漫画家まどの一哉ブログ
読書
「青梅雨」 永井龍男 作
再読。この作品集は短編小説の見本のようなものなのだけれど、自分はここに収録されている「私の眼」「快晴」という連作が好きで読み返してみた。
「私の眼」は葬式に参列する男の一人称で書かれた小説なのだけれど、読み進むうちになにやらヘンだと思っていると、この男は狂人なのである。なにしろ香典袋にワケあって靴べらを入れているのだ。この主人公にすれば靴べらは、死者が家を脱出するための欠かせない道具なのである。そんな狂気を狂気の側からじわりじわりと書いてあって、ちょっと背筋が寒くなる好短編だ。
「快晴」はその葬式の次の骨上げの日、昨日気違いがまぎれ込んでおどろいたという噂話をしている参列者が、またしてもその狂人を発見するという、今度は第三者の目線で描かれた狂人の行動。これもおそろしい。
だいたいにおいて自分は、人生や生活の一断片を切り取ってしみじみとさせてもらうより、狂気や幻想に触れていたい。しかもこちらが安心して読んでいられるようではちっとも面白くない。そんなわけでこの2編をとくに好む。
「一個」は電車の中で隣席の男に話しかけたようで実は話しかけていず、隣に人がいると思っていると実は誰もいない。家に戻ると寝室の柱時計は妻の声になったり、電報の呼び声になったりして、結局男は死んでしまうようだが、これは死の前にみた夢の中にいるような不気味さ。
「狐」という話はまるで無能で働きもせず、妻や子どもに苦労をかける情けない男の暮らしぶりが描かれているが、ふつう私小説にありがちなこの設定は、作者が自分の体たらくを描き綴るのが多くあって、それしか書かない。ところがこの作者はまったく私小説でなく人物を創作して、まんまと一編書いてしまう。してみるとこの種の話も体験に頼ることなく、技術でもって書けてしまうものらしい。