漫画家まどの一哉ブログ
読書
「肖像画」
ゴーゴリ 作
いかにも自分好みの幻想文学だった。貧乏画家が安値で手に入れた不思議な肖像画。そこには恐ろしい表情でにらみつけるアジア人が描かれていて、その目はあまりに生き生きとした本物の目のような迫力、見る者を釘付けにするのだ。そんな肖像画を部屋に置いたばかりに、主人公の画家は悪夢に悩まされることになるが、ある日夢の中で手にした大金が、ほんとうに肖像画の額縁のなかに隠されていて、それから画家の運命は大きく変わっていく。
画家は売れていくにしたがってしだいに努力しなくなり、お客の肖像画を注文に応じてインスタントに仕上げる俗物に成り下がっていく。有名画家として名士の一員に名を連ねたけれども、かつての才能の萌芽はどこえやら、ある日ほんとうに素晴らしい新人の作品に出会って、激しい後悔の念に襲われたが、もはやかつての才能は失われていて凡庸な絵しか描くことができなくなっていた。
そして画家は金にものをいわせて優れた作家の絵を買いとるや、それを引き裂く行為に陥って悪夢のうちにこの世を去るのだった。
悪魔的な幻想のうちに引き込まれてしまった主人公が、やがて破滅に至るというのが自分の好きな幻想文学の典型。リアリズムの中での悪魔的な幻想がよい。この小説では主人公の破滅はまったく本人のせいだが、不思議な肖像画がそのきっかけを作っている。破滅するのは簡単なものである。
第二部ではこの恐ろしい肖像画の来歴が明かされる。岩波文庫「狂人日記」所収
「肖像画」
ゴーゴリ 作
いかにも自分好みの幻想文学だった。貧乏画家が安値で手に入れた不思議な肖像画。そこには恐ろしい表情でにらみつけるアジア人が描かれていて、その目はあまりに生き生きとした本物の目のような迫力、見る者を釘付けにするのだ。そんな肖像画を部屋に置いたばかりに、主人公の画家は悪夢に悩まされることになるが、ある日夢の中で手にした大金が、ほんとうに肖像画の額縁のなかに隠されていて、それから画家の運命は大きく変わっていく。
画家は売れていくにしたがってしだいに努力しなくなり、お客の肖像画を注文に応じてインスタントに仕上げる俗物に成り下がっていく。有名画家として名士の一員に名を連ねたけれども、かつての才能の萌芽はどこえやら、ある日ほんとうに素晴らしい新人の作品に出会って、激しい後悔の念に襲われたが、もはやかつての才能は失われていて凡庸な絵しか描くことができなくなっていた。
そして画家は金にものをいわせて優れた作家の絵を買いとるや、それを引き裂く行為に陥って悪夢のうちにこの世を去るのだった。
悪魔的な幻想のうちに引き込まれてしまった主人公が、やがて破滅に至るというのが自分の好きな幻想文学の典型。リアリズムの中での悪魔的な幻想がよい。この小説では主人公の破滅はまったく本人のせいだが、不思議な肖像画がそのきっかけを作っている。破滅するのは簡単なものである。
第二部ではこの恐ろしい肖像画の来歴が明かされる。岩波文庫「狂人日記」所収
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読書
「黄村先生言行禄」他
太宰治 作
太宰治は「人間失格」の流れで捉えられるのが一般だけど、お話のうまさが秀逸であり、自分は物語作家として楽しんでいる。そんななかでもこの黄村先生シリーズはとってもユーモラスな作品で気に入った。文庫本(「津軽通信」新潮文庫)解説の奥野健男はやや低く評価し、社会風刺であるところに価値を見いだしているが、ユーモラスなものを第一に評価しない人にありがちな視点だと思う。
主人公黄村先生はなんの先生なのか、「私は、失敗者だ。小説も書いた、画もかいた、政治もやった、女に惚れたこともある。けれどもみんな失敗、まあ隠者、そう思っていただきたい。」というご隠居なのだが、相手はいつも若い書生連。武道のすすめを講義したリ、我流の茶道で茶会を開いたり、珍しい山椒魚を買い付けにいったりして、たいてい大きな失敗をやらかして終わりとなる。
たしかにこれらはみな国粋主義の風潮高まる時代に、古来からの日本的なものをありがたがる精神をからかっているので風刺ではあるけれど、そこを読み取らなくても充分笑える。
太宰自身が道化となった作品も愉快だが、こんなのもいい。
「黄村先生言行禄」他
太宰治 作
太宰治は「人間失格」の流れで捉えられるのが一般だけど、お話のうまさが秀逸であり、自分は物語作家として楽しんでいる。そんななかでもこの黄村先生シリーズはとってもユーモラスな作品で気に入った。文庫本(「津軽通信」新潮文庫)解説の奥野健男はやや低く評価し、社会風刺であるところに価値を見いだしているが、ユーモラスなものを第一に評価しない人にありがちな視点だと思う。
主人公黄村先生はなんの先生なのか、「私は、失敗者だ。小説も書いた、画もかいた、政治もやった、女に惚れたこともある。けれどもみんな失敗、まあ隠者、そう思っていただきたい。」というご隠居なのだが、相手はいつも若い書生連。武道のすすめを講義したリ、我流の茶道で茶会を開いたり、珍しい山椒魚を買い付けにいったりして、たいてい大きな失敗をやらかして終わりとなる。
たしかにこれらはみな国粋主義の風潮高まる時代に、古来からの日本的なものをありがたがる精神をからかっているので風刺ではあるけれど、そこを読み取らなくても充分笑える。
太宰自身が道化となった作品も愉快だが、こんなのもいい。
東日本大震災以降しばらく、直接天災自体を恐れているわけではないが不安が増した。
もとより妻は更年期の双極性障害で離れて療養中であるが、その妻との連絡がうまくいかないだけで、おろおろする有様となり、やがて自分の依存性人格障害に思い至ったわけである。
また一人暮らしは多分に自己満足を含むことにも気付いた。どこでなにを買うとか、なにを食うとか、まことに些事だ。
思えば震災前のセミ書房で西野氏や斎藤氏と「架空」の編集を語っていた頃が懐かしい。同人活動特有のあの優雅な貧しさは、他に替えられない楽しさだった。残念ながら被災した斎藤氏の復活はもうしばらく待たなければならない。
そんななかでも「アックス」の掲載は途切れることなく続けて、短編もそこそこたまった。今はお伽噺を題材にした連作を行っているが、これをまとめて一冊とするか、あるいはお伽噺以外でまた作品集を出すか、編集長の手塚さんと合意しているわけでもなく、とりあえず描き続けているのだ。しかも相変わらず一作仕上げるごとに頭の中はカラッポで、毎回使い切った歯みがきのチューブからさらにしぼりだすように考えている。それでも現代物の長編を連載する夢はあきらめていなくて、これこそ漫画の神様が降りてきてくれるのを祈るばかりである。
50代が年齢的に危機的であるのは以前から言っていることだが、まさに増々混沌としてきた。世相を反映して収入はつらいものとなってきた。クライアントが予算を使わないためである。この歳で能力もないのに新たな得意先の開拓は不可能に近い。
さらに遠方で暮らす老親は心も体もいよいよ衰えが進み先が見えない。介護や入院の手配でなんども関西へ往復することとなろう。それを思えば40代までは平和なものだった。妻も健康であり自分も甘えていたと思う。
さてなんと言っても年末に、初の長編漫画「西遊」が発行できたことは他に代え難い喜びでアリマス。西野さんやワイズ出版の岡田さんに感謝したいです。この本は来年もぜひじりじりと売れていってほしい。と、切に願うものでアリマス。
もとより妻は更年期の双極性障害で離れて療養中であるが、その妻との連絡がうまくいかないだけで、おろおろする有様となり、やがて自分の依存性人格障害に思い至ったわけである。
また一人暮らしは多分に自己満足を含むことにも気付いた。どこでなにを買うとか、なにを食うとか、まことに些事だ。
思えば震災前のセミ書房で西野氏や斎藤氏と「架空」の編集を語っていた頃が懐かしい。同人活動特有のあの優雅な貧しさは、他に替えられない楽しさだった。残念ながら被災した斎藤氏の復活はもうしばらく待たなければならない。
そんななかでも「アックス」の掲載は途切れることなく続けて、短編もそこそこたまった。今はお伽噺を題材にした連作を行っているが、これをまとめて一冊とするか、あるいはお伽噺以外でまた作品集を出すか、編集長の手塚さんと合意しているわけでもなく、とりあえず描き続けているのだ。しかも相変わらず一作仕上げるごとに頭の中はカラッポで、毎回使い切った歯みがきのチューブからさらにしぼりだすように考えている。それでも現代物の長編を連載する夢はあきらめていなくて、これこそ漫画の神様が降りてきてくれるのを祈るばかりである。
50代が年齢的に危機的であるのは以前から言っていることだが、まさに増々混沌としてきた。世相を反映して収入はつらいものとなってきた。クライアントが予算を使わないためである。この歳で能力もないのに新たな得意先の開拓は不可能に近い。
さらに遠方で暮らす老親は心も体もいよいよ衰えが進み先が見えない。介護や入院の手配でなんども関西へ往復することとなろう。それを思えば40代までは平和なものだった。妻も健康であり自分も甘えていたと思う。
さてなんと言っても年末に、初の長編漫画「西遊」が発行できたことは他に代え難い喜びでアリマス。西野さんやワイズ出版の岡田さんに感謝したいです。この本は来年もぜひじりじりと売れていってほしい。と、切に願うものでアリマス。
読書
「夢屑」
島尾敏雄 作
島尾敏雄という作家は何作か読んでいるのだけれど、ものすごく面白いわけでもないのは文体のせいかな?なにか普通の報告文みたいな飾り気のなさがあって、けれん味まではいらないがもっと詩魂のようなものがほしいな。これは好みだけど。
それでもつげ義春と近しい人だけあって、夢を題材にしたものは面白く読める。内田百閒の作品が怪奇幻想を夢のテイストにのせて切れ味良く仕上げているのと違って、これはまさに夢そのままで加工が少ない。偽りなしの夢そのままなのかもしれない。ただ三人称で書かれているので、夢の中なのに三人称とは妙な気がした。
夢の話なのでやはり理不尽なことや納得できないことに振り回される。電車に乗りはぐれる、部屋の中に他人が入ってくるなどは自分もよく夢で体験するが、光のカタマリが高速度で往来をびゅんびゅん行き過ぎるのは面白かった。
「夢屑」
島尾敏雄 作
島尾敏雄という作家は何作か読んでいるのだけれど、ものすごく面白いわけでもないのは文体のせいかな?なにか普通の報告文みたいな飾り気のなさがあって、けれん味まではいらないがもっと詩魂のようなものがほしいな。これは好みだけど。
それでもつげ義春と近しい人だけあって、夢を題材にしたものは面白く読める。内田百閒の作品が怪奇幻想を夢のテイストにのせて切れ味良く仕上げているのと違って、これはまさに夢そのままで加工が少ない。偽りなしの夢そのままなのかもしれない。ただ三人称で書かれているので、夢の中なのに三人称とは妙な気がした。
夢の話なのでやはり理不尽なことや納得できないことに振り回される。電車に乗りはぐれる、部屋の中に他人が入ってくるなどは自分もよく夢で体験するが、光のカタマリが高速度で往来をびゅんびゅん行き過ぎるのは面白かった。
鳩山さんはパンを描くのがうまいな。旨そうなパンに見える。
逆柱氏の「茶番なカッパ」増ページだけど面白かった。水木キャラが活かされていてイイカンジ。
具井さんの「オオスガさんのこと」日常といったものはドラマのような事件性はないが、ちょっとした出来事はある。それをそのままに描ける人は少ない。この作品はじつに淡々とそんなリアルが描かれていて上手いと思う。
松井雪子「マヨネーズ姫」この少女は可愛らしくて気に入ってしまった。ドルも売っている。
南さんの「ロボとピュー太」で死後の世界に対する新たな見識を得た。
私は「月の輪」を掲載。サラリーマンの金太郎の話です。楽しいよ。
作者近況で「西遊」1月発売と言ってるけど、もう売ってます。
逆柱氏の「茶番なカッパ」増ページだけど面白かった。水木キャラが活かされていてイイカンジ。
具井さんの「オオスガさんのこと」日常といったものはドラマのような事件性はないが、ちょっとした出来事はある。それをそのままに描ける人は少ない。この作品はじつに淡々とそんなリアルが描かれていて上手いと思う。
松井雪子「マヨネーズ姫」この少女は可愛らしくて気に入ってしまった。ドルも売っている。
南さんの「ロボとピュー太」で死後の世界に対する新たな見識を得た。
私は「月の輪」を掲載。サラリーマンの金太郎の話です。楽しいよ。
作者近況で「西遊」1月発売と言ってるけど、もう売ってます。
読書
「耽溺」
岩野泡鳴 作
明治時代の小説でよくわからないのは、金を出して芸者を受け出して妾にするという行為だ。もちろん本妻あってのはなしで、それがどれくらい普通のことだったのか、道義的にも金銭的にも程度がわからない。
これもそんな話で、作者がある田舎芸者に惚れ込んでしまって、芸者を止めさせて女優にする算段をたてるが、あれやこれや他の男どもも入り組んだことになってままならない。そんな顛末を描いた自然主義文学の代表作で、作者はただ耽溺することを目指している。
泡鳴と言えば文学史的には半獣主義者として有名で、なんでも欲望の赴くままに行動して、主観のままに描写するという勢いのあるスタンスである。そのせいか飾らない文体が気持ち良くて、会話もリアルだし、楽しく読めた。赤裸裸と言えば赤裸裸だが、案外作者は冷静なもので、愛欲と苦悩が描かれているといった印象はなかった。
つまり作者の耽溺は意識的なものであって、なかなか耽溺しきらない自分に納得いかないという私小説なんじゃなかろうか?
「耽溺」
岩野泡鳴 作
明治時代の小説でよくわからないのは、金を出して芸者を受け出して妾にするという行為だ。もちろん本妻あってのはなしで、それがどれくらい普通のことだったのか、道義的にも金銭的にも程度がわからない。
これもそんな話で、作者がある田舎芸者に惚れ込んでしまって、芸者を止めさせて女優にする算段をたてるが、あれやこれや他の男どもも入り組んだことになってままならない。そんな顛末を描いた自然主義文学の代表作で、作者はただ耽溺することを目指している。
泡鳴と言えば文学史的には半獣主義者として有名で、なんでも欲望の赴くままに行動して、主観のままに描写するという勢いのあるスタンスである。そのせいか飾らない文体が気持ち良くて、会話もリアルだし、楽しく読めた。赤裸裸と言えば赤裸裸だが、案外作者は冷静なもので、愛欲と苦悩が描かれているといった印象はなかった。
つまり作者の耽溺は意識的なものであって、なかなか耽溺しきらない自分に納得いかないという私小説なんじゃなかろうか?
読書
ゴーゴリを読む
ゴーゴリの描く人間たちはほんとに情があって、読んでて気持ちが乗ってくる。
「昔気質の地主たち」:ロシアの田舎で質朴な生活を営む小さな地主。主人公の爺さん婆さんは、善人で欲も少ない人間で、使用人たちは勝手に土地の作物などを横領しているのだが、まったく気付かない。
いなくなったネコが突然現れてまた野生に戻っていったその日、婆さんはこれはお迎えが来たんだと思った。死を観念した婆さんは食事もとらなくなり、数日経って本当に死んでしまう。爺さんは婆さんを葬った後、誰もいなくなった居間でしばらくぼんやりしていたが、突然声を上げて泣き出した。このあたりの描写が実にいい。5年後、筆者がひさびさに爺さんの家を訪ねた時、耄碌した爺さんは出された料理を見て「このごちそうは死んだ婆さんが…」と言って泣き崩れてしまう。5年も経っているのに…。
「ヴィー」:以前べつの訳で読んだ。ヴィーとは地妖という妖怪である。魔法使いに乗り移られて死んでしまった少女。その少女の霊魂を鎮めるべく教会で祈禱書を連夜読み上げる哲学生が、最後にこのヴィーによって結界を破られ、悪霊や妖怪たちの手に落ちる有名な幻想文学。ヴィーの瞼は重すぎて自力では眼が開けられないのだ。水木さんも漫画にしとります。
「外套」:しがない小役人の男。すり切れた外套をついに新調し、心も躍る思いで夜会に出かけたが、その帰り道せっかくの外套を追いはぎに奪われてしまう。しかもその外套を取り戻すべく上級役人に訴え出ては怒鳴りつけられ、そのショックがもとで死んでしまうという情けなさ。しかしこの男は幽霊となって街ゆく人の外套を取ろうとするのだから面白い。
「鼻」:ある日焼けたパンの中から知り合いの鼻が出てきた。そいつは朝起きると鼻がなかった。また、鼻は一人前の役人の格好をしてしらーッと街を歩いているのだ。こんな愉快でシュールな不条理劇が、1835年に書かれていた。
ゴーゴリを読む
ゴーゴリの描く人間たちはほんとに情があって、読んでて気持ちが乗ってくる。
「昔気質の地主たち」:ロシアの田舎で質朴な生活を営む小さな地主。主人公の爺さん婆さんは、善人で欲も少ない人間で、使用人たちは勝手に土地の作物などを横領しているのだが、まったく気付かない。
いなくなったネコが突然現れてまた野生に戻っていったその日、婆さんはこれはお迎えが来たんだと思った。死を観念した婆さんは食事もとらなくなり、数日経って本当に死んでしまう。爺さんは婆さんを葬った後、誰もいなくなった居間でしばらくぼんやりしていたが、突然声を上げて泣き出した。このあたりの描写が実にいい。5年後、筆者がひさびさに爺さんの家を訪ねた時、耄碌した爺さんは出された料理を見て「このごちそうは死んだ婆さんが…」と言って泣き崩れてしまう。5年も経っているのに…。
「ヴィー」:以前べつの訳で読んだ。ヴィーとは地妖という妖怪である。魔法使いに乗り移られて死んでしまった少女。その少女の霊魂を鎮めるべく教会で祈禱書を連夜読み上げる哲学生が、最後にこのヴィーによって結界を破られ、悪霊や妖怪たちの手に落ちる有名な幻想文学。ヴィーの瞼は重すぎて自力では眼が開けられないのだ。水木さんも漫画にしとります。
「外套」:しがない小役人の男。すり切れた外套をついに新調し、心も躍る思いで夜会に出かけたが、その帰り道せっかくの外套を追いはぎに奪われてしまう。しかもその外套を取り戻すべく上級役人に訴え出ては怒鳴りつけられ、そのショックがもとで死んでしまうという情けなさ。しかしこの男は幽霊となって街ゆく人の外套を取ろうとするのだから面白い。
「鼻」:ある日焼けたパンの中から知り合いの鼻が出てきた。そいつは朝起きると鼻がなかった。また、鼻は一人前の役人の格好をしてしらーッと街を歩いているのだ。こんな愉快でシュールな不条理劇が、1835年に書かれていた。
●写真そのままのリアルさをかっこいい表現としていると、資料写真全部自前で用意しないと、パクリやパクリや言われるらしい。元の写真からオリジナルな絵にできてないから。
●自分の漫画は検索画像をモニタから肉眼で紙に写すこと多し。その時点で大いに歪んでしまうのは、精神が歪んでいるからであろう。ヒヒヒ。
●手塚治虫「火の鳥」、永島慎二「フーテン」、それに石ノ森に岡田史子。昔日のCOMの青年コミックは資料写真なんか使っていない。私もぜひそうありたい。
●永島慎二は人物から背景まで調和のとれたオリジナルなデフォルメされた画質で出来ていて、実写から遠く離れて完成されている。
●アシスタントが先生そっくりの絵を身につけることによって、他ではツブシがきかなくなるくらいの方が、漫画自体は魅力的だ。
●漫画の中で、あまり「正確な図」というものがない方が面白いよ。パースなんか狂ってるくらいが調度イイかもしれないよ。誰しも脳内は偏ってるもんじゃないのか?と、極端なことを言ってみたりする。
●さすがに「アックス」ですね。とか言われそうだな…。
以上、本日の一連のツイート。
まもなく店頭に並ぶ長編漫画「西遊」だが、ストーリー進行のスピードに合わせておおいに描き飛ばしている。こんな立派な本になるのなら、もちっと丁寧に描けばよかったか?
でもどうせデッサンは歪んでるし、描きたくない細かい箇所はテキトーだし、これが自分の画風なのだ。どうしても自然にこうなるのだ。これでいいのだ。
●自分の漫画は検索画像をモニタから肉眼で紙に写すこと多し。その時点で大いに歪んでしまうのは、精神が歪んでいるからであろう。ヒヒヒ。
●手塚治虫「火の鳥」、永島慎二「フーテン」、それに石ノ森に岡田史子。昔日のCOMの青年コミックは資料写真なんか使っていない。私もぜひそうありたい。
●永島慎二は人物から背景まで調和のとれたオリジナルなデフォルメされた画質で出来ていて、実写から遠く離れて完成されている。
●アシスタントが先生そっくりの絵を身につけることによって、他ではツブシがきかなくなるくらいの方が、漫画自体は魅力的だ。
●漫画の中で、あまり「正確な図」というものがない方が面白いよ。パースなんか狂ってるくらいが調度イイかもしれないよ。誰しも脳内は偏ってるもんじゃないのか?と、極端なことを言ってみたりする。
●さすがに「アックス」ですね。とか言われそうだな…。
以上、本日の一連のツイート。
まもなく店頭に並ぶ長編漫画「西遊」だが、ストーリー進行のスピードに合わせておおいに描き飛ばしている。こんな立派な本になるのなら、もちっと丁寧に描けばよかったか?
でもどうせデッサンは歪んでるし、描きたくない細かい箇所はテキトーだし、これが自分の画風なのだ。どうしても自然にこうなるのだ。これでいいのだ。
読書
「緑の瞳・月影」
ベッケル 作
スペインの国民的詩人ベッケルの幻想的短編集。詩人に疎い自分はこの作家を知らなかった。詩作は非常にわかりやすい平易で簡潔なもののようだが、この小説作品も同じく平易な読みやすい文体で、するすると流れるように読めて楽しい。幻想文学の王道を行くような内容で夢幻を楽しむことは出来るが、この作者ならではの特異な発想となると、いまひとつ感じられなかった。わかりやすいのだが…。
「白鹿」:狩猟を好む名将ドン・ディオニス一行はある山村で土地の男の不思議な体験を聞く。それは鹿の群れの足跡はあるのに鹿は見えず、精霊たちの話し声が聞こえ、不思議な女たちの話し声・笑い声とともに、一頭の白鹿が現れ他の鹿たちを連れながら走り去ったというものだ。一行のなかのガルセスという男が話を真に受けて川辺で夜を明かし、目の前に現れた白鹿を射ると、鹿が姿を変えた精霊は名将ドン・ディオニスの娘コンスタンサであった。
「怨霊の山」:そのむかし貴族と教団の間で戦いがあり、多くの人が死んだ怨霊の山。毎年万霊祭の夜が来ると亡霊が歩き出し狼どもが吠え回る。ある昼間、伯爵の息女ベアトリースは同じく子息アロンソと山を通った際、水色の肩衣(かたぎぬ)を落としてきたことに気付く。しかし既に万霊祭の夜。勇気を試される如く意を決して怨霊の山へ落とされた肩衣を探しに向かったアロンソ。明くる朝ベアトリースの寝室に置かれた血まみれの肩衣。そして山中で狼に食い殺されたアロンソの死体が発見された。
「はたご屋『ねこ』」:セビーリャ、サン・ヘロニモの修道院近くにあるはたご屋「ねこ」。古いながらもアンダルシア生粋のたたずまいを持つこのはたご屋に、人々は集い飲み、歌い、楽しく一日を過ごす。ひときわ美しい若い娘アンパーロ、彼女に思いを寄せるギター弾きの青年がいた。
しかし十年後、再びその地を訪れた時、はたご屋の近くには墓地が出来、人々は遠ざかり、店は寂れ、若い娘アンパーロは金持ちに引き取られてしまい、深い心の傷を負った青年はあわれ座敷牢の人となっていたのだった。
幻想文学の王道はほとんど悲劇である。
「緑の瞳・月影」
ベッケル 作
スペインの国民的詩人ベッケルの幻想的短編集。詩人に疎い自分はこの作家を知らなかった。詩作は非常にわかりやすい平易で簡潔なもののようだが、この小説作品も同じく平易な読みやすい文体で、するすると流れるように読めて楽しい。幻想文学の王道を行くような内容で夢幻を楽しむことは出来るが、この作者ならではの特異な発想となると、いまひとつ感じられなかった。わかりやすいのだが…。
「白鹿」:狩猟を好む名将ドン・ディオニス一行はある山村で土地の男の不思議な体験を聞く。それは鹿の群れの足跡はあるのに鹿は見えず、精霊たちの話し声が聞こえ、不思議な女たちの話し声・笑い声とともに、一頭の白鹿が現れ他の鹿たちを連れながら走り去ったというものだ。一行のなかのガルセスという男が話を真に受けて川辺で夜を明かし、目の前に現れた白鹿を射ると、鹿が姿を変えた精霊は名将ドン・ディオニスの娘コンスタンサであった。
「怨霊の山」:そのむかし貴族と教団の間で戦いがあり、多くの人が死んだ怨霊の山。毎年万霊祭の夜が来ると亡霊が歩き出し狼どもが吠え回る。ある昼間、伯爵の息女ベアトリースは同じく子息アロンソと山を通った際、水色の肩衣(かたぎぬ)を落としてきたことに気付く。しかし既に万霊祭の夜。勇気を試される如く意を決して怨霊の山へ落とされた肩衣を探しに向かったアロンソ。明くる朝ベアトリースの寝室に置かれた血まみれの肩衣。そして山中で狼に食い殺されたアロンソの死体が発見された。
「はたご屋『ねこ』」:セビーリャ、サン・ヘロニモの修道院近くにあるはたご屋「ねこ」。古いながらもアンダルシア生粋のたたずまいを持つこのはたご屋に、人々は集い飲み、歌い、楽しく一日を過ごす。ひときわ美しい若い娘アンパーロ、彼女に思いを寄せるギター弾きの青年がいた。
しかし十年後、再びその地を訪れた時、はたご屋の近くには墓地が出来、人々は遠ざかり、店は寂れ、若い娘アンパーロは金持ちに引き取られてしまい、深い心の傷を負った青年はあわれ座敷牢の人となっていたのだった。
幻想文学の王道はほとんど悲劇である。