漫画家まどの一哉ブログ
読書
「ヘリオガバルス」または戴冠せるアナーキスト
アルトー 作
前に難解ながらもわくわくと読んだ記憶があり、再読したがやはり面白かった。
ローマ帝国史上最悪最低の少年皇帝。母親らシリアの女性たちの権謀術数の結果、わずか14歳で皇帝の地位につく。ローマ入城の時は10トンの陽物像を台車に乗せて、300頭の牡牛に引かせ、胸もあらわな300人の女たちや、オーケストラ、踊り子たちと共に、ローマに尻を向けて犯されるカタチでやってきた。
彼ヘリオガバルスはまったく自らの欲望(男と寝ること)に忠実な人間でそれを隠しもしなかった。自身に紅白粉を塗り、女装して男を呼び込み、王室を公然たる娼窟それも男娼窟としてしまう。官僚や軍人などなんの価値もない人間であり、民衆の中からチンコの大きい者をピックアップして要職につける。連日の豪華な食事にも全く予算を出し惜しみしない。そうやって快楽にふけり、戦争などすることもなくこの体制が4年も続いたのだから驚きだ。もちろんこの伝説には歴史家の装飾や、アルトーの誇張された描写が含まれているだろうが、なんともシュールレアリスティックな雰囲気があって自分好みだった。
この作品は歴史小説ではあるが、アルトー哲学もおおいに混ざっていて、詩的言語を駆使した論理展開は、はっきり言って自分にはチンプンカンプンに近い。だがそれもまた良しだ。
読書
「スピリット」 ティオフィル・ゴーチェ 作
ゴーチェもいろいろ読んだが、ポー、ホフマン、バルザックより後の人でありながら、いちばんオーソドックスなストーリーテラーなような気がする。この物語も片思いを抱いたまま亡くなった少女の霊との交流を美しく描いたものだが、展開はストレートで意外性はない。この時代の小説の舞台はほとんどが貴族階級であり、とうぜん働かないし、女性はいかに美しく自らを飾り訴えるか以外の関心はないようだ。劇場に置いても人々の関心は、舞台よりも観客の誰と誰の仲がどの程度進んでいるかであり、まったくショーペンハウエルが馬鹿にしてののしった生活である。
この時代の西洋幻想小説の多くがスピリチュアルな話であり、この小説のタイトルであり登場する娘の愛称がスピリット。まさに心霊譚の王道をいく話だ。それでも死んだ娘の魂は、過去も未来もなく距離と言う概念もなく、何処へでも一瞬にして移動する存在であり、宇宙は無数の光り輝く霊体に満たされているという描写は、現代に語られる臨死体験と全く同じであって興味深い。
霊体である彼女と親しく触れ合いたいからといって、自ら死を選んでしまったら、それこそ未来永劫引き裂かれた間となってしまうという設定も、ちゃんと考えられているのだった。
「死の同心円」 J.ロンドン 作
表題作を含む短編集。ジャック・ロンドンというと、アラスカなどの厳しい気候の中で動物ががんばる物語を思い浮かべるが、本質的には短編作家だそうだ。そうなると中には怪しげで現実離れした風味を味わうことが出来るものもいくつかある。ロンドンは、ヘミングウェイ、メルヴィル、コンラッド等と同じく行動型で肉体頑健な作家で、自身の冒険体験が豊富だから作品もどんどん大自然の中へ出て行くのかもしれない。
「マプヒの家」:珊瑚礁で囲まれた南洋の島。島民は真珠をとって生計をたてていた。かつてないほど大粒の真珠を手に入れたマプヒは、これを家一軒と引き換えに売る腹づもりである。ところが巨大ハリケーンが島を襲い、全てを破壊してしまう。
「恥じっかき」:毛皮を略奪しながらアラスカの大地を放浪してきた荒くれ者スビエンコフも、ついに現地人に囚われる身となった。次々と拷問されて殺されていく仲間を見て、どうしても拷問だけは避けてすんなりと死にたいと思ったスビエンコフ。一計を案じて、蛮人の首領をだましにかかるが、彼が言うところの魔法とは?
「影と光」:仲の悪い二人の青年化学者。一人は全ての光を吸収してなにも反射しない純粋な黒を開発し、一人は反対に全くの透明を開発した。まわりから見えない姿となった二人の対決やいかに!
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「空の青み」 G.バタイユ 作
主人公の私はほとんど二日酔いと風邪と吐き気と発熱でどうしょうもないグダグダ状態で、そのことばかりが書いてあるのだが、なぜか無性におもしろい。朝まで飲み歩いて、少し仮眠をとった状態で、また出かけて酒を飲むが、けっして酩酊しているわけではなく、自らが死に近づいていく感覚をつねに抱いている。自己嫌悪的なグチならつまらないが、そうではなくて病気の自分のかえって鋭利になった感覚を追いかけていて大切にしている様子が、きめ細やかで新鮮に感じる。
3人の女性が登場して、それぞれとの距離が描かれるが、セクシャルなシーンはそんなにはない。社会主義の闘士である女性は、主人公にとって恐ろしい存在であるし、仮の恋人のような若い女性はチャーミングであるが、主人公の煩悶を解決する役割はない。そして話の最後に久しぶりに会う本妻が、内面的にも肉体的にも主人公の人生を決定する。この本妻との愛が微妙な距離感覚で一筋縄では行かない感じで、二人は愛し合っているのだろうが、それが直接的にはわからなくてスリリングだ。最後に土の上でセックスするところがクライマックスだが、土と墓と死と性をネタにいかにもバタイユの思想を解説するのは評論家に任せよう。二人の感情のうつろいが読んでいて楽しい。
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「ナイフ投げ師」 スティーヴン・ミルハウザー 作
「ナイフ投げ師」:超人的な技を持つナイフ投げ師の舞台。驚くべき技術で繰り広げられる演目だが、クライマックスでは、的と成る人間の身体を狙ってわざと聖なる血を流す儀式が行われる。薄暗い中で不気味に進行する非日常の世界。いかにも正統幻想文学の怪しい雰囲気いっぱいで堪能した。
「ある訪問」:田舎に定住して結婚したという友人の頼りを受けて、久しぶりに訪ねてみると妻というのは身長60センチもある巨大なカエルで、そいつがテーブルに向かってちょこんと座っているのだ。友人にぴったり寄添うカエルとの一日が淡々と語られて実に妙だ。
その他、街や風景まで売ってしまう画期的な百貨店や、現実離れしたアトラクションで満たされた遊園地。生きているかのように動く精巧に出来た自動人形劇場など、ミルハウザーは空想的な設定を事細かにルポルタージュの方法で述べる作品が多く、小説の情景描写を読むのが苦手な自分としては、やや苦しかった。そういうのは絵で観たいもんだ。やはり登場人物の会話があって、人物目線で話が進む方が楽しい。
「出口」:軽い気持ちで人妻と浮気した主人公。相手のダンナが貧相な小男だったのでナメてかかっていると、早朝呼び出されて銃による決闘に至るという悲劇。人生油断ならぬ。
「ガルシアの首」 1974年 アメリカ
監督 サム・ペキンパー
出演 ウォーレン・オーツ、イセラ・ベガ
ペキンパーと聞けば素人の自分でもバイオレンスと認識する監督だが、自分はそもそもバイオレンスに関しては感受性が鈍い方らしく、銃撃戦自体はなんとも思わなかった。砂塵舞い飛ぶメキシコの田舎で、汗臭く泥臭く、つまり男臭く繰り広げられる闘い。そこで恋人を失った賞金稼ぎの主人公が、虚しくも死んで最後かと思いきや、しつこく生き延びてヤクザを葬り、依頼主の大地主の屋敷にまで乗り込んで行こうとは!このあたりやや蛇足の感があったがエンターテイメントの法則としては正解なのだろう。冗漫になるところを主人公が恋敵でもあるガルシアの首につねに語りかけているところが大切な描写だと思う。
それよりも恋人エリータと育まれる愛の語らいが、なんとも心温まるもので、言葉には出さない表情やしぐささえもが二人が愛し合っているのがよく分かって微笑ましかった。これは後半エリータが犠牲になってからの復讐劇を盛り上げるために必要な伏線であると、ストーリー構成上理解することはもちろん出来るが、銃撃戦よりはよっぽどリアリティを感じられた。旅に出た二人が樹のたもとで結婚を誓い合うシーンが素敵だ。銃撃戦は主人公だけ弾に当らず、相手には当たるから妙だ。
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「アサイラム・ピース」 アンナ・カヴァン 作
作者の日常をもとに描かれた短編集。具体的に日々の暮らしがどうだからという話ではなく、精神的に孤独と絶望でもういっぱいいっぱいの状態だ。どうして誰も救いの手を差しのべてくれないのか。這い上がろうとしても更にどうしょうもない状況へと追い落とされる。その悲嘆と喘ぎがくりかえし描かれるが、具体的にはまるではっきりしなくて闇の中を行くようだ。
自分を連行しにくる敵とは誰なのか?なぜ当局に召還されるのか?突如現れたメッセンジャーに渡された錠剤とは?なぜ人生を終わらせるための判決が届くのか?非常に不条理な出来事ばかりだが、輪郭が茫漠として抽象的で悪夢を見ているとしか思えない。幻想文学と言えば言えるが幻想を楽しむ余裕はなく、私小説だと言ってもいいが生活感がない。せっぱつまった精神状態なのに架空の設定が仕組まれている不思議な作風で、幻想的でありながら迫真的な魂の叫びに心うたれる。
表題作「アサイラム・ピース」は8編の掌編から成る短編で、湖のほとりの精神病棟で暮らす人々の病んだ魂を、正確に客観的に描いて慄然とする。逃れよう逃れようとして逃れられない患者たちの悲しい日常が、まったく他人事とは感じられかった。
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「快楽の館」 アラン・ロブ=グリエ 作
いわゆるヌーヴォー・ロマンの先頭を走ったロブ=グリエの作品。物語が時間の流れとともに一本の線となって進む通常の小説のかたちをとらない。まるで渦巻のように螺旋状に同じところをぐるぐると回ってくりかえしくりかえし進む。
エピソードはある。なんといっても殺人事件がある。香港の庭園を舞台にストリップまがいのショーが開かれている。娼婦を身請けするために金策に奔走する。黒犬をつれて歩く侍女。失恋して自死する青年。殺人事件もナイフで刺されたような、黒犬に噛み付かれたような、毒を盛られたような、はっきりしない様子だ。あるエピソードが実際のことだと思っていると、それが実は劇中の話だったり、かと思っているとまた実際の出来事にすりかわっている。
作者おなじみの極めて客観的なカメラ目線の描写が連続していると、いつのまにか一人称に変わっていて、この一人称は誰のことなのかも不明だ。
そんなふうにめまいがする感じで一つの世界を構成しているが、はたしてこれが通常のストーリー展開で書かれたものとはまた違った面白さがあるかというと個人的には疑問だった。
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「第四間氷期」 安部公房 作
未来予言機が登場し、その予言される未来が「第四間氷期」で、地表水没対策としてなんともグロテスクな人類水棲化計画が実行されていく。ところがその人類改造方法は胎児の段階で人為的に系統発生から飛躍させるもので、遺伝子操作的な発想がまったくみられないのが、時代を感じさせておもしろい。遺伝子のイの字も出てこない。1959年の作品だ。
なかなかにストーリー性が濃くミステリアスな展開で読ませるが、やはり単なる謎解きではない。SFとしてもかなりムチャなあり得ない設定なので、要するにしらじらしいウソなのだが、それでもしらけないように出来ている。もともと安部公房はよく比較されるカフカとは違って、非常に作為的な、アイロニーの意図がよく見える、悪く言えば底割れのしている作風なのだが、この作品もいかにもアイロニカルな内容に徹していて、そこがぶれないために納得して読めるというものだ。
あとがきによると作者は肯定的な未来も否定的な未来もあえて決定しなかった。とのことだが、どちらにしても未来について熱いのが、やはりこの1960年ころの時代を感じさせる。個人的な感覚ではそんなこと考えてもしょうがない。という気分だが、これってやっぱりしらけてる?
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「幻の下宿人」 R・トポール 作
漫画家としてのトポールは大好きで、めったに開かないが分厚い画集を持っている。ざらざらひりひりとした生理的に痛いとろを付いてくるブラックな作風。そんなトポールの小説作品。
前住人の女性シモーヌが窓から飛び降り自殺をしたアパートの部屋。その後にまんまとその部屋を借りることに成功した主人公トレルコフスキーは、なるべく近隣の住人の迷惑にならないように音も立てず、ゴミ出しのマナーも守って暮らし始める。しかしどうにも管理人はじめ、回りの住人は異常に神経質なようで、身に覚えのない苦情が連続して持ち込まれるのだ。しかもだんだんと身の回りで、いやがらせのような不快なことが連続し犯人は分からない。ここまではなかなかにミステリアス。
謎めいたまま話は進んでいくが、トレルコフスキーがいつのまにか女装して倒れているなどするうち、どうやら不快ないやがらせなどは全て幻覚で、おかしいのは主人公の方ではないかと気付いてくる。アパートの住人全員による彼の抹殺が企まれているとの判断に至って、ついにこれは本人の被害妄想だと分かる。狂人となったトレルコフスキー。そしてアパートの中庭に次々と現れる奇妙な幻視が、まるでボッシュ(ボス)の絵を見ているようで、くらくらと愉快だ。
結局前の住人シモーヌと同じように、だが無意識のうちに窓から飛び降りて自殺を図った彼は、助かって病院で最後にシモーヌになっているのだが、この辺りは何が現実で何が妄想かわからないまま幕を閉じるという、幻想文学の王道を行く収束である。