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漫画家まどの一哉ブログ

   
「人生の踏絵」 遠藤周作
読書
「人生の踏絵」遠藤周作 著
(新潮文庫)

講演録数編を収録。
「文学と宗教の谷間から」:モーリヤック作「テレーズ・デスケルウ」という作品が課題作。主人公テレーズは非常に冷めた陶酔できない女で、平凡で没個性的な日常を嬉々として消化する夫がなんとも面白くない。ある日何気なく夫に多量の睡眠剤を飲ませて急病にしてしまう。彼女は罪に問われるが、犯行理由が「あなたの目の中に不安と好奇心の色をみたかったのかも」という答えである。
遠藤は、それまで小説では人間ははっきりした心の動きがあって行動するという了解のもとに書かれていたが、モーリヤックの小説では何故だかわからない漠然とした心の動きで行動する人間の本性を描いている。と現代小説の新たな地平を解説する。モーリヤックはキリスト教徒として、テレーズをなんとか救ってやろうとしたが、どうしてもできなかった。ここに新しい小説の萌芽がある。ここまでは文学論として納得できるものだ。では何故この作品がキリスト教文学であるのか?

遠藤によると、人生に満ち足りた世界に生きるより一歩でも抜け出そうとしたとき、キリスト教の世界に近づいている。良くも悪くもない人生に神様は興味はなくて、罪を犯してしまったとき神様が入り込んでくる。よってこの作品はやはりキリスト教文学だというものである。

しかしそれではキリスト教文学というのは日常から逸脱した設定にのみ依存するものなのだろうか。ある程度の劇性がなくては神的なものは描きにくいといことはあろうが、罪を犯した場合にのみ神的なものが登場する、神様が入り込んでくるというのは、一種の牽強付会のような気がして、なんとなく納得できない。また文学芸術によらないキリスト教のあり方がわからなくなってくる。
文学好きの間でキリスト教文学のみ把握できればよいのならそれでもよいが、文学を離れた一般的な立場でキリスト教を理解するとき、もし神的なものが悪事からでなくては近寄れないのであれば何故なのかわからない。しかしこれは違うのかもしれない…。

他にグレアム・グリーン「事件の核心」、ジュリアン・グリーン「モイラ」、アンドレ・ジッド「狭き門」などがとりあげられるが、これらの作品は直接的にキリスト教文学として理解できる。そして「狭き門」は、男性が恋人にあまりにも聖女のイメージを抱いてしまって返って亡くしてしまう、実はキリスト教文学とは無縁の話らしい。

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