漫画家まどの一哉ブログ
読書
「二百十日」 夏目漱石 作
碌さんは学はありそうだが体力はない。圭さんは豆腐屋出身で体に自身はある。この二人が阿蘇山の麓の旅館に陣取って、明日にでも火口へ登ろうかという計画である。圭さんは温泉につかりながらも口をついて出るのは、華族や華族にとりいって出世を図ろうとする資本家どもの悪口である。自身の境涯を省みるにつけても支配層への恨みがつのる。いつかはこの連中を倒し世の中を変えないではおくべきかと悲憤慷慨だ。
この旅館、ビールはないがエビスはあるのが面白い。
さて翌日阿蘇山へ登ろうとするもあいにくの荒天。それでもかまわず登っていくが、あたりは霧か煙かで視界は閉ざされ、火口あたりを右往左往するうち雨はだんだんと強くなり、とうとう溶岩が通った後の深い溝へ落ちてしまうのであった。というさんざんな観光の顛末。
漱石の時代、まだまだ正義感が純粋だなと思う。併読した「野分」という作品ではカネや出世に拘泥する生き方を軽蔑し、高潔なる理想を追い求めて教職を棒にふってなんとも思わない白井道也なる人物が登場するが、これも道というものについて純粋な人間である。近代化が始まって立ち回りのうまい資本家ばかりが肥え太り、平民が苦労にあえぐ社会を見たとき、これは間違っている。いつかこの方向を変えて、平民が恵まれるほんとうの世の中にしなければウソだ。と漱石も感じたのだろう。
それも社会主義革命ではなく、道徳的に正しい社会を追い求めているところがあると思う。労働運動も始まっていないし、社会主義運動の挫折も経験していない時代だ。作品の登場人物たちも資本と国家権力の恐ろしさが身にしみていないようだ。リヴァイアサンを知らず、高徳なる人士を育てることによって社会をよく出来ると信じるところ、やはり国家資本主義がまだまだ身にしみていないのだなあという気がした。