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漫画家まどの一哉ブログ

   
読書(mixi過去日記より)
「北の河」
高井有一 作
(1966年)

終戦後占領下の日本。戦火に追われて身寄りのなくなった中学生の私と母親は、亡き父方の親類を頼って東京を離れ北国で暮らし始める。不慣れな土地での暮らしに馴染めず、孤独の中に閉じこもるようになった母親は、ある日河に身を投げて死んでしまう。だんだんと精神のバランスを失って寡黙になる中、自死への思いを強めていく母親の描写が、饒舌でないだけかえって興奮をそそる。以下母親の言葉。

「そう、ただ寒いだけじゃない。私たちだけで、何も無い所で、寒さに閉じ籠められてしまうのよ。それも今年の冬ばかりじゃなく、ずっと続いて行くのよ。そんな事、想像もつきはしないわ」
「もういやになってしまったの。本当にいや。疲れてしまったのよ。特に貴方と暮らすのにね。これから先どんな事があっても、此処がどんなに住みよくたって、周りの人がどんなに親切だって、もういや。貴方と二人だけで顔つき合せて暮して、一切合財を頼られ切って、それ以外に何もない生活、こんな生活がこれ以上続けて行かれるとでも思ってるの。よかったら、貴方一人で続けなさい。そう、それで自分でいろいろと知るといいわ。そうすれば、今みたいに独りで倖せそうにしているのが、どんなに間違いか判る筈よ」
「死ぬのよ。そうすればいいじゃないの」
「もう、死ぬわよ。いいわね」

そうやって死んでしまう母親。残された中学生の私。
一読してショック。狂気を描いた小説はいろいろと読んできたが、これは迫真のリアリズム。カタルシスなし。

作者自選短編集のうち、この一編が強烈に印象に残った。
表題作など、生活の安定した作家の身辺を描いたものは、ちょっと勘弁してほしいわ。
(講談社文芸文庫「半日の放浪」)

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mixi過去日記より
コマ割りと時間

こうしてみると手塚漫画のコマ割りはけっこう細かい。オーソドックスな漫画の場合、コマ割りとは時間の流し方のことだから、コマ割りが細かいと言うより、カット割りが細かいということ。ところが手塚作品は時間の流し方に特徴があって、かなり大胆に展開する内容が小さな数コマで終わったかと思うと、表情の変化だけを何コマも使って追っていく。すると作品時間が不思議な感覚で伸び縮みする。これがよく言われてきた手塚の映画的手法というやつか?ボクには未だによくわからない…。単に細かいコマを多用する漫画家も多いが、手塚のような時間の流れは感じないし…。

ボクが親しんできた水木・つげラインの漫画はわりと単純なコマ割りだが、別に不足もない。つげ忠男や勝又進はほとんど同じ大きさのコマを単調にくり返すが、ストーリーに頼らない内容だから、全く退屈しない。ようするにコマとは内容によって必然的に決定されるものだ。漫画の特徴はコマ割だと考えて、あえて作為的な割り方をした人もいるが、児戯に等しいと思う。

とっくの昔に漫画はコマ展開によって時間を追っていくことから解放されていて、林静一から始まって、鈴木翁二・菅野修・斉藤種魚に至るまで、コマを追っても(少なくとも単線的には)時間が進まない。時間は行きつ戻りつするし、ある場合には時間そのものがない。自由だ。

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読書
「だいにっほん、おんたこめいわく史」
笙野頼子 作



あまり現代作家を追いかけない自分だが、好きだと言える数少ない作家が笙野頼子だ。
「おんたこ教団」に征服されて、「にっほん」となってしまった国。おんたこ政権は少女をいろんなカタチで商品として海外に売り出している、おたく・ロリコン政権である。対決していた「みたこ教団」も風前の灯火である。しかもおんたこ政権は、反権力・疑似左翼で、弱く傷つきやすい僕たちという立場をとっているのだから始末が悪い。

その「おんたこ」の有様を破壊的な文体で、ギャースカギャースカ書いて、話の半分終わったところで、ピタと止まる。そして小説家笙野頼子は困難にぶちあたった。というフレーズが登場。
たしかにここまでは、頭がくらくらするわりには面白くない。ところがこのあと、小説内小説ー御霊の自動語りといった体裁をとると、俄然おもしろくなった!いかにも神様と化した霊体は、こんなふうに時代をまたいで存在するだろうなあと思う。そのあたりが妙にリアルだが、これは単に自分好みというだけかも知れない…。

で、けっきょく最後は「おんたこ」の話に戻るのだが、実はこの作品は現代の消費資本主義社会の見えない大きな敵に対する告発なのだった。でもそこは自分はどっちでもよい。

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現在「月刊架空」では連続して安部慎一原作の漫画化が行われている。西野空男と斎藤種魚の作品がそれだ。なるほど内容はべったりとアベシンだ。いつもの私生活と宗教的思索、青年時の父親との葛藤など、原作に忠実に展開されているようだ。

しかし自分は不思議な違和感を感じた。人によっては漫画になっていないという意見もあるが、いやいやアベシンが自分で描いてもこうですよ。この展開になると思うよ。
この違和感はどう考えても、唯一無二のアベシンのネタなのに、唯一無二の西野空男や斎藤種魚の漫画世界で描かれているからだよ。

それで別のことを考えたが、ひょっとしたら漫画というものは、人物やらデフォルメやらセリフやらコマ展開で出来ているのではないのかな?
実は漫画を漫画たらしめているものは技術や方法ではなく、言葉には置き換えられないような、もっと描き手の身体そのもの。汗の匂いや、歩き方、声質、笑い方、肌の色、寝る姿勢のような言わば本人のDNAそのもの。技術や方法である程度までは描けるとしても、読者が感じているのはそこじゃない。読んで面白いのは他人が学習出来ない部分。つまり全ての漫画は自己流でしか描くことが出来ないのだ。

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映画(mixi過去日記より)
「現金(げんなま)に体を張れ」The Killing
スタンリー・キューブリック監督


自分のような映画に疎い人間でも、わずか数作観たキューブリックはみな面白い。
競馬場の金庫から200万ドルの強奪計画をたてた男達。本命の馬をレース中に狙撃、また喧嘩騒ぎを起こして警官が出払っているスキをついて、まんまと現金の強奪に成功。あとは再び集合して山分けするだけかに見えたが、計画を嗅ぎ付けた欲深い女の手によって狂い始める…。

登場人物のわかりやすい性格設定。見た目もいかにもといった感じの気弱そうな小男やずるそうな女など。心理描写もさほど踏み込まず、すべてはストーリーのために徹底してムダが省かれている。
犯罪劇に親しんでいる人からしたら、どの程度の出来のネタなのかはわからないが、退屈しなかった。散漫な画面やダラダラした展開がないから観れた。それがキューブリックの手腕なのかどうか、映画通でないのでわからないが。

ぜひ手塚治虫に漫画にしてもらいたいところです。サクサク進むコマ展開や、手塚得意の暴力シーンが思い浮かぶよ。今の描き手なら細かく描写するつもりで、緩急失敗しそうです。

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読書(mixi過去日記より)
「香水」ある人殺しの物語
パトリック・ジュースキント作

先頃公開された映画「パフューム」の原作

18世紀フランス。光を見、音を聞くが如く、あらゆる物の臭いを嗅ぎ分ける絶対的な嗅覚の持ち主グルヌイユは、孤児の身分からやがて天才香水調合師としてパリ中に名声を馳せる。だが、彼が追い求める究極の香りとは、胸も膨らみかけたばかりの処女の持つ体臭であった。女の肉体にはなんの興味もない彼は、その香りだけを永遠に手に入れるため、密かに殺人を繰り返してゆく。といったストーリー。だがミステリーにあらず。

舞台は18世紀だが、近年書かれた幻想文学の傑作。耽美風味はなく素直な文体で読みやすいクチ。
物語途中、パリを離れた主人公が山中の洞窟で何年も世捨て人としての生活を送るが、このインターバルが結構長くて、自分は一度中断してしまった。必要やったんやろか?と、今でも思う。映画は未見だが、どうなってるんやろ?
(池内紀 訳・文春文庫)

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mixi日記より

たぶん77年か78年ころかな、阿佐ヶ谷の高瀬コーポにアベシンを訪ねたことがある。(「消えた漫画家」の中でチラと触れてあったかな?)前の日に夫婦喧嘩をして、ものを投げたらアパートの玄関ドアにあたって、ガラスにヒビが入り、とっさに喧嘩のことを忘れて弁償のことで頭がいっぱいになった。なんて話を聞いた。「まどのくんの絵は粘りがあっていい」といわれた。
ちょうど氏が「高橋信次の宗教法人GLA」に凝り出したころで、悪霊についてレクチャーを受けたがよくわからなかった。そのGLAのカセットテープを一日中かけていると、「隣近所の人からあそこは宗教に入ってると思われちゃうよ」と笑いながら話していたのがどう考えても変だ。
後日鈴木翁二さんに安部さんは宗教に入りましたよと言うと、「そうなんだよ、なんでもすぐ飽きるから、そのうち抜けると思うんだけどね」とやや心配していた様子だったが、その後てんで抜けなかったのはみなさんもご承知の通りだ。
インタビュー記事を読むと、その宗教がアベシンから長い年月を奪ったことに、ようやく本人も気付いているようだが、どっこいこの前読ませてもらった漫画原作は、モーゼや法然の生まれ変わりがどうだのこうだのと、相変わらずだった。

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「地球を呑む
1968〜1969年作品

壮大なスケールで描く近未来超大作とかいう部類のものは、リアリティにおいて許せるか許せないかのギリギリのところがあって、SF的設定を含むとより危険だ。この作品は近未来ではないが、手塚治虫が得意とするその手のハナシ。
誰にでも簡単に変装できる「人工皮膚デルモイド」により犯罪が多発して防ぎ得なくなる。という設定はいろんな事件が起こりそうで愉快。だがこの話では、人工皮膚が全世界に氾濫して手が付けられなくなる。加えて無尽蔵にまき散らされる金塊により、金の価値が暴落。世界経済が破綻して文明が衰退し、産業革命以前の状態にまで戻るというのは、なんぼなんでもそりゃないやろ。という気がする。

この文明破壊計画を密かに遂行するのが、「ゼフィルス」という絶世の人工皮膚美人たちで、それも母親の復讐のためなのだが、この女は魅力的。おそろしくエロティックで、あらゆる男をたらし込むのも魅力的。そんな女が、関五本松という大酒飲みの主人公のみに心を奪われてしまうところが、いちばん面白い。
結局大スケールのパニック劇でも、男と女の話があればこそで、作者もそこを描いてるのが気持ちいいんじゃないかな?

荒唐無稽な設定でも、手塚治虫の昔ながらの表現だと「マンガだから別にいいか」と思えてしまう。これはリアリズムとは逆方向の成立の仕方だが、現代漫画も多くはこの「マンガだから別にいいか」を追いかけているのだと思う。その快感を得るために表現が発達してきた。現実の束縛を忘れられる気楽さや痛快感を得た上で、感動を得るために。

それをしなかった人が、つげ義春。(どこかにつづく)

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読書「臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」
大江健三郎 作


作家ケンサンロウはかつての学友、今は映画プロデューサーの男に、ある国際的な映画のシナリオを依頼された。主役を張るベテラン女優サクラは、かつてケンサンロウが学生時代に見た8ミリフィルム作品、「アナベル・リイ」(ポー詩原案)のなかのアナベル役の少女である。
ケンサンロウの故郷松山に伝わる「メイスケ母」の農民運動を素材に企画は進むが、やがて隠された事実が。かつて少女時代のサクラが主演した8ミリフィルム「アナベル・リイ」には、本人が知らない間に撮られたノーカット版があり、そこで彼女は裸身であった。これは忌まわしきチャイルド・ポルノなのだろうか?

大江健三郎の紡ぎ出すイメージはむかしから、あきらかにわたしの趣味に合っているのだが、あのだらだらした粘着質の文体がどうにも読みにくくて、つかず離れずといった読書体験だった。しかしこの作品は気にならずに読めた。森の中の土地に伝わる「メイスケ母」の怨霊、白い寛衣をつけて死者を演じる少女、そしてタイトルや文中に日夏耿之介のポー訳詩。土俗的で絢爛でエロチックな世界は、やはりあの独特の文体から匂い立つ。それにしても2007年の作品だから、作者老いてますます盛んと言っていいか。

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mixi過去日記より
ドラマ

あり余るほどのストーリーの大サービス。今の漫画家ならだらだらとコミックスで20巻くらいになる内容が上下巻にぎっしり。いや今こんなに起伏にとんだ大ドラマ描く人いないですよね。今の人は漫画表現が緻密(リアリズムとは別)になってきたぶん、スケールの小さな世界でぐだぐだやってる気がしますね。問題はストーリー以外のところにあり。でも自分はストーリーが大好き。(つづく)
(この雑感は、つげ忠男や安部慎一の長篇を念頭に置きながら、「MW」「奇子」など手塚の大人漫画を読み返してのものです。)

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