漫画家まどの一哉ブログ
「わが悲しき娼婦たちの思い出」
G・ガルシア=マルケス 作
(新潮社・木村栄一 訳)
90歳の誕生日に眠ったままの少女と同じベッドで一夜を過ごした男性。繰り返すうちにほんとうの恋愛を知る。
川端康成「眠れる美女」に倣って書かれた作品。川端の匂い立つ様なエロチシズムに比べ、意外にもマルケスの健全な人間性を感じる。この主人公の90歳の男が自身を揶揄するにも関わらず、著述家として一般の多大な支持を得ており、読み進むにつれ心優しい感性豊かな人間であることがわかる。
彼は性欲の趣くままになじみの娼館に通い、数知れぬ娼婦と過ごしてきた性豪でもある。それでもアブノーマルなところはなく、肉体関係抜きで少女を愛するところはまるで初めてピュアな恋に目覚めた少年のようなものだ。川端にあきらかにある耽美がマルケスにはなく、本作はマジックレアリスムもない。「眠れる美女」がヒューマニズムになったようだ。
「子どもがほしい」
セルゲイ・トレチャコフ 作
(白水Uブックス)
黎明期ソビエト。極めて合理的・社会科学的な女性共産党員ミルダは、優秀な子孫を残すため、夫を持つことなく精子のみを得ることを果断に実行する。粛清により非業の死を遂げたトレチャコフの問題作。
思いっきり物議を醸すであろう設定で初めから面白い。
舞台はミルダの暮らす共同住宅と付属の劇場として使われているクラブスペース。彼女は優生学と獲得形質の遺伝という、当時ソビエトでも支持されていた思想を信条に優秀な労働者を選択。「夫はいりません。あなたの精子だけください」と愛なき生殖をくりかえそうとするが、地域住民の間でとんでもない騒動を巻き起こすのは必然である。
登場する男性には誠実な人間もいるが、劇団代表は新人女優に採用と引き換えに肉体を迫るし、共同住宅の管理人は妻が長く留守中にミルダに性交を要求。街のフーリガンたちは悪びれもせず集団レイプ。などなど女を性欲の対象としか見ない連中をわざと書いている様だ。しかしその対局として、ミルダに体を提供した男性労働者は妊娠のための道具であって人間扱いされていない。彼と恋人の錯乱も当然。さすがに人情は合理主義では片付かない。
「出版という仕事」
三島邦弘 著
(ちくまプリマー新書)
出版という仕事の楽しさ、奥深さとそのシステムを丁寧に解説するとともに、出版不況とよばれる現代のほんとうの姿を紹介する。
「おもしろマグマ」という情熱をキーワードに、企画から社内審査、制作、出版から営業までビギナーがワクワクする形で出版の仕事を解説。まさしく誠意ある入門書。ミシマ社主催著者の実体験から、岩波書店や中央公論社の始まりまで具体例豊富。若いみなさんはぜひ出版の世界へ飛び込んでほしい。
返品率40%の現状でありながら、目先の売上を落とさないために大量の新刊を出す。この悪循環を断ち切るためにミシマ社始め取次を介さない、書店との「直接取引」がある。すると単なる消費者ではなくほんとうにその本を愛する読者とのつながりが生まれていく。
ミシマ社が立ち上げた書店と出版社をつなぐ受注プラットフォーム「一冊!取引所」にも100社以上の出版社、1900書店の加入があるが、こうした直接取引は出版業界の売上には計上されていない。また文学フリマの億を越える売上も同じ。加えて書店と言っても取次口座を持っていない書店はカウントされていない。
現在着々と増えつつある古書&新刊書店、雑貨&書店、喫茶&書店などもほとんどカウントされておらず、出版不況としてマスコミで伝えられる数字は大資本の中央集権的な世界なのだ。直接取引系の出版と書店は大いに盛り上がっている。これは読者である私としても実感できる話で、DNPと日販が構想する未来の流通プラットフォームの行方もなんとなく信じられない…。
「金毘羅」
笙野頼子 作
集英社(2004年)
自身が実は金毘羅神であることに思い至った自伝的小説。自在に習合をくり返す金毘羅でありながら人間の女(ほんとうは男)である作者とは?
幼き頃から家族内での自分の在り方や両親からのあつかい、学校での立ち位置など。やはり人間10人いれば10人の環境と条件があり、こんな生い立ちも普通にあるだろうなと思う。いわゆる女子的可愛げのない女子もたくさんいるわけで、しかし実は金毘羅だったのだからちょっと違うか?
ワニであり蛇である金毘羅大権現とはどういうものか、神仏習合から伊勢神宮と対立するその立場を解き明かし、伊勢朝熊山や千葉佐倉での存在までが、おなじみのカオス的な書き様でさんざん繰り広げられるが、この神様探求に正確に追いついてゆくのはたいへんだ。なにせ長さ1000キロの大蛇が列島を這います。
「落葉(おちば)」他12篇
G・ガルシア=マルケス 作
新潮社
マジックレアリスムの香り溢れる若きマルケスの初期長編「落葉(おちば)」。他12の幻想的短編を収録。
「落葉」:街に流れ着いた漂白の博士。博士を家に受け入れる大佐。大佐の娘とその息子。博士の埋葬までを親子三代にわたって代わる代わるモノローグで語り続ける。彼らの周りの人物も同時に年代を行ったり来たりするので、人物は混交し眩暈を覚える感覚。しかしトータルで見ると一人称でありながら、多くの人間の一生を俯瞰したスケールとなり、ここにマジックレアリスムが完成する。
この長編に付随して「落葉」本編から独立した形で短編「マコンドに降る雨を見たイサベルの独白」が掲載されているが、この作品は他の短編と違ってマジックのない、非常にリリカルな情景描写で描かれた逸品である。意外な落ちつきぶりだ。つまり本編はいかにそわそわと浮き足だった波乱含みの、事件スタイルで書かれているかというもの。
巻末解説にあるマルケスのジャーナリズムの手法というのはこの辺りのことを言うのだろうか?それでいて作品には惑溺されるような文学的魅力があるので、なにか騙されたような後味がある。登場する人間たちが甚だ要領を得ず低きに流れるありさまなので、そこは納得できるところ。人は皆流れ者だ。
「ケアの物語」フランケンシュタインからはじめる
小川公代 著
(岩波新書)
「フランケンシュタイン」の物語と作者メアリ・シェリーの人生をベースに、現代社会の様々な課題をケアの視点から問い直す。
テレビドラマやアニメ、現代文学その他社会の話題もふんだんに登場して、親ガチャ・レイシズム・エコロジーなど10の現代的テーマを考察。あまりにも多くの課題があまりにも多くの具体例(といってもドラマや文学などの作品)と共に溢れかえっているので、読んでいて落ち着かないが、これはこれでひとつの書き方だと思う。
例えば「マンスプレイニング」において、女性の意見に対して男性は必ず教え導いてやろうとしたり、女性は男性にはやさしく天使のように接してあげなければならないなどの刷り込みからの解放。「ケアの倫理」によればケアをする女性の無私性が前提とされてきた背景があって、ケアをする女性本人が自身をケアすることがないがしろにされてきた。などなど…。
全てのテーマの根底にあるのは男女の世界観の違いで、この世界が男性優位な価値観前提で出来ていることに問題の所以がある。マチズモ(フェミニズムにもある)では救い取れないゆるやかなつながりといった叡智が必要。これまでの無私的なケアの倫理は男性にとって好都合な女性観を助長する。しかしことは単純ではなく、この二分法を乗り越える丁寧な関係性を見つけていかなければならない。
「盲目の梟」
サーデク・ヘダヤート 作
(白水Uブックス・中村公則 訳)
テヘラン生まれの作家による西欧文学とイランの神秘主義が融合した類まれなるシュルレアリスムの傑作「盲目の梟」。他、短編と紀行文「エスファハーンは世界の半分」を収録。
表題作「盲目の梟」。ブルトンが絶賛したのも頷ける。主人公男性(語り手)の脳内を行き来する絶望的なイメージと、身の回りの現実世界との隔たりがあいまいで、リアリズムはほとんどない。夢幻的で酔うような世界を描く作家は多くいるだろうが、救いようがないことにおいてはいちばんの書き手ではないだろうか。
殺してしまった謎の黒衣の女の死体を捨てにいく前半。淫売女でしかない妻との相剋に苦しむ後半。どちらも女性に対するどうにもならないコンプレックスが基本になっている。ここにアヘン等の薬物効果を加え、ぐるぐると同じところを巡ってどこへも辿り着かない人生が完成する。実際に同じような幾何学的な家並みの街を何度も通る。
しかし語り口は感情を抑制した頭の冴えた夢遊病者のようなもの。若くして自死に至った作者が人生の初めから抱えていた、厭世と絶望と死への想いがあったようだ。かくて絶対他者では真似できないシュルレアリスム文学の逸品が世に生まれた。作家それぞれその人なりのシュルレアリスムがある。
「海の民」の日本神話ー古代ヤポネシア表通りをゆく
三浦佑之 著
(新潮選書)
ヤマト朝廷成立以前に発展した日本海沿岸地域、出雲・敦賀・能登などなど。新羅や高句麗・渤海など海外との交流も含めてこの沿岸一帯をヤポネシアと名付け、古代日本の表玄関であることを実証する。
「古事記」「日本書紀」などを繙き、スサノヲ、オオクニヌシなど有名どころ以外にもその子孫・縁者が次々と登場。カムムスヒ、スクナヒコナ、ヒコイマス、新羅からきたアメノヒボコなど重要人物の足跡を追う。しかしこの人物群に最後までついていくのはたいへんなので、そこはざっくりと読んだ。
古代ヤポネシア表通りを西から順番に解剖。先ず出雲・伯耆・因幡の史跡や文献を追跡。なかでもヤマト王権と張り合っていた出雲がやはり巨大な文化圏であり、ネットワークの中心であったようだ。宍道湖のような潟湖(ラグーン)が沿岸各地にあり、そこを拠点として海運が発達する。
続く但馬・丹後・丹波。突き出した丹後半島も明らかに通商の拠点。そして若狭・敦賀。敦賀の果たした役割の大きさ。越前・越中・能登に至ってヤポネシアも終了する。
この間各地の神社や遺跡に残された役割と記紀に登場する人物群の業績が大きなドラマを形作り、納得の面白さ。
これらヤポネシアネットワークはヤマト朝廷とは違って、中央集権を目指さない。各地域が自由に動いている。しかしどのみちヤマトの支配下に入ってネットワークは分断されてしまい、中央から地方へと支配される構造が出来上がる。まことに残念だが、我々は一度地図を逆さに見て、往時の東アジア文化圏に想いを馳せてみよう。
「生物はなぜ死ぬのか」
小林武彦 著
(講談社現代新書)
我々人間を含む生物が死ななければならない理由を、全生物の系統図からDNAのシステムまで使って解説。老化の仕組みと次世代へのパスとしての死を考える。
地球に生物が誕生する話から始まって多細胞生物の出現まで、知っているようで精密には知らない、おなじみDNAとRNAのシステムが解説される。そして地球生物史上5回あった大量絶滅の理由。現在が人間による最大絶滅の危機であること、多様性の重要さが説かれる。
生物はどうやって死ぬのか。寿命で死ぬ、生殖して死ぬ、食べられて死ぬ。そして人間は老化して病気で死ぬわけであるが、加齢によるガン・心疾患・脳血管疾患など細胞が老化して体が衰えるわけだ。この老化した細胞がそのまま残り続けると臓器の機能を低下させてしまうのだ。
なぜ細胞が老化しなければならないか。細胞は活性酸素による劣化とガン化が進まざるを得ない。この細胞異常を事前に察知し、新しい細胞と入れ替えて体を守るために老化はあるのである。そしてその細胞入れ替えも年齢により限界があり、そのあとは病気との戦いが始まるのだった。
さて最終章でテーマに。多くの生き物は飢えるか食べられて死んでいくが、子孫が残るのであればなんの問題もない。人間は多くの感情をもっているので死を恐れ悲しむのも仕方がないが、生物的には死はまぬがれない。死は生物の連続性を維持するための原動力であり、次の世代のために死ななければならないのだ。
「砕かれた四月」
イスマイル・カダレ
(白水Uブックス・平岡敦 訳)
アルバニア高地地方。名誉ある血の掟に従って行われる報復の連鎖。その当事者となり死を待つ青年と、この土地を訪れた作家夫婦の困惑。現代によみがえる神話的叙事詩。
殺された者の一族は報復として、殺した者を殺さねばならない。報復こそが血の掟であり名誉である。都市部とは隔絶した高地の掟に従って復讐を果たし、今度は逆に狙われる身となった青年。そしてこの地域の風習を見るために訪れた作家夫婦。追われる身となった者が一時的に身を隠す塔が村中に立つ。
紛れもなく散文なのだが、ありえない世界を描いて現実から解き離れたような詩的興奮がある。不思議なことがなにも起こらないのにシュールレアリズムのような味わいがあるのも、奇怪な塔が村中にあるためかもしれない。この村に見物に来た作家夫婦も落ち着かない様子で、なにか不穏なまま物語は進む。
血の管理官のくだりになってようやくやや現実感が出てくる。血の奪還(報復)を行なった者は、ただちに税を納めねばならない。この税収でこの村の経済はなりたっているのだ。近年血の奪還が減って税収は次第に減少し、血の管理官は大いに悩むのだが、このシステムを描くことによって話がリアルになった。
作家の新妻と報復を恐れて塔への道をゆく青年は、ただ一眼会っただけで電撃的な運命を感じ、新妻は心ここに在らずといった具合で旅を続ける。この展開はあきらかに無謀で説得力はないが、この作品では理由づけなどなくてもいっさい構わない気がする。現代アルバニア文学を超えて世界的異色作と思う。