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漫画家まどの一哉ブログ

   

読書
「こころ」 夏目漱石
 作


漱石は当初短編連作として構想していたらしい。どうりでこの作品は構成がヘンだ。話は大きく「先生と私」「両親と先生」「先生と遺書」の3つに分かれているが、キモは3つ目の「先生と遺書」であってそれまでは前フリ。はたしてこの先生の謎めいた生活の理由は?死者となった友人とのあいだで過去になにがあったのか?などミステリアスに興味は引かれていくが、それ以外はこれといって書く程のことは起きない。語り手の私はまだ学生で、田舎の両親のことや進路のことで思い悩むが平凡なことである。それにしては長い。全体の構成の2/3が私と先生の不思議な交流で、なんということはないが文章が読みやすいので読んでしまう。もちろん読みやすいとは平易という意味でなく、うまいという意味である。


ところでこの作品は中学生からの文学入門書のごとく文庫化されているが何故だろうか。登場する友人Kが、明治期にはたくさんいたかもしれない求道的な人物で、それ故にさほど求道的でない私(先生)のエゴイズムが際立って見える。しかし繰り広げられる恋愛上のエゴイズムは誰にでもある人類共通のもので、そんなに後悔することもなかろうと思うが、友人Kがそのために死んでしまっているという図式によってテーマとして立ち現れてくる。つまりこの小説は自然主義リアリズムとは無縁のテーマ小説で、わかりやすい設定を使ってあるために教科書的に扱われるのかもしれない。


では何故、漱石はエゴイズムをそんなに問題としたのか?そんなことがこの時代の漱石の人生を省みて分かるだろうか。エゴイズム自体について考えるのは別にしても。他のものも読んで、なんとなく漱石とはこういう人間だったらしいと感じることにしよう。


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古いアルバムを実家から救出。


おそらく1950年前後のどこかの風景


おそらく1950年前後のどこかの動物たち


これも1950年前後の街角。写っているのは結婚前の若き父親。まだ生きている。


昭和史には「森永ヒ素ミルク事件」というものがあったのだ。
そんな事件の終わった後なので、かえって安全だろうという判断のもと、
森永ドライミルクで育ったワタクシ。


1959年ごろの父親の実家台所。お釜が時代を感じさせる。
懸命にものを運ぶワタクシ。


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読書

「奇跡の脳」 ジル・ボルト・テイラー 著

 

脳神経科学者である著者が脳内出血に襲われ、言語中枢など左脳の機能を部分的に失ってしまう。その失われる過程とその後の数年間のリハビリによる回復の様子を綴った希有のレポート。右脳と左脳の役割の実感など、プロによる自己分析がすばらしい。

先ず発病の朝、感覚の異常さから自身の左脳の役割がどんどん衰えていく描写が生々しい。どのニューロンが働かなくなって、自分の感覚がどう変化してゆくのかを如実に体験描写している。そのあと得られた境地が右脳による支配であって、実にこれが宇宙との一体感・ニルヴァーナというものだった。

左脳はそもそも世界と自分との境界を設定し、時間を与え、ものごとを分析し計画し、この世界でわれわれが行きていくための段取りをつけているのだが、この機能がなくなるということは、世界と自分の境界は消滅して自分は宇宙の一部となり、個体は消失して流体となり、宇宙の全てのエネルギーと結ばれた存在であるという至福の境地に浸ることができるのだ。

 

これは脳科学の間では回答とされていた、宗教的な涅槃の状態が、実は脳神経の特殊な作用によるものであることの実証である。だからといって著者はこの状態を異常なこととして退けるのではなく、人間のより幸福な生き方の手がかりとして意識して行きていくことを呼びかけるのである。左脳に支配され過ぎの現代人にとって、右脳の働きを呼び覚ますことは、これからの人類社会にとって実に大切なことなのだ。そしてそれは宗教的体験に頼らずとも、脳の働きを理解した上で意識的にたどりつける世界なのである。

 

和訳は竹内薫、文庫本の解説は養老孟司と茂木健一郎と、役者が揃ってる。

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読書

「犬神博士」 夢野久作 作

 

タイトルからしてマッドサイエンティックな話かと思いきや、筑豊は直方を舞台としたひじょうに土着的なスペクタクルだった。なにしろ主人公犬神博士がまだ7歳の頃の話で、この少年は女の子の着物を着せられ両親の太鼓と三味線にあわせて大道で踊りを踊っているのである。両親は大道芸とインチキ博打で世を渡っているのだが、この少年は踊りの天才であるだけでなく、ひじょうに利発であり行動力にも優れていて、物語の果ては玄洋社と官憲及び地元ヤクザとの大ゲンカのシーンにも活躍するのだからたまらない。まさにスーパーな少年で、痛快な思いで読んでいるとその後の人生を語らないまま未完で終わるのである。

そんなわけで不思議な事はなにも起きない。怪奇幻想文学ではないのだが、現代人である我々から見ると明治期の地方都市の風俗をこんなにも濃厚なイメージで描かれると、それだけで幻想味を帯びて感じられるというものだ。

文章に賑やかさがあって、一文の中に面白いことがたっぷり盛り込まれているので読み応えたっぷり。濃密であって難解でなく、通俗的であって下品でない。これぞ夢野ワールド!と自分が言うまでもない。

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読書

「怪異考/化物の進化」 寺田寅彦 著

 

夏目漱石の弟子と言っても寺田寅彦は科学者であるから、これは物理学を基本としたエッセイである。極めて理知的で整然としていながら味わいのある文章で楽しい。もっと早く読んでみるべきだった。もっともちらちら顔を出す物理学の知見は自分のようなバカにはぼんやりとしか分からないが、それでも著者がなんとなくカオス理論的なことに触れているらしいことは気付く。例えば「偶然」ということについて繰り返し語られていて、ほんの少しの精子と卵子の出会いが違っただけでナポレオンは誕生せず、ヨーロッパの歴史は違っていただろうとか、宇宙から飛来する宇宙船が脳内を通過することによって偶然どんな影響を及ぼしているかも分からないなどなど。これこそ近年流行った非線形科学、バタフライ効果についての先駆的考察ではあるまいか。

 

そんなことは素人の私が深入りするまでもないが、人魂や鎌鼬(かまいたち)に関する科学的見解がおもしろい。なんでも高知県の海上には昔から不思議な地鳴りのようなものがあってジャンとよばれているのだが、これがこの地域の断層帯の運動によるもので、昔から何回かの大地震の頃頻発し、近年になって収まったのかその噂をきかないが、やがてまた活発化することもあるかも知れないなど、地震の情報に敏感になった現在読むとおおいに納得できるものである。

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読書

「午後の曳航」 三島由紀夫 作

 

大人にとっての具体的現実とは経済的現実のことであるが、少年はこの経済的現実を肌身で知りようがないだけに、世界に対して観念的な全能感を持つ。そして中学・高校と進学していくにしたがって、自分の能力的限界を知ることになるのだが、三島文学で特徴的なのは主人公の少年が早熟な秀才であること。つまり周囲と比べても自分の限界を知ることがない。そして家庭が裕福でおそらくこの先人生で経済的限界を知る必要がない。これでは空想的全能感にブレーキがかかることがないわけで、逆の意味で世界をつかみ損ねる男になるだろう。

 

さてこの作品の少年たちは、海の男であることを捨て模範的な父親になるべく陸に上がった人物を、堕落した存在として処刑しようとする。ここでは少年は性的な意味ではまったく早熟でなく、理想とされる男性像は家庭を捨てて未知の世界へ挑む冒険家なのだ。主人公の少年が大人たちのセックスを覗き見るのは、男としての性的好奇心からではない。異性を省みない男性が理想としてあるのだ。

この理想的男性像が三島自身の理想的男性像であったということはなく、あくまで劇中の典型として設定されたものと思うが、なんとなく三島の好みそうなニュアンスは感じる。ここに三島の世界があって、こういった世界がヌメヌメ・テラテラした美文で絢爛豪華に展開されているので、読んでいると驚いたままくらくらとなってしまう。

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読書

「走れトマホーク」 安岡章太郎 作

 

「海辺の光景」や「質屋の女房」など以前楽しく読んだので手に取ってみた後期短編集。

 

著者あとがきによると50歳前後から小説の書き方が自然と変わってきたそうで、往々にして作家は歳をとるにつけ物語性から遠のき、身辺雑記的な作風に変わってゆくのが前から自分は不満なのだが、この短編集もそんな気がした。もともと自身をモデルとした私小説的な作風は変わらないが、やはり若いころのほうが面白かったようにおもう。

 

それでも人生に対して張りつめない、どこか投げやりな感じは相変わらずあって心地が良い。その投げやりな感覚の原因は子供の頃からの引越しと落第で、「聊斎私異」は落第を「野の声」は就活失敗を扱った短編だが、たかが落第くらいが一生のテーマになっているところが愉快だ。

 

たとえば「テーブル・スピーチ」は結婚披露宴の現場で、新郎である友人とのかつての様々な出来事を回想しているが、やや冗漫な気がして読んでいると突然人が死んだり狂ったりして、平凡な家庭の幸福をうすっぺらく感じてしまうというお話。結局作者は人生で成さねばならない平凡な暮らし方にも、どこか本気になれない虚無感のようなものを抱いていたのかもしれない。(講談社文芸文庫)

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読書

「グッド・バイ」 太宰治 作(新潮文庫)

 

太宰の小説は名人の落語を聞いているように心地よく読める。「人間失格」によれば太宰は少年の頃より道化を演じることで社会をくぐり抜けてきたそうだが、自分の読後感ではどれを読んでもその本質は変わっていない。悲惨な内容でもユーモラスな語り口で楽しい。もちろん根本的に太宰が苦悩を背負った人間だとは理解するが、人前に出すものは必ず道化的技術によって加工されていて、ここが苦悩を苦悩らしく出されるよりも自分の趣味に合う。そもそも葛西善蔵や嘉村礒多のような苦闘する私小説にしても、それが作品足り得ているのは必ず料理人としての技術があるからで、苦悩だけではちっとも面白くないはずだ。

 

たとえば「饗応夫人」など、主人公の未亡人は来客を断ることができず、常にもてなしに奔走して病に伏してしまうのだが、この主人公を憐れむよりもその極端な気弱な人格が愉快でコントを観るようだ。太宰はダメな自分のしでかすことや、身の回りで起きる困難をつぎつぎと繰り出してくるが、必ず第三者の目で見て茶化している。それがドタバタ劇を見るようで、あれあれこんなにダメなことを繰り返すよ!といったおかしさがあるのだ。

 

ところでスラスラと読まされてしまうのはおそらく会話やセリフの妙だね。「冬の花火」「春の枯葉」など、あまり笑いもない戯曲で、しかも敗戦後日本の相変わらずの前近代的な問題点を登場人物がべらべらと喋るのだが、まったく鼻につかず、しかも真実味を帯びているのはここにこそ技術があるというもんだ。

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読書

芥川龍之介全集6

読んだことのある名作も含めて、筑摩文庫の一巻を読む。

自分は芥川ファンだが感想は世間一般に言われているもの以上の言葉をもたない。おもしろさの理由を寓意や風刺や狂気といってしまうと作品の外周をぐるぐる回っているに過ぎない気がするが、多くは他に方法を持たない。そうやって評価しても追いつかないのが名作の名作たる所以か。

ここで漫画界のことを持ち出してすまないが、大枠でしか語らない文化論的な漫画評論がつまらないのと同じ気がする。

 

芥川は古典に材をとった技巧を凝らした寓意溢れる短編もあれば、身辺雑記的に日常を描いた私小説的なものも多くある。この身辺雑記的なものは、なにが面白いのか分からないままスラスラと読まされてしまって退屈しない。おそらく文章にその秘密があるのかと推測するが、小説家でない自分にはわからない。

それでも晩年の「歯車」「暗中問答」「或る阿呆の一生」などは単なる身辺雑記を遥かに越えた鬼気迫る内容でぞくぞくとする。私小説という枠でみれば自己批判や自己憐憫はつきものだが、そんな余裕を感じさせない脳神経の疲弊が描かれていて恐ろしい。精神性云々よりこの病的な感じが、たとえば死の直前のゴッホの作品をみるようなザワザワとした印象だ。この精神状態で作品が成立していることが希有な事例で、じっさいこのあとは死か発狂しかないといったところだったのだろう。もし芥川がこのあとも書き続けたとしたら、破綻したものになってしまっている可能性もある。ここで終わったのが良かったのか悪かったのか…、考えてもしかたがない。

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読書(mixi過去日記)

魯迅と「阿Q」その他 

 

魯迅というと「阿正伝」が有名だが、他にも種類の違った短篇を書いていて、けっこうおもしろい。たとえば「孔乙己」という作品に出てくる落ちぶれたインテリや、「故郷」に登場する困窮した農民の友人などは、ボクの好きな人物だ。まったく偉くなくて、おとなしい人間。細々と情けなく生きている。

「阿Q正伝」にしても、主人公阿Qは負ける一方だがケンカもする、けっこうアッパーな男だが、思慮は浅く、その日暮らしでいいかげんな人間だ。また和を持って尊しとしないトラブルメイカーでもある。こんな人間はいつの時代にもいるのが愉快だ。

 

魯迅を評するに当時の中国の時代背景や、魯迅の民族に対する問題提議をもってするのは、まあ常だろうが、小説自体はそんな状況とは無縁にとても楽しく読めるもので、阿Qの住む街にも金持ちや貧乏人がうようよと、それこそリアルに描かれていて痛快だった。 

これが当時列強の支配下に置かれようとしていた中華民族特有の社会であるとはとても思えない。おそらくいずれの世の中だって、強い者と弱い者がいて欲望に正直に生きているかぎり、こんなものだろう。ボクはそれがおもしろい。 

 

「眉間尺」という一編は、首が飛んで喰らい合う復讐劇で、圧倒的な幻想文学だ。こんな作品も書くのか。菅野修の「剣」という作品と似ていた。

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