漫画家まどの一哉ブログ
「アダムとイヴ/至福郷」 ブルガーコフ 作
大好きなブルガーコフだが、戯曲を読むのは小説とはまた違って、どうしてもやや大味な感を受ける。内面に深く切り込むような作品でなく、社会の外貌を描くアイロニカルな作風だし、相変わらずとぼけた笑いもあって、いささかコント芝居のような印象を勝手に描いてしまう。ブルガーコフの友人ザミャーチンやチェコのチャペックの例をみても、社会主義黎明期は科学技術の画期でもあったのか、初期SFの設定がおもしろい。
「アダムとイヴ」:敵国の毒ガス攻撃によって一瞬にして壊滅したレニングラード。エフロシーモフ博士の開発したカメラから発する光線を浴びた数人の人々だけが生き残った。残された共産党員代表として統率を図ろうとするアダム。だが唯一の女性イヴの恋心はアダムからエフロシーモフへと移り変わっていく。そんな中、残された者の期待をのせて飛び立った仲間の飛行機が戻ってきたが…。
「至福郷」:天才技術者レイン曰く、時間は虚構で過去も未来も存在しない。この理論を実践するカタチで生み出された時間飛翔機。イワン雷帝を過去から呼び出し、自身は他の人間とともに2222年へとタイムスリップしてしまう。ところがその中に病的窃盗狂のミロフラーフスキーが混じっていた。はたして未来のソビエト至福郷の世界とは?
映画
「パルプ・フィクション」 1994年 アメリカ
監督 クエンティン・タランティーノ
出演 ジョン・トラボルタ、サミュエル・L・ジャクソン、ブルース・ウィリス
ヤクザやマフィアが出てくる映画をあんまり観ていないので、突然銃殺シーンなど出てくるとそれだけでドキドキしてしまう。アウトロー(または刑事)の二人組がたわいのない冗談を交わしながら、緊迫したシーンに臨むのはエンターテイメントの常道であろう。これが人物に必要以上に性格付けしてあるとわざとらしくて見るに耐えないものとなるが、ジョン・トラボルタとサミュエル・L・ジャクソンのコンビは存在が納得できる範囲で良かった。実録ヤクザ映画ならもっとそれもんのアウトローが登場するだろうが、フィクションの場合人物のリアリティがむずかしい。漫画で言えばつげ忠男作品にはリアルなチンピラも出てくるが、いかにも個性を味付けされたキャラクターも出てくる。これが許せる範囲かどうかは、人それぞれエンターテイメントの楽しみ方によって変わってくる気がする。いかにも映画のために作られた人物でも、描き方によって単なるストーリー進行のための道具で終わらない魅力が出てくるのか、リアリズムでなくてもそうなる場合があって、この作品は成功していると思う。
ボクサー役のブルース・ウィリスが、SM嗜好の男達に偶然捕まってしまい、日本刀を持って切り抜けるなど、ふざけたネタ満載だがコントにならないところが不思議だ。味わいというとちょっと違うが、奇妙な空気感があって、大げさに言えば鑑賞してしまう。すべてのドタバタネタが許せる。
ところで以前反薬物依存キャンペーンの漫画を描いたときちょっと勉強したので、薬物に溺れるシーンは怖かった。
読書
「上海」 横光利一 作
やはりスタイリッシュというのがいちばん合っているのだろうか?これぞ新感覚派という作品。既成の概念に沿って物事を整理しない、視覚・聴覚・嗅覚の感じるままに描くという点では、みごとに面白さが出ていると思う。1925年当時の猥雑な上海の様子が手に取るように伝わってきて、文章の魅力・迫力を存分に感じた。もちろん当時の上海を知らないから言えるのであるが。
五感で感じられるものの描写は申し分が無いのだが、それは内面を描かない方法であるとも言えるわけで、人物のリアリティが感じられず読んでいて虚しかった。主人公は貿易商社のかっこいいビジネスマン2人で、こいつらが虚無主義者なのであるが、なぜ虚無主義者なのかがわからない。長身で体つきもよく、トルコ風呂やダンスホールに女友達もいる。そんなどこかニヒルな商社マンという設定は、よく出来たエンターテイメントの主人公でしかなく、相手役のヒロインには夜の街で働く頭のキレる女や娼婦へと身を持ち崩す哀れな女、はては中国の美人革命家まで登場するが、役どころ以上の生々しさがない。まさに娯楽映画としてみれば申し分ない配役なわけで、映画的という意味では、それこそ五感に直接うったえる新感覚派ならではの狙いどおりの出来映えであった。
それだけになにを読まされているのかわからなくなってくる。5.30事件の排日・排英騒擾の展開はなかなかにスペクタクルで、街はたいへんなことになっているので読んでしまうのだが、いかんせん登場人物に上滑り感があり、では社会派小説かというとこれも表面的。文体自体はリズム感も緊張感もあって楽しいのに、なんだろうこの不毛な感じ。マルロー「人間の条件」にも虚無的なテロリストが登場するがこんなじゃなかった。
映画
「知りすぎていた男」 1956年 アメリカ
監督 アルフレッド・ヒッチコック
出演 ジェームズ・スチュアート、ドリス・デイ
少しだらだらしていると言われればそうだが、自分は緊張感を持って観れた。オープニングでオーケストラのシンバルが大写しになり、この話のキーになる小道具だと分かる。やがてまさに殺人は、そのシンバルが大きく打ち鳴らされる瞬間に拳銃の引き金が引かれるというクライマックスに及び、ヒロインの叫び声のため犯人は銃を撃つタイミングを逃すというオチがつく。それまでの演奏会場でのはらはらする引っぱりは、まるで作家が描きながら解決策を考えているくらい長かったが、けっこう楽しめた。
ところが実はこのストーリーはここで終わりではなく、このあと人質となった子供を救出する展開へと繋がる。シンバルのシーンはクライマックスではなかったのである。大使館に子供が囚われていることが、ヒロインの歌声に呼応する子供の口笛でわかるのだが、これも物語の最初にホテルの部屋で親子で歌うシーンがあって、ちゃんと伏線が敷いてあるのだ。
ということはシンバルのタネと歌のタネの2つの仕掛けが重なって仕掛けられているわけで、これは自分は失敗だと思う。オーケストラの演奏会場で殺人が未遂に終わって話も終わるのが納得できる。その他スパイの変装や、実は悪人の牧師、動きの鈍い警察、善人過ぎる主人公など、今観れば手垢のついた設定でも面白ければまったく気にならない。アナログ時代のサスペンスの楽しさ!
読書
「暗室」 吉行淳之介 作
吉行なので言わずと知れた肉体関係の話だと思っていたら、はたしてそうであった。
それでも最初のほうのエピソードでは、主人公の青年時代に田舎の親戚の子だくさんの家で何日か静養していると、白痴に近い少女がひっそりと屋根裏部屋で暮らしているのに気付く。その少女は実はある有名な理学博士の妹で、若くして博士号をとった天才理学博士は、卑劣過ぎると噂される人間なのだ。
まるで横溝正史のようなおどろおどろしい話がこのあとどう繋がるのだろうかと期待していると、この話はこれっきりなのである。そしてけっきょく主人公と複数の女との愛をともなわない肉体のああだこうだだけがつながって行き、やはり吉行は得意なものしか書かないのかなと思った。
肉体以外の関係を持とうとしない男と女の心情を理解できる自分ではないので、ここからこの主人公の男(作者)の虚無と孤独を感じられるのかと言えば正直わからない。主人公は欲望のままに女の体を貪っていても、ああ楽しい楽しいというわけではない。相手の人格ごと愛することができないのだから、結局孤独感しか得られないのはあたりまえで、自慰行為と同じ理屈だ。そして実はほんとうは誰しもそうなのかもしれない…というところが実に吉行文学であるわけで、なんとも虚しい営みではある。
吉行の性的描写はエロチシズムとはまるで違う寒々としたものだから、耽美小説を読むようなノリでは歯が立たないのだが、この人間観に同意できるとすれば読む側の体質であるしかない。子供を作って人生を建設していくこととは真逆の、虚無を確認するためのようなセックスを読ませられて読んでしまう。それが楽しいわけではないから不思議なものである。
読書
「倫敦塔・幻影の盾」 夏目漱石 作
ご承知のとおり漱石はロンドンに留学していたわけで、この短編集はロンドンを舞台にした作品を集めたものかと思っていたら、ふつうに明治日本の話もあり、要するに初期作品集であるらしい。それでも紀行文形式でロンドンを描いた「倫敦塔」や「カーライル博物館」はおもしろかった。「カーライルの顔は決して四角ではなかった。彼は寧ろ懸崖の中途が陥落して草原の上に伏しかかった様な容貌であった。細君は上出来の辣韮(らっきょう)の様に見受けらるる。今余の案内をして居る婆さんはあんぱんの如く丸るい。」はっはっは愉快愉快。
「幻影の盾」は不思議な魔力を宿す盾をもって、敵味方になってしまった愛する姫君を救い出さんとする若き騎士の話。幻想文学の王道を行かんとするような設定だが、結局盾は話の中であまり役割がなく、やはり幻想文学は漱石の得意とする範囲ではないと思われる。
漱石はアーサー王と円卓の騎士の話をおもしろがっていて、「薤露行」も「幻影の盾」もこの有名な物語を下敷きとして書かれているらしい。元ネタを知っていたほうがスラスラ読めただろうと思う。ランスロットの名前くらいしか知らなかった。
これら海外を舞台にした作品と比べて、近代日本の生活を描いた作品は、なかなかに描写がしつこく、そこをまだ書くかという偏執狂的なこだわりようだ。漱石は現実に即した作風で観念的な世界は出てこず、心理描写も常識的に理解できる内容だが、あっさりとは書かれておらず、いくら言葉にしてもまだまだ足りぬといった粘着質が感じらた。でも読んでいて飽きるということはない。
「淫女と豪傑」 武田泰淳 作
少ない読書体験で申し訳ないが、武田泰淳はなにを読んでも面白いな。ここに集められた中国を題材にした短編は、近代的な人権思想に目覚める以前の、残忍で欲望に忠実な、動物的な生命力にあふれた人間達が登場して痛快なおもしろさに満ちている。淫女と言うより烈女であって、あっさりと人を殺してしまうから、いきおい作品も物語的になる。
そうは言ってもいちばん良かったのは「盧州風景」という作品だった。やがて儚く死んでいく一看護婦の大陸での暮らしが、盧州の風景描写とともに綴られるのだが、その描写がなんとも寂しく美しい。遥か故郷を遠く離れて生きていく医師と看護士。べつに野心があってそうしているわけでもなく、これが与えられた運命なのだが、まさに人生は漂白だなあと思わされる。大陸にいると大きな歴史の流れに漂う人間の運命が、よりまざまざと感じられるのかもしれない。主人公は淫女でも烈女でもないが、楊(ヤン)さんという同僚の看護士が対照的にたくましい女性で、この人にとっては盧州も地元だからだろうか。
巻末に「淫女と豪傑」という短い評論があって、同じ事件でも豪傑の側から書いたのが「水滸伝」、淫女の側から書いたのが「金瓶梅」ということらしい。やはり「金瓶梅」のほうがおもしろそうだ。
「未来の回想」
ジギズムンド・クルジジャノフスキイ 作
80年以上前に書かれて現代によみがえった、まさに作品自体がそれである独自のタイムマシン小説。いわゆるSF小説の範疇に間違いなく属するにしても、まったく痛快な読み物ではなく、どちらかというと詩的言語を駆使して展開される世界は、読みにくいものだ。「トラックは蒸留酒を飲むのをやめると、酒臭い口臭を吐き出していた。屋根の勾配の上では、ラジオの音が、針金製の蜘蛛の巣を編みはじめていた。円口類の伝声管が周囲に何千という貪欲な耳殻を集めていた。バスの雄牛が、膝のスプリングを痛めながら、窪みから窪みへと体を揺らしていた。」など、けっして悪くはないが情景描写をことごとく何らかの比喩で表現しなければならないとも思わない。
それより時間に関する物理学的・数学的論理展開にもページが割かれており、その辺りは小説に馴染んでいる感じはまったくせず、自分などはおおいに苦労した。それでも通常の小説のように、主人公がタイムマシンを仕上げるまでの世間的苦労、金銭的苦労は、ソビエト革命へと移り変わる歴史的背景の中で面白く描かれていて、そこは読み慣れた小説のたのしみがある。
まさに混淆といったおもむきで、なんとか読み終えることができたものの、個人的には初めて食った外国料理のようなもので、咀嚼に時間がかかる。
「かつて描かれたことのない境地」
残雪(ツァンシュエ)作
幻想文学好きの自分としては、ポーやホフマンに繋がる者としてエリアーデやブルガーコフを愛読するところだが、この残雪も欠かせない作家だ。カフカ的という言葉でしばしば寓意的な小説が意味されるが、これは小説の意図を理解しようとする悪癖からくる解釈であって、不必要な評価だ。残雪こそ本来的な意味でカフカ的世界に寄添う作家だと思う。と言うより残雪はカフカと並んでまったくオリジナルな幻想世界を持つ作家である。
なにかしら常に暗闇の中を歩くような、周囲の状況が曖昧で判然としない、まさに夢の中の出来事のような作風。理不尽な状況。これこそ世界に投げ込まれている人間の生々しい感触ではないか。
「ライオン」:動物園からライオンが逃げ出して街の中にいるはずで、非常に恐ろしいのだがはっきりしない。ある人の家でライオンが飼われているのを見たとか、ある人が襲われて死んだとか噂を聞くが、なんとなく街のどこかにいそうだというだけで日常が進んでいく。
「少年小正」:山中の野草を食べることで超人的な能力を身につけた先生は、部屋の中で大きな模型飛行機を少年に作らせるが、その飛行機の中には甲虫のたくさん入った細口壜が仕込まれている。彼の父親は不思議なことに飛行機を壊さずに、その細口壜を取り出すことができる。飛行機は完成しても飛ぶことはなかった。
「そろばん」:故郷の者だという見覚えのない男に連れられてホテルで会話してみると、故郷は水害にあったという。もともと炭坑の街だったが彼はまったく故郷のことを覚えていない。いつのまにかポケットに小さなそろばんが入っていて、どうやらそれが唯一の故郷と繋がる証拠らしい。彼は地下室に連れていかれ難詰されるのだった。
どうにも納得いかない状況ばかりが連続して、出口がない日常がくりかえされる。
「転△生」 甲野酉漫画全集1
甲野酉作品はそのおとなしい地味な表現ゆえに、ひょっとして私漫画のような文学的な世界を予想すると違うのである。いかにも漫画ならではの面白さで構成された短編ばかりで、幻想的で奇怪な事件が起り、解決されないままさらにエスカレートして終わるといった作風。わかりやすい漫画的記号によるデフォルメやキャラクターデザインがなくても、漫画ならではの楽しさを得ることは可能なことが解る。「受験霊」「ある病院にて」など、とぼけた妖怪や精霊が出てくる話が愉しい。
学校という空間は、人間関係の距離の取り方や社会の中での自身のポジショニングなどを、露骨なカタチで浮かび上がらせるところだからだろうか。甲野酉作品には学園ものが多い(学園ものという言い方で想像されるモノとはかなり違うけれども)。作者は社会と独特な距離感を持っていて、まるで自分が仮面をつけた存在であるかの如く、自身をも社会をも客観視している。この立場から見た世界が活きてくるのが学校という題材なのかもしれないが、ほんとうのところはよくわからない。
ところで学園漫画は教室の机・椅子を正確なパースで描くのが面倒そうですが、教室という設定を最初に解らせてしまえば、あとはほとんど背景がなくても全く不自由しないことに気付きました。
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