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漫画家まどの一哉ブログ

   
つげ義春がその黄金期に一連の旅モノを発表して、それまでの漫画概念を革新した。これがいわゆる「つげ義春インパクト」である。当時の世間の反応としては、こんなものは漫画ではない(漫画はデフォルメでわかりやすく娯楽を表現するものだから)。すでに漫画を越えて文学にまで達した(優れた内容なので漫画という娯楽の域を越えた)。などさまざまなもので、さらに「ねじ式」が発表されるに及んで、全否定されたりアートとして祭り上げられたりしたらしい。
したらしいと書くのは、私はとうぜんリアルタイムでその作品群に接していないからで、私が少年漫画からやや青年のものへ興味が移りだした頃には、「つげ義春」という一大ムーブメントは既に終わっていたのである。

つまり時代の流れのまま「つげ義春インパクト」を語れる人はしだいに少数となり、多くの漫画読者が、自分なりのタイミングで「つげ義春」を体験しているから、純粋な意味でインパクトを受けているわけではない。かくいう私もすでにつげ忠男や勝又進、安部慎一らに衝撃を受けてから、はじめて「つげ義春」に接している。たのしく読んでいたが、「ねじ式」には特に関心は持てなかった。

さて世間はどうだろうか。先にあげた文学への分類などジャンルを内容で分ける見方はもとより、多くの読者は方法のみを内容から分けてみる必要がないから、「つげ義春」の表現の革新に気付かない。私小説漫画・旅エッセイ漫画などという見方で今も昔も理解されているのではないか。ここにはつげ義春の方法が漫画のリアリズムを一歩前進させたという発見はなくて、もし私小説でない大ドラマを描くならば、当時の手塚治虫の方法でなんら問題はない。といった漫画の見方がある。これはいつの時代でも変わりはなく、評論家でも、大学の偉い先生でも、漫画作品の表現力の差をまったく気にしない読者のほうが大半であるから、私小説漫画・旅エッセイ漫画といったジャンルを読まないのであれば、べつに「つげ義春」という革新はいらなかったのだ。

したがって手塚治虫以降の漫画の革新は、24年組や大友克宏をまってなしとげられ、その後岡崎京子以降となるわけで、「つげ義春」は一部の私小説漫画が好きな人がやれば良いことになった。
その証拠につげ義春の衣鉢を継いで輩出した「ガロ」漫画家は、つげ忠男や鈴木翁二・安部慎一に至るまで、みな私小説(私漫画)ではないか。やはり「つげ義春」の方法とは私小説(私漫画)を書くための方法だったのか。
しかしこの理解では「無頼平野」「こくう物語」「筑豊漫画」などの漫画史に残る、私小説でない作品群がなぜ存在しているのかわからない。私小説でないドラマ一般を、記号的表現を排した方法で描くことにより、作品は確たるリアリズムを得ることができる。これが実は「つげ義春インパクト」の正体である。というのはいろんな漫画をたくさん読んでいる人にとっては、たぶんまだ大ざっぱな、何を言ってるのかわからない話であるが、この文章のつづきはないのである。

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読書
原民喜を読む

「美しき死の岸に」:作者の妻の病がだんだんと重くなり、やがて死に至るまでの一連の連作。そのなかでとうとう妻が死んでしまう話。悲しい話だが、日本文学史上もっとも美しい散文といわれるだけのことはあって、例えば室内楽を聴いているような澄み切った美しさ。

「夏の花」:広島での被爆体験を語った代表作。これは事実が脚色なしに克明に綴られる。散文の名手だけに、この事実はカタカナで書きなぐるのがふさわしい、としている箇所があるのがおもしろい。アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム

「鎮魂歌」:この小説だけが珍しく観念的で、作者の想念が、かけめぐる言葉のままにくり返すリズムにのせて演奏されていくような書き方をしている。客観的事実よりもこころの動きを忠実においかけるカタチで、好きな人は好きだろうが、自分はだめだった。

事実の推移は、まるで新聞記事を読むくらいの分かりやすさがあるが、それでいて人物のこころのうごきも手に取るようにわかる。それが澄んだきれいな文章で書いてあるから、内容が深刻でも読んでいてとても気持ちがよい。

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読書
「巨匠とマルガリータ」
ミハイル・ブルガーコフ


モスクワ市街。作家協会会長が公園でツルリとすべったまま、電車にはねられ首が飛んでしまったのを皮切りに、作家・劇場関係者のまわりに次々と起こる怪事件。黒魔術のショーでは10ルーブル紙幣が降ってきたり、豪華衣裳が女性客に与えられたりするが、数時間後には紙くずと消える。劇場支配人たちは一瞬で遠隔の地に飛ばされてしまう。これらはすべて黒魔術ショーを行った4人の悪魔たちの仕業なのだが、その中のひとりはでかい黒猫なのだ。
一方、ローマ帝国総督ポンティウス・ピラトゥスは、ヨシュア(イエス)を処刑してしまったことにどうしても悔いが残り、毎日を鬱鬱と過ごしていたが、実はこの挿話はモスクワの精神病院に収容されている巨匠と呼ばれる作家の手による未発表の作品であった。
巨匠の愛人マルガリータはぜひとも巨匠を救出し、この未発表作を世に出そうと強く願う。そこへ実際のピラトゥスとヨシュアの現場を目撃していたくだんの悪魔たちが協力し、マルガリータは魔女となってほうきにまたがり、モスクワの空をかけめぐり、批評家のアパートを破壊し、パーティで悪魔の女王の役目を果たしたりする。
やがて、巨匠とマルガリータは悪魔たちの手のよって今生での暮らしを終え、遠い昔ピラトゥスの生けるローマで安寧の日々を得るのだった。


といったかなり破天荒で荒唐無稽な小説。ドタバタ劇の如く動きの多い話で、空飛ぶシーンのスピード感は秀逸だった。また、人なのか大型のネコなのか?おかしなキャラクターも登場して、落ち着いたリアリズムを味わうことはできないが、当時のソビエト社会を風刺しているからといって単純な寓意小説でもないから安心だ。ナンセンスな幻想とリアリズムが混淆して同居するという作風は、まさに自分のスタンスと同じといってもよく、今まで世界幻想文学の中でポーとホフマンを座右に置いてきたが、この際ブルガーコフも仲間に加えたいものである。

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斎藤種魚さんの「巻頭言」、なんだか楽しくて素敵だ。

非常夢遊口さんの「ユメノオト」いい絵だと思う。まさにペンネームそのままの世界。キミイルキミナル氏の解説がすべてを語っている。この作品を見ると、同人誌「走馬燈」が目指す菅野修以降の作法というものは、ほとんど絵の魅力で出来上がるのではないか?などと考えてしまう…。

ところが斎藤種魚さんの「ハダシ」を読むと、相変わらず言葉を駆使していて、言葉の魅力も捨てがたい。その言葉と絵がシンクロしていたりしてなかったり、このサジ加減が作者の自家薬籠中の技術だ。ハダシって結局誰だったんだろ?

川勝徳重さん「縁の下の蝸牛」見たか、このコマ展開!なんと自由で大胆な!非常夢遊口さんのようなタイプと違って、ストーリーを追っていける描き方で、これだけやりたい放題遊べるのは才能の所産である。愉快愉快。

バキトマ先生、キクチヒロノリ「(改訂版)犬がほしい」キクチさんは常識あるとてもいい人だが、心の中に蠢くバキトマ部分には、蛭子さんや根本さん以上に気色の悪い、見てはいけないものがあることが、この漫画から分かる。それってなんだろう?誰しもあるのだろうか?キクチさんは石を持ち上げて、下にいる虫を見ておかないと生きていけない人なのだろうか?

鳥子悟「サマー・サスピション」こんなに名人芸みたいでいいのだろうか。ショートストーリーの語り手としては、0.ヘンリーや星新一みたいに上手い。それでも漫画界が求めるもののなかではマイナーなのかな。もったいない。

安部慎一・西野空男「深夜の栄光」やっぱりアベシンの語り口がいいのかな。それとも言葉数の少なさが心地よいのか、ついつい面白く読んでしまう。西野さんの絵もアベシンの心情に沿う描線となっている。この作品をアベシンのことをまったく知らない読者がどんなふうに感じるのか、それも気になる。

オオタヤスシ「THE SCARBOYS SHOW」途中、夢のシーンがなんとフライング沖!なんでやねん!というツッコミが通じる年齢が限られる(笑)

三本義治「マシンガンぎゅんぎゅん」アックス主力漫画家は皆大量に映画を観るが、この作品、いかにも日本娯楽映画の王道を行くような話だと思いました。

さて私の絵を描く楽しみは、世界を輪郭線に省略してしまうところにあって、つまり半分は図を描く楽しみなのです。美よりも意味を上に置くやりかたです。それでいつも失敗しているのですが、死ぬまでこの方法でいくつもりです。よろしくお願いします。

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巻頭特集は、デビューほぼ30周年「MY WAY」と書いて「けものみち」と読む、泉晴紀・久住昌之・根本敬・みうらじゅん、お歴々の豪華対談だ。みなさん50歳を過ぎてますます意気盛んなご様子。実は自分もまったく同世代。むかし自分は赤瀬川先生の「美学校・絵文字工房」を卒業した翌年も、OB面して平口広美さんらと毎週顔を出していたが、そのとき現役の生徒として在籍しておられのが、泉晴紀さんと久住昌之さんである。

ところでこの4人と久々に漫画を発表している川崎ゆきお氏とも、30年経ってもまったく変わらない印象を受ける。もちろんどんな作家も本質的には変わらないのかも知れないが、ヘタウマの資質を持っている人はとくにそうだ。自分はヘタウマをアール・ブリュットと同一視しているが、やはり直球で勝負しているからだろうか。おそらく今号も活躍の後藤友香さんや高橋宏幸さんも、30年経ってもまったく変わっていないのではないか。とくに川崎さんの今号の作品を読んで、そのあまりのいつもどおりさに、水を飲んでいるような気持ちになった。

さて私は「海の愉しみ」という漫画を後ろのほうに発表しています。単行本「洞窟ゲーム」の表紙絵の秘密が分かります。ぜひお楽しみください。

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読書(mixi過去日記より)
「偶然の本質」
アーサー・ケストラー


1974年発行のニュー・サイエンスの古典。
先ず超心理学。テレパシーや透視などのESP(超感覚知覚)、果ては念力(PK-サイコキネシス)まで、世界中の研究機関でくりかえされた各種実験を紹介。有名なものは、別室で選ばれたカードの絵柄を当てるといったようなもの。するとくり返すほど、大数の法則に従って近づいていくはずの確立から、明らかな偏差が現れる。つまり確立以上に当たる。これぞ超感覚知覚の証明か?

翻って著者は現代の素粒子物理学の成果に言及し、物質が極微の素粒子に分解されていくにつれ、それは我々の日常世界でいうところの「もの(物質)」ではなく、粒子でありながら同時に波動でもあり、エネルギーが決まれば位置が決まらないといった、ハイゼンベルグの不確定な世界を解説。実はこの物質ならざる物理世界が、精神の実態と関係しているのではないか?という推論が導かれる。

この筋立てで、ユングいうところのシンクロニシティ(同時性)の正体に迫ろうとする。つまり物事が、因果性に基づいて起きる普通の世界に対して、因果性に基づかずに立ち現れるシンクロニシティの理由にたどりつけないかと…。

著者は各研究を紹介するにとどまり、裏付けの無い断定はしていないので、いわゆるトンデモ本とは違うとしておこう。村上陽一郎の訳やし。
しかし、この本が日本で刊行された1974年当時と現在とでは、素粒子物理学も発展していて、著者が鍵を握るとしていたニュートリノにも、質量はあった。
加えて近年MRI(おなじみ磁気で脳を輪切りするヤツ)の発達もあって、脳科学が著しい成果をあげているらしく、著者ケストラーが物質に対置させていた精神といううものも、多くが脳内物質の作用で解明されている。意識の本質にたどり着くことはまだないにせよ。

そうはいっても偶然や霊的世界の謎は解き明かされていない。ネタとしてはおもしろいけど、基礎知識がないとトンデモ科学にひっかかちゃう!

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独自の活動を続ける山坂書房。この漫画集には彼らが追求する日常切り取り漫画が集まっている。事件性は薄いが、その分リアリズムが大いにあって、いかにも日常そのものの迫真性を感じる。そこはかとない内容で、中身がないと言えばないが、そこを楽しむことができる。例えば代表される大西真人作品では、ふつう漫画では拾わないだろう日常の会話が、かなりゆっくりと丁寧に綴られてゆくので、読む者がその場に居合わせたようなリアリティが感じられておもしろい。この方法がやがてどう実を結ぶのか興味津々だ。それは日常の何処を切り取ってくるかという作者の目線にあるわけだが、いまのところ今までの漫画が描くべきだとしていた濃い部分を拾ってくる気はないとみえる。そこが既存の漫画を読み馴れた目からみればもの足りなく、また逆に風味なのです。

山坂の両輪のうち一方の三好吾一作品は、資料写真からフリーな描線で場の光を表現するのがうまいので、絵が心にしみてくる。これも小学校の小さなエピソードを描いた、秀逸の風味漫画。かってに風味漫画と呼んでいるが、この方法に徒に内容を求めるのでなく、じわりじわりと熟成してくるのを待ちたい。

そして炭子部山貝十先生の漫画はさすがに中身が濃い。このリアルなしっかりした生活者ドラマを、こんな粘りのある楽しい絵で読めるなんてシアワセ。作者の体験をしっかり活かして、ドラマに出来る。異才の中に実力あり。読もう!


miyazakikume     「友引の雨」
大鯵温州        「ふるさと小包」
大嶋宏和        「これからの私たちに起こること」
大西真人        「桃」
キクチヒロノリ      「ともだち」
高橋マナブ       「ニコニコ屋」 
炭子部山貝十     「ビバ限界集落」
永田智子        「白線」
藤田みゆき       「手駒」
藤本和也        「下校物語」
三好吾一        「ひとごと」
もぐこん(遠藤俊治)  「山坂それと知らず古戦場を歩く」

http://www.yamasaka-shobo.com/

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「豊饒の海」
三島由紀夫
 作

三島由紀夫の絶筆であり、ライフワークとなった長編「豊饒の海」
輪廻転生を題材としているだけに、背景には仏教思想が色濃く流れている。三島由紀夫と仏教思想というのが、なんとも意外な気がする。だがそれは空とか無常とか諦念とかではなしに、阿頼耶識を中心概念としたアビダルマ哲学のようなもの。登場人物はインドまで行って大乗の哲学に目覚めるのだが、その辺りはなんとなく手探りで書かれているような気がした。悟ってしまえば小説なんか書かないだろうとは思うが。

第一話「春の雪」
この第一話を読んだのはかなり前。大正時代。眉目秀麗な侯爵家の一人息子、あまりに繊細でプライドが高い性格のため、想いを寄せる伯爵家の令嬢に素直になれない。彼女と宮家(皇室)との婚礼が決まってしまった後、ようやく二人は愛を貫くことができるが、それは破滅へ向かう禁断の恋であった。 主人公は死ぬ前に「また何処其処で合おう」と謎の言葉を残して死ぬが、これが次の生まれ変わりの人物との出会いとなっていく仕掛け。しかも身体には、代々生まれ変わりの徴あり。

第二話「奔馬」
やはりいちばん面白い巻。昭和戦前。今度の主人公は、日本と皇室のために君側の奸を切って、自らも切腹することを願うピュアな少年で、危なげなテロ計画の進行にはらはらする。当然最後は破滅なわけだが、第一話の耽美少年、第二話の右翼少年とも、主人公はあきらかに作者三島の分身である。

第三話「暁の寺」
この寺とはなんとタイの寺で、今度はタイのお姫様に転生。やがて仏教哲学が縷々語られることになるが、退屈してきたところで物語自体が進んで読者を引っぱっていくように仕組まれている。そしてエロチックな内容となって、三島の世界が全部出た気がした。

第四話「天人五衰」
はたしてほんとうに一連の転生した人物か?凡人を見下して生きる悪意の天才少年が主人公。莫大な財産の取得計画のゆくえは?やはり最後は破滅に至るわけだが、全話を通して転生した少年たちを見守ってきた、もう一人の主人公も最早老残の姿をさらし、しずかに衰えてゆく。


これらのストーリーが絢爛豪華な美文で描かれ、風景描写でもちょっとおおげさすぎて頭に入ってこないくらいだ。フツーの空や海や木々なんてものはないのだ。すべては美のためにある。

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読書(mixi過去日記より)
「チーズと うじ虫」
カルロ・ギンズブルグ


16世紀、イタリアの一地方に住む一介の粉挽屋メノッキオが、
その独自の反キリスト教的世界観のため焚刑とされるまでをたどる、
1984年発行当時話題となった歴史書。

メノッキオ曰く
「神様とはなんであるか?それは空気であり、水であり、土、火など、すべてが一体となったカオス。それが神そのものであり、そのカオスの中から、ちょうど醗酵させたチーズに自然とうじ虫がわいてくるように、生まれてくるのが天使だ」
この自然観にぐっと来た。天使のところを生命と置き換えて読めば、神という言葉を使っていても、この人の世界観が、いかに自然科学に近いかということがわかる。
「来世なんていうものはなく、肉体が死ねば、同時に魂も死ぬ」
「キリストは男と女の間に生まれた、ふつうの人間だ」
どうよ、この世界観。

当時ローマ・カトリック教会による特権的な支配、収奪を地方の人々は快く思っていなかった。ということもあるが、中央から離れた土地では、キリスト教以前の、口頭伝承的な農民の宗教観・世界観がまだまだ背景としてあった。ということが学習できた。忘れるけど。

それにしてもこの粉挽屋メノッキオという人は、10指に余る書物に接しただけ、しかもトルコ人にはトルコ人の、ユダヤ人にはユダヤ人の宗教があるということを、学んだだけで、それぞれの民族にいろんな神様がいて、それは対等であることに気付いてしまう。キリストの教えもその一種に過ぎなくて、たまたま我々がキリスト教圏に生まれただけであり、所変われば教えも変わることに。
今日の欧米、特にアメリカ人が、なかなか自分たちのキリスト教を相対化して見ることが出来ない中、この16世紀の田舎の粉挽屋ときたらもう、すごいよ!おそらく根っからの自然科学者だと思うよ。いたんだねえ…、こんな人が。

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映画(mixi過去日記より)
「街灯」
監督:中平康 
原作:永井龍男

出演:月丘夢路 南田洋子 葉山良二 岡田眞澄
1957年

銀座に華やかな洋裁店を経営するマダム(月丘夢路)と、そこで働く若きツバメながら、次々と女に手を出す優男(岡田眞澄)。マダムの友人で、やはりささやかな洋裁店を営む女性(南田洋子)と、落とした定期が縁で近づきになる保険会社の社員(葉山良二)。この二組を中心に、金持ちの遊蕩娘や金をたかるゴロつき達も登場して進む、ほのかな恋愛コメディ。

始まってすぐ、そのテンポのよい場面の切り替えや、話の進行に引き込まれてしまった。
大爆笑するギャグはなく、ゆったりと長く感情を描いたりもしない。恋もほんの芽生え程度で、極端な感情の高ぶりに寄らずに、ほんの小さな面白いことをいっぱい作って、全くムダ無く繋いでいく方法が観ていて気持ちよい。
例えば、遊び人の金持ち令嬢が、プレイボーイの青年(岡田眞澄)の実家を訪れてみると、どぶの流れる裏長屋。令嬢が一人乗りのコンパクトカー(メッサーシュミット)で乗り付けた時に、近所のはな垂れっ子たちが、「おもしろい自動車がきたぞー!」と、取り巻きにくるところが愉快だった。

個人的には、若い南田洋子が可愛い。大地真央から瀬戸朝香ラインを彷彿とさせる、オデコに主張があって、鼻の付け根の低い顔立ち。

映画に疎いが、中平康という人が、日本の名監督らしいので観てみました。よかったです。
原作が永井龍男だから、名人永井龍男を読み返してもいいかもしれない。

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