漫画家まどの一哉ブログ
懸案の池袋で買い物。
妻の具合は悪くはないのだが、外出すると緊張で笑顔が無いのがかわいそうだ。
普段混んでいる道路がすいていると、交差点での右左折や高速道での分岐を、うっかりやりすごしそうになる。
池袋のジュンク堂書店は、我々はかつてヘビーユーザーだった。妻は香山哲の漫画がいっぱい載っているギターのムック本を買った。自分は三島由紀夫の文庫本と、古泉さんの「ピンクニップル」を買った。
全国規模で縮小傾向にあるHMVだが、池袋東武のクラシックハウスは健在だった。しかし今日はジャズでBAD PLUSとJEREMY PELTを買った。
池袋西武の屋上も遊具がなくなって、閑散と寂しいかぎりである。小さい子の思い出はどうなるのだ。
帰ると「アックス」が届いていたが、この郵便物は取扱中に毀損したむね断り書きがあった。しかし開封するとなんの問題も無かった。
朝2ページ、帰宅後1ページ漫画を描いた。
妻の具合は悪くはないのだが、外出すると緊張で笑顔が無いのがかわいそうだ。
普段混んでいる道路がすいていると、交差点での右左折や高速道での分岐を、うっかりやりすごしそうになる。
池袋のジュンク堂書店は、我々はかつてヘビーユーザーだった。妻は香山哲の漫画がいっぱい載っているギターのムック本を買った。自分は三島由紀夫の文庫本と、古泉さんの「ピンクニップル」を買った。
全国規模で縮小傾向にあるHMVだが、池袋東武のクラシックハウスは健在だった。しかし今日はジャズでBAD PLUSとJEREMY PELTを買った。
池袋西武の屋上も遊具がなくなって、閑散と寂しいかぎりである。小さい子の思い出はどうなるのだ。
帰ると「アックス」が届いていたが、この郵便物は取扱中に毀損したむね断り書きがあった。しかし開封するとなんの問題も無かった。
朝2ページ、帰宅後1ページ漫画を描いた。
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読書
「ヴェニスに死す」
トオマス・マン 作
ヴィスコンティの映画を見ずして原作を読んだ。
既に国内で実績を積んだ初老の作家が、休養のためヴェニスを訪れ、そこで出会ったギリシャ彫刻のごとき美少年に心奪われる。作家は少年の美しさの虜となるにしたがって、しだいに大家としてのプライドを失い、日夜少年のあとをつけまわして過ごすのであったが、やがて流行りの伝染病にかかって息を引き取るのであった。
ある年齢以上になると、大人として自分を律する部分を無くしていくところが、さもありなんと思う。理知ある社会人としてのふるまいも、そうそう続けていては疲れる。人間は堕ちてゆくことによって解放を得なければならない。普段から愚行が大切だ。
愚行と言ってはあんまりだが、作中くりかえされる美に対する会話形式のモノローグには真実がある。以下。
芸術家が、精神的なものを追い求めて進む美への道は、必ず人を邪路にみちびくもの。危険で愛すべき道であり、真に邪道であり、罪の道であること。つまり必ずエロスの神が道づれになって道案内をするにきまっている。われわれを高めるものは情熱であり、恋愛ならざるを得ない。これでわれわれ詩人(芸術家)が聡明でも尊厳でもなく、人々を奈落へつれてゆくものであることがわかる。
と、いうわけで、美への道は純粋だが、それゆえにその正体は恋愛とエロスを含み、理知と経験をかなぐりすててこそ得ることができるのということか。これが老齢に達するにしたがって、いよいよ人間に残された情熱として高まりこそすれ、衰えないところが皮肉なものだ。
「ヴェニスに死す」
トオマス・マン 作
ヴィスコンティの映画を見ずして原作を読んだ。
既に国内で実績を積んだ初老の作家が、休養のためヴェニスを訪れ、そこで出会ったギリシャ彫刻のごとき美少年に心奪われる。作家は少年の美しさの虜となるにしたがって、しだいに大家としてのプライドを失い、日夜少年のあとをつけまわして過ごすのであったが、やがて流行りの伝染病にかかって息を引き取るのであった。
ある年齢以上になると、大人として自分を律する部分を無くしていくところが、さもありなんと思う。理知ある社会人としてのふるまいも、そうそう続けていては疲れる。人間は堕ちてゆくことによって解放を得なければならない。普段から愚行が大切だ。
愚行と言ってはあんまりだが、作中くりかえされる美に対する会話形式のモノローグには真実がある。以下。
芸術家が、精神的なものを追い求めて進む美への道は、必ず人を邪路にみちびくもの。危険で愛すべき道であり、真に邪道であり、罪の道であること。つまり必ずエロスの神が道づれになって道案内をするにきまっている。われわれを高めるものは情熱であり、恋愛ならざるを得ない。これでわれわれ詩人(芸術家)が聡明でも尊厳でもなく、人々を奈落へつれてゆくものであることがわかる。
と、いうわけで、美への道は純粋だが、それゆえにその正体は恋愛とエロスを含み、理知と経験をかなぐりすててこそ得ることができるのということか。これが老齢に達するにしたがって、いよいよ人間に残された情熱として高まりこそすれ、衰えないところが皮肉なものだ。
読書(mixi過去日記より)
「十三人組物語」
バルザック 作
ナポレオン帝政期のパリに潜む秘密結社「十三人組」。知力・財力・行動力豊かで名望もある男達が、実は秘密結社を組織し、人知れず社会を裏面から動かしている。という設定を背景として語られる三話のオムニバス小説。実は「十三人組」は、道具立てにすぎず、ほんの少し顔を出すだけ。
第一話「フェラギュス」
第二話「ランジェ公爵夫人」
第三話「金色の眼の娘」
面白かったのは第二話「ランジェ公爵夫人」だ。
絶海の孤島に位置する修道院を訪れたモンリヴォー将軍は、そこでオルガンを演奏し、聖歌を歌うかつての恋人(ランジェ公爵夫人)を発見する。面会を許されたモンリヴォー将軍は、彼女の変わらぬ愛を確認し、必ずや彼女を奪還することを誓うが、そもそもなぜ彼女はこうして世俗との関わりを一切断つ生活に入ったのだろうか…。
話は数年前に戻る。
冒険家として名声を馳せたモンリヴォー将軍は、一躍社交界の人気者となるが、その将軍にいちばん引かれたのがランジェ公爵夫人だった。将軍のほうもランジェ公爵夫人に引かれ、その思いはしだいに真摯なものとなって行く。だが、事実上破綻状態にあるとは言え、夫人は夫のある身。また自身のプライドも手伝って、ある一線以上に将軍を迎え入れることはなく、毎夜話をするだけで退けていたのだ。
ついに将軍はそのあしらいに侮辱を感じ、復習の鬼と化して夫人との関係を絶つ。そうなってみて初めて、ランジェ公爵夫人は将軍への思いに身もだえるようになり、一途に彼を追い求めることになるが、時すでに遅く、夫人は絶望のあまり神に仕える道へ身を投じたのだった。
さて、モンリヴォー将軍は「十三人組」の仲間とともに、ランジェ公爵夫人を修道院から奪い去ることができたのでしょうか?
バルザックは銭金(ゼニカネ)の話がおもしろくて読んでいるのだが、こういう恋愛ものもけっこうよかった。
ところで第一話のなかにこんなシーンがある。
ある登場人物の馬車めがけて、建築現場のてっぺんから石材が落ちてくる。また馬車の車軸が突然折れて大事故になり、調べてみると車軸がいつのまにか折れやすいものに差し替えらいる。それでこの人物は「俺は命を狙われている!」と気付く。
というものだが、これって今でもミステリーやサスペンスでよくありますよね。バルザックが始めたのかは解らないが、昔からずーっと皆で使ってきたんだね。
追記:最近映画化されたはず。
「十三人組物語」
バルザック 作
ナポレオン帝政期のパリに潜む秘密結社「十三人組」。知力・財力・行動力豊かで名望もある男達が、実は秘密結社を組織し、人知れず社会を裏面から動かしている。という設定を背景として語られる三話のオムニバス小説。実は「十三人組」は、道具立てにすぎず、ほんの少し顔を出すだけ。
第一話「フェラギュス」
第二話「ランジェ公爵夫人」
第三話「金色の眼の娘」
面白かったのは第二話「ランジェ公爵夫人」だ。
絶海の孤島に位置する修道院を訪れたモンリヴォー将軍は、そこでオルガンを演奏し、聖歌を歌うかつての恋人(ランジェ公爵夫人)を発見する。面会を許されたモンリヴォー将軍は、彼女の変わらぬ愛を確認し、必ずや彼女を奪還することを誓うが、そもそもなぜ彼女はこうして世俗との関わりを一切断つ生活に入ったのだろうか…。
話は数年前に戻る。
冒険家として名声を馳せたモンリヴォー将軍は、一躍社交界の人気者となるが、その将軍にいちばん引かれたのがランジェ公爵夫人だった。将軍のほうもランジェ公爵夫人に引かれ、その思いはしだいに真摯なものとなって行く。だが、事実上破綻状態にあるとは言え、夫人は夫のある身。また自身のプライドも手伝って、ある一線以上に将軍を迎え入れることはなく、毎夜話をするだけで退けていたのだ。
ついに将軍はそのあしらいに侮辱を感じ、復習の鬼と化して夫人との関係を絶つ。そうなってみて初めて、ランジェ公爵夫人は将軍への思いに身もだえるようになり、一途に彼を追い求めることになるが、時すでに遅く、夫人は絶望のあまり神に仕える道へ身を投じたのだった。
さて、モンリヴォー将軍は「十三人組」の仲間とともに、ランジェ公爵夫人を修道院から奪い去ることができたのでしょうか?
バルザックは銭金(ゼニカネ)の話がおもしろくて読んでいるのだが、こういう恋愛ものもけっこうよかった。
ところで第一話のなかにこんなシーンがある。
ある登場人物の馬車めがけて、建築現場のてっぺんから石材が落ちてくる。また馬車の車軸が突然折れて大事故になり、調べてみると車軸がいつのまにか折れやすいものに差し替えらいる。それでこの人物は「俺は命を狙われている!」と気付く。
というものだが、これって今でもミステリーやサスペンスでよくありますよね。バルザックが始めたのかは解らないが、昔からずーっと皆で使ってきたんだね。
追記:最近映画化されたはず。
映画(mixi過去日記より)
「四谷怪談 お岩の亡霊」
監督 森一生
主演 佐藤慶
1969年
やっぱまだ暑いうちに、怪談のひとつも観とかないとね。
おなじみ四谷怪談、昔劇場で中川信夫版(天地茂主演)を観たことがあるが、比べてコッチのほうが良かった。
こういう誰でも知ってるストーリーは、てきぱきと展開してこそ、面白みも倍増。気持ちよくとんとんと進む。
そして絵がきれい。構図に緊張感があるんでしょうか、人物が画面の端っこで喋っていても、間抜けじゃない。空間がすごくカッコいかった。
現代ホラーと違うところは、幽霊はリアルより美学つーところか。
残念ながら、ウチの古いテレビだと、暗いシーンは細密な再現が不可能で、ぺたーっと一様に暗いだけ…。
「四谷怪談 お岩の亡霊」
監督 森一生
主演 佐藤慶
1969年
やっぱまだ暑いうちに、怪談のひとつも観とかないとね。
おなじみ四谷怪談、昔劇場で中川信夫版(天地茂主演)を観たことがあるが、比べてコッチのほうが良かった。
こういう誰でも知ってるストーリーは、てきぱきと展開してこそ、面白みも倍増。気持ちよくとんとんと進む。
そして絵がきれい。構図に緊張感があるんでしょうか、人物が画面の端っこで喋っていても、間抜けじゃない。空間がすごくカッコいかった。
現代ホラーと違うところは、幽霊はリアルより美学つーところか。
残念ながら、ウチの古いテレビだと、暗いシーンは細密な再現が不可能で、ぺたーっと一様に暗いだけ…。
読書
「大火」
里見弴 作
花魁今紫を贔屓に通ってくるのは、向島のご隠居と資産家の息子である法科大学生の三郎だった。その日は昼間から南の大風が強く吹く日であったが、やがて半鐘が鳴りだす。5階まで上がる高い時計台から見下ろして、やあこちらは風上だから大丈夫だと安心しているうち、よもや火の手はすぐ近くまで迫っていて、楼閣の者あわてて荷物をまとめ、ついに廓外へ逃げ延びるまでを、三郎と今紫を中心に描いた短編。
里見弴はなんといってもその絶妙の語り口が魅力で、流麗でリアルで粋でしみじみとする。会話もおもわず情が移るおもしろさ。「やぶれ太鼓」という短編は、ある幇間(たいこもち)の流れ流れる浮き草のような人生の行く末を描いたはなしだが、自分はこれを読んで久保田万太郎の「末枯」を思いだした。「末枯」は、やはり落語家の流れ行く人生を、平易で美しい文体で描いた小説だ。
いまどき大正時代の花柳界や芸人を描いた小説を誰が読むだろうかとも思うし、だいたいこの日記を読んでくれている人が、里見弴や久保田万太郎を知っているとも思えない。しかも自分のようなシュール系に束ねられる漫画家が、こんな旧き東京の人情話を好んで読んでいるのも妙な具合だが、たんなる人情話ではない。その魅力はたぶん人生に対する諦観と、なによりその絶妙の文章で、平易な美文というものが自分は大好きなのである。
「大火」
里見弴 作
花魁今紫を贔屓に通ってくるのは、向島のご隠居と資産家の息子である法科大学生の三郎だった。その日は昼間から南の大風が強く吹く日であったが、やがて半鐘が鳴りだす。5階まで上がる高い時計台から見下ろして、やあこちらは風上だから大丈夫だと安心しているうち、よもや火の手はすぐ近くまで迫っていて、楼閣の者あわてて荷物をまとめ、ついに廓外へ逃げ延びるまでを、三郎と今紫を中心に描いた短編。
里見弴はなんといってもその絶妙の語り口が魅力で、流麗でリアルで粋でしみじみとする。会話もおもわず情が移るおもしろさ。「やぶれ太鼓」という短編は、ある幇間(たいこもち)の流れ流れる浮き草のような人生の行く末を描いたはなしだが、自分はこれを読んで久保田万太郎の「末枯」を思いだした。「末枯」は、やはり落語家の流れ行く人生を、平易で美しい文体で描いた小説だ。
いまどき大正時代の花柳界や芸人を描いた小説を誰が読むだろうかとも思うし、だいたいこの日記を読んでくれている人が、里見弴や久保田万太郎を知っているとも思えない。しかも自分のようなシュール系に束ねられる漫画家が、こんな旧き東京の人情話を好んで読んでいるのも妙な具合だが、たんなる人情話ではない。その魅力はたぶん人生に対する諦観と、なによりその絶妙の文章で、平易な美文というものが自分は大好きなのである。
読書
「取り替え子(チェンジリング)」
大江健三郎 作
作者大江健三郎と俳優であり映画監督であった伊丹十三とは、四国松山時代からの旧友であり、また伊丹の妹を妻に持つ作者にとって、伊丹十三は義兄でもある。その伊丹十三の有名な飛び降り自殺事件をモチーフに、もちろんすべて作中の人物としての仮名で書かれた小説。
といっても事件のなぞを振り返るドキュメンタリー小説ではなく、現実を現実のまま強固に残しながら、氾濫する空想とからめてしまう、作者特有の方法がなんとも不思議な作品だ。
たとえば主人公である作者は、死んだ友人と生前交換していたテープ録音を再生しては、死者との対話をさらにつづけるのだ。その過程でしだいしだいに自死直前の心理があきらかになるが、そのまま物語は少年時代、四国山中での国粋主義集団との交流にまで遡り、作者と友人が共有する決定的な体験が語られる。その体験で友人(伊丹十三)は、美しい少年から、外の世界とテロルにふれた者として変わってしまったのだ。取り替えられた子供だったのだ。物語は終盤センダリックの絵本に登場する、悪鬼に取り替えられた子供のはなしと連関して終わるが、まんまと作者にだまされて読まされてしまった。
心地よく騙された気がするのは、やはり圧倒的な事件性を持つ現実と、夢幻的な想像力との融合があるからで、その空想のスタイルがすなわち作家の思想であり、意識的な部分ではテーマでもあるわけだが、それがこんなふうに出来上がっているところがただごとではない。
「取り替え子(チェンジリング)」
大江健三郎 作
作者大江健三郎と俳優であり映画監督であった伊丹十三とは、四国松山時代からの旧友であり、また伊丹の妹を妻に持つ作者にとって、伊丹十三は義兄でもある。その伊丹十三の有名な飛び降り自殺事件をモチーフに、もちろんすべて作中の人物としての仮名で書かれた小説。
といっても事件のなぞを振り返るドキュメンタリー小説ではなく、現実を現実のまま強固に残しながら、氾濫する空想とからめてしまう、作者特有の方法がなんとも不思議な作品だ。
たとえば主人公である作者は、死んだ友人と生前交換していたテープ録音を再生しては、死者との対話をさらにつづけるのだ。その過程でしだいしだいに自死直前の心理があきらかになるが、そのまま物語は少年時代、四国山中での国粋主義集団との交流にまで遡り、作者と友人が共有する決定的な体験が語られる。その体験で友人(伊丹十三)は、美しい少年から、外の世界とテロルにふれた者として変わってしまったのだ。取り替えられた子供だったのだ。物語は終盤センダリックの絵本に登場する、悪鬼に取り替えられた子供のはなしと連関して終わるが、まんまと作者にだまされて読まされてしまった。
心地よく騙された気がするのは、やはり圧倒的な事件性を持つ現実と、夢幻的な想像力との融合があるからで、その空想のスタイルがすなわち作家の思想であり、意識的な部分ではテーマでもあるわけだが、それがこんなふうに出来上がっているところがただごとではない。
読書(mixi過去日記より)
「予言者の名前」
島田雅彦 作
オウム事件が合った頃は、カルト教団を材料に宗教の問題を扱った作品が多くあった様な気がする。
自分はそのちょっと前から、それっぽいハナシを考えて「クイックジャパン」に幾つか発表したが、世の中みんなやりだしたのでイヤになってやめた。
それでもカルトや宗教は、基本的に興味のある題材なので、古本屋でこんなものを見つけると、短いものだしちょっと読んでみようかと思う。
宗教の世俗化が進んでいて、わりとどの宗教からも等距離でいられる日本人ならではの視点で描かれた宗教小説。ワタルとムルカシという二人の宗教家(予言者)が、既存の宗教的立場に次々と疑義を投げかける。その内容が観念的な言葉でそのまま語られる。
といっても、小説だから難しい論理を展開する訳ではないが、いわゆる生活や風景の描写など、ふつうの小説で描かれる様な部分はほとんどない。したがって面白いことは面白いが、登場人物に自分を重ねたりして味わうことはできません。短ければこんなのもあり。
文庫本は巻末に中沢新一の解説がついているが、これがよかった。ただし島田雅彦を誉め過ぎ。島田雅彦は求道者とは真逆の、フツーのインテリオヤジという印象が自分にはある。
「予言者の名前」
島田雅彦 作
オウム事件が合った頃は、カルト教団を材料に宗教の問題を扱った作品が多くあった様な気がする。
自分はそのちょっと前から、それっぽいハナシを考えて「クイックジャパン」に幾つか発表したが、世の中みんなやりだしたのでイヤになってやめた。
それでもカルトや宗教は、基本的に興味のある題材なので、古本屋でこんなものを見つけると、短いものだしちょっと読んでみようかと思う。
宗教の世俗化が進んでいて、わりとどの宗教からも等距離でいられる日本人ならではの視点で描かれた宗教小説。ワタルとムルカシという二人の宗教家(予言者)が、既存の宗教的立場に次々と疑義を投げかける。その内容が観念的な言葉でそのまま語られる。
といっても、小説だから難しい論理を展開する訳ではないが、いわゆる生活や風景の描写など、ふつうの小説で描かれる様な部分はほとんどない。したがって面白いことは面白いが、登場人物に自分を重ねたりして味わうことはできません。短ければこんなのもあり。
文庫本は巻末に中沢新一の解説がついているが、これがよかった。ただし島田雅彦を誉め過ぎ。島田雅彦は求道者とは真逆の、フツーのインテリオヤジという印象が自分にはある。
巻頭三好吾一作品「城山」。なにげない日常を丁寧に描くという作品は、ときどき世の中にあるが、難しいものだ。事件らしいことは何も起こらないから、読ませる技術がなければとうぜん退屈なものになる。その読ませるテクニックをこの作家はもっていて、その秘密は情景描写にあり、無言ではあるが語りかけてくるコマの連続である。遠景と近景のリズムがあって、セリフやナレーションが無いのが心地よく読めた。
情景描写は、写真の中間色を忠実に斜線に置き換えている。むかし漫画があまり資料写真に頼らずに描かれていた頃、木は木、石は石、雲は雲の意味を持った記号で構成されていた。よくみれば、近世日本画の世界などもこの記号的方法で描かれていて、自分などもこの延長で苦心している。
そんな自分から見れば、三好作品の描線は非常に魅力的な世界である。
で、話は主人公が実家で一日を過ごすというだけのものであるが、クライマックスは城山から街を遠望するところであろう。それがどうしたと言われればそれだけのことだ。母親との会話も含めて、さらに迫真的なところを読みたい。日常も分野は違うが庄野潤三レベルまで描き込んでいけば、のっぴきならないものになる。日常とは実はこういうものだという漫画でしか味わえないものを読みたい。
情景描写は、写真の中間色を忠実に斜線に置き換えている。むかし漫画があまり資料写真に頼らずに描かれていた頃、木は木、石は石、雲は雲の意味を持った記号で構成されていた。よくみれば、近世日本画の世界などもこの記号的方法で描かれていて、自分などもこの延長で苦心している。
そんな自分から見れば、三好作品の描線は非常に魅力的な世界である。
で、話は主人公が実家で一日を過ごすというだけのものであるが、クライマックスは城山から街を遠望するところであろう。それがどうしたと言われればそれだけのことだ。母親との会話も含めて、さらに迫真的なところを読みたい。日常も分野は違うが庄野潤三レベルまで描き込んでいけば、のっぴきならないものになる。日常とは実はこういうものだという漫画でしか味わえないものを読みたい。
読書(mixi過去日記より)
「富士」
武田泰淳 作
戦時下、富士山麓にある精神病院。国家総動員時にお国の役にたたない患者達と、愛を持って看病にあたる医師・看護士達の物語。
とはいってもリアリズム小説ではなく、登場する個性豊かな患者達の病状は全く作者の創造で、自分が宮様であると信じる元精神科医、一言も言葉を発せず、哲学的ノートを綴る少年、自分の育てた伝書鳩を待ち続ける男、研修医の子種を宿したとふれ回るキリスト者などなど…。
異常者・正常者の枠を取り払った、極めて強烈なキャラクター達が、滔々と思念的弁舌をふるう、グロテスクな魅力に満ちた観念小説。だが、単なる思弁小説でないのは、次々と巻き起こる事件に沿って話が進むからであって、例えば鳩を求めて煙突に上る男・院長宅襲撃・股間に下げた懐中電灯を男根に見立てて医師を襲う女・宮様のつもりで皇室に接触する元精神科医・放火・殺人など、正に異常事態しか出現しない。
もともとこの精神病院の設定自体が、リアリズムならぬシュールレアリズムの世界で、戦時下の一般社会とはかけ離れた、「スミヤキストQ」が忍び込んだ癲狂院のようなものとなっている。
まさに小説という分野ならではの面白さで、実際日常会話でべらべらと神学的哲学的思念を披瀝することは滅多にないし、漫画では考えられないネーム量になってしまう。映画もしかり。それが気にせずスラスラ読めてしまうのが、小説が言葉の芸術たる所以なんだろうな。
●たとえ漫画でもこれが俺にはできないんですよ。いや、たとえナレーションであっても、言葉で説明するのができないの。漫画の中で言葉に独立した役割を与えられないんです。
人物の行為の補足として「しまった」とか「よし行くぞ」とか、あるいは日常会話の「2万ほど、なんとかならない?」とか「なんだ、先行ったと思ってたよ」とか、そんなです。
友人の斎藤種魚、西野空男など「架空」派漫画家には観念的な言葉をうまく使う人が多い。
「富士」
武田泰淳 作
戦時下、富士山麓にある精神病院。国家総動員時にお国の役にたたない患者達と、愛を持って看病にあたる医師・看護士達の物語。
とはいってもリアリズム小説ではなく、登場する個性豊かな患者達の病状は全く作者の創造で、自分が宮様であると信じる元精神科医、一言も言葉を発せず、哲学的ノートを綴る少年、自分の育てた伝書鳩を待ち続ける男、研修医の子種を宿したとふれ回るキリスト者などなど…。
異常者・正常者の枠を取り払った、極めて強烈なキャラクター達が、滔々と思念的弁舌をふるう、グロテスクな魅力に満ちた観念小説。だが、単なる思弁小説でないのは、次々と巻き起こる事件に沿って話が進むからであって、例えば鳩を求めて煙突に上る男・院長宅襲撃・股間に下げた懐中電灯を男根に見立てて医師を襲う女・宮様のつもりで皇室に接触する元精神科医・放火・殺人など、正に異常事態しか出現しない。
もともとこの精神病院の設定自体が、リアリズムならぬシュールレアリズムの世界で、戦時下の一般社会とはかけ離れた、「スミヤキストQ」が忍び込んだ癲狂院のようなものとなっている。
まさに小説という分野ならではの面白さで、実際日常会話でべらべらと神学的哲学的思念を披瀝することは滅多にないし、漫画では考えられないネーム量になってしまう。映画もしかり。それが気にせずスラスラ読めてしまうのが、小説が言葉の芸術たる所以なんだろうな。
●たとえ漫画でもこれが俺にはできないんですよ。いや、たとえナレーションであっても、言葉で説明するのができないの。漫画の中で言葉に独立した役割を与えられないんです。
人物の行為の補足として「しまった」とか「よし行くぞ」とか、あるいは日常会話の「2万ほど、なんとかならない?」とか「なんだ、先行ったと思ってたよ」とか、そんなです。
友人の斎藤種魚、西野空男など「架空」派漫画家には観念的な言葉をうまく使う人が多い。
映画(mixi過去日記より)
「街のあかり」
監督 アキ・カウリスマキ
警備員として働く主人公は、容易には他人と交わらない孤独な男。いつの日か起業家として成功する夢を見ていたが、ある日近づいてきた女に心を許し、まんまと犯罪に利用されてしまう。それでも、彼は警察に口を割らず、孤独な魂を抱えたまま、服役。そして出所。復讐のチャンスもさらなる敗北へつながって行く。
主人公が全く感情を表に出さない。自分の周りに壁を作って生きている性格。したがって話も淡々と進む。必要最小限の道具立て、少ないセリフなど、抑制された表現が心地よかった。
セリフのないシーンが連続する中で、ときどき人物を正面からとらえて、スーッとややアップするのがおもしろい。不思議な意味付けが生まれる。
食事や飲み物が、ほとんど一口つけただけで、おしまいにされていた。
「街のあかり」
監督 アキ・カウリスマキ
警備員として働く主人公は、容易には他人と交わらない孤独な男。いつの日か起業家として成功する夢を見ていたが、ある日近づいてきた女に心を許し、まんまと犯罪に利用されてしまう。それでも、彼は警察に口を割らず、孤独な魂を抱えたまま、服役。そして出所。復讐のチャンスもさらなる敗北へつながって行く。
主人公が全く感情を表に出さない。自分の周りに壁を作って生きている性格。したがって話も淡々と進む。必要最小限の道具立て、少ないセリフなど、抑制された表現が心地よかった。
セリフのないシーンが連続する中で、ときどき人物を正面からとらえて、スーッとややアップするのがおもしろい。不思議な意味付けが生まれる。
食事や飲み物が、ほとんど一口つけただけで、おしまいにされていた。