忍者ブログ

漫画家まどの一哉ブログ

   
読書
「山ン中の師見朋成雄(シミトモナルオ)」
舞城王太郎 作


福井県の田舎町に住む中学生の成雄は、オリンピック強化選手に誘われるほど足が速く、頑健だ。代々背中にびっしり毛が生える体質で、その動物的な自分を嫌い、通称モヒ寛なる山中に住む書道家中年男と相撲を取ったり、書道を習ったりして過ごしている。
ある日森の中で馬に出会い、モヒ寛が瀕死の大けがをしているのを発見してから、事件は展開。
秘密の館で繰り広げられる、女体盛りとカニバリズムの宴とは?

前半なかなかに味わいのある文体で、主人公とモヒ寛の珍妙な生活を描いておもしろく、これはこのまま純文学として終わるのかなと思っていると、後半なぞの刺客たちや、器として利用される女たちが登場してから、加速度的にエンターテイメントとなり、あっというまに読まされてしまった。それはどっちでもいいが、いずれにしても退屈しないのは文章がきれいだからではないか?と素人ながら感じた。

拍手[0回]

PR
漫画を描いていて線を引く時に、その線のことをどれくらい意識するかな?
できるだけいい線が引きたいけど、いい線とはキレイな線であったり、勢いのある線であったり、詩情あふれる線であったりする。
自身の感情のあふれるままに、意識しないでペンを走らせれば、読者の心をうつ線が生まれるだろう。むかし鈴木翁二や安部慎一の描線が、かなり乱暴で未整理だった頃がある。オージさんは溢れる自分の感情を、手の速度に合わせて整理するのがまどろっこしくて、たかぶる気持ちをそのまますぐ描きたかった。てなことを言っていた。
ここには真実がある。初期衝動や立ち上がる自分の気持ちをいちばん大切する描き方。できるだけ意識を介在させずに、なまの感情をぶつけていく。それが読者の感動をよぶのだ。

翻って自分は最後まで意識的にコントロールしたいほうだ。線自体を意識するのは、ほんとうはヘンなスタンスで、できるだけ感情を活かしながらていねいに描けばそれでいい。とはいえ、手は脳より遅いので、今引いているこの線がどれくらい上手く引けつつあるか考えてしまう。このとき肝心の詩情が押さえ込まれてしまう危険性がある。
とは言え、近代日本画の伊東深水や安田靫彦などのカッチリとした描線が憧れだから仕方がない。それでいて辰巳さんのようなうらぶれた都会が描きたい。力不足すぎる。

*「Quick Japan」Vol.91で、足立守正さんが「洞窟ゲーム」を紹介してくれました。

拍手[2回]

「架空」や連続テレビ小説と、このところ「ガロ」の時代を振り返る企画が多い。
時間がたってみれば、いろんなことが思い出になる。漫画史を精密にすると言う意味で、まだまだ調べることもあるらしい。やはり長井さんや高野さんがいて、水木さんが描いていた頃までが安全圏である。時代が近づくにつれ、思い出では済まない。

「ゲゲゲの女房」を見ている限りでは近年の事情は分からない。実は自分も長年離れていたので、詳しい事情はわからないが、長井さんが立ち上げた「自由の砦」は、滅びることなく、儲かることなく、現在の「アックス」に引き継がれている。
ところが残念なことに、一般には青林堂と青林工藝舎の違いが認知されていないので、知らない人はテレビを見て現在の青林堂のほうに問い合わせるようだ。しかも「ガロ」の商標は青林堂のものなので、今後も自信をもって利用されるだろう。

それだけ「ガロ」と青林堂の名前が人々に記憶されているということだが、創立10年を越えた青林工藝舎は連続して手塚治虫文化賞を受賞する快挙をなしとげている。これはどう考えても「ガロ」以来の文化的な蓄積、多くの作家と編集者の活動がひとつひとつ実を結んでいるわけで、もうすぐ世間の認知は「ガロ」の終了と「アックス」の歴史を確認するであろう。
現在「月刊架空」で展開されている「ガロ」史検証が、その一助となることを願う。
はたしてそんなうまい具合にいくのかな…?

ところで始めて「ガロ」を買って読んだのは、「美代子阿佐ヶ谷気分」が掲載されている号だった。中学生だったが勝又進の「かんたろ月」、つげ忠男の「うらにしの里」にしびれた。
「ゲゲゲの女房」は舞台が昭和47年に突入している。昭和47年といえば、既に頭のイカレタ自分の人生は破綻している。笑い事やない、早過ぎるやろ。この後かろうじて高校を卒業して、進学とか就職とかせず、人生というものを全く前に進めないまま、長井さんや南さんや赤瀬川先生やオージやアベシンに会うことになるが、精神が正常でないので出会っただけの意味があったとは思えない。これが自分にとっての個人的「ガロ」の時代だ。思い出話は後日に譲るとして、要するに人生にレールはなく、落ちこぼれてもなんとかなるという、青少年のためのハナシ。

拍手[3回]

映画(mixi過去日記より)
「市民ケーン」
オーソン・ウェルズ主演・監督


新聞王として巨万の富を築き、大邸宅に住む主人公ケーンだったが、その私生活は孤独で満たされないものだった。そのケーンが死の直前に残した「バラのつぼみ」という言葉の秘密を探るかたちで、生涯が振り返られていく。結局多くの人には謎のまま終わる「バラのつぼみ」。実は、幼き頃のケーンが母親と引き離される際に、雪の中遊んでいた橇に描かれていた(ネタバレ)。ケーンの孤独な魂の奥底にあったものとは…。

かなり前だが、我が愛妻が通っていた四方田犬彦氏のカルチャースクール(事務局保坂和志)で課題となっていたせいか、よく聞かされていて内容を知っていたのだが、自分は初見。しかしなぜかラストシーンは記憶していた?。もしボクらが大富豪を絵で描こうとすると、たちまちディティールに困るね。

拍手[0回]

この前読んだ「霊魂だけが知っている」のなかに、こんな話がある。
ある死んだ知人の名前をコンピュータに打ち込んだ時、スペルを間違えるとスペルチェッカーが働いて、正解例が提示されるんだけど、それが「死んだ」「埋められた」「地下室」などなんで、これは死者が霊界から通信したがっているとその人は思った。
それでソフトウエアコンサルタントが調査した結果、過去の検索例とバグが原因と分かったのだが、この調査結果についてイギリス心霊研究会は、こじつけがあると発表。
著者もびっくり、「そっちをこじつけととるのか!」という話だが、それで自分がふだん感じていることに思い至った。

人間はスジの通った、論理的な、整合性のあるハナシは嫌いで、そういったものを打ち破るものが好きだ。
論理を見つけて解放感を得るタイプの人も少数いるが、そんな人は1割くらいで、多くの人は論理的な結論には納得しない。それは感情を抑えてしまうからで、実は求めているのは感情が高ぶることなのだと思う。
心霊現象について言えば、科学的な説明を聞いてもなんとなく腑に落ちないが、スピリチュアリストからカルマを理由にした説明を受けるとすとんと納得する。それは論理にいくつも穴があるからで、この穴が人間を納得させる。穴が大事。穴があるから感情の部分で理解することができる。
というふうに感情で理解したいのが人間という者で、非常にクールな論理的な説明をする人より、ただ熱意だけが見える人間や、「モーゼの指令を今確信した」と自信をもって言い出すような人間のほうが期待されている。昭和の大衆のカリスマ「イノキ・ナガシマ・ナガブチ」などの無茶ぶりが心に火をつける。
人は感情の動物。せいぜい人の気持ちを大切にしよう。

拍手[5回]

読書
「霊魂だけが知っている」
メアリー・ローチ 著


はやりのスピリチュアルや、かつてのニューエイジとは無縁のサイエンス・ライターによる心霊研究といったことならば、昔から大好きだ。やっぱり自分だって死後の魂の存在を全否定して平然としていられるほど強くないもの。はたして霊魂について現代科学はどこまで検証し得たか?

興味深く読んだが、ちょっともの足りなかったのは、8割がかつての歴史上の心霊研究史の愉快な逸話で占められていて、今最先端の研究については少ししか触れてなかったところ。やはり取り上げるに足る成果が少ないのだろうか。
それでも過去の心霊研究は面白かった。ちょうど電話やラジオが普及し始めた頃、人々はすわ霊界とコンタクトできると思ったようだ。そのころのエジソンやテスラのエピソードは有名なものも多いが、やっぱりおもしろい。

近年の研究で気になるのは、電磁波が充満している部屋など、電磁場にさらされると、メラトニンレベルが下がり、脳の右側頭葉に微小発作が起きて幻覚が生じやすくなること。右側頭葉の刺激によって心霊体験が生じることは、立花隆の著作でも触れられていたので、どうやらポイントらしい。
また、人間の耳に聴こえない18〜19ヘルツの超低周波を受けると、血流が下がるなど身体へ悪影響があり、視覚異常をも引き起こす。心霊スポットとは、実は超低周波スポットではないか?

臨死体験の研究も諸説あるわけだが、大脳皮質と脳幹のすべての機能が失われている時に、意識・認知・記憶が機能しているようにみえるというのは驚きだ。つまり肉体としての脳は、幻覚すら見ることができない状態なのだから、肉体外の意識体を考えざるをえないわけだ。
ヴァージニア大学病院のある手術室には、天井近くに開いたノートパソコンが上を向けて置いてある。そこに映し出されている画像は手術台の視点からは誰も見えない。つまり肉体を離れ、天井近くから自分が手術されている様子を見た者にしか見えない仕掛けになっている。この興味深い実験の結果は未だ報告されていないようである。

拍手[1回]

読書(mixi過去日記より)
「北の河」
高井有一 作
(1966年)

終戦後占領下の日本。戦火に追われて身寄りのなくなった中学生の私と母親は、亡き父方の親類を頼って東京を離れ北国で暮らし始める。不慣れな土地での暮らしに馴染めず、孤独の中に閉じこもるようになった母親は、ある日河に身を投げて死んでしまう。だんだんと精神のバランスを失って寡黙になる中、自死への思いを強めていく母親の描写が、饒舌でないだけかえって興奮をそそる。以下母親の言葉。

「そう、ただ寒いだけじゃない。私たちだけで、何も無い所で、寒さに閉じ籠められてしまうのよ。それも今年の冬ばかりじゃなく、ずっと続いて行くのよ。そんな事、想像もつきはしないわ」
「もういやになってしまったの。本当にいや。疲れてしまったのよ。特に貴方と暮らすのにね。これから先どんな事があっても、此処がどんなに住みよくたって、周りの人がどんなに親切だって、もういや。貴方と二人だけで顔つき合せて暮して、一切合財を頼られ切って、それ以外に何もない生活、こんな生活がこれ以上続けて行かれるとでも思ってるの。よかったら、貴方一人で続けなさい。そう、それで自分でいろいろと知るといいわ。そうすれば、今みたいに独りで倖せそうにしているのが、どんなに間違いか判る筈よ」
「死ぬのよ。そうすればいいじゃないの」
「もう、死ぬわよ。いいわね」

そうやって死んでしまう母親。残された中学生の私。
一読してショック。狂気を描いた小説はいろいろと読んできたが、これは迫真のリアリズム。カタルシスなし。

作者自選短編集のうち、この一編が強烈に印象に残った。
表題作など、生活の安定した作家の身辺を描いたものは、ちょっと勘弁してほしいわ。
(講談社文芸文庫「半日の放浪」)

拍手[0回]

mixi過去日記より
コマ割りと時間

こうしてみると手塚漫画のコマ割りはけっこう細かい。オーソドックスな漫画の場合、コマ割りとは時間の流し方のことだから、コマ割りが細かいと言うより、カット割りが細かいということ。ところが手塚作品は時間の流し方に特徴があって、かなり大胆に展開する内容が小さな数コマで終わったかと思うと、表情の変化だけを何コマも使って追っていく。すると作品時間が不思議な感覚で伸び縮みする。これがよく言われてきた手塚の映画的手法というやつか?ボクには未だによくわからない…。単に細かいコマを多用する漫画家も多いが、手塚のような時間の流れは感じないし…。

ボクが親しんできた水木・つげラインの漫画はわりと単純なコマ割りだが、別に不足もない。つげ忠男や勝又進はほとんど同じ大きさのコマを単調にくり返すが、ストーリーに頼らない内容だから、全く退屈しない。ようするにコマとは内容によって必然的に決定されるものだ。漫画の特徴はコマ割だと考えて、あえて作為的な割り方をした人もいるが、児戯に等しいと思う。

とっくの昔に漫画はコマ展開によって時間を追っていくことから解放されていて、林静一から始まって、鈴木翁二・菅野修・斉藤種魚に至るまで、コマを追っても(少なくとも単線的には)時間が進まない。時間は行きつ戻りつするし、ある場合には時間そのものがない。自由だ。

拍手[9回]

読書
「だいにっほん、おんたこめいわく史」
笙野頼子 作



あまり現代作家を追いかけない自分だが、好きだと言える数少ない作家が笙野頼子だ。
「おんたこ教団」に征服されて、「にっほん」となってしまった国。おんたこ政権は少女をいろんなカタチで商品として海外に売り出している、おたく・ロリコン政権である。対決していた「みたこ教団」も風前の灯火である。しかもおんたこ政権は、反権力・疑似左翼で、弱く傷つきやすい僕たちという立場をとっているのだから始末が悪い。

その「おんたこ」の有様を破壊的な文体で、ギャースカギャースカ書いて、話の半分終わったところで、ピタと止まる。そして小説家笙野頼子は困難にぶちあたった。というフレーズが登場。
たしかにここまでは、頭がくらくらするわりには面白くない。ところがこのあと、小説内小説ー御霊の自動語りといった体裁をとると、俄然おもしろくなった!いかにも神様と化した霊体は、こんなふうに時代をまたいで存在するだろうなあと思う。そのあたりが妙にリアルだが、これは単に自分好みというだけかも知れない…。

で、けっきょく最後は「おんたこ」の話に戻るのだが、実はこの作品は現代の消費資本主義社会の見えない大きな敵に対する告発なのだった。でもそこは自分はどっちでもよい。

拍手[1回]

現在「月刊架空」では連続して安部慎一原作の漫画化が行われている。西野空男と斎藤種魚の作品がそれだ。なるほど内容はべったりとアベシンだ。いつもの私生活と宗教的思索、青年時の父親との葛藤など、原作に忠実に展開されているようだ。

しかし自分は不思議な違和感を感じた。人によっては漫画になっていないという意見もあるが、いやいやアベシンが自分で描いてもこうですよ。この展開になると思うよ。
この違和感はどう考えても、唯一無二のアベシンのネタなのに、唯一無二の西野空男や斎藤種魚の漫画世界で描かれているからだよ。

それで別のことを考えたが、ひょっとしたら漫画というものは、人物やらデフォルメやらセリフやらコマ展開で出来ているのではないのかな?
実は漫画を漫画たらしめているものは技術や方法ではなく、言葉には置き換えられないような、もっと描き手の身体そのもの。汗の匂いや、歩き方、声質、笑い方、肌の色、寝る姿勢のような言わば本人のDNAそのもの。技術や方法である程度までは描けるとしても、読者が感じているのはそこじゃない。読んで面白いのは他人が学習出来ない部分。つまり全ての漫画は自己流でしか描くことが出来ないのだ。

拍手[8回]

  
カレンダー
03 2025/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
フリーエリア

「世の終りのためのお伽噺」
アックスストア
「洞窟ゲーム」
アックスストア 西遊
「西遊」
amazon ヨドバシ.com
アックス75号
アックスストア

祭り前

秘密諜報家
最新コメント
[08/13 筒井ヒロミ]
[02/24 おんちみどり]
[05/10 まどの]
[05/10 西野空男]
[01/19 斎藤潤一郎]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
madonokazuya
性別:
非公開
自己紹介:
漫画家
バーコード
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析
カウンター
カウンター
フリーエリア
Copyright ©  -- まどの一哉 「絵空事ノート」 --  All Rights Reserved

Design by CriCri / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]