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漫画家まどの一哉ブログ

   
読書(mixi過去日記より)
「ユリイカ」
ポオ
作 岩波文庫

わが最愛の幻想文学作家、エドガー・アラン・ポオ最後の作品。当時最先端の宇宙科学論を下敷きに、直感のみで組み立てられた形而上学的宇宙論。いっさいの数学的物理学的検証をともなわない。
壮大なるナンセンスと言えば言えるが、1840年代の天文学を基礎にした解釈は、あながち大ハズレでもない。たとえば、この宇宙は静止した状態ではなく、ある原始の究極の単一にその萌芽があり、斥力に応じて拡大の一途を経、やがて重力作用によって再び原始の単一に戻るであろう。などの論考は、現在のビッグ・バン&ビッグ・クランチ論を先取りしているとも思える。
ところが、太陽系の形成過程について、太陽が自転とともにその遠心力を用いて、次々と質量を解き放ち、それがやがて凝結して順番に惑星が形作られるところなど、まったくオカシイ。

加えてこれは形而上学的試みだから、これらの宇宙の営みは、すべて神のなせる業として導かれている。このあたりの論旨についていくのには、読み手の脳に跳躍力が必要である。

ポオはこの論考を、大きな意味での散文詩と思ってほしいそうだが、いえいえまったく詩になってませんよ。ポオはどうしてこんなものを書き残したかったのか?人間やはり、壮大な宇宙論や存在論を手にすると、本人は絶対正しいつもりなんだから、死ぬ前にどうしても多くの人に語りたくなるのは、天才作家も凡人も同じなのか?

解説によると、かのポール・ヴァレリーは「ユリイカ論」の中で、「人間としての栄光は、空虚な事柄との対決に自己を費やすことのできること」であり、「純粋な論理学は虚偽が真実を意味することを教える」と、精神の求める無稽を讃えて「ユリイカ」を弁護している。

まあ、それを言ったらずるい気もするが、現在自作の中で荒唐無稽な虚妄の世界を目指しているボクとしては原則賛成しておかねばならないかも…。それにしてもやっぱりこれってトンデモ本…?

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読書(mixi過去日記より)
「われら」
ザミャーチン
作 岩波文庫

200年戦争が終わり、全地球を征服した単一国が誕生して1,000年。恩人様の支配により、人々は睡眠・生殖を含む全生活を、時間律法表で定められたとおりに行っていた。全ての建造物はガラス張りであり、守護者(秘密警察)による監視も徹底している。
自然状態の動植物は、人工物だけで構成された都市をめぐる壁の向こう側に排除されていた。

今にも飛び立たんとする宇宙船インテグラルの制作担当者D-503は、女性I-330に出会って以来、生活が一変。どうやら魂の発生という病気らしい。彼女を追ってたどりついた博物施設「古代館」に迷い込むうち、単一国政府に異を唱える自由な人間(古代人)の集団にめぐり会った。しかし、インテグラル打ち上げ前日、全国民に想像力を奪う脳手術が強制されようとしていた。

1920年代、発表されるや反ソビエトの宣伝小説と批判され、スターリン政権下で亡命せざるをえなかった、ザミャーチンの傑作近未来小説。独裁政権と科学技術が結びついた、暗黒の未来を的確に描く。
ただしこの小説、映画「未来世紀ブラジル」や「マイノリティリポート」を観るように、ストーリーを追ってわくわくと楽しめるかというとさにあらず。散文詩のように、心象が描写され、読者はむしろ沈鬱なイメージの中へ引き込まれ、一章ごとに作者の詩的遊戯を味わうという仕掛け。それ故に捨てがたい名作となった。

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読書(MIXI過去日記より)
「今日様」
葉山嘉樹短編小説集


女房のおたねといつもの如くケンカした藤蔵は、ついに離婚して単身満州へ渡ることを決意。親父に資金を迫る。もう60を越えた親父に言わせれば、息子の藤蔵は、朝鮮や樺太に一旗揚げに飛び出しては、失敗して親に尻拭いばかりさせているダメ男。遠い夢ばかり追いかけて、毎日の労働に喜びを見いだせないのだ。
ところがこの親父さんは藤蔵の百姓仕事に地下足袋さえ与えないドケチ人間で、藤蔵に与えられたのは、山の上の水漏れたんぼで、肥料代さえもかけられないというありさま。

さて藤蔵夫婦のケンカの仲裁を頼まれた居候の山田は、おたねの実家へと赴くが、おたねの実父は、生えて育ったから立っているという木のような人間で、なにもしない。
妙に頭のいいおたねは「百姓は永久に圧しつけられる生業の中に、湧いてくる蛆虫だ」とか自説をぶちあげ、母親に「また気違いが始まったよ」と嘆かれる。はたして山田は無事おたねを藤蔵のもとへ連れ帰ることができるのか?


面白すぎる人物設定。
葉山嘉樹(1894~1945)といえば、分類的にはプロレタリア小説家で、たしかに代表作「海に生きる人々」などをみても、資本家の搾取を攻撃するインテリ労働者などが出てくるのだが、そういう箇所を読むと実は自分は気持ちが引いてしまう。
そういう警察になんども捕まっている運動家のような、言葉を操る人物ではない、底辺の生活者だけで構成された話がぐっとくる。
室蘭から荒海に乗り出す小さな石炭運搬船の水夫達や、天竜川上流に鉄道施設のためトンネルを掘る坑夫達など、作者の肉体労働体験がリアルで、あたまでっかちにならない。

有名な「セメント樽の中の手紙」は菅野修によって、漫画化されています。(ガロ1991.10月)

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映画(mix過去日記より)
「けんかえれじい」
1966年
監督 鈴木清順
出演 高橋英樹・浅野順子・川津祐介

昭和10年ごろの旧制中学を舞台として、けんかばかりしている主人公達の話だが、おもしろかった。
もしこれが、経済的に自立している大人の世界ならば、ピストルなども登場して悲惨な話になるだろうが、学生間の意地の張り合い・男気の見せ合いなので愉快愉快。殺傷能力の高い手作り武器なども登場するが、そこはユーモアとして安心して見れる。

男らしさと女らしさが極端に別れていて、硬派の男達の憧れる女は、可憐な一輪の白百合が如し少女であり、マドンナであり、純然たる女性像のようなもの。「男は男らしくあれ」というのが昔の日本社会共有の建て前で、中性的なポジションがない。(ドラマではときどき男勝りのおてんばな女の子が登場するけど…。)
この極端な男と女で構成された社会が、本宮ひろ志が「男一匹ガキ大将」で憧れた世界で、つまり既に失われていた社会なのかも知れない。それとも自分が知らないだけで、相変わらずヤンキーの世界は同じような精神性なのかな?

高橋英樹は若いくせにゴツ過ぎるが、川津祐介がやはりカッコイイ(自分は川津祐介の「三回死にかけてわかったこと」という妙な本を読んだことがある)。

北一輝が登場し、二・二六事件が起こり、主人公が東京へ赴こうとするラストはかなり唐突な感じがするが、この作品が公開された当時、学生運動の時代の雰囲気から歓迎されたようだ。どんな作品もその時代の若者が共有する感覚を描いて評価される部分がある。時間が経ち、世代が変わるとさっぱりわからない。それについては、いいとも悪いとも思わないが。

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3.11以降、世界が変わったかどうか自分の知るところではないが、そんなことを考えることにあまり意味があるとも思えない。果たして世界が変わるのかと言えば、変わらないと思う。

確実なことは被災者の人生は激変した。そして今日一日避難所で生きていけるのか、今日の衣食住の問題。そして肉親の安否、失った仕事。これらの強烈に具体的なことを考え、言葉にしていくしかほかにない。
翻って自分など平和なものだが、やはり計画停電と納期を考えた仕事のやりくり、品不足の中での買い物、電車の運行状況、そして自分の作品の構想。など具体的なことについて発言していくしかない。同じといっては申し訳ないが、やはりこの具体的なことだけが真実で、概念的なことは不毛を感じる。

もちろん放射能に襲われて関東地方がもぬけの殻になるかも知れない。私も政府や東京電力の発表を信じているわけではない。東電の体質からして触れたくない重大事項は先送りして、当座の責めを免れようとしているだろう。原子力行政を継続したい政府も問題を過小に発表したいだろう。
しかしそのことは、今現在福島原発が既に破滅的状況であることとイコールではない。破滅の可能性はあるが、例えばプルサーマルである3号機の炉心が熔解しているのを、我々がこの目で見てきたわけではないのだから、我々の乏しい知識で、もう破滅しかないと決めつけることはできないのだ。
すると専門家の話を聞くしかないのだが、これまた一人一説で、たとえ御用学者のいうことを否定しても反原発派の現状認識が正しいと、一方的に信じ込むのもつまらない話だ。つまり福島原発の状況に対して、推論ではなく具体的なことしか語れないとすれば、我々庶民に言えることはなにもないのだ。あきらめろ。

復興ということは今までの世界を取り戻すことであり、また被害に遭っていない地域の暮らしが今まで通りであるかぎり、世界はそう簡単に変わらない。そして我々は今まで通り小さな世界で仕事をして生活費を得て、生きて死んで行くしかない。この具体性が人生であり、歴史的な視点で概括するのは後世の人間の仕事で、今現在の人間は毎日を虫のように生きて死ぬしかないのだ。

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読書
「地獄編三部作」
大西巨人
 作

ごつごつとした観念的な抽象的な言葉で彫琢された文体。骨格だけがむき出しになっているような、がちがちの文章。それが論理を展開するために使われるのではなく、あくまでも小説の役割として使われていて、つまり人物の内面や情景描写のために使われていて、読んでいるとクラクラと引き込まれる。こんな文体があったのか!という印象。これも美文の一種だ。例えば

__それは、遠い以前に税所が見失った「人間性への確信」および「生と存在の肯定」の回復可能に関する幽かな予感の瞬きであった。その明滅する微光を抱き締めながら、税所は、一人の女性との合一の意志を・瑞枝との結婚の決意を、彼の内側に育成することができた。

__そんなふうに、敗戦後の税所は、たまたまみずから省みては、そのたびごとに、彼自身の過去を恥辱と醜悪と卑屈と汚穢との堆積としか感ずることができなくて、そういう唾棄するべき彼自身をほとほとこの世から抹殺したいほどに激甚な疼きの発作を心裏に覚えるのであった。


こんな調子です。

小説は第一部で台本形式,日記形式などを織りまぜながら、第二部はまるごと小説内小説になっているといったコラージュ的面白さがある。またこの小説が未発表を余儀なくされた理由である、当時の作家・批評家達が誰と分かる仮名(坂口鮟鱇・汁菜輪蔵など)で登場するパロディもあり、この作者の愉快な資質がうかがわれるというもんだ。
さて地獄編ときいて、どんな地獄かなと思うと、これが女を死に至らしめる罪作りな主人公の内面的煩悶である。そのあたりはよくある話で、それ自体は自分はどうでもよかった。

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巨大地震が東北を襲った日、揺れには驚いたが家の中は無事だった。妻の部屋を含めて幸いにも何一つ倒れていない。不思議なことに本やCDも整然と並んだままだった。
しかし終日余震が続いて、神経を消耗している妻には酷だった。

あろうことか、この未曾有の危機的状況のなかで、仕事がいつもにも増して連続していて、拡大する被害状況を気にしながら、レイアウトワークから手が離せず、なんとも落ち着かない数日を過ごした。

それでも街の人々はのんきなもので、地震などなかったかのようにふらふらと出歩いている人が多かったが、ついに計画停電が始まると一転した。ガソリンを求めるクルマの列。半日しか開かないスーパーで買いだめする人々。わさわさとした空気が街中にあふれる。

やがて原発の様子が刻一刻報道されると、ネット内では今にも最悪の事態が起きるかのように大騒ぎする書き込みが増えて、嫌な気がした。最悪の事態は自分も否定はしないが、あまりに情緒的な反応はやめてほしかった。自分一人になにができようか。
それより多くの人が津波にのまれて一瞬のうちに死んでいるではないか。生き残った人も街も暮らしも壊滅している。原発報道は真実を判断する能力が自分にはないが、被災地の状況は現実だ。これを直視するしかない。

幸い自分の関係する漫画家達はみな無事だったが、編集・出版は計画通りにはいかないようだ。まあ、よいよい。今はアイデアを練るチャンスだと思おう。

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読書(mixi過去日記より)
「気違い部落周遊紀行」
きだ みのる
著(冨山房百科文庫)

戦中から戦後にかけて、東京都下の山村に住んだ著者が、その村社会を活写したフィールドワーク。
フランスの社会学・人類学の翻訳家である著者が、都市生活者の目で観た、伝統的で閉鎖的な日本の村社会。それははたして「気違い部落」と呼ばれるほどの驚きを持ったものなのか、はたまた逆にそれを笑う都会人のほうが「気違い部落」の住人なのか。

著者が移り住んだのは山寺だが、ここの住職は「人間、肉体の欲望に忠実に生きることこそ真実」との哲学のもとに、博打と女買いにあけくれたあげく行方不明になっていて、かわりに蓄音機が経を読むという合理的なシステムになっていておかしい。

村人はもちろん自分の作る農作物の改良・増産には感心があるが、それは自分家だけが抜け駆けできる場合に限った話で、全体の収穫が上がったのでは結局価格が下がるだけだから、自分の畑だけの豊作を考える。

したがって私欲の満たされない、山の木を刈るなどの共同作業は、たき火の周りでだべっていることに多くの時間が割かれ、まったくもって進まない。

もちろん隣人が病気になったときなどは、相互扶助の精神が自然と発揮されて、大切な卵でも気前よく分け与えたりもするが、これが単に食料に困窮しているとなると、とたんに弱肉強食の自然状態となり、たまごは高く売りつけられるのである。

と、要約していくとキリがなく、戦後民主主義下での村議選の様子などは、選挙前から義理と実弾によって当選者が決まっているところなど、今もっておなじみの風景だ。
10年以上前初読の時には、都会とは違う、今も残る村社会の後進性を描いたものだと思ったが、今回再読してみて感じるのは、なんのなんの、これは現在も変わらぬ都会も含めた、日本社会そのものであり、それどころか人類全体に通じる本質だということ。世界中いつだって人間のやることはこういうもんだよ。

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読書(mixi過去日記より)
「よもつひらさか往還」
倉橋由美子


うら若き男子、主人公の慧(けい)くんは、とある古いクラブで不思議なバーテンダーの九鬼さんと知り合う。九鬼さんの作る色鮮やかなカクテルを飲み干すたび、慧くんの魂はこの世を離れて、冥界を彷徨いだし、妖しい女達と都合良くも情交をかわすという短編連作。
途中九鬼さんはいとも簡単に自ら命を絶って(ネタバレ)、その後はいつ何処へでも融通無碍に出現して、いよいよもって、あの世とこの世を繋ぐ案内人としての正体を現すのだった。

怪奇幻想の中にもアイロニーと毒をたっぷりと含む倉橋由美子にしては、この作品はわりと素直にきれいな幻想譚で、主人公の青年は女に寵愛されるタイプという設定が、現実から読者を解き放つミソのような気がする。ただ自分としてはやはり毒がないと物足りない…。

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巻頭特集、近藤聡乃さんへのインタビューを見よ。大学での実績を糧として文化庁の奨学金を受け、ニューヨークに留学し成果を出す。もちろんアニメばかりでなくその核として漫画がある。漫画学部が盛んな昨今、これぞ今日本でもっとも有効に使われたアニメ教育ではないか。専門学校や大学での漫画教育というものに、自分は正直かなり疑問を持っているが、結局のところ全ては近藤さんのように本人の才能あってこそのものであり、それ以外のなにものでもない。

その近藤さんにインタビューしている中野シズカさんの連載「モリミテ」が始まって、自分は驚いた。いつもにも増して細密なトーンによる描写の連続。これで連載とは!このトーンは、いわゆる中間色という役割じゃないよ。役割としてはカラーなんですよね、モノクロだけど。
その中野シズカさんとオカダシゲヒロさんと藤宮史さんという「三大時間かかりそう漫画家」は、実はけっこう仕事早いんじゃないか?みんな自家薬籠中のワザだし。

あらいあきさんの「ヒネヤ2の8」を読んでいて、おなじみの人物がいつもの町でうろうろしているこの感じ。なんかどこかで知っていると気になっていたが、ひょっとしたら滝田ゆうかもしれない。

川崎タカオさんの「待ちぼうけ紳士」が壮大なドラマとして終わった。連作中いつのまにやらボケ役が紳士本人じゃなくなっていたが、同じパターンで落とすという設定の難しさを感じるよね。

オカダシゲヒロさんの「半熟キッズ」もラストへ向かって大きく動いているが、この漫画もハダカで登場している時点で出オチであり、そこからその後を描いていく漫画だから大変だ。

藤枝さんはやっぱり元気でおもしろいわ。いちばん元気。
具井さんはいつも期待しています。元気が無くていい。

●ボクは「宇宙恐るるに足らず」というSFを(SFなわけないだろ!)巻頭近くに掲載してもらっております。自分でも気に入っている作品です。ぜひお楽しみください。

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