漫画家まどの一哉ブログ
読書
「マンハッタンの怪人」 フレデリック・フォーサイス 作
初めて読んだフォーサイス。これは短いものだが充分楽しめた。 かの有名な「オペラ座の怪人」の後日談という設定。
怪人はパリ市内で多くの人々に差別され追われる身となるも、こころある一婦人の手によって密かにニューヨークへ亡命を果たす。そこで極悪人の若き相棒と手を組み、歓楽街コニーアイランドを拠点に自身はマスク(仮面)の男として身を隠したまま、ついに巨万の富を築く事に成功する。 いっぽう怪人をかくまって逃がしてくれたパリの婦人が病魔におそわれる。遺言として、いくばくかの預貯金をかのマスクの怪人に渡すよう、密命を帯びて遠路フランスから一弁護士がマンハッタンへやって来た。
と、ここまでの展開だけでわくわくするが、弁護士はあっさりと目的を果たし、協力者の新聞記者が語り手となる。大恩ある婦人からの遺言状を読むや、怪人はオペラ界への復讐に目覚め、大金を注ぎ込んでマンハッタンにオペラハウスを築き、パリから一流のオペラ歌手を招いたが、それは自分がかつてオペラ座の地下で愛した美しきプリマドンナであった。
「オペラ座の怪人」がそもそも悲しい恋の物語であるように、マンハッタンの怪人も美しきプリマドンナとの愛を再び手に入れようとして敗れ去るのだ。彼女のつれている少年のほんとうの父親が自分であるのを知りながら。 最後は極悪人の相棒の暗躍もあって、悲しい銃撃戦に終わるのだが、怪人はその後マスクを外して心正しく生きていくのだった。こんなエンターテイメントストーリが嫌みなく読めるのは、ムダを省いてしかもしっかり書き込んだ文体によるのだろうか。フォーサイスの文章はみんなこのような緊張感のある締まったものなのだろうか。それとも訳文がいいのだろうか。他のも読んでみよう。
読書
「脱獄計画」 アドルフォ・ビオイ・カサレス 作
この作家、ブエノスアイレスで若くしてかのボルヘスの薫陶を受けたとなれば、当然眼も眩むような幻想性が期待されるところだ。
フランス領のとある大西洋上の島。そこは島全体が監獄で3つの島に別れており、1つはそこで働く住人の島、ひとつは囚人が自由に動き回っている島、もうひとつ悪魔島と呼ばれる小さな島に責任者である総督が政治犯3人とともに住んでいた。主人公は役人としてこの総督の元に赴任するが、悪魔島へ立ち入る事は禁止されている。この設定だけで既に浮世離れしているが、クライマックスまでは静かに静かに、謎が膨らむ形で進行する。もっとも主人公の恋人や赴任命令を下した一族の長との葛藤等も描かれているから、現実に生きる人間を描く側面も忘れられてはいない。 しかしうわさによると悪魔島では総督が岩肌や家の壁を迷彩色に塗り分け、部屋の中まで迷彩に塗ってあるというではないか。これはどういう意味なのだろう。はたして総督は既に狂気の人なのだろうか?
主人公が何度か密かに悪魔島への侵入をくりかえすうち、ついに物語は急転する。悪魔島ただひとつの住居には天井のない5つの部屋に割り振られた監獄があり、その壁は赤や青や黄色に塗り分けられている。そして反対側の壁は一面の鏡。その5部屋の中央の部屋に脳手術をほどこされて、もはや正常な感覚を失った総督がいた。この島ではドクターモローの島の如く、まさに悪魔的な脳手術がおこなわれていたのだ。施術により5感が共通の感覚となってしまった囚人たちにとって、迷彩による視覚は果てのない遠景を現すのだった。視覚以外にも全ての感覚が混然となり遠方へ去ってしまった囚人たち。やがて彼らは幽かに触れるような謎の手によって次々と絞殺されてしまう。はたしてどうなるのでしょう。なんと不思議であることでしょう。
読書
「カロカイン」 カリン・ボイエ 作
1940年に書かれた近未来小説。核戦争後、徹底した監視と密告による管理体制をもって築き上げられた全体主義国家その名も「世界国家」。人々は個人としての幸福を放棄し、すべて国家の繁栄に身を捧げる事で人生をまっとうする。こどもたちも早くに親の手から取り上げられ、児童キャンプ・青年キャンプで国家の為の兵隊として教育されるのだ。
化学者である主人公は効果抜群の自白剤「カロカイン」を完成させ、公安警察に喜んで採用される事となった。自発的犠牲奉仕団の成員が告発によって「カロカイン」の実験台となり、内心の不平不満や迷い・困惑をだらだらと話しだす。法は改正され、国民は堕落した事を考えただけで処罰される事となり、こうして健全な国民のみによる完璧な国家体制ができあがった。
しかし「カロカイン」の作用は、主人公や人々に自己の本心を目覚めさせるという予想外の効果を生んだ。物語のクライマックスで主人公の妻は語る。我々の育てた子どもたちは明らかに我々の性格を併せ持った我々のもので、国家のものではない。同時に子どもたちはだれのものでもない本人自身の個性を持って生きている。我々は国家によらないほんとうの共同体(ゲマインシャフト)を実は求めているのではないか。
最後は他国による侵略によって主人公は捉えられてしまい、「カロカイン」政策の行方とゲマインシャフトの獲得はわからないままだ。ただし最終ページに添付された検察官の意見書によると、主人公はこの小説を書いたことによって国家の監視下におかれ、この手記(小説)自体は危険文書として管理されているというオチがついていた。
ナチスもスターリンも実際に見た作者カリン・ボイエ。これも初期SF作品というか古典的ディストピア小説だが、基本的には構成自体に初めからネタバレを含まざるを得ないので、このわざとらしさが気になるようでは完読はむりであろう。神意の如く国家を信じる主人公と内心に隠された迷いという設定で、読者はどうしても作為を感じてしまう。そこは作者の腕のみせどころで、単純な寓意に終わらない人間の描写あってこそ、近未来設定が生きてくるというものだ。むつかしいところだ。 (カリン・ボイエ:スウェーデンを代表する国民的女流詩人。1900〜1941)
読書
「白衛軍」 ブルガーコフ作
ブルガーコフと言えば、自分の中では奇想天外な幻想文学の作家としてとらえられているが、これはリアルでマジメなギャグの無い小説だった。しかし面白かった。
ロシア全土においてだんだんとボルシェヴィキの制圧地が増えてくる時代、舞台はロシア内ウクライナ地方の要都キエフである。1917年から1920年頃にかけてこの街を実質支配する勢力はネコの眼のように変わった。敗走を続ける皇帝の軍隊白軍と、勢力を増しつつある赤軍ボルシェヴィキ。その間にウクライナ地方の独立を図る民族主義者。それを傀儡としたいドイツ軍など。こんな場合街に暮らす民衆は誰の指令を受け入れて難を逃れるか、なかなかに容易ではない。
物語はこの街で医師として暮らす長男、その妹、学生である次男という三人のトゥルビン家の人々の戦いを描いたもの。長男アレクセイは軍医として、そして次男ニコルカは学徒兵として、ともに伝統ある皇軍の兵士となりキエフの街を守るために参戦する。しかしこの時点で既にソビエト革命は成立しているらしく、トゥルビン家の兄弟が出陣したその時、白軍の上層部は白旗を揚げて街から脱出してしまう。あわれアレクセイやニコルカは後ろ盾なきまま取り残されたのだ。このときキエフの街を制圧したのはボルシェヴィキではなく、ドイツ軍より権限を委譲されたウクライナ民族独立派のペトリューラ軍だった。キエフ市街でペトリューラ軍に包囲されるなか最も最後に包囲網を脱出し、我が家へたどりつくまでの兄弟それぞれの苦難の道が興奮するところだ。
さて作者ブルガーコフは既にソビエト政権が確立した後で、この白軍の人々に心を寄せた物語を書いており、この内容でソビエトで作家として食っていくのはまさに綱渡り的な離れ業であったらしい。その後スターリンと一時和解できたが、多くの時間を作家としては仕事を失ったまま過ごしたのだから。
自分はいつも菅野さんの「筋子」シリーズを最初に読むのだが、いつもにもましてすごい絵だ。なんでこんな絵で漫画が描けるのか?菅野さんがゲロ吐いた渋谷駅がぶっ壊れとるやないの。一貫して死と破滅のニオイが漂うこの世界は作者の年齢あってこそ描けるものと自分は思う。
新人賞の佳作「ユングフラウヨッホ」は絵も話もとってもいいですね。いや、漫画にとって絵と話はやはり一体となっているものですね。
奨励賞の「暖かい日陰に」も面白く読みましたが、絵がジミなのはいいとしても今後絵の魅力が増す事を期待します。ガロ派の表現はおとなしいが、やはり見せコマは存在するものですから。
新人作品のあとに本さんや河井さんの作品を読むとやはり作りにムダがないのを感じた。『モリミテ」が新展開だった。「茶番なカッパ」たちはなんとも可愛らしい。
「マガジンNo.1」
ほとんど炭子部山さんの漫画で埋められているが、自分はこの人のファンなのでどれを読んでもおもしろい。絵がやや乱暴だからメジャーには向かないのかもしれないが、画質に味わいがあって、ネタも愉快愉快。
久しぶりに斎藤種魚さんの漫画を読んで満足。これはずいぶん前に描かれたもののはずだが、コシヒカリものはやっぱり面白い。甲野酉さんの作品もずいぶん前に描かれたものだとおもうが、おなじみの男と女の世界だ。半私漫画だ。甲野酉さんは別冊の「イオリの場合」という中編もあって、現実に対して容赦のない世界がある。
香山哲も相変わらずツメコミすぎだが、ネタはおもしろい。
そんな友人以外の作品でも独自の絵を持つ作家ばかりで、おおいに気に入りました。
「うさぎのヨシオ」
この近藤聡乃さんの4コマ漫画が面白くて、毎日ちょっとづつ楽しんでおります。
映画(mixi過去日記)
「波止場」 ON the Waterfront 1954年
監督 エリア・カザン 出演 マーロン・ブランド、 エヴァ・マリー・セイント他
アカデミー賞8部門を受賞、実話に基づいて作られた社会派ドラマ。 手配師に指示されるままその日その日の仕事にありつく、ニューヨークの港湾労働者たち。だが実質ヤクザ組織の支配下にあり、給金すらピンハネされている始末だ。その不正を警察に訴えようとした者は、容赦なく暗殺され、仲間にはチクリ屋の汚名を着せられてしまう。
主人公、元ボクサーのテリー(マーロン・ブランド)は友人の殺される現場を目撃。友人の妹と正義派の神父が、ヤクザ組織との戦いを決意する中で、テリーの心もゆれ動いて行く。神父の立ち上げた集会に参加した労働者は殺され、ヤクザ組織の顧問だった法律家の実兄も殺害され、ついにテリーは法廷で証言に立った。
と、ここまではセオリーどおりの展開で、ヒロインや悪者の設定といい、あまりにもパターン的。実話がもとになっているとは言え、こうまでエンターテイメントの約束の中で作られると、まるでリアリティを感じない。なぜこれがアカデミー賞か?と疑問を感じるところ。
だが、主人公が証言に立った後がややリアルで、テリーは正義に従ったのだが、保身を第一とする港湾労働者仲間からは、サツにちくった裏切り者として扱われてしまい、仕事も失ってしまう。ついにヤクザのボスとテリーの素手の決闘となり、テリーは半殺しの目に遭うのだが、そのとき初めて労働者たちはヤクザの命令に背くのだった。
マーロン・ブランドって不思議な顔してるねえ。 かなり奥目で腫れぼったい上まぶたなのだが、濃い二重という複雑な目!
読書
「ミクロメガス」 ヴォルテール 作
フランスの啓蒙思想家らしいという知識しか持っていなかったヴォルテールが、こんな面白い小説をたくさん書いていたとは知らなかった。いずれも風刺と諧謔の楽しさにあふれた主知的な道楽のような作品で、自分の趣味には合う。
「メムノン」:メムノンはある日、これからは過度の欲求を禁じ、心静かに暮らす事が人間に幸福をよぶことに気付きさっそく実行する事にした。おりから往来で悲しむ女性に出会い同情し、その女性の家までついて行って身を寄せるほどにして慰めていると女性の夫が現れ、殺されるかカネを出せとすごまれるのだった。その夜は友人に誘われ、ほどほどにしておくならば良かろうと思いながら、べろんべろんに成る程酔っぱらってしまい、おまけにちょっとだけのつもりの博打で一人大負けし、ケンカで片目を失うといった悲惨な目に。博打の負けを支払うため翌日銀行にかけつけると偽装倒産していて街中大騒ぎ。あわてて君主に請願状を出すものの担当者は銀行家の味方でしかなかった。あわれメムノン。 そこへ6枚の羽を持ち、光り輝く頭も足もない守護霊が現れるのだが、そいつは常に見守っているだけで何の役にもたたないのだった。
「慰められた二人」:わが身の不幸を延々嘆き続ける貴婦人。哲学者は過去のもっと不幸な女王や貴婦人たちの例を話して慰めようとするが、いっこう泣き止まない。翌日哲学者はあわれにも自分の一人息子を失って気も狂わんばかりに嘆いていると、昨日の貴婦人が現れ、自分の息子を失った国王たちの一覧表を見せるのだった。
「ミクロメガス」:シリウス系星人のミクロメガスは土星の住人と連れ立って、小さな惑星地球へ旅してみると、その星はあまりに小さく、36時間で一周してしまった。足元の水たまりになにか蠢くものがいるとすくいあげてみると鯨だった。顕微鏡で覗いてみてはじめて人類らしきものを発見するが、まさかこんな小さなダニみたいな連中に魂や知性があるとは思いはしなかった。ところがその小さな生物がなにやら言葉を喋っているのに気付く…。
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「逃げてゆく鏡」 ジョヴァンニ・パピーニ 作
やはり自分は人生や青春を描いたものより、ふとした怪奇や奇想・幻想を使って世界を切り取ったようなものが好きだ。しかし書店や図書館の棚ではけっしてメインではない。謎に答えのあるミステリーではないからだろう。1992年にボルヘスの選で発行された懐かしの「バベルの図書館シリーズ」よりパピーニ(1881〜1956・イタリア)の短編を読んだ。
「泉水のなかの二つの顔」:廃れた庭園のなかの死んだ泉水。7年ぶりにそこを訪れたわたしは、覗き込んだ水面に、もうひとり若き日の自分が顔をならべているのを見た。以来7歳若い自分自身と行動を共にする。傲岸不遜にも時代遅れの理論をとうとうと並べ立てて陶酔しているこの鼻持ちならない男こそ、若き日の自分自身なのだ。ついに我慢できなくなったわたしは、その若き日のわたしを水中へと沈めてしまう。
「完全に馬鹿げた物語」:ある日突然やってきた見知らぬ男は、自分の創った空想物語をぜひ聞いてほしいと朗読を始めるが、それは不思議にも寸分違わず私自身の半生記だった。困惑と狼狽の極に達した私は、その創作作品を全否定するとともにその男を追い返すが、男はあっというまに川へ身を投げてしまう。
「きみは誰なのか?」:読者や関係者から届く手紙を毎日心待ちにしていた作者。ある日ぱたりと一通の手紙も届かなくなったと思うと、その日から街中のなじみの人々が誰一人彼のことを知らなくなっていた。絶望の日々のさなか、ある夜彼はついに気付いた。「わたしは自分にとって他人が存在しない人間なのだ」その答えを発見した時から彼の日常は回復する。
このような摩訶不思議な小品を読むと、実は作者は自分が存在していることに根本的な不安があるのではないか?と疑わざるを得ない。この不安は自分も根底に抱いているのかもしれない。
読書
「僕はどうやってバカになったか」 マルタン・パージュ 作
愉快愉快。つねづね多様な学問研究に頭を使い、もっぱら思索にふけって毎日を過ごしてきた主人公は、ある日気付く。知性に縛られて生きるより、バカであるほうがはるかに楽しい。
先ず手始めにアル中になることを目指し、酔っぱらいの指南も受けたが、ビール半分で病院に担ぎ込まれる始末。その次に自殺講座の受講生となったが、自殺方法を学習するや嫌気がさしてしまう。やがて彼は精神分析医に相談に行き、ウーロザックという安定剤の処方を受け、結果人格改造に成功。 大学講師の仕事に辞表を出し、精神を刺激する大量の本を処分。アジアの労働力を搾取する多国籍企業の商品を買わないことやエコロジストであろうとする事を放棄し、初めてマクドナルドを使い、ナイキやアディダスを身に着け、ゲームセンターへ浸るのだった。知り合いの伝手でブローカー会社の社員となった彼は、キーボードにコーヒーをこぼす失敗の結果、とほうもない大儲けの取引に成功し、一躍大金を入手。免許もないのに外車を買い、スポーツジムで肉体を鍛え上げ、とうとうかなりひどいバカになることに成功したが…。
ここで主人公が行っていることは、あらゆる凡人にとってフツーの、いや憧れのライフスタイルだが、少しでも知性や精神性とよばれる怪しげなものを抱えている人間には、身に覚えのあるいささか恥ずかしいおかしさがある。知性ひとすじも確かにバカだが、はたしてこの人格改造は幸福なのか?我々は所詮二股かけて歩いている。
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「ジョゼと虎と魚たち」 田辺聖子 作
文庫本に収録されている短編はどれも三十代なかばくらいの働く女が、相手の男ととの微妙な心の距離感をつぶやいたもので、それなりにおもしろい。たとえば昔の恋人である男や、これから別れようとする男、親戚にあたる十代の若い恋人。みんな侠気を前面に押し出す暑苦しい男ではなくて、どことなくぼんやりしたような、いい意味でスキがある、こちら(女)の気持ちもつい緩んでしまうような男ばかりが出てくる。 熱愛ではなく、これから付き合うのかどうするのか、中途半端な気持ちのままいわゆるまっとうな結婚・子育てから一歩身を引いた女たちの生き方に、そんなんもありかと納得してしまう。
そんな短編群とちょっと違う表題作「ジョゼと虎と魚たち」が、やはりひときわ面白かった。 主人公のジョゼは子供の頃脳性麻痺と診断された脚の不自由な25歳の女。ばあちゃんと暮らしていたが、ある日坂道をジョゼを乗せた車椅子が転がり下りだしたとき、坂の下で車椅子を止めて救ってくれたのが大学生の恒夫だった。 外出が少なく実際の経験もテレビで見た経験もごちゃまぜになってしまうジョゼ。サガンの小説に憧れて自分の名前をクミからジョゼに変えたのだった。 やがてばあちゃんも亡くなり、ひとりぼっちになったジョゼだが、そのころからジョゼと恒夫はほんとうの恋人になった。
身障者であるからなのか、ジョゼが恒夫に下手に出ていないのがよくって、「こら管理人」とか「アホ、死ね!」とか強気に喋るが、恒夫は心のおおらかないいヤツでぜんぜん怒らないばかりか、ジョゼの気持ちを全部肯定してあげるんやな。屈折したジョゼにぴったり寄添っていけるいいやつなんよ。そんなやりとりが面白くて、ジョゼは恒夫が大好きなのに、ふだんは不機嫌な命令口調。恒夫は「なんでこないボロクソに言われなあかんねん」とぼやきながらのドライブや動物園や水族館でのデートが、読んでいてとても心温まる。このふたりの心のつながりが伝わってくる。 同棲している小さなアパートでふたりで寄添って寝ているとき、ジョゼの感じる「アタイたちはお魚や「死んだモン」になっている」という完全無欠な瞬間の幸福観にこころ打たれた。