国の作家の中で不朽の生命をもつであろうと想われるのは、ディッケンズを除けばひとりスティヴンソンあるのみである。」
ディッケンズも数作読んだくらいだが、まさに私が感じていた印象そのままだ。この上質の物語文学というものがある種の理想であります。

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読書
「世界のすべての朝は」
パスカル・キニャール 作
(伽鹿舎)

ヴィオル(ヴィオラ・ダ・ガンバ)の名手兼作曲家の男。亡くした妻をつねに思い、残された二人の娘とともに演奏に生きて名声を得るが、興行を嫌い世間に背を向け、ただ自然の声を聞いて言葉以外の言葉を奏でようとする。
この生来の体の中から湧き上がってくる本質的なものへの衝動。人を楽しませるためのものでない求道的な音楽のあり方。男が求めていたものは私に取ってもけして他人事とは思えない。

この主人公の性格設定のせいか、作品全体がつねに張り詰めた冷たい風に洗われるような緊張感を持っている。風景描写はなくとも非常に美しい空気感のある作品。形としては多分に趣意に沿って演出された作品で、読者のすぐそばにいるようなリアルな人間描写をとっていない。それぞれの人物がその役どころに従って演技をしているような表現だ。本来的には時代劇とはそういうものかもしれないが、一歩間違えば迫真性に欠けたつまらないものになってしまう。
そこを補うのが美意識であって、この作品では主人公の男の亡妻への愛と音楽への一途な姿勢が圧倒的で、読んでいて飽きさせないものとなっていた。しかし弟子入りする若い男と姉妹たちの立場はやはりストーリー上の類型なので、そこはやや物足りないものを感じた。

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読書
「江藤淳と大江健三郎」小谷野敦 著
(ちくま文庫)

大江健三郎に圧倒的支持をささげる著者による江藤淳との抱き合わせ評伝。
大江健三郎はちょこちょこ読んできたけど、保守派論客の代表格であった江藤淳は読んだことがない。私もそうだが、小説を読むのは好きだが文壇の動きや人間関係についてまで興味はなく、作品が読めればそれで良いという人は多いだろう。この評伝は実に細かく念入りに二人の過去を追っているので、そのしつこさが面白いのかもしれない。

それにしてもこの二人が左右の論壇や社会的活動で大いに世間を賑わしていたのが、すでに今から30年も前のことで、二人がまだ50代半ばだったことに驚く。
三島由紀夫や武田泰淳、小島信夫、安岡章太郎、開高健、中上健次など戦後純文学がまだ力があった最後の時代で、やがて多くの作家が加齢とともに大西巨人のいうクリエイティブパワーを失い、単なる身辺雑記を寄せ集めた物を新作小説と銘打って発表し、仲間内で文芸賞を回しあっている様子がよくわかる。またさすがにアカデミックな世界なので、学閥や教授職の獲得が大問題であることも知った。いずれもまったくつまらない話なのだが、なぜかするすると読めてしまうのは、裏のないあけすけな著者の人格と話術によるのだろう。

最終章で大江の滅亡への性的興奮についてほんの少し触れられるがこれは発見だった。考えてみれば私の読んだ大江作品はみな背景に性的なイメージがあるが、それが破滅への興奮を含むというのが新鮮だった。

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読書
「ハムレット」シェイクスピア 作
(新潮文庫)

言わずと知れたシェイクスピア悲劇の代表作。殺された王の亡霊が出現する導入でおもしろさに引き込まれてしまう。亡霊に父の死の真実を教えられて以降、ハムレットは狂人のふりをするばかりでつねに興奮状態。そのせいで物語の進行がよめない。父親の仇を討つための計画が進められるわけでもないので、ハムレットという人物の性格がいまひとつ掴めないのだ。やはり優柔不断という面があるのだろうか。それにしては果断に現王の家臣を殺したりする。
恋人オフィーリアはヒロインにしては珍しく意志の弱い女で、父親のいいなりであるし、ハムレットに対しても熟慮も勇気もみせない。

後半ではイギリスに送られ密かに殺されるところを、海賊船に飛び移って難を逃れるなど、予想外の大仕掛けのエピソードも登場して、どうなることかと心配していると、最後は全員死んでしまい、真相は生き残ったホレイショーによって伝えらるであろうという終わり方。ハムレットの佯狂に最後までつきあわされた次第です。

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読書
「狂気の愛」ブルトン 作
(光文社古典新訳文庫)


次から次へと女性に惚れ込んだ恋多き男アンドレ・ブルトン。それでも自分はこの人物に誠実さを感じる。この著作は数編のエッセイを集めたもので、恋の話で一貫しているわけではなく、またシュルレアリスズム詩的な表現もあってかなり難解なものだが、ブルトンの人柄が見える。彼は真面目だ。

なぜ愛し合う二人を人間の究極の理想形としてそんなにも熱く語らなければならなかったのか。愛が燃え上がっている期間を理想とするあまり、熱しやすく冷めやすい男として生きてしまったのではないか。それでも最後は自身の娘への愛と、自分亡き後の人々へのつながりで終わっている。

ジャコメッティとの交友関係や、街歩きの中でいろんな商品やオブジェから自動的に別の意味を掬い出してくるシュルレアリストの日常的精神活動が愉快だった。

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読書
「ドーキー古文書」フラン・オブライエン 作
(白水Uブックス)

アイルランド・ダブリンにほど近い海辺の町ドーキー。偶然出会った男は化学兵器によって人類絶滅を企むマッドサイエンティスト。また時間を自由に操作する方法も知っている。この危険人物の陰謀を阻止するため秘密裏に計画を実行する青年は、ふとしたことから死んだとされる文豪ジェイムズ・ジョイスに出会うことになる。

話が始まるやいなや海底の洞窟に連れて行かれて、古代キリスト教の教父アウグスティヌスの霊体に出会うという奇矯な設定(このアウグスティヌスがまた妙に俗っぽい奴でおかしい)。ここまでとんでもない事件から入りながら、この件はほったらかしで主人公の身辺へと話は収束していく。
また才媛である彼女が登場していかに事件を切回していくかと思いきや、その後ほとんど登場しない。マッドサイエンティストの企む化学兵器の構造も謎のままである。

このように冒頭振られた大きな伏線(伏してないけど)が回収されずに、凡庸な神父や呑気な警察署長、借金に苦しむ友人などが登場して話がスケールダウンしていく。かと思いきやなんと死んだことにされている国民的大作家ジェイムズ・ジョイスがひっそりと生きていて、主人公との交流が始まる。

そんなわけでどこへいくやら案内人なしの、行き当たりばったりで書いた感のある長編だが、とりあえず面白い。作者はベケットやジョイスに評価された才能だが、心地よい喜劇といった印象で、なんの心配もすることなく楽しむことができる。

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